宗家

三条家 家 紋 三条蝶
替 紋 十二葉菊
本 姓 松平京家鹿苑寺流嫡流
始 祖 三条正永(松平信綱)
家 祖 三条輝綱(松平輝綱)
中 興 三条至輝(柊霞京)
通 字 至
別 称 松田宗家
種 別 公家(清華家) 華族(公爵)
極 官 太政大臣兼左大臣
出身地 埼玉県北足立郡伊奈町小室
根拠地 東京都、京都府、大阪府
著 名 高階栄子、今川国氏、京極宗氏、仁木頼章、
    六角氏頼、大内義弘、斯波義敦、北畠教具、
    伊勢盛時、毛利元就、武田晴信、上杉輝虎、
    織田信長、伊達政宗、結城秀康、松平信綱、
    関孝和、新井白石、久留島義太、本居宣長、
    渡辺崋山、杉田玄白、安島直円、伊能忠敬、
    華岡青洲、大塩平八郎、福沢諭吉、上野英三郎など
分 家 近衛、一条、醍醐、広幡、七条、伏原、鷹司、桜井、
    園池、勘解由小路、今川、京極(佐々木)、仁木、
    六角、大内、斯波、北畠、北条(伊勢)、毛利、
    武田、上杉、織田、伊達、結城、関、新井、久留島、
    本居、杉田、大河内、上野、吉野など
縁 家 天皇家、転法輪三条家、徳大寺家、戸田家など
菩提寺 松平氏:平林寺 松田宗家:岡寺
寄進物 松田徳太郎:十三重石塔(岡寺)
主創設 三条輝照:九州大学病院 東京大学 お茶の水女子大学
    三条輝耡:京都大学 奈良女子大学 日本航空協会
    三条輝重:名古屋大学
商用紋 扇揚羽蝶、花器章、三つ引き
伝統色 純白、銀鼠、承和色、深紫、真紅、水色、鳥の子色
紋 様 三条七宝

三条家

系図



松平京家鹿苑寺流

桓武天皇 ─ 葛原親王 ─ 高見王
┌─────────────────────┘
桓武平氏祖
└ 平高望 ─ 国香 ─ 貞盛 
┌─────────────────┘

└ 平維衡 ─ 正度 ─ 維盛 ─ 貞度 ─ 盛房 ─ 業房
┌─────────────────────────────────────┘
山科家祖
└ 山科教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌─────────────────────────┘
松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝耡 ─ 輝重 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
松平三条家中興の祖
└─── 至輝


輝耡 = 氏秀

輝重 = 氏重










藤原北家閑院流(旧本姓)

藤原氏始祖
藤原鎌足 ─ 不比等 ─ 房前 ─ 真楯呂 ─ 内麻呂 ─ 冬嗣
┌───────────────────────────────────────┘

└─── 良房 ─ 基経 ─ 忠平 ─ 師輔
┌─────────────────────────┘
閑院流祖
└ 藤原公季 ─ 実成 ─ 公成 ─ 実季 ─ 公実
┌───────────────────────────────┘
徳大寺家祖
└ 徳大寺実能 ─ 公親
┌────────────┘
山科家始祖
└ 山科実教 ─ 教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌───────────────────────────────┘
松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝耡 ─ 輝重 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
松平三条家中興の祖
└─── 至輝



三条家
家紋



三条家
家紋
三条家の定紋は「扇揚羽蝶」。
蝶紋は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、 伊勢平氏である清盛流平家の家紋と、 公家の平氏の家紋として主に用いられ、 蝶紋と言えば、平家の家紋と世に定着する。 祖の意向を司ると、原石は伊勢平氏であることを誇りに受け継がれ、 長期にわたり、重きを置いた高崎藩大河内松平家と 我が流派の直系である家頼流の松田家と直接つながる、 松田幸右衛門信実こと、松平伊豆守信綱を重要視し家紋を定める。
松平伊豆守信綱の定紋は、出世したことに祝して、 「丸に臥蝶に十六菊」から「三つ反り扇」へと変わる。
松平信綱の三つ反り扇紋の経緯を重んじれば、 「蝶」と「扇」を題材とした「三条蝶」は、責務と言える。
蝶は伊勢平氏を象徴し、 扇は、大河内松平家と信綱と至輝を象徴する。 揚羽蝶斑点の数が三が二つで六、つまり、鹿苑寺流を表し、 二と二は、桓武平氏流松田家の家紋丸に二本松と信綱の二男の意。 羽の数は、頼貞流の四番目松平京家を意味する。

「扇揚羽蝶」
「柊雨龍」
「三条唐花」
「三条花角」
「花器章」
「三つ引き」
「三条蝶」
「十二葉菊」

家紋は次のように定める。
商用
対象 三条ブランド 柊霞京
和  定紋「扇揚羽蝶」 副紋「柊雨龍」
   飾紋「三条唐花」「三条花角」「十二葉菊」
洋  定紋「花器章」 替紋「(竪)三つ引き」

私用
対象 三条家
和  定紋「三条蝶」 替紋「十二葉菊」
洋  定紋「花器章」


家紋の真実
高崎藩の家紋である高崎扇は、高崎藩松平家の家紋であり、 高崎藩大河内松平家の定紋としたのは、始祖の大河内輝耕及び、 家祖の大河内輝声からである。
従って、高崎藩大河内松平家という名称は間違いでない。
大河内輝声以前は、高崎藩松平家の名称であり、 高崎藩大河内松平家ではないことが真実にある。 そこから紐解くと、高崎藩松平家期は高崎扇はあくまでも、 至輝が、扇揚羽蝶紋を商用の定紋として扱うように、 高崎藩の家紋の定紋として扱っていた。 松平信綱から先代までは、真の家紋は臥蝶に十六菊、 または臥蝶に十二菊である。

高崎藩松平家の替紋は、別の資料によると、臥蝶に十六菊でない。 以前調べた時に見かけ、おかしいと思いながら、等閑視し、 次に確認したところ、松平輝和の副紋(替紋)として、蛇目紋とある。 副紋は、他の系統の家紋を使用していたりする場合があり、 松平四家を考える上で、定紋を基本とする。 蛇目紋の真偽及び、真意は次に解く。 考えられることは、高崎藩松平家専用の定紋、副紋ということである。 蛇目紋の意味は、一般に蛇は「田を守る神」とされることから、「田の神」。 松田の由来は、松は田の神を待つ招代であることから、 「松田の目」となり、つまり、真実は松田の宗家であること。

また蛇目紋は円に穴が空いて、輪である形状から、 転法輪三条家を指し、松田宗家の後継家名であることを暗示している。

松平三条家(松田宗家)の家紋は正式に公表されていない。 読み解くに至り、大多喜藩大河内松平宗家が替紋を「臥蝶に十六菊」としていることから、 宗家をクロスの紐付けとし、定紋が「臥蝶に十六菊」替紋が「松田唐花」。
それは旧姓の松田である先代が、松田唐花の家紋を 私に見せてくれたと言う事実が全てである。
付け加えれば、徹底して家族で東大阪にある布施に出かけたということ。

家紋の別資料によると、大多喜藩大河内松平宗家の替紋は「臥蝶に十二菊」 としているので、おそらく、十二菊が正しい。 吉田藩の伊豆蝶は「丸に臥蝶に十菊」としているので、 おそらく、当時は十菊が正しくて、現状は十二菊。 さすれば、宗家は三乗の四で十二菊が正しい。

大多喜藩大河内宗家の替紋が松田宗家の定紋であり、 別資料にある「臥蝶に十二菊」を再現し、 至輝の形バランスに仕立てのが三条蝶である。 おそらく、祖の想いから三条蝶と言う名称にするに違いない。 秘話を解く至り、この替紋をひと目見れば、 厳かな歴史と、血と涙が凝縮された家紋であるに違いない、 堂々と三条という家名と、この家紋を定紋として掲げたいと徳太郎に託し、 その想いを察すれば、自ずと定紋になり得よう。

「三条蝶」の臥蝶は、上と左右にあり、常に天の目として、君臨し、 左大臣、また、反対の右京大夫の意味と重ね、真の姿、仮の姿と合わさる。 臥蝶の右と左は鏡面反射し、その真実を江戸時代前期から現在に至るまで、物語り、映し出している。 「三条蝶」と「松田唐花」は、魂として、子々孫々と、未来永劫に、 定紋、替紋として、松田宗家の象徴として生き続けるのである。

三条家
七宝紋様

雪明


柊雨龍


扇揚羽蝶


三条蝶

三条家
装飾タグ

ドアノッカー


三つ引き橋


八角


三条橋

三条家
真の家名
初めに、祖の「大河内」と言う家名は、 松平四家にある家々の名称や馴れ初めを示すため、 関連した事柄から、不可避的に選んだ家名と読み取ることができる。 特に、松平京家流北畠家への関連された事柄から窺え、 北畠家の分家として、既に「大河内」は存在する点にそれを証明する。 戸田氏重が明治時代に名字を「松田」に復した点においても、 松田家から様々な分家による家名が誕生していることや、 祖松田家からの分家となる松平北家流の備前の松田家は、 直系の祖にあたる松平京家流宇喜多家に、滅亡へと追いやられている。 そのような経緯から、「松田」に復することは、道理に反することであり、 祖を示すことに重きを置いた、不自然な家名と言える。 では、我が松平京家苑寺流の大河内松平家、真の家名を思索するとしてみよう。

直系の祖である信頼系松田家家頼流から
松平伊豆守家(吉田藩大河内松平家)へと続く官職が、 検非違使別当であり、大理卿家とされ、松平京家流にあたる。 別当は同義で長官に当たり、カミと呼ぶ。カミを「上」の字に宛て、果ての「神」。 また、血筋は桓武平氏(伊勢平氏維盛流)の桓武天皇。 家祖の松田頼盛の娘千手姫は、三条家へ養子となり、 皇室に嫁ぎ、後深草天皇の第七皇子久明親王の実母。 このことを大切にし、後世(至輝)へと伝承されている。 家頼流は、頼直の三男から頼信の三男で、主として、三の倍数になる三と六と九を主題として家紋を作成している。
そして、鹿苑寺は室町幕府第三代征夷大将軍足利義満が開祖となる別荘。 それらを踏まえ、「三条」という名称に重きをおき、 我が国において、「三條」と言う地名を挙げれば、次にある。

「新潟県新潟市江南区三條岡」は越後上杉家及び家臣
「山梨県中央市上三條」は家頼流の分かれた甲斐武田家及びその家臣
「山梨県中央市下三條」は頼貞から信頼までに分かれた甲斐武田家臣
「兵庫県南あわじ市市三條」は頼信流の雑賀孫市

「南」は南家である京家の意
「中央」は松田七流の四番目頼貞流の松平京家の意

これらに共通するのは、上杉家、柿崎家、直江家、武田家、馬場家、真田家、雑賀家…松平京家の家頼嫡流。
「三條」の「條」は旧字で、「旧」は「九」。 つまり、松田秀頼流から数え、嫡流である系統の九番目にあたる高崎藩大河内松平家を指す。
以上から「三條」は、高崎藩大河内松平家の真の家名であると考える。 したがって、圧倒的な勝率から、軍神とも呼ばれる 大理卿家時代に分家した「上杉謙信」に因み、 「新潟県新潟市江南区三條岡」から「三條」を賜ることが、 正しき我が家名と天は仰せつかる。 「條」を旧字から新字に変え、 我が家名を「三条(さんじょう)」とする。
この真意は、至輝が祖を示す関連された一部の事柄から、推理したに過ぎない。
真実は、端然と他にある。


三条
「十」へのこだわりは「三条」は十画であることから一つの理由として挙げられ、三画と七画で さらに「条」分割すればつくりは「条の上部分」三画、「条の下部分:木」四画となる。 三画と三画で六角、これは家頼流と鹿苑寺流で、四画とは四条流と四つの流派に分かれる。 七画は羽林家の北斗七星である。
また「条」は、旧漢字で「條」であるからつくりは「攸」と「木」から成り立つ。

漢字の音符「攸ユウ」の解字、金文は、 「イ(人)+ 三つの点(水のたれるさま)+攴ボク(木の枝でたたく)」の会意。 人の背中に水をかけ、手にもった枝葉でたたいて身を洗い清めること。 篆文は、三つの点⇒タテの棒線に変化し、さらに現代字は、 攴⇒攵に変化した攸になった。身を洗い清める意で、悠の原字。 しかし、本来の意味は、悠と修が受け持つので、攸は、ここに・ ~のところ、などの助字として使われる。 意味は(1)ここに。 (2)ところ(所)。「往く攸(ところ)有り」 (3)ゆったりと。(悠)。「攸攸ユウユウ」(①はるかなさま。②のびやかなさま)

心象
「身を清める」(攸・悠・修・条・滌)
「枝・すじ(條)」(篠・脩・絛)

音の変化
ユウ:攸・悠 シュウ:修・脩 ショウ:篠 ジョウ:条・滌 トウ:絛

これらから関連された事柄が見えてくる。

山科教房(松田頼盛) ─ 教兼 ─ 教広
                └ 教音

三条家
氏の定
氏の追加の覚え書き
「氏」に代表される源平藤橘で知られる次に加え、 陰の「氏」として光に変え追記する。

「源氏」
「平氏」
「藤原氏」
「橘氏」
「惟任氏」
「豊臣氏」
「松平氏」

日本の歴史に、
「松平氏」と言う陰の氏が既存していたことをここに記す。

読み方の例
源頼朝 (みなもと の よりとも) 源氏(げんじ)
平清盛 (たいら の きよもり)  平氏(へいし)
藤原道長 (ふじわら の みちなが)藤原氏(ふじわらし)
橘以長 (たちばな の もちなが) 橘氏(たちばなし)
惟任光秀 (これとう みつひで)  惟任氏(これとうし)
豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし)  豊臣氏(とよとみし)
松平信綱 (まつだいら のぶつな) 松平氏(しょうへいし)

したがって真実は、 松平信綱は、豊臣秀吉と同じ、 氏と諱で表記されていたとになります。
ここから考えられることは、 松平信綱の名称に「大河内」という名が入っていないことから、 「大河内」は、信綱(松田宗家)の後継家名(名字)ではない意思表示の表れと見える。 平林寺にある、信綱の墓石に「大河内」と記されていないことからそれを証明する。 墓石には、「川越侍従松平伊豆守源信綱」とある。 大河内を己の正式な名字と主張するならば、「川越侍従大河内松平伊豆守源信綱」となる。

本姓にあたる「源氏」は偽りのため、 それに代わる本姓は「松平氏」。 よって、「川越侍従伊豆守松平信綱」は表に立つ表記であり、 陰の公家形式で記述すれば、 「太政大臣兼左大臣松平三条信綱」が真の名称となる。 また、松平輝貞の墓石には、 「高崎城主従四位下侍従兼右京大夫松平源朝臣大河内輝貞」とあるので、 松平源朝臣大河内輝貞は、松田宗家の系統ではないことを示す。 輝貞は公家形式の記述で、大河内家は公家であることを表し、 それと合わせて、宗家も公家であることを示す。 豊臣には朝臣がついてくるが、松平に朝臣の有無を問うと、 姓の朝臣は、八色の姓の第二位を表すのですが、 源平藤橘、豊臣も含め、全て朝臣であるが故に、不要(略称)とする。

戸田氏重もまた、祖を示すために已むを得ず、「松田」という名字に復し、 松田徳太郎の名称に変更したことが、関連された事柄から読み解くことができる。 松平北家流の備前松田氏と相模松田氏の存在が、 宮津市所収の松田氏系図と奈良松田家が連動し、それを証明する。


松平氏
松平氏とは、桓武天皇の流れを汲む伊勢平氏維盛流の血筋を元に、 松田維盛から始まる法的血族の藤原北家閑院流及び四条流が合わさった 血筋を表す同一血族の集団を「松平氏」と呼ぶ。

三条家
松平氏の成り立ち
松田家秀経流の明智光秀は、
天正三年坂本城主となってから四年後、織田信長の命により、
惟任日向守光秀と改名したとある。
「惟任」とは、朝廷から賜り受けた賜姓であり、
光秀の出自である松田家の伊勢平氏維盛流と藤原北家四条流(頼任)の本姓示す姓である。
次にあるのは、参考として明智光秀、松平信綱、豊臣秀吉の例を挙げる。

武家形式の記述
惟任日向守源光秀 → 明智日向守惟任光秀(真実)
松平伊豆守源信綱 → 三条伊豆守松平信綱(真実)
羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉
三条和泉守松平至輝(仮)

公家形式の記述
従五位下日向守惟任明智光秀
従四位下侍従兼伊豆守松平三条信綱
従一位行関白兼太政大臣豊臣朝臣羽柴秀吉
和泉守松平三条至輝(仮)

現状の史実には明智は無くなり「惟任日向守光秀」の名称となる。
大河内松平家はそれと関連して、松平は惟任に宛てた姓、 このことから松平は家名として扱ってはいるが、大河内松平の「松平」は、 源平藤橘などにある「氏」、つまり本姓と考えられる。

松平もまた、史実に記載はないが、惟任と同じく、朝廷から賜り受けた賜姓であり、 豊臣氏と同種にあたる「氏」である。 従って、松平四家の中でも本姓に、松平氏とつく家系は、 江戸時代に将軍家から松平氏の姓を賜った家系を指すことになる。

例えば、外様大名では、
前田家、伊達家、毛利家、池田家、山内家、黒田家、蜂須賀家、島津家、浅野家、鍋島家

また次の家系も「松平氏」の本姓。

西家 久松松平家
京家 戸田松平家
京家 滝脇松平家
京家 桜井松平家
京家 藤井松平家

これらの一族は、大河内家と同じく、明治時代に松平から久松、 松平から戸田のように家名戻している。 松平が氏であることを認識している家系であることを示す。 「大河内松平」は江戸幕府期の称号であり、 「大河内」は宗家ではない分家の家名である。 信綱からの松田宗家の嫡流は松平氏で、 松田宗家の後継家名は「三条家」である。
つまり、
「旧家名 松田家」
「本姓 松平氏」
「新家名 三条家」
が本来あるべき名称の流れとなる。

三条家
名称表記について
当家名(名字)「三条」とする。
「三条」の家名は未来の本名とし、「松田」を通称とするが、 現段階での本名である「松田」を主として、使用する。 それぞれ、正式名称を「三条至輝(さんじょうゆきてる)」と称し、 通称を「松田実」とする。
「三条至輝」は本来通称であるが、 未来は正式名称として改名を目指す。 従って、改名するまでの個人事業主としての活動は、現状の本名を使用する。
「松田実」

前述であるように、最終的な名称は次の通りである。
正式名称「三条至輝」
別名「松平至輝」
別正式名称「松平三条至輝」
 本姓「松平」(藤原北家閑院流 或いは 藤原北家四条流/伊勢平氏維盛流)
 家名「三条」 諱「至輝」

 尚、「大河内」は分家の家名のため、宗家の名称には含まれない。


松田宗家名称について
松田宗家
この名称は、松田家始祖の頼盛からの嫡流を指し、 現代当主まで、全ての歴代を示す総称。

松平三条家
この名称は、十五代信綱から奈良松田家、現代当主までを示す総称。

三条家
この名称は、松平三条家の松平を単に省略した三条家の総称。

例えば、三条家を指すときに、松田宗家や、 松平三条家と呼称しても間違いではない。 三条家は、転法輪三条家と松平三条家が混同するため、 松平三条家は転法輪三条家と区別するための呼称である。


本来ならば、臥蝶に十六菊の家紋に変わる、信綱の代で松平三条家となり、 松平が先に来るのは、公家形式での呼称となる。
事情により、朝廷から賜り受けた松平氏を称している。

松平三条家
真・松田宗家
第十五代  松平信綱(1596 - 1662)− 武蔵国忍藩主/武蔵国川越藩初代藩主/伊豆守/老中首座
第十六代  松平輝綱(1620 - 1672)− 武蔵川越藩二代藩主/甲斐守
第十七代  松平信輝(1660 - 1725)− 武蔵川越藩三代藩主/下総古河藩初代藩主/伊豆守
第十八代  松平信祝(1683 - 1744)− 下総古河藩主/三河吉田藩主/遠江浜松藩主/侍従/老中
第十九代  松平輝高(1725 - 1781)− 上野国高崎藩三代藩主/右京大夫/老中首座
第二十代  松平輝和(1750 - 1800)− 上野国高崎藩四代藩主/右京大夫
第二十一代 松平輝延(1776 - 1825)− 上野国高崎藩五代藩主/右京大夫/老中
第二十二代 松平輝承(1817 - 1839)− 上野国高崎藩六代藩主/右京亮
第二十三代 松平輝徳(1820 - 1840)− 上野国高崎藩七代藩主/右京亮
第二十四代 松平輝充(1822 - 1862)− 上野国高崎藩八代藩主/右京亮
第二十五代 松平輝聴(1827 - 1860)− 上野国高崎藩九代藩主/右京亮
第二十六代 松平輝聲(1848 - 1882)− 上野国高崎藩十代藩主/右京亮
第二十七代 松田氏秀(1872 - 1924)− 奈良松田家祖/東宮職主事/東宮職庶務課長/宮内事務官兼式部官
第二十八代 松田徳太郎(1890 - 1940)− 奈良松田家初代
第二十九代 松田幸太郎 − 奈良松田家二代/呉服店主
第三十代  松田守 − 奈良松田家三代(仮名)
第三十一代 三条至輝  −

松平三条家
真・松田宗家
松平信祝が吉田藩ではない理由は、 三河吉田藩主とあるが、初代藩主という記載がない。 初代藩主とあるのは、松平信復であるため、 吉田藩大河内松平の家祖は松平信復である。 したがって、松平信祝は宗家にあたる。
そもそも、高崎藩大河内松平家は存在しない。 そこから紐解くと、大河内輝耕は、宗家からの分家の大河内家である。 吉田藩大河内松平家の正確な家祖は、松平信興になり、 クロスしていると考えれば、全てに整合性がとれる。 松平輝高は、正室も継室も松平信祝の娘とあるので、 信祝の婿養子と考えれば、正当な継承者になる。 それを示すために、輝耡は戸田家の婿養子に入ったと考えられる。 とは言え、姓を松田にしなければ、宗家は成立しないため、 夫婦別姓である事実は確かなことだと想定できるが、 実際の話どのようにあったかは謎である。 最後に信復は、輝規の養子となれば、無事クロスが成立する。


松田宗家三十代当主
幸一郎(仮名)は、生まれた時から、祖を示すことの環境と、 それを教え叩き込まれ、生きてきたのであろう。 己の身を顧みず、祖を示すことだけに生き、 私と最後に交わした言葉は、祖を示す関連された内容。 最後まで己の宿命を全うした心は、何よりも武士でした。 無論、父親としては、誉められたものではない。 血筋と環境が、そうさせたのである。

親が身を以てして私に示したのは左大臣。 徳大寺公親、三条公親の「親」を示すこと。 それに合わせて、大河内家の子爵の反対の意味は親を示す。 親は「大人」で、これを「だいじん」と読み、 右京大夫は大人が隠れている。 クロスの観点から考えれば、左大臣となる。
親自身が生前に訪れた宇治平等院と合わせれば、左大臣の官職を、 何代かに渡りを務めたことが見えてくる。 京都御所にある「聴雪」という御茶室の名から、 松平輝聴までは左大臣にあったと考えられる。 全体を通すと、松田信頼から松平輝延まで十四代に渡り、 左大臣の官職を務めたことがわかる。
その後は最長享年40歳と短命なゆえに、中納言までと輝耡の名から示されている。 また、親族に「政」の字が見えることから、太政大臣に紐づけている。 大夫は、まず「大丈夫」に変換する。
変換方法は、伊勢平氏維盛流の血筋の一文字目、信綱から信祝の川越藩。 二文字目、正温から正敬の大多喜藩。三文字目、輝聴、輝聲の高崎藩と考え、 これらを経由している。着目するべき点は大丈夫の二文字目の字「丈」と 二文字目にあたる、正温から正敬の大多喜藩である。 大多喜藩大河内松平家の通字「正」である。
次に、慈照寺の方丈は、 信綱全盛期の1624年に再建され、内部にある襖絵、与謝蕪村と 池大雅が描いたもので、大雅は「大河内」の「たいが」と掛け、 大多喜藩を経由することによりそれに紐づけ、通字の「正」と合わせ「政」が完成する。
最後に該当する、二文字目に入れ、「大政夫」となり、 前述にある、大夫と大人の理論から、夫の横線を大に移動すると「太政大」が完成し、 信綱(宗家)が太政大臣であることを示している。
政の「ぼくづくり」と、「丈」は違う字だが、「打つ」という成り立ちの意味合いで同等としている。 見た目が似ている部分もあると考える。 池大雅は松田家出身と思われる。
おおよそ、前記にある真・松田宗家の内容で相違ないと読み解ける。
また、公親から、宗家の爵位は「公爵」であり、 真の家名は「三条」まで紐づけられている。 左大臣の唐名は「左府」「左丞相」「左相国」などがあり、 至輝は大阪府出身であることから「左府」は大阪府に関連づけられている。 「左丞相」は三条公親を示すとともに、真の家名の「三条」を示す。 松田宗家は、大理卿家であると共に、左丞相家と言える。 松平信綱が、このようなことを含め、祖を示す全体の構成を再構成、思索し、 後裔に伝えていったと思われる。

松田宗家三十代当主幸一郎(仮名)の祖を示す執念を見た。
それは、自らの左親指を天に捧げるというものである。
真意は不明とする。
左大臣、太政大臣の謎を解いたのは親の執念。
真の武士である。

教訓として、
「九仞の功を一簣に虧く」
「花も折らず実も取らず」
「塞翁が馬」
祖が積み重ねてきた栄光が、祖を示すことにおいて、 無になりかねない。 奈良松田家において、権利から責務なりえたことから、 この教訓が生まれた。 祖が積み重ねてきた栄光を示すために、祖を関連づけていたのだから、 結局は宿命となるであろう。 松田宗家の謎を解くために、 この世に私は生まれてきたのだと知るのである。

祖の興味を引く事柄として、父親が私にしたことは、 「昔は良かった」の一度の言葉と、一度だけ家紋を見せてくれた。 これで興味を示せと言うのは酷である。 追加とするなら、「脇差」「五月人形」ぐらいであろうか。 このことから、謎を解かすつもりはさほどないように思われる。 よほど、祖を示すことで苦汁を飲まされたのであろう。 一番の原因は、不自然な環境を作り出す裏方の存在である。 不自然な環境の中で、相乗効果により、 窮境に自ずと立つのであろう。
苦肉の策へと陥り、より不自然な環境へと誘われる。 私に祖のことを教えないことで、それが明らかとなった。 全ては、出自の偽装の問題が、無鄰菴として形となり、 裏方という存在が発生し、要因を占めているのではないか。 また、大河内輝声の短命なことが大きく影響されていると考える。 無鄰菴が開設されたのは1894年ごろなので、 徳太郎の祖父にあたる輝声は享年三十四歳で既に他界している。 輝声が生きていれば、政界に影響力をもたらし、 祖を示す裏方などについて助言できると考える。 何故なら、父の氏秀は婿養子という形であるため、 父よりは祖父の方が、祖を示すことを高崎藩という私生活において、 継承し、熟知していると考えるからである。 そうまでして祖を示さなければならないのかと疑問に思うが、 無知なゆえに、大きな隔たりがあるのだろう。 いずれにせよ、松田宗家秘話による宿命である。


朋友
余談ではあるが、霞拳志郎が、至輝のちょうど二倍の、 第六十二代北斗神拳伝承者]とあるので、 世代は合わないが、私に宛てた、主人公なのではないか。 それゆえ、松田宗家の代数は私の代が三十一代で整合している。 松田宗家は八百年の歴史、それと比べて、 北斗宗家は二千年なので単純に倍の設定になっている。 霞拳志郎は「閻王」と呼ばれ、閻王とは閻魔大王のことであり、 仏教の地獄、冥界の主である。
そこから、何やら不思議と祖と私に通づるものが見えてくる。 蒼天の拳の中で、頻繁に発言される言葉は中国語で「朋友」、友人のことで、 山縣有朋の諱をクロスして紐付けている。 本作では、「朋友」を親友という表現で使用している。 山県が旧字の山縣としているのは、三条を三條としていることと同じで、 「九(字)」つまり、松田宗家とそれに掛けていると考える。 要約すれば、山縣有朋は大河内輝声の「朋友」即ち、親友というにことになる。 親友であればこそ、大河内輝声の短命により後世に響き、 祖を示すことの冷静な判断を担うことができ、正しき道へと導いてくれたと思うのである。> 因みに中国語では、親友は「好友」や「挚友」がその意味に使われる。
「北斗の文句は俺に言え」という霞拳志郎の決め台詞は、 「松田の不祥事は俺に言え」の代替ということになる。
無論、北斗神拳は使えないが、霞拳志郎は、私に少し似ているのかもしれない。 遊び的な関連付けは残念な点もあるが、そのように考えるのも、悪くはない。 共通点は、設定が三十歳という点に於いて、私も三十で独立し、 数年後に幼き頃から見え隠れしていた己の底に眠る、真の力を知るのである。 写真やデザインはさて置き、現在のところは、ピアノがその集大成であろうか。 離れて長いこと弾いていないので、また、やり直さなければならないが。 蒼天の拳は、作品が世に出て、何年後かに数話程度DVDで見ただけなので、 全く以て意識したことはないことはお伝えする。 己の真の力を知るからこそ、今日があると言える。

幸一郎は、その寡黙さゆえに、
松田宗家三十代当主松田幸一郎(仮名) → 第六十四代北斗神拳伝承者]霞拳四郎(ケンシロウ)
 × 遡ってクロスしている。
松田宗家三十一代当主三条至輝 → 第六十二代北斗神拳伝承者]霞拳志郎
もしくは、その流れの通りに未来と考えるのも、趣があるのではないだろうか。
拳四郎は幸四郎で、輝耡でもあり、 拳志郎は輝聴でもある。
輝聴は、至輝の六親等に当たるため法的に親族となる。
相法律上、六親等内が親族関係にある。


家祖と始祖
話は遡るが、山科家の家祖は山科実教で、始祖が平家からの養子の教成となる。 それに合わせて、松平大河内宗家の家祖は大河内輝声で、始祖が輝耕となる。 奈良松田家も同じく、祖を示すために松田に復し、松田氏秀が家祖で、始祖が徳太郎となる。 このような形式も、稀であると同時に、山科家からの出自を示すことを目的とし、 頼盛から始まる、松田宗家である証としている。
また、輝耡は頼盛と同じ、三回名を改めていることが自ずと見えてくる。
山科教頼 → 松田頼盛 → 今川国氏
松平輝耡 → 戸田氏秀 → 松田氏秀
今川家の「氏」という通字からも示されている。
輝耡もまた、頼盛同様に、新たな門出となる起点になるべくして、 松田宗家を示す新たな戦いが、徳太郎に託され、始まりを告げた。

松田宗家
真実


左丞相家
第一代   松田頼盛(1243 - 1282)− 本姓 藤原氏
第二代   松田頼直(1269 - 1329)− 本姓 藤原氏/検非違使・左衛門尉
第三代   松田頼貞(1299 - 1359)− 本姓 藤原氏/左京大夫/権中納言
第四代   松田頼近(1326 - 1370)− 本姓 藤原氏/大夫判官/権中納言
第五代   松田頼源(1356 - 1400)− 本姓 藤原氏/左京権大夫/権中納言
第六代   松田頼仲(1397 - 1434)− 本姓 藤原氏/室町幕府管領/左兵衛督/権大納言
第七代   松田善通(1423 - 1471)− 本姓 藤原氏/権大納言
第八代   松田頼済(1458 - 1520)− 本姓 藤原氏/権大納言
第九代   松田信頼(1497 - 1571)− 本姓 藤原氏/検非違使別当/太政大臣兼左大臣
第十代   松平家頼(1521 - 1573)− 本姓 松平氏/別名 松田家頼/大膳大夫/検非違使別当
第十一代  松平頼信(1530 - 1578)− 本姓 松平氏/別名 松田頼信/関東管領/左大臣
第十二代  松平達頼(1534 - 1582)− 本姓 松平氏/別名 松田達頼/右大臣/太政大臣
第十三代  松平頼勝(1567 - 1636)− 本姓 松平氏/別名 松田頼勝/検非違使別当
第十四代  松平秀康(1574 - 1607)− 本姓 松平氏/別名 松田頼通/左大臣
第十五代  松平信綱(1596 - 1662)− 本姓 松平氏/別名 松田信綱/検非違使別当/太政大臣兼左大臣
第十六代  三条輝綱(1620 - 1672)− 本姓 松平氏/左大臣
第十七代  三条信輝(1660 - 1725)− 本姓 松平氏/左大臣
第十八代  三条信祝(1683 - 1744)− 本姓 松平氏/左大臣/太政大臣
第十九代  三条輝高(1725 - 1781)− 本姓 松平氏/太政大臣兼左大臣
第二十代  三条輝和(1750 - 1800)− 本姓 松平氏/左大臣/太政大臣
第二十一代 三条輝延(1776 - 1825)− 本姓 松平氏/左大臣/太政大臣
第二十二代 三条輝承(1817 - 1839)− 本姓 松平氏/権中納言
第二十三代 三条輝徳(1820 - 1840)− 本姓 松平氏/権中納言
第二十四代 三条輝充(1822 - 1862)− 本姓 松平氏/権大納言
第二十五代 三条輝聴(1827 - 1860)− 本姓 松平氏/左大臣
第二十六代 三条輝照(1848 - 1882)− 本姓 松平氏/左大臣
第二十七代 三条氏秀(1872 - 1924)− 旧姓 松田氏秀/本姓 松平氏/宮内事務官兼式部官
第二十八代 三条輝重(1890 - 1940)− 旧姓 松田徳太郎/本姓 松平氏
第二十九代 三条輝治 − 本姓 松平氏/旧姓 松田幸太郎/呉服店主
第三十代  三条輝政 − 本姓 松平氏/旧姓 松田幸一郎
第三十一代 三条至輝  − 本姓 松平氏/元名 松田実/設計者


考察
丹後松田氏系図によると、心源は頼源に置き換えることができる。
それは、頼源は1514没とあり、位置的に年代が合っていない。
また、頼邦流の頼房のところに不可解な年範囲が記載されており、
1508 - 18とあり、十年で没すれば、婚姻どころか、子供も授かっていないと考え、
これは、頼源の1514で没する場所を示している。
妥当な場所は、頼源は同じ「源」の字がある心源に置き換えることを暗示している。
宛頼は、単に宛ての諱のため、『見聞諸家紋』に記載されている松田頼済は、
宛頼の位置に入ることになる。
従って、前記の内容となる。
松田氏系図に誤表記した理由は、分家した家柄を示すためと、
隠れた祖を匂わすためである。

中納言、大納言の考え方として、頼仲が大納言まで昇進した関係で、
前の代までが、中納言を示すために頼仲に改名した。
次に、信頼が左大臣に昇進することにより、
頼邦流(東家)である、頼言に改名し、納言が左隣のひとつ前の宛頼までを示す。
左隣とすることで、信頼の左大臣を表す。
頼言(のぶとき)と信祝(のぶとき)を目印として「とき」を合わせている。

戸籍に前岡の姓が見えていたことから、これを示していたと思われる。

最後に、輝承と輝徳は二十代前半の短命のため中納言、
輝充から輝聲(輝声)までは大納言。
輝聴は大河内松平宗家からの養子なので、その前は大納言。
輝聲は大河内輝名と改正したのでその前も大納言。
一男の輝耕が大河内の継承者なのでその前も大納言。
「頼仲」と同様、輝耡は四男なので四代前の中納言を示す。

凡その松田宗家の官職の年齢
中納言:十三〜二十の間
大納言:十六〜三十の間
左大臣:二十〜
太政大臣:三十〜
※尚、これは極官の太政大臣まで昇り詰めた家頼から想定される年齢で例外も想定される。
※検非違使別当は、副線とある大河内の家名から、大納言と兼務している可能性は高い。


左大臣
左大臣の任期に関して情報によるとたまに、年数が飛んでいる部分がある。
これらは、松田宗家が任期したところと考える。 また、注釈のあるところと、還任ということころはそうではないだろうか。
細かいところは定かではないが、 その他、三条は限りなく怪しくは感じるが、実際のところ不明である。 そうすると、また、前頭に記述した内容も見直さなければならない。 しかしながら、左大臣は検非違使別当のように、長期不在とは行かないと考えるので、 表向の相当なる人物を、ある程度適当に記されたものが、 混在していると考えれば自然である。 注釈や、間が空いていることが、それを匂わせている。


松平氏の誕生
松平信綱の名称に関して、 織田信長は、1549年に「藤原信長」と署名としていることから、 藤原は本姓の藤原氏を用いた名称であり、 織田信長であると同時に、藤原信長でもある。 織田信長は初めに平氏の本姓を称し、平信長であることから、 藤原信長でもり、双方に相違ない事実である。
これを本姓にしたのが、「松平氏」で、 「惟任」と同じ天皇から賜り受けた、賜姓である。 天皇の側近ゆえに、その事実は誰も知る由もない。 そこから、家頼は「太政大臣」まで昇進したことがわかり、 松平元康から松平家康、そして、徳川家康が、「松平氏」の賜姓を示す。 つまり、松平家康は松平家頼であることを示し、 徳川家康が、松田家頼でもあることを示す。
「川」と「田」は親子関係にあり、川から田へと水が供給されることから、 親は「松田」にあたるため、これもクロスしている。 それらを踏まえ、松平家頼から松平の賜姓を名乗り、 藤原氏同様、松田から本姓である松平とし、信綱もまた、 信長の署名であるように、惟任光秀同様に、松平の本姓を名乗り、 松平信綱と史実上の表記とし、 それら信長と関連づけることも含め、 「信」の字を諱に用いていると考える。 また、奈良松田家が示すように、別名で松田の姓を称したと読み解ける。

松平元康が誕生するとともに、松平氏は誕生した。 誕生の経緯は、血筋も、家柄も双方に、松田家の根本となることであり、 どちらも相違なく、大切にしたい想いから、 松平氏が生まれたと読み解かれる。 従って、伊勢平氏維盛流と藤原北家四条流、 閑院流を表す松田家の「氏」である。 松平は、平氏を強調するのも、その血が、現状の己を作り、 血筋を大切にしている証でもある。 松は、松田の松であるから、藤原北家であり、 松田の始祖の頼盛の想いを尊重し、象徴する。 江戸幕府の征夷大将軍である徳川家康が、 譜代大名に松平を賜姓として振る舞うたのは、松田家からの分家である皆が、 松平氏であることを示すためである。


三条
輝綱から家名は三条となり、三条に因んだ「輝」の通字としている。 通字の意味はのちに説明するとして、 次に見える、信祝はクロスを示すための点を強調する諱として、 信綱が己の功績を祝して三つ扇としたことに紐付けている。
「扇」の漢字の成り立ちは、 戶と、羽(開閉する)とから成り、開閉するとびら、転じて「おうぎ」、あおぐ意を表す。 連想される熟語として、「扇情」「旋条」「施錠」。 このことから戸田との婿養子という紐付けがあり、扉の錠に三つ扇とかけ、 三条の家名を示している。
「旋条」は、雑賀孫市(鈴木重秀)を表す言葉であり、 京都御所にある、六種の松と一緒に植えているススキ、 そして、その近くにある「聴雪」の茶室から、 三条である証が導き出される。
鈴木重秀は、戸田氏秀、戸田氏重からも関連づけられ、 「施錠」から転じて「旋条」の意味を暗示している。 大垣藩戸田家は「藤原北家閑院流正親町三条家庶流」と称していることを合わせ、 行き着く先は同じ「三条」。 それと「扇情」という言葉は、猪熊教利を示す言葉になる。 烏丸光広をはじめ、猪熊教利が人の欲望をあおり仲間としたことから、 その熟語に掛けている。

付け加え、「氏重」の「重」は、中国語の発音は[zhòng](ヂォン)で、 根本となる血筋の伊勢平氏の伊勢や、伊勢神宮は三重県にあることから、 さんじょうを示す県名の意図がそこにある。 北条家は元々、伊勢という家名である点から、三条を示す。

氏秀からは祖を示すため、猪◯問題の出自偽装を晴らすため、止むを得ず、 旧姓の松田を称している。

謎を解明にするに至り、三条の三[San]は英語のSunであることを確信した。
つまり、太陽のように輝く、だから通字は「輝」なのである。 新・三条家は「至」ゆえに、「至」は「雪」であるからして、 「至」は、「太陽の光で雪がこの上なく輝く」の意。 三条家は、雪の光のように、 美しく輝く白銀の世界へと、 朋と共に、皆と共に、 輝くのである。

三条のサンは、山科の山であると共に太陽[Sun]。
それは、日本国の象徴である日の元の日であり、
日本国を背負って生きてきた家系である証。

至輝(元名 松田実)は、三条実美が転法輪三条家三十一代なので、 松田宗家三十一代当主であることと同時に、「三条至輝」であること示す。 元名の諱が一文字なのは、いつか秘話を解き、己で一文字付けるなりして、 「三条の真の名称を完成させよ」との使命なのだと解釈する。 おそらく、氏秀の代で、祖を示す、 目的を達成するまでの流れの構成を説いたと考える。 その時に、三条実美と同じ代の松田宗家三十一代に該当する当主が、 再興請負人の使命を担う。
霞拳志郎は、魔都上海編では、最後に真の伝承者]になるため天授の儀を行い、終えている。 秘話を解き、「三条至輝」に名を改めることにより、真の継承者となるのであろう。 然れど、至輝を霞拳志郎と解くならば、先代は最低でも、丹後の松田氏が先祖であることぐらいは、 告白するべきと考える。全ては、祖を示すことの過ちから、冷静さを欠いた結果であると見える。 今でなら、インターネットの普及により、当たり前のように情報が素早く手に入れられる時代ならば、 想定できたものを、先代は、松田氏が二十八万人もいることはいつ知れず、 松田氏と言えば、丹後しかないと思うていたと言うべきであろう。 丹後の松田氏は、そのほとんどが名称を分家により改めていることや、 資料から伺えるに、二十八万人の内、元々の秀郷流が多くを占めていると考える。
その全ては、同じ魂の導きである。


本姓
松平三条家の本姓は、次に三通りある、

松田宗家松平京家流 松田宗家だけを指す本姓
松平京家苑寺流 輝綱以降の三条となる系統を指す本姓
松平京家流 松田家始祖の頼盛の嫡流以下の家々を表す本姓


鍵となる主要人物
越後上杉家 総合的な関連する事柄
越前松平家 総合的な関連する事柄
松田頼盛 松田家の祖で嫡流を示すと同時に今川家の祖
松田家頼 徳川家康との関係、鹿苑寺流
松田頼通 左大臣、太政大臣を示す
織田信長 平氏(西家)、藤原氏(京家)を称
明智光秀 惟任の賜姓や諱及び西家
徳川家康 家頼から松平氏と太政大臣を示す
鈴木重秀(雑賀孫市) 三条と事件の結びつき示す人物
松平信綱 司令塔
松平信祝 要点となる人物
松平輝聴 要点となる人物
大河内輝声 起点となる人物
松平輝耡(戸田氏秀) 起点となる人物
松田徳太郎(戸田氏重) 祖を示す執行人
山縣有朋 無鄰菴の想い

徳川秀忠 教利の出自偽装犯
猪熊教利 猪◯事件当事者主犯格
烏丸光広 猪◯事件当事者


分家と継承の真実
上杉謙信は、長尾景虎の時に、上杉憲政の養子となり、上杉家を継承した形となるが、 上杉謙信は上杉家の家名を継承しながらも、 家紋を変えていることから、養子ではなく、独自の分家として、 上杉家を背負うた形であると考える。 つまり、長尾景虎(謙信)は、上杉家という家を分家にて立ち上げ、 山内上杉家の関東管領など役目を引き継いだことが真実と捉える。 上杉憲政には龍若丸、憲藤、憲重、憲武、長憲の実子がおり、本流はそちらにあり、 大名などの立場から身をひいた形と考える。 何故なら、松田宗家は朝廷の最高権力者であり、 その実権を天皇から委ねられていると考えるからである。 無論、松田宗家は、天皇の使いであるのと同時に、助言者であり、 太平の世に導くことを念頭においていたと考える。 以前より兼ねてから、室町幕府三代将軍足利義満の鹿苑寺からも窺えるように、 松田宗家は特質な存在であったように思われる。 また、松田宗家が影になることにより、 心理的に家と家のつながりが松田家で遮断されるため、 無慈悲に戦が行うことができると考える。 それと、公家出身よりは、源氏などの武家出身の方が箔が付く上指揮も高まり、皆がまとまりやすい。 松田家からの分家した始祖は松田家の存在を存じていると考えるが、 その後、二代目、三代目になるにつれて次第に薄れていくように思われる。 とは言うものの、祖を示すことの、名称などによる関連付けは継承されていく。 中には、山縣有朋のように、松田宗家を認知している家も少なくはあると見える。 松田宗家は、棋士みたいなもので、駒を指すことと同じように、 分家により、有能な武将を日本全国に配置していくことを担い、 天下太平の世へと、導いていったと考える。
そのまま、何も策を講じなければ、延々と戦国の世は続いている可能性は否めない。 日本の国々を、能力のある武将で統治することにより、国々に統一性が生まれ、 戦の中で武家の主導者を決め、急速に天下太平の世を作り上げたのであろう。 戦い抜いた武将は救世主ではあるが、その源であり、構想者が松田宗家、 乱世の真の救世主。
そして、出自の闇を光に変えるため、真実を伝えるため、 松田徳太郎に託され、神をも越えなければならない宿命となり、 我が命となる。


至輝の境地
二十代後半に、関西から、関東へと場面が移り、 全てが悪循環となり、気付けば私は集中治療室の上で目が覚めた。 緊急手術の末に、私は生きていた。 深夜一時ぐらいの出来事である。 死亡率は20%ぐらいと聞いていた。 入院期間は三週間程度。
つなぎの仕事をしていため、入院前に応募していた企業に、 入院中に外出し、面接を受けた。 それは外出許可を得た当日のことである。 入院中は、比較的何も考えずにとても穏やかに過ごした。 同じ入院していた人が「入院してからもう二年だぜぇ。いつ退院できるのやら。」 との言葉が、鮮明に記憶に残っている。 生きていたことは紙一重であり、迷うた末、私は己で救急車を呼んでから、 時間の経過により痛みは和らぎ、呼ばなくてよかったのかもと思うたからである。 とは言え、のたうち回るを通り越して、身震いするほどの激痛を、 経験してもなおそう思うのだから、そのような気質が、家系にあるのではないか。 その気質とは、己で全て解決しようとする無意識。 それは、第八識の阿頼耶識。 宇宙の万有を保って失わず、万有が展開する際の基体であるもの。 つまり、物が存在し続ける間、物が生かされる方向を示すもの。

阿頼耶識的なものを描く漫画が次にある。
聖闘士星矢 エイトセンシズ
調べたところ、このようにある。
セブンセンシズ(第七感)をさらに越えた第八感。 阿頼耶識(あらやしき)、八識ともいう。
小宇宙の最奥にあるために常人は生前に気づくことはなく、 死後にセブンセンシズを含む全感覚が途絶え、その後に発現する。 死にながらも、発現することが奇妙な話ではある。 死後ということで、魂であることを伝えているのであろう。

仕事中に立てなくなってから、目が覚めるまで七時間。
立てなくなってからも、休憩し、終業時間を迎え、歩けるようになったので、帰宅した。 十分誰かに相談できる時間はあった。 相談することを知らない上に、病気は時間の経過と共に治るとの思想である。 親は私に何も教えない上、何も関心がない。 おそらく、親は、裏方から何かしら私の情報を常に聞いており、 それで満足していたと考える。 このことから、裏方の存在が不自然な環境を作り出していると証明できる。 周りの関連付けに振りまされた結果不幸に苛まれた。 無鄰菴の悲劇と言うべきことであろうか。 後遺症は無い。

このことから言えることは、我が家系において、放置することの危険さを戒めること。
右も左もわからない状態で放置すれば、己で全て抱え込み、烏有に帰するというよりも、
その魂をも失う結果となろうものぞ。
即ち、九仞の功を一簣に虧く。
また、導くことこそ、親の真の愛と言えよう。
そもそも、母親は私が生まれた時から仕方なく育てていた印象がある。
心は母親でなかったように思われる。
不自然な環境から自然と、親の心では無くなるのかもしれない。
不自然な環境に於いて、親として不自然な心になると言う点で合理する。

母親は、子供は大して好きではなく、先代が好きで、一緒になり、
子を産み、中絶を少なくとも私の前に二回していることから、
母親の心では無くなったのではないかと推測する。
心構えの問題と、不自然な行為の結果である。

死することの紙一重の真意は、魂的なことも一理はあるが、
母親は私に関心を持たないから、何かに苦しんでいても、
何も聞こうとしない。私は己で解決することに努めるのである。
それでも私は、当時親への関心は僅かだが、どちらかと言えば好きな方である。

私は思うに、結果論ではあるが、初めから裏方は必要なく、 氏秀、徳太郎から堂々と三条を名乗り、 自然に、世の中に貢献できるように努めれば、 十二分に祖の関連された事柄と、 必要最低限の関連付けだけで、いずれ信用は得れると考える。
宗家が断絶すれば、本末転倒である。
当然ながら、当時インターネットなどの環境はないわけだから、 想像もつかないことであり、全てが未知なことゆえ、感情に押し流される。 正当な方向で、一念通天の志で臨めば、成就するのである。

一念通天に至る境地とは、至輝の無の境地。 それは、無意識おいて、至宝となる万象の境地。 至宝の定義とは、己にとって至宝と感じるものであるが、 主観のため、誰にでも言えるからこそ神秘であり、夢がある。


裏方
裏方が有る状態と、無い状態を考えてみる。


裏方がいれば、松田宗家以外の第三者が日常の一部となるため、 祖を示すことを強制されているのと同じである。 一見、祖を示すことを助けてもらえているように見えるが、 周りの関連付けを常に行うのだから、重圧となり、 常に祖を示すことの関連付けを押し付けられている状態となる。 それが何年も続けば、洗脳され、常に関連づけなければならないと言う頭になる。 良いことも悪いことも、少々無理をしてでも、関連づけられるものは関連付けなければという思考になる。 良いことだけを選び関連づけようとするならば、社会的地位や、経済的余裕がなればならない。 ゼロからの出発とし、裏方がついた時点で、悪い方向に進むことが確定している。 始祖の徳太郎は裏方のいない、普通の家庭環境に育ったと考えるので、一代で、 そこそこの財を築いたと見えるが、その後は幼き頃から祖を示すことを教育され、洗脳された状態であるため、 人間関係がうまくいかずに、悪い方向へ進んだと考える。 無論、その背景には無鄰菴という、想いが上乗せされ、圧力としてある。 人間関係がうまくいかない理由は、予め先祖の関連事項を、第三者の裏方が常に出会う人に吹き込むため、 人は構えてしまい、関連づけのために動き、心から打ち解ける仲にはならない。 これが人間関係で生じる不自然さである。 その吹き込まれた内容と、利害が一致しなければ、去ってゆき、時に、牙を剥くのである。 自然な状態を考えるならば、祖のことは己から発しなければならない。 結果的に、寄り添う人間は何人かできるが、親友どころか、人間関係の広がりにはつながらない。

先代は、祖を示すことにおいて苦い経験をしため、
三十一代目の私には、祖のことを何も語らなかったとしか考えられない。 語れないから、余計に、祖の関連付けに振り回され、 裏方の存在も知る由もないのだから、精神的に追い込まれて行くのである。 これが、悪循環であり負の連鎖。
細かく言えば、神に歓迎されない命が存在しているだけに、 無理が生じている分、日常的に悪循環は起こっている。 私が裏方を知ったのは、丹後の松田氏家系図の前後を解き、直系の祖が津山松平家と 勘違いした時に、それが誤りだと悟らすために、見えない形で私の前に現れた。 とは言え、言葉も何もないので、己で間違いと気づくしかないのである。


裏方が無い状態は、私に祖のことを秘密にすると言う発想が生まれることは先ずなく、 自分のペース配分で、家族のことを考えながら、必要最低限だけで、 関連づけることができると考える。
その結果、少なくとも親族関係は良好であり、それが良い方向に進んでいる証である。 機を熟せば、書物などで公表すれば、良いことであり、 それを個々に信じる信じないは、時の流れに任せれば良いことである。

私が経験してきた限りでは、人生に於いて何を選択するのも、第一に関連づけること優先している。 そこに留まっていれば良いものを、関連づけるために居住を変える。 居住も、複数関連された地名を選ぶ。
一つ例えれば「大阪市城東区今津中」。 関連付けに振りまされて、人生が良い方向に進むはずがない。 選択式の試験を、賽の目で選び、臨むのと変わりない。 そこに美しい未来はない。

過失先
漫画などに、アイデアを流す必要もなく、宗家の情報は我が家系の財産の一部である。 明治政府が四民平等と主張いる以上、全ての非は、裏方の人件費を出しているところになる。 四民平等に反する行為であるため。 簡単に言えば、真に余計なお世話ということになる。

つまり、無鄰菴の悲劇である。


歴代
信綱という偉大な祖を持つことの宿命を、 ひしひしと感じずにはいられない。
しかしながら、松田宗家歴代でも、 左大臣、検非違使別当となる信頼から秀抜した能力を 有したと見えるので、信頼から至輝までの歴代は、 陰に隠れた形になり、表面化していないだけで、 どれも信綱に比肩する潜在能力は持ち合わせていると考える。 有能な戦国武将を輩出する基盤となる系統であることから証明されている。 特に室町時代後期から戦国時代、そして少なくとも信綱までは、 武術、兵法と文学に極めるほどに長けていたと推測する。 また、仏教までも我が物にしていた可能性を示唆する それは、聖闘士星矢の乙女座バルゴのシャカという登場人物の特徴から、 「最も神に近い男」と称され、神に近いは天皇に近いことを指していると考える。
「唯一つ神と違うのは弱者への慈悲心が無いこと」と語っていることから、 天皇は慈悲深いお方だが、宗家は、敵となる弱者には無慈悲なのだと窺える。 太平の世に導くのなら、同じ松田家の出自とて、容赦なく討ち払う。 そこから、その時代の目であることを示している。 乙女座は、黄道十二宮の六番目の星座である。

宗家は、武術や兵法、文学、仏教、全てにどれほどの実力かは定かではないが、 一つ言えることは、洞察力に最も優れたいたことは推測できる。 時の目になるために、研ぎ澄まされた洞察力が必要とされる。 洞察力を高めるには、その時代の必要な能力を、経験として、知識として備えることが不可欠であり、 挙げた分野を、ある程度極めなければならないことが読み解ける。 また付け加えて、政治的必要とする教養はもちろん、医学や芸術などにも教養があると見受ける。 聖闘士星矢は、サガが黄金聖闘士の中で最強と称されているが、 真の最強は、シャカとしていると考える。 それと宗家を比較して、何を以て最強なのかは定かではないが、 聡明叡知であることと、地位として、 天皇の次の位であったことは事実と捉える。 例えるならば、特出する能力値が異なる明智光秀の進化系ではないだろうか。 黄金聖闘士は十二あることから、南部家の猶子に入った、 頼近から家名が三条に変わる前の信綱までがちょうど十二代となるので、 それを合わせて、別視点で示していると見える。 そこから、黄金聖闘士に優劣はないと言う見方があるのでないか。 六番目の乙女座のシャカにあたる、信頼が戦国時代の乱世を、太平の世に導いた、 立役者ではないかと考えられる。 それは、宗家が奈良の地を新たな起点と選んだことから、後奈良天皇を示し、 後奈良天皇が座位した期間が1526年から1557年で、信頼が左大臣、 太政大臣を務めた期間と重ね合わさるでのはないか。 後奈良天皇が誕生した日は、1497年1月26日(旧暦 明応5年12月23日)であるので、 もしかすれば、誕生日さえも同じなのかもしれない。 もしくは、生まれ年が同じ、1497年の毛利元就が信頼ではないだろうか。 そして、信綱がその「信」の字を賜り、信頼と信綱共々、太政大臣兼左大臣を示している。 付け加えれば、平成天皇が12月23日生まれで、平成の期間が三十一年であるのと同時に、 後奈良天皇の座位した期間と合わさる。 おそらく、ご高齢で体力の限界はすでに達していたが、三十一年間と、 そこまで座位の期間を伸ばしてくれたのではないかと推測する。 存命であられる天皇は、女系で宗家とつながる。 後奈良天皇の母親は「勧修寺藤子」である。 関連とする、義賊として伝説化された鼠小僧も元を辿れば、松田家の出自なのであろう。 因みに、後奈良天皇の父親の後柏原天皇の母親は「庭田朝子」である。 宗家と皇室とは、親密関係であったことは確かである。 然れど、毛利元就が直系の祖であることは、祖母が廣島県山縣郡に本籍があることから読み取れ、 廣島県は、安芸国を治めていたことから示されている。
奈良松田家の本籍は、奈良県磯城郡(しきぐん)となる。 正式名称は、松田信頼か毛利元就のどちらかは定かではないが、 元就二十歳の時の有田城合戦が初陣として史実に刻まれているため、 少なくとも三子まで宗家の後裔を授け、毛利元就と名を新たにもうけたと考える。 松田信頼が陰の名前となる。

時代は移りゆき、形は違えど、 皆、ケンシロウであり、カタカナが特定の者に該当しない理由である。
人の心は時間と共に変わるのであろう。
そして、霞拳志郎が誕生した。
その言葉を私になりに言葉を変え

「松田の不服は私に申せ」「你已經死了」

そこから読み解けば、宗家は一子だけに宗家の象徴の家紋を引き継ぎ、 松田宗家を秘話を伝える役目を担う。
代々、現在に至ること。


三条輝守
先代の祖を示す、主要な関連付けとして、 「輝守」は、渡辺守綱と松平信綱を結びつける名称である。 渡辺氏綱が家祖で、旧名の戸田氏重と紐付け、松田徳太郎を示す。 渡辺守綱は三代目となり、奈良松田家の三代目の三条輝守の「守」と紐づけている。
「綱」は松平信綱を示す。
松田宗家の三条に家名の変更を示す、三条家三代目の松平輝祝は、 渡辺守綱と同じ頼済流である江馬時盛と江馬輝盛を示し、完全に関連づけられている。 「江馬時盛」は「伊勢盛時(北条早雲)(松田頼済)」のことを示し、 松平輝祝と合わせ、クロスしていることを表している。 また、三代目ということで北条早雲と合わせ、重ねて三条を示す。 「祝[Toki]」と「時[Toki]」は、山科家の通字の「言[Toki]」、 それと「至輝」の元名「実」の一文字の諱と合わせ、元来の渡辺氏と、 山科家の出自を示すことになる。

然すれば自ずと、松平信綱は「松田信実」のことになる。
何故なら、松平信綱は山科実教で、三条家の始祖と山科家の始祖であること示し、 家祖は実質二代目になる松平輝綱(三条家)と山科教成(平氏)、 これは、松田氏秀(戸田氏秀)と松田徳太郎(戸田氏重)と松田輝守もそれに倣い、 始祖が松田氏秀で、家祖が松田徳太郎、実質四代目が輝守と重ねていることから、 このような構成であることが示されている。 山科実教と徳大寺公親の関係から、松田宗家の四代目頼近の南部家猶子をも示している。
松平信綱の名称は、松田信実から松田正永、松田信綱、そして、 三条信綱へと変わったことだけが真実となり、 松平信綱は、惟任光秀や羽柴秀吉と同じように、 本姓の氏の名称の呼び方と同じであることが読み解ける。 豊臣秀吉は、羽柴秀吉であり、藤原信長は織田信長であり、惟任光秀は明智光秀であり、 松平信綱は三条信綱である。

山科家始祖の「山科実教」であり、徳太郎の徳と合わせ、実教の実父である徳大寺公親。
徳大寺は清華家であり、松田宗家は、清華家であることを示すと同時に、 同じ頼済流の徳川家臣の「酒井忠次」を指し、 「酒」はつぐ(次)で、「酌[Shaku]」で意味の「酒を杯にくむ」に掛け、 公親から公爵であることも示している。

三条に関連したことを付け加えれば、 松田宗家の二代目の分家にあたる、 頼直流の村上義日(よしてる)から「日」を「輝」に変え、 太陽であることを示すことのそれは英語の「Sun」であり、 輝声の資料にある、東京に英学校設立を踏まえ、 漫画にある東京大学物語の主人公は「村上直樹」であることから、 大河内輝声が東京大学の創設者であることを示していると考える。 また、村上義日の官職は左馬権頭であるため、左大臣を示している。 それから、輝声の資料にある「安政6年」から始まり、「重税を課した。」に終わる部分は、 ほぼ出鱈目であるように見える。


松田頼盛
松田家祖の頼盛を示す鍵となる言葉を次に記す。

松田八郎左衛門尉頼盛
誕生年 一二四三年(寛元元年)
伊勢平氏維盛流(桓武平氏流)
山科頼定の実子八人兄弟 → 八郎左衛門尉
頼盛(山科頼房)は四男 → 頼盛の子、頼直、頼成、先手姫、頼行の四人兄弟
山科家は羽林家(北斗七星)で藤原北家四条流
三条公親へ頼盛の娘先手姫の養子 → 第七皇子久明親王(頼盛の実の孫)
先手姫は三番目の子
今川国氏 → いまがわくにうじ → うじ → うし → 牛
松田 → 木をとれば「鬼」
徳大寺公親(閑院流) → 清華家 → 雪華模様(三条実行/松田頼行) → 定紋 松田唐花
山科家第六代 山科教行(頼定六男末子) → 松平北家家祖 松田頼行(頼盛四男末子)
松 → 木をとれば「公」 → 公家 → 公爵
三条は三画と七画で十画 → 條 → 攸+木 → 木は八をとれば「十」

松田宗家
菩提寺
岡寺
山号  東光山
院号  真珠院
寺名  龍蓋寺
宗旨  新義真言宗
宗派  真言宗豊山派
家紋   上り藤  輪違い
創建年 七世紀末頃
開山  伝・義淵
中興  法住
所在地 奈良県高市郡明日香村岡八〇六

名称について
「東光山 真珠院 龍蓋寺」であるが、
古来の土地の名から「飛鳥の岡にある寺」から
「岡寺」と親しみを込めて呼ばれその名で知られている。


十三重石塔とは
岡寺の龍蓋池の上部にある十三重石塔は、 大正時代に、松田徳太郎を筆頭に寄進された石塔である。 石塔の大きさは、鹿苑寺流に因み三十三尺と思われ、 現在の価格として、調べたところ一億二千万以上。 これは素材として、日本の最高級の庵治石の細目を使用した場合であるが 祖を示す事柄から、庵治石を使用したことが読み取れる。 少し安価のものとして庵治中目があるが、 写真から窺えるのは「庵治細目」であると思われる。 市場の算出は、「庵治細目」で八寸の墓石を作成した場合の三百万から 導き出し、加工や施工費などを考慮した価格帯である。 近江和田氏が摂津国半国守護であることから、半分を治めるので、 徳太郎は半分の費用を収めた事実が見え、至輝に物語る。

十三とは諸説あるが、古代中国の「五行思想」に由来する説がある。 五行思想とは、万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の五種の元素から成り立つ思想で、 骨に通じ白色を意味する「金」は、数字で表すと四と九にあたるため墓所にふさわしいとされる。

五行は自然現象の四季の変化を観察し抽象化された、 自然現象、政治体制、占い、医療などの様々な分野の 根本となる性質の周期や相互作用などを説明する五つの概念。 五つの元素は単に基本要素だけはなく、変化中における 状態、運動、過程という捉え方もされる。

木(もく)
「春」の象徴で、木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となり、
樹木の成長・発育する様子を表す。
火(か)
「夏」の象徴で、光り煇く炎が元となり、火のような灼熱の性質を表す。
土(ど)
季節の変わり目「土用」の象徴で、植物の芽が地中から発芽する様子が元となり、
万物を育成・保護する性質を表す。
金(ごん/こん)
「秋」の象徴で、土中に光り煇く鉱物・金属が元となり、
金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。
水(すい)
「冬」の象徴で、泉から涌き出て流れる水が元となり、これを命の泉と考え、
胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。

この石塔は徳太郎筆頭に宗家の墓所として建立された可能性を示唆し、 以上から岡寺の四季を訴え、墓所を意味する「金」の概念である「秋」の象徴の その主旨から松田宗家歴代へと流れ重きを置く。
五つの元素は変化中における状態などの点において、 秋から春の季節の変化や次の梵字にある千手観音であることも重ねて訴えている。 奈良松田家の項目で述べた、秋の紅葉から春の石楠花と蛙の鳴き声。 秋の三条輝照から春の大河内輝声へ、 金は鹿苑寺流で三条輝照を主として表し、 十三重石塔に刻まれた梵字は歴代宗家の墓石である真意を伝えている。


梵字
その石塔の四方面に三段に連なる各約六十名で、 計約二百四十名程の寄進者の名前が石塔に刻まれ、 正面の上段に、十ある名前の中に浦野姓が中央に二つあり、 その二つの内、左側に「浦野徳太郎」と名前が刻まれている。 その石塔の四方面にそれぞれ梵字が刻まれ、梵字の意味は次の通りである。

※石塔から見た位置関係

正面
𑖮𑖿𑖨𑖱𑖾キリーク
阿弥陀如来
西方の極楽浄土の教主で、生あるものすべてを救う如来。
千手観音菩薩
千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、願い事をすべて叶えてくれるという観音様。

左側
𑖀𑖾サク
勢至菩薩
智慧の光をもってあまねくいっさいを照らし、無上の力を得させるという菩薩。

右側
𑖝𑖿𑖨𑖯𑖾タラーク
虚空蔵菩薩
宇宙のすべてのものを含み、虚空のように無量の福徳・智慧を具え、 これをつねに衆生に与えて諸願を成就させる菩薩。
宝生如来
大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。
唯識思想における仏の悟りの境地のひとつ「平等性智」を具現化したもの。

裏側
𑖀𑖼アン
普賢菩薩
優れた智慧で現世のあらゆる場所で人々を救済する菩薩。
文殊菩薩
諸仏の智慧をつかさどる菩薩。

梵字の意味はこのようにあるが、 松田宗家が提唱することは、自然の流れの中で出来た、頂点となる主を中心に、 その周りに、力あるもの、知恵あるものの支えによりこの世は形成され、 それにより平和な世が築かれ、または保たれ、現代に至ることを示している。

阿弥陀如来は生あるものすべてを救う如来、天皇と重ね、 その周りには、宗家の歴代、 そこから子々孫々と繁栄する松田家の出自の者達。 この構図は、松田宗家に限らず、子々孫々と代々受け継がれて行く、 この世の全ての人々であることを表している。

十三重石塔は、奈良松田家の墓の代替であると同時に、 宗家の魂を宿した(思いが凝縮された)松田宗家の墓石であり、 この世の平和を願う石塔である。

勢至菩薩は、阿弥陀三尊から、 阿弥陀如来を中尊とし、向かって右側に置かれる右脇侍。 阿弥陀如来から見たら左側となる。 勢至菩薩は、上杉謙信に重ね、 「輝」の通字としていることから、 宗家の「左大臣」と言う立場に重ねている。

虚空蔵菩薩は、右大臣とある織田信長と重ね、 無量の福徳と知恵は、森羅万象にあるこの世の平和を願うことに通じ、 幸せをもたらす宗家の思想。

普賢菩薩は、宗家の立ち位置を示し、 優れた智慧で救済の支援をすることにより得た人々の幸せが、 宗家の幸せであることの信念であると考える。

千手観音菩薩は、 阿弥陀三尊の左脇侍にある観音菩薩で、観音菩薩の中でも、 キリークの梵字は千手観音菩薩であり、千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、 願い事をすべて叶えてくれるという観音様といわれていることから、 松田宗家の歴代と重ね合わせているのではないかと考える。 それに加えて、千手観音菩薩は、観音菩薩の変化身と考えられていることから、 キリークの梵字は石塔の正面、つまり、表にあり、
観音菩薩は、裏の公家の立場である松田宗家に対し、 千手観音菩薩は、その変化後の毛利元就などの表の顔、 つまり、武家であると考える。

無鄰菴に紐づく刻まれた名称
石塔の名称の中央にある二つの浦野姓ついて、 梵字は石塔の一部と考えるので、石塔から見た位置関係に対し、 寄進者の文字を読むのは、読む人の立場から考えるので、向かって

右側 浦野駒吉  → 辰野金吾  → 烏丸光広
左側 浦野徳太郎 → 永見徳太郎 → 猪熊教利

とあるので、無鄰菴の話を思い出していただき、左側は南家、右側は東家。 つまり、猪熊教利の最終家名である「生駒矢柄家」は東家であることを示している。 また浦野姓は、猪◯問題の裏の性ともかかっている。 重ねて、浦野駒吉は右から数えて五番目にあることから駒は将棋の金将を意味し、 龍蓋池と合わせ、辰野金吾示す。 浦は水ぎわの地であることから龍蓋池を指し、「辰」が浦の代わりに入る。 「野」はそのままで、駒は「金」、五番目で「吾」、「辰野金吾」となる。 浦野徳太郎は誕生日が同じである永見徳太郎を示す。 将棋の「将」は、松田宗家歴代の人物はどのような立場であったかを表している。 「将」とは、軍隊をひきい指揮する人。 つまり、将棋で例えれば「金将」で王を守る要となる立ち位置。 五は「囲碁」ともかけている。 それから駒は、裏の性から猪熊教利の後継である矢柄生駒氏ともかかる。

十三重石塔の浦野徳太郎と刻まれた画像 →
烏丸光広、猪熊教利は奈良松田家を参照 →


徳太郎は氏重
次の家紋は岡寺の新義真言宗の一つである。
輪違い
この家紋に類似した家紋が次にある。
高氏 家祖 重氏 足利氏執事
徳太郎の別名を記すと同時に上下クロスしていることを示す。 そして、二重にある浦野姓の「二重」と「輪違い」にかけ、 二重直違い紋の相模松田家の家祖の松田頼重から 浦野徳太郎は松田氏重であることが示されている。

高氏の家紋は「寄懸輪違い」とある。 「寄懸」は、「よせか」と「よりかか」と読み方がある。 松田頼重から「よりかか」と読ませたい狙いが窺える。 「懸」の字に山縣有朋の「縣」が含まれ、 岡寺十三重石塔が山麓にあることから、 山縣有朋との関連性を表し「さんろく」から鹿苑寺流を示す。
そこから、「縣」「鹿」を引けば「心」と「林」が残る。
更に分割し「山」「県」「系」「有」「朋(友)」「鹿」「心」「林」の漢字となる。
これらの字から訴えかけることは、
「山」山科
「県」県名
「系」系統
「鹿」鹿苑寺
「心」宗家の志(梵字の意味)
「林」羽林家
「有」有職故実(朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束の研究)
「友」山縣有朋、松平四家
つまり、松田宗家、三条家、大河内輝声、松田徳太郎は、松平四家の
松平京家鹿苑寺流であることが関係性から示されている。
補足として、「新義真言宗」の「義」は武士道の思想である。
すなわち、宗家の志となる。


三室戸寺 十三重石塔の関連性
三室戸寺の三重塔は、江戸時代に播磨国三日月藩の初代藩主の森長俊の手により 建立されたものである。 森長俊の父は長継。関成次からの養子で、関家の家祖は関成重。 したがって、松田徳太郎は、三室戸寺の三重塔と十三重石塔を重ね、 関家の家祖が、関成重であることを示し、 また「三条」名字、「四辻家(室町家)」猪◯問題や室町幕府、「戸田」氏秀の妻や江戸時代を 連想されている。 室町時代から江戸時代ということは、三条の祖(松田宗家)が江戸幕府を開いたと 関連されていることが窺え、 江戸時代になり、猪◯問題が起きたとなる。
十三重石塔は、三重塔の前に咲いている額紫陽花と辰野金吾と合わせ、 東京大学を示していると考える。

また寺院及びその境内に関連する所有物として次に挙げる。
・三室戸寺 室町、江戸時代、徳太郎は戸田家と関わりがあった事実を示す。
・宇賀神  三条家の表の顔、高崎藩の副紋蛇目の家紋を示す。
・阪六   山麓を示す補助的な関連されたもの。
・三重塔  三条の家名と松平氏を示す。
・関成重  美濃関氏の家紋は「鳳凰の丸」であることから金閣・銀閣を指し
      鹿苑寺と慈照寺、そして宇治平等院の鳳凰堂を指す。


飛鳥寺西方遺跡
飛鳥寺西方遺跡は奈良県高市郡明日香村にある、 飛鳥時代の宮殿関連施設と考えられる遺跡。 『日本書紀』には「飛鳥寺の西」「大槻の樹の下」など記される神聖視されていた 槻(けやき)を中心とした「槻木の広場」があったと考えられている。 槻の位置に関して所在は明らかにはされていないが、次に絞られたとされている。
・砂利敷欠落遺構
2012年(平成24年)の調査で発見された砂利敷の欠落で、 6mほどの規模で飛鳥寺西門の西正面41.5mの位置にある。 遺構の四方に樹根状に欠落が伸びており、人為的に掘られたものではないとされる。 近くには井戸の跡と思われる円形の欠落もあった。 『古事記』などの神話世界では聖樹のそばには泉や井戸が対になって存在するとされる。
・入鹿の首塚
入鹿の首塚と言われる五輪塔は飛鳥寺西門から西へ23mほどの位置にある。 五輪塔は鎌倉末期から南北朝時代に築かれたと考えられ、詳細は不明。
(Wiki資料参照)

岡寺の所在地からこれらも祖を示す内容を補足する形で重ねて関連性を示している。


鍵となる言葉
十三重石塔
三重宝塔
龍蓋池の上部にある石塔
三段から四方面にある梵字と名前
上段の十ある、中央二つの内の左側
いろは順に六番目にある名前
紅葉(秋)から石楠花(春)と蛙の鳴き声
梵字「キリーク」と「サク」次に「アン」と「タラーク」
阿弥陀如来と大勢至菩薩
観音菩薩から千手観音菩薩
正面(表の顔)と背面(裏の顔)
右と左

石楠花は、無鱗片シャクナゲ節の総称であることも踏まえると、 大河ドラマの「麒麟が来る」の麒麟は、千手観音菩薩のことを指し、 戦国時代の歴代宗家のことを指していると考える。 大勢至菩薩は智慧の光をもってあまねくいっさいを照らし、 無上の力を得させるという菩薩である点から、 上杉謙信(頼信流)を指す。

出鱈目であるいろは順の六番目は、系図の三番目の二乗で武田信玄(家頼)を指し、 その十三番目に当たる歴代は「第二十三代三条輝徳(松平輝徳)」である。 従って、武田信玄(松田祖)と江戸時代の松平氏と奈良松田家が、 同じ家系であることを表す。 無鱗片シャクナゲ節から梵字の「アン」と合わせ「無鄰菴」を示している。 極め付けは「タラーク」、一部出鱈目である。


六観音
六観音は、観音菩薩の変化身を表し、六道輪廻の思想に基づき、 六種の観音が六道に迷う衆生を救う考えから生まれたものとあり、 六道の観音様の摂化は宗派により一部異なり、岡寺真言宗は次の通りである。

地獄道 聖観音
餓鬼道 千手観音
修羅道 十一面観音
畜生道 馬頭観音
人道 准胝観音
天道 如意輪観音

阿弥陀如来は天皇を表し、そのほかの如来と菩薩、六観音(菩薩)は宗家の歴代を表す。
阿弥陀如来[天皇] 宝生如来
観音菩薩(六観音) 大勢至菩薩 普賢菩薩 虚空蔵菩薩 文殊菩薩
[毛利元就][武田信玄][上杉謙信][織田信長][伊達政宗][結城秀康]
大勢至菩薩は上杉謙信を表していることは確かではあるが、 どの人物がどの菩薩であるかは特に該当しないものとする。


十三重
十三重石塔にある十とは、信綱から輝照(輝声)までが自然血族である、 伊勢平氏維盛流にて十代分、 三は、輝照(輝声)から氏重(徳太郎)までが三代、重は氏重の「重」であり、 伊勢平氏維盛流を示すのは「三重」伊勢国であった三重県である。 伊勢氏は後に後北条氏に代わり、後松田家(奈良松田家)の真の家名が「三条」であることを示す。 「浦野」とすることで、浦野姓は元より、「松田」の家名は真の家名ではないことを示している。 つまり、「松田」の家名は裏の姓である。 徳太郎の「徳」は、清華家の祖の徳大寺公親と輝徳を線で結び、徳太郎があることを示す。 また、「太郎」は、武田信玄の幼名を指し、伊勢平氏と合わせ「松平氏」となる家頼流を示す。 「太」は太政大臣の「太」でもある。 輝照(輝声)を表すと共に戦国時代の宗家を示している。 十三重石塔は、明日香村の岡寺にあることから、 明日(未来)の平和を願う石塔であることを表している。

第二次世界大戦では、十三重石塔を何かずれた受け止め方をしたのではないか、 三国同盟や真珠湾攻撃など、関連付けとして行い、 司令塔を失った関連付けは、負の方向にしか進まなかったのではないだろうか。 日独伊の三国同盟はドイツの当時の国旗「ハーケンクロイツ」は鉤十字(逆卍)であるため、 東條英機は、同じ頼仲流の蜂須賀と横山に重ねたのではないだろうか。 伊は伊勢平氏となり、当時のイタリア国旗には十字が入っており、 十三重石塔と真珠湾攻撃を重ねている。 そこに、東條英機は、東條を東京や三条とも紐付け、無鄰菴で出てきた旧漢字や偽装犯の「秀忠」など、 徳太郎の祖を示されている。 三国同盟は第三十九代近衞内閣の時に締結されているので、 その流れから第四十代東條内閣と推移していったが、 東條英機は、平和に対する罪で戦争責任を取らされ、死刑(絞首刑)でこの世を去った。 結果から良い指導者とは言えない。

「十」は戦を意味する「銃」の例えでもあるが、戸田氏秀の資料にある年齢を正す 十を加えた年代、一八八二年が戸田氏秀の真の誕生年である。


短歌
天命に
廻り四方に
刻みしと
平和の祈り
故人の思ふ
令和三年 三条至輝

この短歌は、ロシアのウクライナ侵攻における、 両国の説得時に詠んだ短歌である。 ロシアが一時侵攻を休止した時に、 経済制裁を緩和を促す合図として、 私のインスタグラムの内容と合わせるように ロシアと中国の爆撃機が日本列島の近くを旋回した時に、 その思いを汲んで、私が代弁すると同時に、 祈る想いで平和への思いを綴った短歌である。 あたかも、岡寺の十三重石塔のことを知っていたかのように、 魂の一致である。

「至」も私が己で選んだ漢字である。 それゆえ、大勢至菩薩の「至」も魂の一致であり、 天からの賜りものである。


岡寺へ訪れる経緯
岡寺は、徳太郎の代の本籍があるところから推測し、 いずれ訪れようと考えていた地である。 石楠花が見頃を迎え、それに合わせ、 祈る想いで、徳太郎のお墓があるのではないかと思い、 訪れた場所である。 住職の歴代墓所はあったが、一般的な墓地は見当たらなかったので、 取り越し苦労と思うた。 また、十三重石塔に松田徳太郎の名前がないかと探すが、 名字を意識しすぎて一度目は見つからないまま見限ろうと脳裏をかすめ、 期待もしない上で再度見直した時に、正面の上部に浦野徳太郎と名前があり、 一旦は困惑したが、冷静に考えたところ住職に十三重石塔のことを尋ね、 大正時代に寄進されたものとご教示いただき、 これは松田徳太郎だと断定できた。


全く何も知らなかったところから、 祖の様々なことが明確になるにつれ、 複雑な心境に駆られるが、 祖は形として、江戸幕府ないけれども、 東京大学、京都大学、十三重石塔と、大切なものを残してくださったと 感慨無量に、誇れるかけがえのない無形有形の遺産である。

石塔に刻まれている名称にて、 浦野駒吉を向かって右側にある烏丸光広に例えていることから、 京都市右京区にある光広の墓所の法雲院を暗示し、 高崎藩松平家の右京大夫と右京亮のスケベにつながり、 松田宗家の墓代わりであると示されている。 十三重石塔は、前記にある戦国時代の歴代六名を弔うことを主として、 建てられたものであろうと考える。 そこには前に述べた、平和の願いが込められている。 石塔が建てられた大正七年(1918)は、第一次世界大戦の終戦の年でもあるので、 全ての思いがここに集約されていると私は確信を得る。

松田宗家の聖地、菩提寺であると共に、 世界平和を願う石塔。
つまり、「菩提寺兼世界平和を願う石塔」。

創設 英学校とは
大河内輝声(三条輝照)の東京に英学校設立とは、何を示すことなのだろうか。
同志社英学校と言う学校を見つけ、京都府に開かれた学校とある。 設立者とある謎の新島は新島襄のことであり、 同志社大学の前身が同志社英学校であるので、 同志社大学の創設者は新島襄となる。 然すれば、大河内輝声は何という学校と設立したのだろうか。 その疑問の謎が深まるばかりである。
箕作阮甫は、東京大学の設立に関わった人と言う少しあやふやな点があることから、 東京大学の設立が1877年(明治十年)とあるので、 その五年後に大河内輝声が三十四歳の若さで他界している。 時期的には、輝声が二十九歳の時に設立となるので、申し分のない年である。 大河内輝声が大きく関わっているのではないかと推測できる。 もう一つの理由は、東京大学の設立者の箕作阮甫は、設立関係者とだけあり、 それ以外に携わった人の名前は出てこないからである。 それと、大隈重信はよく聞くが、箕作阮甫は私は聞いたことがなかったからである。 示す暗号として、三条氏秀(戸田氏秀)が東京帝国大学(東京大学)を卒業していることから、 東京に英学校の英は英国であり、それは大英帝国。 戸田氏重(松田徳太郎)は大隈重信を指すことにより、東京大学のことと読み解ける。 真の設立者は、大河内輝声となる。

明治政府によって1877年(明治十年)4月に設立された日本最初の(官立)大学とあるので 大河内輝声は政府側の人間になり、東京大学の資料には、箕作阮甫は登場しないので、 箕作阮甫と協力して設立したのではないかと考える。 そして、輝声の資料において、東京に英学校設立とだけあるのは、 何かを示していることは確かであり、 東京大学の前身の一つである大学南校を卒業した経緯もあり、 大河内輝声を中心に設立されたと考えれば自然である。 江戸幕府の礎を築いたのが、松平信綱であれば、 東京大学の礎を築いたのは、大河内輝声と読み解ける。

補足として、東京大学の歌「ただ一つに」の歌詞一番と二番の冒頭。
作詞、大森幸男
一、ただ一つ 旗かげ高し いまかがやける
二、ただ一つ 歌ごえ高し いまなりわたる

ここから漢字を導き出せば、次となる。
「忠」「一」「市」「景」「高」「今」
「輝」「宇多」「声」「肥」「成」「業」
「渡」「和」「済」「弥」
「輝声」を初め、松田宗家に関連する漢字ばかりであることが、何よりも証。


奈良松田家もまた、「東大」という名称の近くに本籍を置いている。
その近くの神社には、紫陽花や額紫陽花が咲き乱れる。 現在は野生の鹿により、食べられて取り除いたと聞いた。 また、徳太郎が、岡寺に十三重石塔を寄進した一つの関連づける事柄として、 安田講堂を東京大学に寄贈した、安田善次郎と重ねていることから、 東京大学を示していると思われる。


東京大学
三条輝照は、大友義鑑に名乗り方を合わせ、大友家の家祖を示している。
大友義鑑の家紋は抱き花杏葉紋。
次に松平氏の原点となる頼源流の松平家の家祖は親氏で、その家紋は剣銀杏紋である。 そして、東京大学の校章は「銀杏のマーク」である。 慈照寺には銀閣があり、輝照の「照」があることから、 次のような流れで紐付けされている。

松平親氏[剣銀杏紋]
慈照寺(銀閣)[室町幕府八代将軍足利義政(妻日野富子)]
大友義鑑[抱き花杏葉紋]
松平輝照(大河内輝声)[太政大臣兼左大臣]

畠山金吾家[頼盛流松田八郎左衛門尉]
辰野金吾[東京駅設計者]
浦野徳太郎(氏重)
[岡寺(龍蓋寺)十三重石塔 裏側梵字アン 秋(紅葉)〜春(花と蛙の鳴き声)]
     ↓
東京大学 東大マーク(銀杏のマーク)
とつながり、東京大学を示す。

様々な関連した内容から、紛れもない事実と捉える。


聴雪
京都御所の孝明天皇のお好みにより建てられた御茶室「聴雪」。 聴雪は、安政度御造営(安政二年(1855))の二年後に建てられた入母屋造、杮葺の御茶室。 上の間,中の間,下の間,および水屋の間という四つの部屋で構成。 孝明天皇が将軍徳川家茂を招いて酒宴を催されたり、 右大臣近衛忠凞を召してお茶湯を催されるなど プライベートな空間として使用された茶室とある。 1857年に建てられたことになり、 左大臣の資料に近衛忠凞は1857年に左大臣に就任とあるので矛盾している。 右大臣と左大臣を兼ねることはないので、 「聴雪」の名前から、松平輝聴(三条輝聴)が左大臣を務めていたと明白となり、 その流れで、松平輝聲(三条輝照)の極官も左大臣である事実が読み解ける。

左大臣が太政官における事実上の最高位であったこと踏まえれば、 東京大学は明治政府により設立されたとある内容は、 左大臣である大河内輝声(松平輝聲)により設立された内容に置き換えても、 ごく自然である。


内務省
大河内輝声は、宗家の陰的な立場に終止符を打つため、 真の後継者四男輝耡を、形式上戸田家の婿養子として送り、 戸田氏秀と資料にはあるが、実際は三条氏秀と名字を変えず、 夫婦別姓であった可能性が示唆される。 その後、祖を示すためにと、第一子の三条氏重は、 松田徳太郎と名を改めたことに合わせ、 三条氏秀も始祖となるため、松田氏秀と改めたのではないかと、 過去の流れから推測ができる。 このような流れからも、やはり大河内輝声の短命さが、 宗家に暗い影を落としたことの影響として、十二分に考えられる。

内閣制度の創設したのは明治十八年であることから、 大河内輝声がこの世を去った三年後にあたる。 輝声が存命中は左大臣の官職であったと想定されるので、 内閣とは、大河内の「内」と「閣」は二階づくりのりっぱな御殿。< たかどの。貴人の住む所。などとある。 伊藤博文は、輝声の号が「源桂閣」であることから、金閣寺や銀閣寺とも掛け、 内閣制度と名づけたと考える。 金閣や銀閣の呼び名は元々あったように思え、 そこから「金閣寺」や「銀閣寺」の通称の呼び名が一般的に広まったと考える。 内閣制度が創設する前に内務卿という太政官制に基づく卿があり、 初代内務卿に大久保利通が就任していることから、 内閣の内は内務卿の「内」であることが正確にはあり、 内閣の名称は大河内輝声との関係性は定かではない。 一つ気になることは、蒼天の拳の主人公霞拳志朗はヘビースモーカーであり、 大久保利通もヘビースモーカーであることから、関連性を持たせている。 そこから大久保利通が行政としての行いが、大河内輝声と関連している可能性が あることは否めないように思える。
大久保利通が実質的・事実上の初の内閣総理大臣とあるが、 これは大河内輝声ということの可能性は大いにありえると思うは私だけだろうか。 東京大学を創設する技量や裁量がある人物ならば、 内務卿(内務省)などの構成も 思考の中にあると考えるからであり、 大久保利通の尊敬する人物に徳川家康とあるので、 徳川家康同様に、表に大久保利通を立てたと考えるのが妥当である。 そこから紐解くに至り、 岩倉具視はお札の肖像画になり得て、 大久保利通はお札の肖像画にはなるに至らなかったのではないだろうか。
内務省新設を示す祖の関連付けとして、輝耡(氏秀)の職務、宮内事務官兼式部官。 ここから大河内輝声の太政大臣兼左大臣という肩書きも見えてくる。 輝耡(氏秀)は、戸田家の婿養子に戸田氏共の娘の米子と婚姻し、 女系で岩倉具視に繋がるため、岩倉具視は同じ公家でもあり、三条輝照(大河内輝声)の官位を示す。 そこには「贈正一位」とあるので、 三条輝照(大河内輝声)の官位が「正一位」であることが読み解ける。 維新の三傑と呼ばれる大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛を差し置き、 岩倉具視が札の肖像画となっている。 大久保利通は嫌われ者とあるが、それが理由としても、内務省を新設したのならば、 国への貢献度は計り知れないと考え、大久保利通が札の肖像画に選ばれないのなら、 岩倉具視も肖像画になり得ないのが自然な流れと考える。 従って、岩倉具視が札の肖像画になることで、三条輝照(大河内輝声)を敬重の意であると考えられる。 そこから輝耡(氏秀)が宗家の正統継承者である事実が窺える。


京都大学
京都大学学歌の歌詞を読めば自ずと見えてくる。
松平氏秀が二十五歳の時に設立となるので、 京都市情報館のWebサイトにある「文化史25 京都の大学」ページの 「文化史25」の意味は不明だが、それを物語るのではないだろうか。 東京大学設立一八七七年のちょうど二十年後の一八九七年である。 十三重石塔には、「じゅう」が二重にあるから 二十年の意味も含まれている。


札幌農学校
札幌農学校は輝照が二番目に創設した学校で、札幌に置かれた高等教育機関、 北海道大学の前身となる。
初代教頭クラークが学長を務めたマサチューセッツ農科大学をモデルとし、 農学に限らず理学、工学、英文学等の幅広い教育を行う。 札幌農学校の創設を示すのは、クラークとマサチューセッツであり、 クラークとは十三重石塔の意味にもあった五種の元素と紐付けされている。 元素記号の覚え方は、「水兵リーベぼくの船七曲がりシップスクラークか」からクラーク。 マサチューセッツは、奈良松田系図にある「マサヲ」、輝耡の「すき」は反対にし、 「キス」の「ちゅう」で、セッツは和田氏の摂津国半国守護の「摂津」となる。 また、北海道大学校歌の「永遠の幸」の歌詞を読めば自ずと見えてくる。

輝照
太政大臣兼左大臣
三条輝照の薨去
明治十六年(1883年)五月、太政大臣兼左大臣三条輝照は、 事実上の東京遷都で衰微する京都の再興のため、 京都御所修復を含む京都保存計画を天皇に建言した。天皇はこれを裁可し、 同計画を取り仕切らせるため三条を京都に派遣した。この京都保存計画により、 御所、御苑、離宮、陵墓など皇室関連施設を管理する宮内省支庁が設置され、 関西所在の社寺を管理する社寺分局も設置され、賀茂の祭礼などが再興し、 御苑内には平安京の建設者である桓武天皇を奉祀する祠殿が建設された。 かつて公家町だった御苑には通路が区画され、樹木が植林され、 溝を改造して清水を疎通させ、不要な建物は除去し、修学院離宮も修復し、 二条城と桂宮別荘は正式に離宮と位置付けられた。
また御苑内と鴨川近辺には外国人向けの旅館として新たに洋館を建設することになった。 これらは逐次実行されて、京都の衰微を食い止める手助けとなった。

この計画にかける三条の情熱は、胸部神経痛を患って消化管狭窄で食事が喉を通らなくなった後も衰えず、 仕事をやめなかった。しかし、天皇は三条の発病を聞いて深く憂慮し、 侍医の伊東方成やエルヴィン・フォン・ベルツを三条のもとへ派遣して診察にあたらせた。 三条の体調は東京に帰れる程度には回復したが、東京に帰京した後に再び病状が悪化した。 三条を案じた天皇は、7月5日に三条邸を行幸して三条を見舞っている。 三条は二人の息子に支えられながら病床を離れて天皇の御前に進み、 親問の恩に浴した。三条の衰弱した様子を見た天皇は涙を流した。

その一週間後に美子皇后も三条を見舞うため三条邸へ行啓することを決めたが、 皇后として行啓すれば、礼を重んじる三条は、無理して病床を離れて送迎しようとするだろうから、 「一条忠香の女(娘)」という臣籍の肩書で訪問することにし、 送迎不要なのでくれぐれも病床に就いたままでいるようにと念を押してから訪問している。

7月19日、三条が危篤状態に陥ったとの報告を受けた天皇は、 宮内卿徳大寺実則を召して「朕親しく太政大臣兼左大臣と永訣(今生の別れ)せんと欲す」と述べ、 すぐに鳳駕を命じ、儀衛が整うのも待たずに三条邸へ向かった。 宮内少輔香川敬三が先に三条邸に入り、天皇陛下がお見えになることを三条に告げると、
三条は天皇の寵眷の厚きに感泣して落涙した。

天皇が三条の病床に到着すると、三条は身を起こして拝礼しようとしたが、 もはや身体が思うように動かせず、ただ合掌して感謝を示した。 その様子を見た天皇は落涙した。天皇は体調のことを三条に尋ね、 三条は奉答しようとするも、もはや声を発することすら叶わなかった。 その後数刻、天皇と三条は無言のまま見つめあうことで最期の別れを告げ、 天皇は三条邸を跡にした。同日に三条の辞表を受理し、翌7月20日に三条は薨去した。

天皇は三条の死を悼み、3日の廃朝(服喪のため天皇が政務を取らないこと)を決定し、 国葬に付すことを命じた。そして天皇の臣下として最高位である正一位太政大臣の地位を追贈した。 位記に付けられた勅語には「朕幼沖ニシテ阼ニ登リ、一ニ匡輔ニ頼ル、啓沃誨ヲ納ル、誼師父ニ均シ、 天憖遺セズ、曷ゾ痛悼ニ勝ヘン」(朕は幼少にして皇位を継ぎ、三条の補導を頼りにし、 その啓沃(思うことを主君に隠さず申し上げること)の教えを納めてきた。 朕にとって師にも父にも等しい存在だった。天は三条を残しておいてはくれなかった。 この悲しみにどうして堪えられようか。)とある。
一般に天皇の勅語は大半が常套句から成り立っており、 このような感傷的な勅語は極めて珍しい。 そこには恩師を失った天皇の本当の悲しみが強く表現されている。
(資料 Wikipedia明治天皇一部転用)

考察
前述にある文章は、岩倉具視を三条輝照に見立てて記載している。
岩倉具視は咽頭癌であるのに明治天皇の資料に記述されている内容は、 癌に一切触れていない。 また明治天皇の資料には、「胸部神経痛を患って消化管狭窄で食事が喉を通らなくなった」 とあるが、岩倉具視の資料には消化管狭窄については何も記されていない。 双方に共通する部分は、咽頭癌の症状は喉や耳にあり、喉に痛みが生じる点にあるが、 根本的に症状の内容は異なる。
喉とは、声を発する時に使う場所であり、大河内輝声を連想される。
したがって、国葬は岩倉具視に対して行われたと考えるが、 それ以外は「三条輝照」の内容であることを示している。 岩倉具視と比べて、三条輝照の方が自然な流れと感じるのではないか。 これに感慨深く、悲涙の想いである。

三条実美が流行性感冒で薨去した時に御製をお詠みになられた。
それが、「とこしへに 民やすかれと いのるなる わが世をまもれ 伊勢のおほかみ」 伊勢のおほかみとは、伊勢神宮を指すと同時に、故人の三条輝照を含め、 松田宗家、桓武天皇を祖として伊勢平氏維盛流を暗示していると考え、 このとき三条実美は太政大臣であり、 三条輝照も既にこの世を去り、更に三条実美まで失うとは、 明治天皇の悲痛な想いが素直に表れている句であると察する。

奈良松田家の系図にある重治の「治」は明治天皇をも示していた。 明治天皇の愛重の想いである。

私は忘れていた、「前奏曲 嬰ハ短調」作品3-2、別名『鐘』を自身初の発表会の場で奏で、 次に発表したい曲は、ピアノ・ソナタ第八番「悲愴」第二楽章であることを。 練習を始めた頃、次第にピアノが練習できなくなり、断念し悔しさに滲んだ。 すべきことの一つは、その曲を未来で三条至輝が世に奏でること。 それが私に課せられた三条輝照の追悼の意。

奈良松田家は背負うものが重すぎるが故に、 何も見えなくなったのだと確信する。 何れにせよ、無鄰菴も含め、避けられない重圧であり、天命である。 それらを理解し、前に進む過程が大切で、 松田宗家を知る機会を与えてくれた天に感謝を示す。


愛とは
喜び、怒り、哀しみ、楽しさを分かち合う者同士が、 共に経験し、愛が生まれ、愛を育み、見えない形である。 喜びだけでは、愛は育まれない。逆に怒りや哀しみだけでは愛は育まれない。 喜びがあり、怒り嫉妬があり、悲しみ苦しみがあり、そこに楽しみがあり、 それらから学び成長し、愛は無限に膨らんでゆく。 それは神から与えられる生きる糧でもあり、 奪われることのない、人間の生きる源である。


時代の終わり
松田宗家並びに松平三条家は、江戸幕府を創設、構築設計し、つまり創造した。 一つの黄金時代を越え、それが新たな力により、次の時代へと転換期を迎え、 それに三条家は同調し、新時代への政治の基盤を作り上げ、 輝照の死とともに身を引く意向を示したのだと私はそのように理解した。 江戸時代が三条家の時代であり、それが終わるに至れば、 また三条独自の新たな時代を作れば良いのだと考え、 三条家歴史の一つの区切りを設け、新たな始点として徳太郎に未来を託した。

京都保存計画を遂行するにあたる輝照の姿を、 とても有益に指揮官として輝いている様子が、 脳裏に焼き付くのは何故だろうか。 知るはずもない、遠い親族を。

至輝
哲学者
諱の由来
至輝の諱の由来は、三条実行にあり。
三条実行は、三条家の始祖であり、松田頼盛の娘千手姫は三条家に養子になり、 その後、天皇家に嫁ぎ、天皇との間に生まれた第七皇子の明久親王が、 鎌倉幕府八代征夷大将軍に任じられた歴史があり、 祖は、武家である表の顔を持ち、武士の威厳を保つため、 主体は公家である真相や天皇家の縁を公にできず、 政治的中心の地位を担ってきた。
転法輪三条家の縁は、頼盛の兄弟である「山科教行」と紐づけるため、 松田頼行も含め、山科家が出自である事実を表している。

したがって、三条実行から「ゆき」の言葉を賜り、 また、天より「至」の字を賜り、 祖につなぐ意味も含め、 三条家元来の通字の「輝」と合わせ「至輝(ゆきてる)」と命名。

「ゆき」は「雪」であり、 我が祖の松田宗家は、雪華模様を題材にした家紋の意図から、 転法輪三条家の家格「清華家」を表し、三条実行を指す。 至輝は冬季の生まれでもあり、我が諱に相応しいと解釈する。 「至」の字は行き着く果ての意であり、
計らずも、誕辰和色(誕生色)である深紫の別名、至極色に因縁し、 恐れ多くも、十三重石塔にある大勢至菩薩の「至」でもあることに付随する。


諱の考え方
謎を解くに至り、 今、己の名前を考えるとするならば、 三条至輝とするべきことなのかもしれない。 三条の祖の「輝」の通字をつなぐ意味で初めに入れたい思いに駆られた。 元名の「実」は、山科実教、松田信実や三条実行や閑院流の祖の通字であることに、 清華家を示すことの意味が強いように感じた。 また、親族に「真」の字が見えることから、「真実」を述べる真意を表し、 奈良松田家でも記述した、重要な関連がある真田信幸と関連して、 松平信綱を示す点おいて比重を置いている。 三条実美は三条輝照(大河内輝声)の建前上の太政大臣である事実も合わせて示している。
私が名前のことを父親に問い質すと、諱が変わるように想定し、 取るに足らない諱であることを伝えたく、「会社の人に考えてもらった」と、< 私に答えたのかと今は思う。

それを裏付けるのは、信綱から始まる三条家の歴代の諱を見ても、 閑院流や伊勢平氏維盛流から賜ったものと思われるようなものない。 信綱の初名である信実ぐらいであろうか。
このような点から「実」は妥当な字ではないよう考える。
例えば次の漢字からは、
「輝」「至」「実」の順の重要度と考える。
「輝」は松平三条家の元の通字。
「至」は己で考えた字で天からの賜りもの。
「実」は祖を示すために、仕方なく親がつけた諱。
と考えれば、重要度は前述の通りになる。


輝声
大河内輝声は、何故、三条輝照から「てるな」としたか、 大河内は、藤原魚名から、羽林家で四条流であることを示している。
ここから考えられることは、頼盛からの松田宗家が、 清華家であることを示し、当然ながら分家をすれば清華家ではなくなる。 宗家の立ち位置は謎多きことだが、公家(清華家)と武家を掛け持ちしていた と考えるのが正しいように思える。
もう一つの理由は、大河内を称したのは、官職が太政大臣兼左大臣に昇進したときで、 「輝聲(てるな)」は大河内の名字を別に持つときに併せ持った諱であること。 「聲」の漢字を選んだ理由は、三条輝聴(松平輝聴)から来るもので、 三条輝聴も太政大臣兼左大臣であったことを示す諱であると読み解ける。 「輝聲」「輝声」と旧字と新字があるのは内務省を新設したことを示すのと、 無鄰菴の創設した山縣有朋の名前がそれに倣い大河内輝聲を示している。 したがって、名前は二つあり、大河内の諱は二通り記述がある。
表 大河内輝聲(輝声)
裏 三条輝照
おそらく、年号にある昭和の意味の一つであると考えられる。
「照」から「昭」。
「れんが(連火)」の首部がなくなり、 「昭」は明らかにするの意で、次のことから宗家を指していると考える。 首部は老中首座の松平信綱。
連火は火が並んでいることから「明暦の大火」信綱の采配。
首部は無くなりは、政治から宗家は離れ、宗家を明らかにする意と考える。 「昭和」の意味は、大河内輝聲の系統、松田宗家が平和にしてくれたと解ける。 昭和の次の年号「平成」は、それを補う年号であることが見えてくる。

次に、輝声が創設した東京大学の所在地は次にあることから、
東京都文京区本郷7丁目3−1
大河内の羽林家の北斗七星と三は三条を示すことにあり、 本郷は「本郷信富」のことを指し、松田家の出自と思われる。 本郷信富は江戸幕府初代奏者番であり、 三条氏秀(戸田氏秀)は宮内事務官兼式部官とあるので、 奏者番は、城中における武家の礼式を管理する役職。 それに対し式部官は、儀式、交際及び雅楽に関する事務を行う。 礼式は儀式なので、環境は違えど、儀式に関する仕事という点において、 同じであることから、関連づけられている。
更に、文京区は、文久二年に従五位下・右京亮に叙任されたと輝声の資料にあるので、 そこから年号と右京亮とそれぞれ漢字を組み合わせ、文京区としたと考える。 以上のことからも、東京大学は大河内輝声が創設した確たる証である。


話は至輝に戻り、至輝は音読み「しき」。 「しき」という意味は様々あり、
「式」「四季」「色」「指揮」「士気」「死期」「識」
良い意味や悲しい意味もあるが、どれも素晴らしいと私は思う。

「式」一定の作法の伴う行事。 - 氏秀の職業であり、祖の東京大学の関連された事柄にある。
「四季」一年の間に移り行く春・夏・秋・冬の四つの季節。 - 松田祖の諱に関連することや家紋など。
「色」光によって目にうつる、物の感じの一つ。 - 祖の「輝」の通字に通ずる。
「指揮」人間の集団を指図し動かすことや音楽の演奏に指示。 - 左丞相家から連想される。
「士気」人が団結して物事を行う時の意気込み。 - それを統率する左丞相家。
「死期」命が終わる時。また、命を捨てるべき時。 - 歴代の短命さや長命など命の儚さや死時。
「識」物事を見分け、知り分ける。さとる。 - 正に松田宗家に相応しい言葉。

七つの「しき」を胸に刻む。

上杉謙信の家紋は「竹に雀紋」。
麻雀の「雀」にかけている。


逸話
・自立
三歳の頃だろうか、この出来事は鮮明に覚えている。< まだ母親はおんぶ紐を使い私をおんぶしていた頃、 お菓子屋さんで母親は店主の人と話し込んでいた。 私はおんぶされて話し込んでいることに退屈を覚えたのか、 近くにある、キャラメルを手に握り締め、 そのまま持っていればどうなるのだろうかと考え、 キャラメルを持ったまま帰宅した。
母親は帰宅した時に、お金を払わず持ってきたことに気づき、 後で払いにいくようなこと言ったのは定かではないが、 私に対して、仕方ないような態度を示し、叱りもしない。 私はその時母親に対して、言葉を発していないのも記憶している。
おそらく、キャラメルがさほど欲しい訳ではなく、
悪いことしている認識があり、このようにすればどのようになるか、 母親の反応を見たいと思うてたのかと考える。 何故かこの出来事は今もはっきり記憶にある。

私をおんぶ紐でおんぶし話し込むくらいなのだから、二歳か三歳が妥当である。 二歳だとしたら、驚くべきことなのかも知れない。 私の記憶では己の身体は大きくなく、二歳児程度でもあったように思える。
母親は叱っても仕方ないと考えたか、愛がないのか、はたまた、 関連づけられているから良いと思うたのかは定かではないが、 経験してきた中で、少なくとも愛がないのは確かな事実である。 仕方ないと考えたならば、二歳児ぐらいなのかと思えるが、 二歳児にしても、普通ならば「黙って持ってきてはダメでしょ」と軽く叱ると私は思う。
愛がない理由は、私に一切の関心がなく、 幼き頃、母親に公園に連れて行ってもらった記憶はない。 何が言いたいかは、子供のことよりも、己の行きたい場所に連れて行く。 例えそこが子供にふさわしくない場所であろうが連れて行く、例えば喫茶店であるとか。 私は店内で、ぐずるとか騒ぐとか泣き喚くなど記憶にないから、 その点連れて行きやすいのだと考える。
無論、心は母親ではない。
また、物心つく時から、何もしてくれなければ、己で解決しようという魂があり、 そのような点では、さほど手のかからない、幼少期であったと思えるが、 母親が私に対して関心がないことに、社会人になり過去を振り返るまでは、 それがおかしなことに気にも留めなかった。 それは、私が母親に頼らないから、当然の結果だと思うてたということ。 裏を返せば、私は両親に、物心つくこのことを試した時から、 基本的に何も期待をしていなかったと言える。 証に、親にどこかに連れて行ってほしいとか、何か欲しいと懇願したことはない。 親とどこか出かけた記憶は遊園地や海などあるが、親が希望する関連付けの場所である。 欲しいものについて、誕生日だけは、親が進んで何かを買ってくれていたので 欲しいものを親に告げていた記憶はある。 今思えば、それ自体も心からではなく、祖を示す関連付けのためであるが、 それにより、愛があると学生の頃は錯覚し、前述にある「母親が私に関心がない」流れにつながる。 補足すれば、ちょっとした玩具は、買い物のついでに寄って父親に買ってもらった記憶は多くはある。 例えばプラモデル。城のプラモデルを買ってもらった時に、確か一度だけ親に、 城巡りがしたいとその流れで言った記憶はあるが、実現しなかった。 それが唯一親に告げた行きたい場所であった。 その前に大阪城は一度だけ親の意志で記憶しているが、 私の希望を聞くならば、祖を示す城は川越城か春日山城になり、 双方とも遠く、現存しない上、何故川越城となるから流されたと解釈する。 その時期に父親と戦国時代について話した記憶があり、 私が希望とすることが関連付けにより、叶えられないから、 また、関連付け以外のことは話せないから、父親とは話さなくなったと今は思う。 無論、城巡りに関して催促した覚えはない。 大阪城は、再建した偽造犯徳川秀忠との関連付けである。 物心ついた時から、心は親に見切りをつけ、精神的に自立していたと考える。 話は戻り、いずれにしても、物心がつく年齢から、 二歳半から三歳半の間であったと推測できる。

何かを試すのは、松平信綱や大河内輝声の血を受け継ぐ魂が宿る証であり、 物心つく頃から親が親ではない何かを察し、 精神的に自立していたことは驚愕するべき人物像ではないか。 至輝の計り知れない将来性を感じされる事柄だと今は思う。

・上昇
高校生の時、一年一学期の中間と期末を比べて、 学年で中盤あたりだった順位を、十位内まで成績を上げ、それを卒業まで維持したこと。 高校の数学の試験で、二度三度百点を取ったことを記憶しているので、 私は理数系であるのだが、本来は文系も強いと思う。 高校自体のレベルは自慢できるような学校ではないので、 参考になるかは不明だが。
ストレスにより潰されたと言え、忘れ去りたい過去であり、 常に心の中にある思いは、魂と結果がかけ離れていた。 私はどのような人間なのか、環境に翻弄され、 迷走し、宗家の謎を解くことにより、全てが腑に落ちた。

・心像
非正社員で働いていた二十歳前後の頃、 宅配の仕事をしていた。 かき入れ時、二件か三件ぐらいまでは同時に配達する通常のことである。 当時、スマートフォンのような便利なものはなく、 店舗内で宅配先の地図を覚え、店舗から出れば基本は何も見ずに宅配を終える。 仕事に就いてから半年ぐらいは過ぎようとしていた頃のこと、 クリスマスや正月などは非常に忙しく、宅配物の山が出来上がる。 バイクに詰める量も限界はあるのだが、五件分の宅配物を一度に積み込み、 五件分の地図を頭に叩き込み、特に迷うことなく配達を終えた。 五件ある内の四件分は住宅街と家ばかり均等に建ち並んでいるため難関である。
更に、最後の一件は表札がなかったので、 それに誇張して結果的に最難関であったが難なく終えた。
ここから読み取れることは、最後一件まで正確に記憶しているという点である。
五件分となると、普通なら、地図を積んで宅配するのだが、 私には地図は不要である。 つまり、日々積み上げた経験が心像の働きにより、 それを可能にさせる能力。 因みに頭に叩き込む時間は、一分から三分程度。 方法は五件分の頭の中でのシミュレーション。

・死期
二十代後半、大阪から東京に活動の場を変え、 環境により多大なストレスを被り、つなぎの職場で突如崩れ落ち、 一時的に立てないようになった。 つなぎの仕事とは、店舗での商品の説明販売する仕事。 近くを通ったスタッフが声をかけてくれ、 救急車を呼ぼうかと言われたが、それを制して、 とりあえず、休むことになり、休憩室で一時間ほど休み程良くすれば、 違和感があるが、歩いて帰れるようなり、電車で帰宅に向かった。 最寄りの駅から、家までは十分程度、所々で座り休憩しながら帰宅した。 このような状況下の中で、未知なる激痛に襲われ、 まだ救急車を呼ぶことに躊躇うことの精神は、 侍であると同時に、死期を見計らった出来事である。
心は常に背水の陣であった。
生まれた時から、魂は「侍」であり、「公卿」である。

原因は四つの負の環境と当日三つの不運が重なり起こり得たと考える。 負の環境の一つは、新しい仕事に慣れていない三日目の出来事であること。 当日一つ目は、バイク通勤による警察の過剰取締による違反。 信号待ちの赤から青に変わる時、自動車は加速するのが遅いので、 信号待ちの車をパスして先に出発したら前に警察が待ち構えており、 違反切符を切られた。
なぜ切られたか、初めはよくわからなかったが、言われればそのようなことかと思い、 切羽詰まって故に、これが原因の一つ。 どのようなことかは、そこは中央線が黄色だからそれを右に超えて先に行ってはならない、 違反は違反なので仕方ないのだが、融通の効かないような理由である。 交通ルールも大切だと思うのだが、それに縛れすぎるのもどうかと思うのである。 それがストレス社会の一つの要素であると考える。 黄色線は、走行時に超えて追い越せして行けば危険だから、 黄色の線なのではないかと思うだが、 これも第三者の謀であればただの人殺しである。 第三者の場合の意図は、バイク通勤は危険だからやめせる手立てであると考える。 そうであれば、余計なお世話と言える。 当時愛用していたのがベスパ100で、このスクーターでは転倒したことはない。 スクーター自体倒したこともない。 何故なら、三速のギアチェンジがあり、かっ飛ばすようなスクーターでない上、 ブレーキも、エンジンブレーキで止まるようなスクーターで安全である。 反対に、エンジンブレーキでしか止まれないので無茶な走行はできなく、 ブレーキレバーやフットブレーキの使い方は、少しスピードを落とすのと、 最後に完全に止まる時ぐらいで、あまり効かないから急な対応はできないため、 無謀にかっ飛ばすような走行はできないと言える。
二つ目はそれにより遅刻し、遅刻すると言う危機感から来るストレスである。 三つ目は遅刻したことの理由を正直に担当のスタッフに話、 うちはバイク通勤は禁止しているとすごい剣幕で怒られたこと。 おそらくこれら一連の流れは第三者の謀かと思われる。 バイク通勤の禁止は、事前に聞かされておらず、 怒る程度が釣り合わないからである。 通常なら、外部から来ていることも考慮し、軽く注意を促すに留まる。 働いている最中、第三者と通じている時の友人が その日の午前中に私が働いている店に訪れた。 私は友人に体に違和感があると告げた記憶がある。 その後、午後の休憩が終わり、立てなくなると言う事態に陥る。 タイミングが良すぎるのでその友人は第三者の関連付けであると見え、 祖を示すため、寄り添うためだけの仲である。

入院し、見舞いに訪れた人は、当時つなぎの仕事は派遣で、 その担当者の方だけ、一度だけ、小説だったか、本を差し入れてくれたが、 おそらくこれも、第三者による関連付けであろう。
そして、私を東京へと導いたのも第三者によるもので、その時の友人を使い、 東京で働くことに興味を持たせ、推し量った。 就職を決めてから東京に移住し、試用期間の三ヶ月で切られた。 その間に営業の方が一億円でしたか、損失を出し、 その影響と思われる。
隣にいた人は、四時間から六時間ぐらい毎日のように残業していたので、 ブラック企業なのは間違いない。 私の業種では残業は日常的にあるが、それしても酷いように感じた。 無論、この就職した会社にも第三者の手は掛かっている。 その後のつなぎの仕事となる。 この時すでに異変は進行していた。

余談ではあるが、自宅マンションの前に停めていたスクーターを 駐輪違反の切符を切られたのも、おそらく、第三者の仕業である。 管理人などであれば、通報する前に一度警告の張り紙をするからである。 黄色の線と同じように、通常過剰な取り締まりを警察がするとは思えない。 また、時計はしない人間でしたが、七万程度の腕時計を購入し、 一ヶ月も満たない程度しか使用していなく、突如家から消えた。 神隠しにあったような状態でした。 これも第三者の仕業である可能性は高い。 それは、携帯はGPS替わりであり、時計として常に手元に携帯しなければ 都合が悪いからである。
スクーターはその後、殆ど乗りはしなかったが、 たまにスクーターを乗れば、また何の違反かはわからず、 後方から、バイクの警察に何やら止まりなさいと声をかけられ、 違反を切られた、矢印信号がらみではあったようだが、 今ではどのような違反であったかは思い出せない。 その後、スクーターを売ることにした。
この一連の流れも、スクーターを手放させる第三者の謀であると考える。 このようなことが子供の頃から日常的に起きているため、 人間関係も含め、不自然な環境の中、悪循環により、 常に多大なストレスが付き纏うのである。 故に、己の通常の一割も満たない程度の力しか誇示していない。 おそらく、職権乱用と考えるのが妥当である。

・覚醒
三十歳過ぎてピアノを習い出した。
人生の中で一番楽しいと思えるものに巡り会えた。
二年後の発表会で『鐘』を奏で、 人生の中で生きてる実感が籠る出来事である。 この時異変は最高潮を迎えようとしていた。 それ故に、神懸る魂が燻っていたと言える。

・目
祖を突き止め、謎を解き明かした洞察力と観察力。 何も根拠もなく、漠然と丹後の松田家が祖であると思い、 松田頼盛から大河内輝声、至輝までの系統であることを解き、 京都御所で、ただ変わった綺麗な松があると、 通常なら素通りする可能性の高い景色をカメラに納め、 六種の松とススキがその景観内にあることに気づき、 また、その意味を祖の松田家の流派と雑賀鈴木氏であると定義し、 それにより祖が広がり、主要な宗家の謎を解き明かした。 その中で鹿苑寺内にある龍門滝の謎の鹿苑寺流は、 特に確信はなく、系図がそのように見えたからその思考に至り、 錯綜とした謎が解けるにつれて確信に変わり、 転法輪三条家の本姓「藤原北家閑院流嫡流」と重ねている。
俯瞰から物事の本質を見抜く目である。

私が過去に成した形跡は、偶然でもなく、 紛れもない実力で、真実にある。
一、北朝鮮とアメリカ合衆国との初首脳会談への起因
一、コロナウイルス収束の手引き
一、環境問題定義と推進
一、黒色流行問題定義と抑制
一、ロシアによるウクライナ進攻及び戦争の和睦の説得
(一旦は両国の交渉が結束されると見えたが、交渉は決裂した)


流れ
我、この世に生まれ、物心ついた時から親を親であることを根底にある意識は認めていない。 不自然な環境の中、両親との身に詰まる会話も全くなく、生きてきた。 父親とは戦国時代の話を小学校低学年の時に話したぐらいで、それ以外はほぼ皆無に等しい。 母親に対しては、日常の片言の会話をする程度。 名前も不自然であり、受け入れられない環境がそこにあった。 親の素性を全く知らない上にも、 何を支えに生きて行けば良いのか、何を目的に生きて良いのか、 精神が不安定のまま迷走する日々が続いた。
年月が経ち、時に私は、己が何者であるかを知りたいと考え、 丹後松田氏系図と向き合い、謎を解き明かすにつれ、 己はただ、祖が創り出した亡霊と戦うていたと知るのである。

父親が親指を無くしたのは、関節に的に亡霊が追い込んだからである。 洗脳により、追い込まれた上での出来事。 それは、徳太郎から流れとしてつながり、その結果となる。 そのような出来事につながる苦い過去があるから、 私に先祖のことを話さなかった経緯は窺えるが、 原因はそうではなく、祖を示す程度の問題が全てで、 本質は、常に関連付けを強制的に行わせ洗脳し、出会う全ての人に 関連付けを何かしらの方法で遂行させる第三者の存在である。
心理的に第三者がいることにより、 祖を示さなけれならないと強くその衝動に駆られ、 第三者から出会う人にそれを手伝ってもらうように促させば、 先ずそれだけの付き合いにしかならない。 洗脳により全ての行動を祖を示すことに拘束される訳だから、 依存はしているが、本当にしたいことではないので、 人間関係も含め常に多大なストレスが付きまとう。

叔父は、第三者が叔父(叔父の家族)から離れ、第三者のいる生活と、 いない生活を経験し、いなくなってからの方が幸せであると 実感したから、二度と松田宗家に関わりたくないと考え、 宗家家族との絶縁関係を望み、音信不通になりえた。 無論、私には祖の謎を解くまでは意味が分からなかった。


哲学者
哲学者としての学問は、仏教をほんの少しばかり嗜んだ程度で、 全ては経験から得られた独自の悟りの世界である。 学問とは、経験の中で起きた現象などを伝えている目的で言語化しているため、 「百聞は一見にしかず」の言葉が示すように、経験より優るものない。

ウクライナ戦争は、ロシアが一方的に悪いように見えるが、人により受け取り方 や、脅威に感じる度合いなど様々である。 それら両国の価値観の違いにより、すれ違いが生じ、最終手段として脅威を無く そうと戦争に発展した例であると考える。 無論、国際の秩序を乱しているロシアに全ての非はあるが、何故そのように侵 攻しなければならい状況にまで至った道理を考えるも和解への道筋と捉える。 長引けば長引くほど被害が大きくなり、双方により深く亀裂が入れば憎悪は肥大 し、和解は困難となり手立てはなくなってゆく。
それ故、私は祈る思いであの和歌を詠んだものである。

隣国である以上、未来永劫隣国同志である。
住居による隣居同士である場合においても騒音などには気配りはするの同じで、 互いに配慮し合わなければらない運命に置かれる関係であるのは確かである。

私はどちらの味方のでもなく、平和の見方である。 裏を返せば両国の味方であり、双方の国の目線で物事を考え中立な立場でなければ 和解の説得はできない。
中立な立場とは、物事の道理の本質を理解できる神や仏の立場。 互いに譲れないものがあるから、戦争に発展し、解決できないでいるのだから、 経過と共にその気持ちを抑える事ができなく、その信念を無理に変えようとは 思わない。その結果の「祈る思い」であった。 平和的に解決するに越した事はないからである。

配慮とはどのようなことか、NATOの加盟を示唆する前に予め両国間の信頼性を 改善できていれば、ロシア国は強行には及ばなかった一つの要因として考えら れるが、両国の歴史的な問題もあり、クリミア半島も含め、単純な問題ではない のは確かである。
ウクライナ国側にそのつもりはなくても、ロシア国側から見たら、 歴史的背景から何を仕出かすかわからないとなり、脅威に受け取られ、 NATOに加盟すれば、どうすることもできないと考え強行に及んだと考えられる。 脅威をなくし、安心して暮らせる世の中をロシア国民は信じていたと思われる。 その深刻さは、ロシアの国人でなければ理解できない。 それ故、配慮に欠ける行動であるが、神ではない限り避けることのできない侵攻 であったと見解に至る。 無論、そのような心境を他国に説明しようもないから経済を犠牲にしてまで侵攻 に及んだと推察する。
ここに記した内容は戦争が起こる経緯であり、現状は長期にわたる戦争により、 両国の考えも多かれ少なかれ変動していると思われる。

要約すれば、ロシア国は経済制裁を承知の上侵攻し、短期間で主要箇所を制圧し ウクライナ国側に全ての条件を呑むようにと計算していたが、米国はじめとする 支援も含め、想像以上に苦戦を強いられ、泥沼化していった。 いずれにしても国際秩序を乱すロシア国側に戦争を起こした責任は全てあるのは 事実であるが、人と人が生きていく上での配慮も怠ってはいけないという教訓で ある真実も受け止めていただきたいと切に願う。

説得が功を奏して、 一度、両国の交渉が締結されかけたことは事実にあり、それを覆したのは、 その後のロシア国側の多数の戦闘機による威嚇にて、それに不快を感じた ウクライナ国側の態度が、ロシア国側の考えを一変させたと考える。 ロシア国側はウクライナ国を信用できるかを試したのではないかと推測でき、 その結果、信用できないと判断したと考える。
とは言え、その前に私はウクライナ国がロシア国の信用を得るため、 ウクライナがロシアに対して反発するような言動や行動は慎むようにと伝えていた。 私が強く念を押すことが出来ていれば、結果も変わっていた可能性は否めない。 悔やむ唯一の点である。
ロシア国がどのようの真意もって侵攻したかは定かではないが、 ウクライナ国をある程度、ロシアの思い通りに共存する関係にしておきたい という狙いが理由として挙げられるのではないか。

思い返せば、初期にロシア国側がウクライナ国に求めた条件は次に三つある。
「非軍事化」「中立国化」「NATO非加盟」
私が大統領の立場として考えれば、この三つの内飲めない条件は非軍事化である。 その考えはウクライナ国と同じであることを前提に、その後条件が二つ増え、 少しでもウクライナ側の良い条件で交渉が締結されることを願い、 説得に当たっていた。
それから、ロシア国がウクライナ国を信用していない理由は三つの条件からも明らかであり、 指導者が歳を取り病気も患えば、両国の歴史もあり、より一層心配症に陥るのであろう。 初めの三つの条件を見れば、NATO加盟よりもまずは隣国との関係性を重視していれば、 違った結果になった可能性として、私の話を踏まえれば誰もが思えるのではないだろうか。 リーダーによって志は十人十色であるが、国民を守ることをまず何よりも考えなければ ならないと考えると共に、リーダーを選ぶのもまた国民であるのだから全てはつながって いるのである。起こるべくして起こり、避けられない戦争であったと振り返る。

仏教を少し嗜んだのは、己の思想はどのように適応しているかを確かめる上で、 知識として唯識について少し学んだ程度である。 今後機を熟せば、既存の学問と向き合う機会を得、あらゆる学問を知りたいと 魂は私に訴えかける。 されど、すべき事から順に進むべき道筋を辿るのが道理である。

輝耡が残した言葉として、 「私たちが最も心がけるべきことは、 今現在正しいとされることを守り続けることよりも、 常により正しいことを追求する向上的な態度をもつことでなければなりません。」
これは大正という時代の言葉の表現であって、この言葉の本質は、 正しいことには理由があり正しいことであって、それをむやみ覆す意味ではなく、 向上心や常に何かを追求する姿勢を忘れてはならない。 簡単に言えば、物があって当たり前ではなく、< 何故、それがそこにあるのかを問うことにこの言葉の真髄はあると私は考える。

当然、哲学的に道徳的に考えても、人が不快と感じる行為は、名誉とはほど遠く 真逆の行為である。不快な事で名誉は屈辱であると誰もが想像できる事であり、 それ受けようとする人間は、そもそもその機会すらなく名誉に値しない。 それと、人が不快に感じることは未来に悪い影響を与えかねない。


模倣
著作物に関して、著作権の観点から鞄の模倣的なものを良いとすれば、 悪影響を及ぼすことが想像できる。 自然に重なるのであって、意図して重なるものではない。


未来
可能かどうかわからないが、京都大学文学部に無性に行きたくなった。 松平家物語を書く前に文学部で勉強し、より完成度の高いものを目指す主旨である。 あくまでも現在の心境なのでどう変わるかは不透明であるが、 松平家物語を作る上で、資料などの観点から京大文学部は理に叶う道筋である。 またその気になれば、松平家物語の派生とする物語も作れよう。 神の試練を乗り越えるのなら恐れるものは何もない。 全てが可能である感覚さえ、不思議と自然に湧いてくる。 中途半端なものは作りたくなく、やはり最高のものを目指すのは宗家の魂。

いずれにしてもやるべきことは次にある。
・三条ブランドの創設 デザイン・美術・服飾[経営者 デザイナー 写真家][モデル]+α[職人]
・冥月院の創設    デザイン・美術・建築[デザイナー 画家]+α[建築家]
・松平家物語の著書  歴史・文学[文学者 哲学者][京都大学文学部卒業]
・ピアノ       クラシック音楽[ピアニスト]+α[作曲家]


宇宙
進化と退化を兼ねて時を刻む
無常の空間 天に従う心
無量の運命 天に向かう心
無数の軌跡 未知なる星を
無数の奇跡 新たなる星を
未来を切り拓く心無限なり
偉大なる宇宙永久なるそら


展望
三条家第十七代当主
本名 三条至輝[経営者・哲学者・設計者]Sanjo Yukiteru
第三十一代松田宗家伝承者
別名 柊霞京[文学者・画家・写真家・設計者・ピアニスト・モデル]Hîragi Sakyoka

松田宗家伝承者
歴代


第三十一代松田宗家伝承者
柊霞京 Hîragi Kakyo[文学者]号「冥月」
常人離れした感性を持っており、独自の悟りの思想から様々な世の問題と向き合う。 Webデザイン講師としての経歴があり、特技や逸話として、写真、ピアノ、心像記憶、 和歌や詩など多彩な能力を見せ燻っている。
詳細 →

第三十代松田宗家伝承者
松田守 Matsuda Mamoru[技術者]
〈一親等自然血族〉

第二十九代松田宗家伝承者
戸田幸太郎 Toda Kotaro[呉服店主]
〈二親等自然血族〉

1878 - 1933 (明治・大正・昭和時代)
第二十八代松田宗家伝承者

吉野作造 Yoshino Sakuzo[政治学者]号「古川学人」
〈三親等自然血族〉
幼少時代から英才で知られ、「民本主義」という訳語の提唱者、「黎明会」の設立発起人。 東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。詳細 →

1872 - 1925 (明治・大正時代)
第二十七代松田宗家伝承者

上野英三郎 Ueno Eisaburo[農学者]
〈四親等自然血族〉
農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者であり、 東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。

1848 - 1882 (江戸末期・明治時代)
第二十六代松田宗家伝承者

大河内輝声 Okochi Teruna[知藩事]号「源桂閣」
〈五親等自然血族〉

1835 - 1901 (江戸後期・明治時代)
第二十五代松田宗家伝承者

福澤諭吉 Fukuzawa Yukichi[啓蒙思想家]諱「範」
〈六親等自然血族〉
豊前国中津藩に生まれる。五歳ごろから漢学と一刀流の手解きを受け始め、短期間で実力をつけ漢籍を修める。 学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。二十三歳の時に大坂の中津で緒方洪庵に蘭学を学ぶ。 万延元年から慶応三年の七年間にかけて幕府の遣欧米使節に参加し、『西洋事情』等の著作を通じて欧米文化を紹介。 慶応四年に慶應義塾を創設し、明治以降官職に就かず、位階勲等を受けなかった。 『学問のすすめ』はじめ多数の著書を残した。

1826 - 1886 (江戸時代後期)
第二十四代松田宗家伝承者

箕作秋坪 Mitsukuri Shuhei[洋学者]号「宜信斎」
〈三十八親等自然血族〉
美作国津山藩士の箕作阮甫に次いで、緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び弟子となった。 幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事し、三十三歳のときに幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝 となる。明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず福沢諭吉の慶應義塾と並び称される 三叉学舎を開設。秋坪は古賀侗庵に学んだ漢学の大家でもあった。教育者として、秋坪は二・三歳から六・七歳までの 児童を教育することが最も効果的だと主張し、教育能力を欠く家庭の父母、特に女子への教育の重要性を説いた。   

1823 - 1887 (江戸時代後期)
第二十三代松田宗家伝承者

矢野玄道 Yano Harumichi[国学者]号「谷蟆」
〈十三親等自然血族〉
伊予喜多郡の人で、上京して玉松操らと相謀り、国事に奔走した。維新後は神祇官判事、大学中博士などに任じられ、 国学界の指導者として活躍した。のち嫌疑を受けて幽閉、復帰後は宮内省御用掛を経て退隠し、学事に専念した。 青年時に学んだ老荘思想の影響により、名誉や高い地位を求めず、妻を娶る事なく一生独身で通し、一心不乱に 国学の研鑽に励み、一生を国学の著書の執筆に捧げた。『神典翼』『皇典翼』はじめ約七百巻にも及ぶ。   

1801 - 1837 (江戸時代後期)
第二十二代松田宗家伝承者

生田万 Ikuta Yorozu[国学者]号「大中道人」
〈十五親等自然血族〉
藩校で儒学を学び、文武両道に通じたが、陽明学を奉じるにおよんで師や友に疎まれるようになったと聞く、 数え二十四歳のとき、江戸で平田篤胤に入門して国学を学び、深く学んだのは日本の古典と易学。 平田塾の塾頭を務め、篤胤に「後をつぐものは国秀」と将来を嘱望されたが、著書の内容により藩から 追放処分を受けた。その後越後国柏崎で桜園塾を開き国学を講じた 著作に『岩にむす苔』『古易大象経伝』『大中道人謾語』『日文伝評論』『大学階梯外篇』『良薬苦口』。   

1793 - 1837 (江戸時代中期・後期)
第二十一代松田宗家伝承者

大塩平八郎 Oshio Heihachiro[儒学者]号「中軒」
〈十四親等自然血族〉
十四歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、二十五歳で与力となる。 奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行所与力・弓削新右衛門の汚職を内部告発したり、 破戒僧を処断したりなど、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。前述の弓削新右衛門の一件と、 切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが「三大功績」としている。 独学で陽明学を修めた大塩は自宅に洗心洞を開く。隠居後は学業に専念し、大塩の陽明学は「知行合一」 を中心思想に据えたもので、「中斎学派」と呼ばれる学派を形成するまでに成長した。

1733 - 1817 (江戸時代中期)
第二十代松田宗家伝承者

杉田玄白 Sugita Genpaku[蘭学医]号「九幸翁」
〈十三親等自然血族〉
青年期に家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬龍門に学んだ。 オランダ語で書かれた医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、安永3(1774)年『解体新書』 として刊行するなど日本の医学の発展に多大な貢献をした。

1730 - 1801 (江戸時代中期)
第十九代松田宗家伝承者

本居宣長 Motoori Norinaga[国学者]号「鈴屋」
〈十八親等自然血族〉
伊勢松坂の豪商・小津家の出身で、契沖の文献考証と賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をした ことで知られる。『古事記』の研究に取り組み、約三十五年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書 『古事記伝』を著した。門下生も数多く、門人とはなっておらずとも多大な影響を受けた者も少なからずいる。 代表作には、『古事記伝』のほか、『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戒慨言』などがある。「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。   

1690 - 1758 (江戸時代中期)
第十八代松田宗家伝承者

久留島義太 Kurushima Yoshihiro[数学者]号「沾数」
〈十一親等自然血族〉
義太は独学で数学者として大成した。中根元圭に更なる力を見出され、数学力がさらに向上した。 弟子の山路主住によれば天衣無縫で酒を愛し、地位や名誉を顧みなかったと聞く。延岡の藩主の内藤政樹に数学を 教えるのに酒を飲まなければ教えなかったと伝わる。和算家としての業績に関しては政務が多忙であっため、 知人や山路主住のような弟子により『久氏弧背術』『久氏三百解』などの書物を作成され、行列式のラプラス展開、 魔方陣の研究、整数論のオイラーの関数など極めて独創的な業績を残した。   

1657 - 1725 (江戸時代前期・中期)
第十七代松田宗家伝承者

新井白石 Arai Hakuseki[朱子学者]諱「君美」
〈十二親等自然血族〉
政治面は、一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政 を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。 幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという 伝説を持つ。独学を続けていた白石は、貞享三年(1686年)になって朱子学者・木下順庵に入門。
白石の本領は、歴史学とくに日本史の研究にあった。さらに言語学・西洋事情・地理学など多方面にわたり独創 的な業績を遺した。また漢詩人としても当代随一と言われ、著作に『折たく柴の記』『西洋紀聞』、編著に 『藩翰譜(はんかんぷ)』などがある。   


1640 - 1708 (江戸時代前期)
第十六代松田宗家伝承者

関孝和 Seki Takakazu[数学者]号「自由亭」
〈十三親等自然血族〉
関孝和は師につかずに吉田光由の『塵劫記』によって和算を独学したとされる。 孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図)の作成に関わったが、渋川春海により貞享暦が作られたため 暦学において功績を挙げることはかなわなかった。関の最大の業績は、天元術を革新して傍書法・点竄術 を確立したことである。関流の始祖として、算聖とあがめられた。明治以後、和算が西洋数学にとって代 わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。   

1596 - 1662 (江戸時代前期)
第十五代松田宗家伝承者

松平信綱 Matsudaira Nobutsuna[川越藩主]別名「知恵伊豆」
〈十四親等自然血族〉
行政では民政を得意としており、江戸幕府の幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。 また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。 幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに 発展させる基礎を築き上げ、信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である。

1574 - 1607 (安土桃山・江戸時代前期)
第十四代松田宗家伝承者

結城秀康 Yuki Hideyasu[北ノ庄藩主]通称「越前宰相」
〈十五親等自然血族〉
秀康は家康の次男として双子で誕生し、弟はすぐに亡くなったとされている。十歳になる頃まで宇布見村にて 中村源左衛門や本多重次のもとで育てられ武士としての心得や作法、武芸など叩き込まれたという。 武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯もよかったといわれている。 和睦の条件として羽柴秀吉の養子や結城家の養子へ数奇な運命を辿り、関ヶ原の戦い後、越前に移封され 越前松平氏の祖となる。

1567 - 1636 (戦国・江戸時代前期)
第十三代松田宗家伝承者

伊達政宗 Date Masamune[出羽・陸奥国大名]渾名「独眼竜」
〈十七親等自然血族〉

1534 - 1582 (戦国・安土桃山時代)
第十二代松田宗家伝承者

織田信長 Oda Nobunaga[尾張国大名]神号「建勲」
〈十七親等自然血族〉

1530 - 1578 (戦国・安土桃山時代)
第十一代松田宗家伝承者

上杉謙信 Uesugi Kenshin[越後国大名]渾名「越後の龍」
〈十六親等自然血族〉

1521 - 1573 (戦国時代)
第十代松田宗家伝承者

武田信玄 Takeda Shingen[甲斐国守護大名]別名「勝千代」
〈十八親等自然血族〉

1497 - 1571 (戦国時代)
第九代松田宗家伝承者

毛利元就 Mouri Motonari[中国地方大名]神号「仰徳大明神」
〈十七親等自然血族〉

1456 - 1456 (室町時代)
第八代松田宗家伝承者

北条早雲 Hojo Soun[戦国大名]別名「貞辰」
〈十八親等自然血族〉

1423 - 1471 (室町時代)
第七代松田宗家伝承者

北畠教具 Kitabatake Noritomo[伊勢国守護大名]官位「権大納言」
〈十九親等自然血族〉

1397 - 1456 (室町時代)
第六代松田宗家伝承者

斯波義敦 Shiba Yoshiatsu[九代・十三代管領]別名「勘解由小路武衛」
〈二十親等自然血族〉

1356 - 1400 (南北朝・室町時代)
第五代松田宗家伝承者

大内義弘 Ouchi Yoshihiro[五カ国守護大名]別名「香積寺殿秀山仁実」
〈二十一親等自然血族〉

1326 - 1370 (南北朝時代)
第四代松田宗家伝承者

六角氏頼 Rokkaku Ujiyori[近江国守護大名]別名「三郎」
〈二十二親等自然血族〉

1299 - 1359 (鎌倉・南北朝時代)
第三代松田宗家伝承者

仁木頼章 Niki Yoriaki[将軍足利尊氏執事]別名「二郎三郎」
〈二十三親等自然血族〉

1269 - 1359 (鎌倉時代)
第二代松田宗家伝承者

佐々木宗氏 Sasaki Muneuji[御家人]別名「京極宗氏」
〈二十四親等自然血族〉

1243 - 1282 (鎌倉時代)
第一代松田宗家伝承者

今川国氏 Imagawa Kuniuji[地頭]通称「四郎」
〈二十五親等自然血族〉


架空の人物
第六十二代北斗神拳伝承者
霞拳志郎 Kasumi Kenshiro[北斗神拳伝承者]通称「閻王」
常人離れした嗅覚を持っており、残された臭いから人物を特定したり、後を追ったりすることが可能。 また、料理に仕込まれた毒やチョークについた人の匂いなども嗅ぎ分けることができるほか、 直観像記憶ができたり、ピアノが得意だったり、大学の講師であったりと、様々な才能を持っている。
第六十一代北斗神拳伝承者
霞鉄心 Kasumi Tessin[北斗神拳伝承者]


※梵字のサクは大勢至菩薩。
※個々の生没年はある程度適当に設定していると思われる。
※上野英三郎の家紋は二宮尊徳と同じで第一子に徳太郎がおり、
上野英三郎の第一子である吉野作造は松田徳太郎であることを示す。
兼松義隆と共同著書していることから松田と兼ねている事実を示す。
※第二十九代から二代続く松田は「田」の数を節目の江戸時代(三条家)に二つ、 戦国時代以前(松田家)に二つと祖に合わせ、計六つとなる六角。
家紋が重複している、第二代佐々木宗氏と第二十三代箕作秋坪に合わせ、二代分 同じように家紋を同じとしている。また祖と同じ松田の名字と松田宗家の家紋を 使用することにより、皆松田宗家伝承者である事実を伝え二重にある家族を示し、 仁木を示す。更に「田」が二の三乗で真の家名である「三条」を表す。
その意図は、「条」の意味にある「縦横に区切った道筋」が「田」の漢字に見立て、 「三条」であることを導き出している。
因みに「条」の漢字の成り立ちに右手の象形がある、即ち左脳は右手を動かし、右脳は 左手を動かすため、右手の象形は左大脳半球から左大臣を示す。
※ここには記されていないが氏秀と氏重の偽名は、第一代今川国氏と第二代佐々木宗氏 を上下逆に示す。氏が最初にあるのは六角氏頼も併せて示している。
※北斗神拳伝承者霞鉄心は松田守を指し、関孝和と関連性を持たせるため、 関と同じ一文字の名字、柊霞京に変わることを暗示している。
※霞拳志郎の直観像記憶とは逸話にある心像(直観像)のことであると考える。

大河内松平家
関連系統


自然血族
1848 - 1882 (江戸末期・明治時代)
高崎藩大河内松平家第十一代当主 松平輝聲

大河内輝声 Okochi Teruna[知藩事]号「源桂閣」
〈五親等自然血族〉

1835 - 1901 (江戸後期・明治時代)
高崎藩大河内松平家第十代当主 松平輝聴

福澤諭吉 Fukuzawa Yukichi[啓蒙思想家]諱「範」
〈六親等自然血族〉

1793 - 1841 (江戸時代後期)
大河内松平宗家第八代当主 松平正敬

渡辺崋山 Watanabe Kazan[武士・画家]諱「定静」神道無念流
〈七親等自然血族〉
崋山は田原藩の家老職に就任し、紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画、助郷免除など 事件を解決。天保の大飢饉の際には、予め食料備蓄庫を築いてたことや、『凶荒心得書』という対応 手引きを著して采配し、誰も餓死者を出さず、指導の功績として唯一幕府から表彰を受けている。
画家として、崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業 を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするための足掛かりとなった。 代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂 日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるととも に、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。
西洋画の立体、質、遠近などの面による構成を、線を主体とした東洋画に取り入れた功績は非常に大 きく、その作品には、国宝「鷹見泉石像」をはじめ、多くの重要文化財、重要美術品が残っている。 弟子に椿椿山、福田半香、平井顕斎など崋山十哲や、剣術家の金子健四郎など。


1760 - 1835 (江戸時代中期・後期)
大河内松平宗家第七代当主 松平正路

華岡青洲 Hanaoka Seishu[外科医]諱「震」
〈八親等自然血族〉
紀伊国那賀郡名手荘西野山村に生まれる。 京都に出て、吉益南涯に古医方を三ヶ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科を一年学ぶ。 さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」を学んだ。医学書や医療器具を買い集め、 その中でも特に影響を受けたのが永富独嘯庵の『漫遊雑記』であった。
患者が受ける耐えがたい痛みを解決しなければ不可能であり、麻酔法の完成こそ、癌の医療を進歩さ せる最重要の課題と考えた。手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開 発を始め、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌手術を成功させた。


1734 - 1801 (江戸時代中期・後期)
本庄氏高富藩第五代藩主 本庄道信 父・松平正温

山片蟠桃 Yamagata Banto[商人・学者]別名「長谷川芳秀」
〈十一親等自然血族〉
幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、明和八年(1771)に24歳の若さで番頭となり、傾いていた経営を軌道に乗せ、桝屋を繁盛させた。 財政破綻した仙台藩に建議し、差し米(米俵内の米の品質チェックのために米を部分的に抜き取ること)をそのまま集めて利用し、無駄を浮かせて節約し、藩札を発行するなどした。 藩札を発行した代わりに、従来の金貨の金を差し米の節約で捻出した資金で大阪に輸送し、それを利殖に回して巨額の利益を上げた。 仙台藩の財政はこれによって再建され、彼は大名貸しの金を回収することができたと言う。文政二年(1819)には二度目となる幕府からの表彰を受ける。 その一方で学問に励み、晩年には失明という障害を乗り越え、五十半ばから著作にとりかかった主著『夢の代』を死の前年に完成させた。

1745 - 1818 (江戸時代中期)
大河内松平宗家第六代当主 松平正升

伊能忠敬 Ino Tadataka[天文・地理学者]号「東河」
〈九親等自然血族〉
上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門家で生まれ幼名は三治郎。 下総の佐原で事業家として成功した。その後、四十九歳で隠居し、五十歳のときまさに五十の 手習いの諺を地で行くかの如く江戸に出て、天文学、暦学を学び始めた。 十七年をかけて日本全国を測量、七十三歳で死去。
その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を 明らかにした。


1732 - 1798 (江戸時代中期)
大河内松平宗家第五代当主 松平正温

安島直円 Ajima Naonobu[財政家]号「南山」
〈十親等自然血族〉
江戸の新庄藩邸において生まれ、当初は万蔵と名付けられた。 父は安島五左衛門の次男・庄右衛門清英で、本来ならば部屋住みとなるところ、才能を見出 され80石で藩の召し抱えとなり、別家を建てた。
暦暦制定に協力。直円の研究は独創的なものが多い。和算に長け、同門の藤田定資をして 「当代の名人」と言わしめ、江戸時代の数学の発展に寄与、後世の人は関孝和と並んで和算 の二大焦点と評した。


1690 - 1758 (江戸時代中期)
松平伊豆守系大河内松平家第四代当主 松平信祝

久留島義太 Kurushima Yoshihiro[数学者]号「沾数」
〈十一親等自然血族〉

1657 - 1725 (江戸時代前期・中期)
松平伊豆守系大河内松平家第三代当主 松平信輝

新井白石 Arai Hakuseki[朱子学者]諱「君美」
〈十二親等自然血族〉

1640 - 1708 (江戸時代前期)
松平伊豆守系大河内松平家第二代当主 松平輝綱

関孝和 Seki Takakazu[数学者]号「自由亭」
〈十三親等自然血族〉

1596 - 1662 (江戸時代前期)
松平伊豆守系大河内松平家第一代当主 松平信綱

松平信綱 Matsudaira Nobutsuna[川越藩主]別名「知恵伊豆」
〈十四親等自然血族〉


高崎藩大河内松平家
1844 - 1913 (江戸時代末期・明治初期)
大河内松平宗家第十代当主 大河内輝剛 実父・松平輝聴

根岸信五郎 Negishi Shingoro[剣術家]諱「資剛」神道無念流
〈七親等自然血族〉
藩主・牧野忠恭から、同藩士・小野田伊織と共に江戸での剣術修行を命じられ、 文久三年(1863)春、江戸へ出て神道無念流の道場・練兵館に入門。斎藤新太郎(二代目斎藤弥九郎)の指南を受けた。同門には桂小五郎や渡辺昇など明治維新の志士もいたが、 桂は安政五年(1859)に長州藩に帰藩したので根岸が入門した当時は既に練兵館にいなかった。慶応元年(1865)、免許皆伝を授けられる。同時に師範代に任ぜられたともいう。
明治維新後、警視庁撃剣世話掛、皇宮警察撃剣世話掛、宮内省済寧館御用掛を歴任し、明治二十七年(1894)慶應義塾剣術部の師範となる。


大河内松平宗家
1835 - 1869 (江戸時代後期)
大河内松平宗家第十代当主 松平正和 実父・松平正敬

土方歳三 Hijikata Toshizo[幕臣・新選組副長]雅号「豊玉」天然理心流
〈八親等自然血族〉
新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、現代では鬼の副長の通称が有名である。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、 またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。
天然理心流試衛館に入門した翌年の万延元年(1860年)に刊行された『武術英名録』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に土方歳三の名が掲載されており、既に一定の実力に達していたことが窺える。 ただし、天然理心流道場では歳三は中極位目録までの記録のみが現存している。
中極位とは、中国地方、或いは、中国など祖を示す関係性を表すものと考え、それ以上の記録は意図的に残していないと考察する。


1798 - 1864 (江戸時代後期)
大河内松平宗家第九代当主 松平正義 実父・松平正路

男谷信友 Otani Nobutomo[幕臣・剣術家]通称「精一郎」直心影流男谷派
〈九親等自然血族〉
信友は文化二年(1805)、八歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術十二世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始めた。さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。文政六年(1824)、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。
兵学、槍術など武芸のほか、書画にも優れ、教養、人格とも抜群の風格ある剣客。 あまりの強さに異常と評されるほど腕が立つが、決して傲慢な態度をとらない温厚な人格者としても知られ、応対は親切丁寧で高ぶるところがなく、「君子の剣」や「幕末の剣聖」と呼ばれることもある。



高崎藩系
1793 - 1855 (江戸時代後期)
大河内松平家高崎藩美濃守 松平輝茂 父・松平輝延

千葉周作 Chiba Shusaku[武士・剣術家]諱「成政」北辰一刀流始祖
〈十五親等自然血族〉
周作五歳のころ、故あって父は周作だけ連れて気仙沼を出奔し、縁あった宮城県栗原郡荒谷村の斗瑩稲荷神社境内に居を構える。周作は、ここで地元の剣士・千葉吉之丞から北辰夢想流を学んだ。 十五、六歳の時に、父と共に松戸に移り、小野派一刀流中西派の浅利義信に入門した。 浅利家から、一刀流中西道場に通い、中西子正(浅利義信の師匠)、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、後に浅利義信の婿となって、浅利又一良と名乗った。 周作は、一刀流組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻(浅利の養女)を連れて独立して、北辰夢想流と小野派一刀流中西派を合法して、北辰一刀流を創始した。

1797 - 1879 (江戸時代後期)
大河内松平家高崎藩豊前守 松平輝実 父・松平輝延

千葉定吉 Chiba Sadakichi[剣術家]北辰一刀流
〈十五親等自然血族〉
幼少時から兄の周作と共に父から剣術の教えを受けた。青年期は兄と行動を共にし、玄武館の創設と運営にも協力した。 そして、兄の玄武館の運営が軌道に乗ったのを見計らって、自身も桶町に玄武館の分室道場を構えた。 定吉の道場は周作の道場と区別するため「桶町千葉」または「小千葉」と称されたが玄武館と千葉道場は一体のものであった。 定吉の剣の腕は高く評価され、嘉永六年(1853年)には鳥取藩の江戸詰の藩士として召し抱えられ、撃剣取立役(剣術師範)に任じられた。 桶町千葉道場の創設者。

1785 - 1858 (江戸時代後期)
高崎藩大河内松平家摂津守 松平輝健 父・松平輝和

鷹見泉石 Takami Senseki[蘭学者]諱「忠常」通称「又蔵」
〈十五親等自然血族〉
調役給仕として出仕して以降、目付、用人上席、番頭格などを経て、天保二年(1831)に二百八十石の家老へ昇進した。 大坂城代、京都所司代、老中などの要職を務め、泉石は藩主に近侍して全国各地へ同行し、 これら職務の補佐に務めた。利位が大坂城代であったときに起こった大塩平八郎の乱においては鎮圧にあたっている。 「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と言われるほどに、その能力は賞賛を受けた。 幕政に当たる譜代大名の重臣という立場から、早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努めた。 また川路聖謨、江川英龍などの幕府要人、渡辺崋山、桂川甫周などの蘭学者、箕作省吾などの地理学者、司馬江漢、谷文晁ら画家、砲術家の高島秋帆、 海外渡航者の大黒屋光太夫、足立左内、潁川君平、中山作三郎ら和蘭通詞、オランダ商館長のスチュルレル(フランス語版)など、 当時の政治、文化、外交の中枢にある人々と広く交流を持って、洋学界にも大きく寄与した。

1716 - 1784 (江戸時代中期)
高崎藩大河内松平家下野守 松平輝行 父・松平輝高

与謝蕪村 Yosa Buson[俳人・文人画家]俳号「夜半亭」画号「謝寅」
〈十三親等自然血族〉
摂津国東成郡毛馬村に生まれた。 二十歳の頃、江戸に下り、早野巴人に師事して俳諧を学び、日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。 俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見るが、江戸の俳壇は低俗化していた。 その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲に招かれたもので、 同地の俳人の真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴らと交流。『はしだてや』という草稿を残した。 宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。 また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。 独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。 絵は独学であったと推測されている。


1683 - 1755 (江戸時代中期)
高崎藩大河内松平家第三代当主 松平輝規 父・松平輝貞

香川修徳 Kagawa Shutoku[医師・儒学者]画号「修庵」
〈十三親等自然血族〉
十八歳のとき京都に遊学し、古医方の大家後藤艮山(こんざん)について医学を修めるかたわら、 師の勧めに従って伊藤仁斎(じんさい)に師事して儒学を修めた。五年にして古今の医書を読破し、古医方の説を大いに広めた。 儒医一本説を唱え、聖道と医術とはその本を一にすることを力説した。五運六気説をつとめて排斥し、 実験に基づく医方を行うことを旨とした。『一本堂薬選』『一本堂行餘医言』などを著し、その門人は四百余人を数えたという。

1658 - 1716 (江戸時代前期・中期)
高崎藩大河内松平家第二代当主 松平輝貞 父・松平信興

尾形光琳 Ogata Korin[画家・工芸家]諱「惟富」
〈十四親等自然血族〉
尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれ、主に京都の富裕な町衆を顧客とし、 王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。 また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。

1658 - 1716 (江戸時代前期)
高崎藩大河内松平家初代当主 松平信興 父・松平信綱

山田宗徧 Yamada Sohen[茶人]茶号「今日庵」宗徧流茶道始祖
〈十五親等自然血族〉
東本願寺末寺である京都上京二本松長徳寺の住職・明覚(長徳寺四世)の子として長徳寺に生まれた。 母は山田監物の娘。僧名は周学(しゅうがく)。 父から寺の住職職を継いだが、還俗して茶道を志すようになり、小堀遠州に入門。さらに正保元年(1644)、十八歳のときに千宗旦に弟子入りする。 承保元年(1652)、宗旦の皆伝を受け、京都郊外の鳴滝村三宝寺に茶室を建てた。 このお祝いに宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られた。また大徳寺の翠巌和尚からも「四方庵」の茶号を贈られている。


伊豆守系
1793 - 1855 (江戸時代後期)
大河内松平宗家第九代当主 松平信璋

遠山景元 Toyama Kagemoto[旗本・江戸南町奉行]通称「金四郎」
〈十七親等自然血族〉
西ノ丸小納戸頭取格、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行などを経て、天保十一年(1840)江戸北町奉行に着任する。 翌年将軍徳川家慶臨席の公事上聴で、特に将軍から褒詞を受け、信任を得る。 天保改革のなかで倹約方針を採る老中水野忠邦と諸策で対立し、株仲間解散令の布達を遅延した理由で差控を命じられる。 同僚矢部定謙の不正取調を命じられ、同年十二月の矢部の罷免後、鳥居忠耀(耀蔵)が着任するが、 水野に忠実に厳酷な取り締まりを行う鳥居に対して、遠山はなお抵抗したため、 同十四年二月大目付に転任、市政から外された。この経緯から「遠山の金さん」として名奉行像が定着することとなる。

1787 - 1856 (江戸時代後期)
大河内松平宗家第九代当主 松平信宝

二宮尊徳 Ninomiya Sontoku[経世家・農政家]通称「金治郎」
〈十六親等自然血族〉
少年時に父母を失い、伯父の家を手伝い、苦しい農耕をしながら論語、大学、中庸などを独自に学び、青年期に家を再興する。 その後、小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功した。この経験をもとに独特の農法、農村改良策(報徳仕法)により、小田原、烏山、下館、相馬藩などのおよそ六百村を復興する。 農村の生産力に応じて分度を定め、勤倹を説き、その結果としての富を推譲という社会的行為に導く報徳思想を広めた。代表著書に「三才報徳金毛録」その他。すぐれた門人が多く、幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を行い農村の振興に益した。

1769 - 1850 (江戸時代後期)
松平伊豆守系大河内松平家第八代当主 松平信順

佐藤信淵 Sato Nobuhiro[経世家・農学者]号「椿園」
〈十五親等自然血族〉
出羽国雄勝郡に生まれ、幼少期の信淵は「バカフジ屋敷のバカオジ」と呼ばれる悪童であった。しかし、文章の読み書きや武芸には優れていたという。 江戸に出た信渕は十六歳で美作国津山藩の藩医であった宇田川玄随に入門し、動物学・植物学・医学・本草学など蘭学の諸学を学び、 木村泰蔵からは農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範に及びを学んだ。 その後兵学や対外政策について学び、また、上総国山辺郡大豆谷村に潜居して農業に従事し、農学の各種調査・実験・観察をくり返した。
本業は医師で、富国勧農、海防政策を諸藩に説いた。宮崎安貞・大蔵永常と並び「江戸時代の三大農学者」と称される。主な著書に『天柱記』『種樹園法』『物価余論簽書』などがある。


1776 - 1843 (江戸時代後期)
松平伊豆守系大河内松平家第七代当主 松平信明

平田篤胤 Hirata Atsutane[国学者]号「大壑」
〈十四親等自然血族〉
秋田郡久保田城下の中谷地町に生まれ、生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学や神道とは無縁であった。 篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後二年経った享和三年のことであった。妻の織瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した。
国学を学び神代文字の存在を唱え、尊皇復古を主張する神道説を説く。その思想は、平田学派を形成し、明治維新の精神的指導力となった。活動範囲は古典研究をはじめ多岐にわたる。 復古神道(古道学)の大成者であり、国学の四大人の中の一人として位置付けられている。


1730 - 1781 (江戸時代中期)
松平伊豆守系大河内松平家三河吉田藩初代藩主 松平信正

曾我蕭白 Soga Shohaku[絵師]号「蛇足軒」
〈十三親等自然血族〉
蕭白の特徴は、部分の細密で精確な描写能力と対象の動性の的確かつ大胆な把握にある。構図における大胆な空間把握、 顔料の性質を熟知した上になりたつさまざまな独創に支えられた鮮やかな彩色は、相共に強烈な不安定さを生み出し、見るものを魅了しまたおののかせる。 江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた蕭白の絵は、仙人、唐獅子、中国の故事など伝統的な画題を、同じく正統的な水墨画技法で描いていながら、 その画題を醜悪、剽軽に描き出すなど表現は型破りで破天荒なものであり、見る者の神経を逆撫でするような強い印象を与えずにはおかない。

1723 - 1776 (江戸時代中期)
松平伊豆守系大河内松平家第六代当主 松平信礼 母:側室・蘭

大田南畝 Ota Nanpo[文人・狂歌師]諱「覃」
〈十三親等自然血族〉
江戸の牛込中御徒町で、御徒の大田正智と母利世の嫡男として生まれ、 下級武士の貧しい家だったが、幼少より学問や文筆に秀でたため、十五歳で江戸六歌仙の一人でもあった内山賀邸に入門し、札差から借金をしつつ国学や漢学の他、漢詩、狂詩などを学んだ。 十七歳に父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続け、十八歳の頃には荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事した。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、など著作し、 特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。


1723 - 1776 (江戸時代中期)
松平伊豆守系大河内松平家第五代当主 松平信復

池大雅 Ike Taiga[文人画家]雅号「霞樵」
〈十二親等自然血族〉
京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中、 六歳で素読を始め、七歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。
日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富み、大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。


1690 - 1758 (江戸時代中期)
松平伊豆守系大河内松平家第四代当主 松平信祝

久留島義太 Kurushima Yoshihiro[数学者]号「沾数」
〈十一親等自然血族〉

1617 - 1691 (江戸時代前期)
松平伊豆守系大河内松平家 松平吉綱

土佐光起 Tosa Mitsuoki[絵師]
〈十五親等自然血族〉
大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、 江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、 後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。 また画題の面でも、風俗画や草木図などそれまで土佐派が描かなかった題材を取り上げ、清新な画風を作り出し、土佐派の再興に成功した。


信定系
1620 - 1694 (江戸時代中期)
信定系大河内松平家 松平斐章

佐山検校 Sayama Kengyo[筝曲作曲家]諱「本一」
〈十六親等自然血族〉
柳川と同じ門人であった浅利検校と共に三味線に新しい弾き方を取り入れた撥である「片撥」を使った組歌を創始した。 同時期に三味線奏者の杵屋勘五郎の門人ともなるが、不明である。これが長歌の始まりである。この技法を用いた組歌を多く作曲し、一躍名を馳せた。

1672 - 1733 (江戸時代中期)
信定系大河内松平家 松平信望

井戸正明 Ido Masaakira[幕臣・代官]通称「平左衛門」
〈十六親等自然血族〉
江戸で生まれ、元禄五年(1692)に幕府勘定役の井戸平左衛門正和の養子となる。 正和の死後、遺跡を継ぎ、六十歳にして第十九代大森代官に着任し、天領の銀山領六万石を支配した。直後に笠岡代官も兼務した。 享保の大飢饉による領内の窮状を目の当たりにし、領民たちを早急に救うため幕府の許可を待たず年貢の減免、商人から寄付金を募り、更に官金や私財の投入などを断行した。 栄泉寺で薩摩国の僧の泰永からサツマイモが救荒食物として適している話を聞き、医師の青木秀清が蘭方医学を学ぶため長崎に留学し、サツマイモの栽培法を習得し持ち帰ったことにより栽培が成功する。
サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により、正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられた。


1607 - 1650 (江戸時代前期)
信定系大河内松平家 松平信定

柳生三厳 Yagyu Mitsuyoshi[武士・剣豪]通称「十兵衞」柳生新陰流・柳生流始祖
〈十五親等自然血族〉
大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪。徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、 後に許されて書院番を務める。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)の発展に努めるが、家督を継いで程なく急死した。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。著書に『月之抄』、『武蔵野』など。


堅綱系
1783 - 1855 (江戸時代後期)
堅綱系大河内松平家第七代当主 松平信敏

仁阿弥道八 Ninnami Dohachi[陶芸家]別号「法橋」
二代高橋道八
〈十九親等自然血族〉
京焼、御庭焼を代表する陶工、陶芸家の内の一人。あまりに優れた眼と技巧から天才陶工としての名声を獲得し、文献に記されている京都周辺の藩主、大名、豪商や寺院など以外にも各地の顧客へ調進していたと考えられている。 十一代永楽善五郎(保全)、兄弟子である青木木米、弟である尾形周平と共に幕末京焼の名工として知られ、京焼の幕末三名人とされる。

1767 - 1833 (江戸時代後期)
堅綱系大河内松平家第六代当主 松平信孟

青木木米 Aoki Mokubei[絵師・陶芸家]別号「聾米」
〈十八親等自然血族〉
京都に生まれ、若くして高芙蓉に書を学び、頭角を現す。 清の朱笠亭が著した『陶説』を読んで感銘を受けて作陶を志し、奥田頴川に入門する。 陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付、交趾などその作域は幅広い。中国古陶磁への傾倒から、 中国物の写しに独自の世界を開いた。文人画(南画)系統に属する絵画にも秀作が多い。京焼の幕末三名人とされる。

1745 - 1825 (江戸時代中期・後期)
堅綱系大河内松平家第六代当主 松平信行 父・関盛時

寺田宗有 Terada Muneari[兵法家・剣客]号「天真翁」天真一刀流始祖
〈十七親等自然血族〉
剣術界に竹刀稽古が広まり、主流となっていく中で、宗有はこれに反発し、もっぱら木刀による形稽古を基盤とした組太刀の研究に打ち込んだ。 のちに中西道場の宗家四世を継いだ中西子正やその弟子筋に当たる千葉周作らも組太刀を宗有から学ぶようになった。 『日本剣豪100選』の著者、綿谷雪は寺田宗有について、のちに彼の門人となった白井亨とともに形剣術では日本最終の名手とし、 組太刀で天下無敵といわれた人物は、この両人以後には出現しなかったという。

1728 - 1780 (江戸時代中期)
堅綱系大河内松平家第五代当主 松平信成 父・松平信晴

平賀源内 Hiraga Gennai[本草者・蘭画家]諱「国倫」
〈不明自然血族〉
幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で十三歳から藩医の元で本草学を学び、 儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。宝暦二年(1752)頃に一年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。 天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、 人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。

1697 - 1769 (江戸時代中期)
堅綱系大河内松平家第四代当主 松平信応 父・松平信定

賀茂真淵 Kamono Mabuchi[国学者・歌人]雅号「淵満」
〈十六親等自然血族〉
『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重(万葉主義)を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、 「日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿である」として、古道説を確立した。「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。

16xx - 17xx (江戸時代前期・中期)
堅綱系大河内松平家第三代当主 松平信連 父・天野長顕

渋川春海 Shibukawa Harumi[天文暦学者・囲碁棋士]諱「都翁」
〈不明自然血族〉
江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。 数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、和漢の書および垂加神道を山崎闇斎に、 土御門神道を土御門泰福に学んだ。二十一歳(1659)の時に天体観測に基づいて中国四国地方の各地の緯度・経度を計測した。 春海は貞享暦の作成者であり、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張し、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、 三度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。
著書に天文暦学においては『日本長暦』『三暦考』『貞享暦書』『天文瓊統』、神道においては『瓊矛拾遺』がある。


1618 - 1694 (江戸時代前期)
堅綱系大河内松平家第二代当主 松平信義 父・大河内重綱

菱川師宣 Hishikawa Moronobu[画家]称「浮世絵の祖」
〈不明自然血族〉
それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。 初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文十一年(1671)刊行の噺本「私可多咄」(無款)また浮世絵役者であるとされ、 翌寛文十二年(1672)、墨摺絵本「武家百人一首」においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。
その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、 天和三年(1683)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において百種以上の絵本や五十種以上の好色本に筆をとっている。


1622 - 1685 (江戸時代前期)
堅綱系大河内松平家第一代当主 松平堅綱

山鹿素行 Yamaga Soko[儒学者・軍学者]諱「高祐」
〈十五親等自然血族〉
山鹿流兵法及び古学派の祖である。
六歳で江戸に出て、寛永七年(1630)、九歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、十五歳からは小幡景憲、 北条氏長の流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。 朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文五年(1665)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、 一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている。 その後、江戸で弘前津軽家と平戸松浦家の支援を受け、「積徳堂」と称する自宅で山鹿流古学(聖学)を教えた。天和元年(1681)、平戸城の模型を造る。 貞享二年(1685)八月九日、病に臥す。

柊霞京
文学者

第三十一代松田宗家伝承者

Hîragi Kakyo - Current

名称の由来
柊霞京は、三条至輝の別名(芸名)で松田宗家を伝える通称に宛てた名称。
「霞京」の由来は、祖と至輝のゆかりの場所にあり、 場所が大阪府の東側にあることから祖の右京大夫の官職に由来し、 クロスの観点から東側である場所、つまり、左京大夫は左大臣で「東京」。 右京大夫は「京都」になり、共通する「京」の字を賜る。

「霞」とは、意味は「空気中に浮かんでいる細かい粒子のため、遠くがはっきり見えない現象」 「物がぼんやりと見えること」「朝焼け、夕焼け」「艶かしい」「遥か、遠い」など。 はっきり見えない人生と重ね至輝そのものの現象を表す。 次に漢字の成り立ちは、上部の作りが「雨:天の雲から雫が滴り落ちる」形象と、 下部の作りが「未加工の玉」形象、「削り取られた崖」形象、「両手」形象から考える。 両手は左脳、右脳。祖の左大臣、右京大夫。

「天の雲から雫が滴り落ちる」形象は、雲は雪を降らせ、雨になり、霞みゆく。
「未加工の玉」形象は、真珠で岡寺の院号真珠院、十三重石塔。
「削り取られた崖」形象は、一度崖から落ちたような経験。また背水の陣の心を意味する。
「両手」形象は、右大脳半球、左大脳半球、双方に極意を持つ。 左脳は理論的、右脳は芸術的。

「柊」とは、京都府京都市中京区柊町は高倉通がある。岩倉具視の祖を辿ると高倉永家につながる。 漢字の成り立ちは「大地を覆う木」象形(木)と「糸の最後の結び目の部分」の象形(冬)からなり。 冬に美しい花をつける木「ひいらぎ(十一月~十二月に白色の小花を密生し、実を結ぶ)」を意味する「柊」。 至輝は十二月生まれと元名に由来があり、季節において雪から雨になり霞ゆくと掛けている。 また、矢羽柊糯の花が終わった後の実の状態であるが写真を撮影している縁もあり、その雄大さや美しさを 目の当たりにしている。矢羽柊糯は中国原産ではあるが、日本ではクリスマスホーリーとして市場に出回る。
矢羽柊糯の花言葉は「清廉」。
柊の花言葉は「用心深さ」「あなたを守る」「保護」「剛直」「先見の明」「歓迎」。

柊は魔除けに効果があり、平安時代から節分に「柊鰯」を飾る風習がある。 鬼は、柊のトゲとイワシの臭いが苦手とされているため、門戸に柊の小枝と焼いたイワシの頭を飾り鬼を 払っていたと伝わる。
柊の種類は「五色柊」「縞柊」「柊木犀」「鬼柊」「亀甲柊」「丸葉柊」。 矢羽柊糯はモチノキの仲間で、矢羽根のような形で、ヒイラギのような棘のある葉をつけることからなる ため、矢羽柊糯はモチノキ科であって、柊はモクセイ科となり全く別の植物である。 とは言え、「柊」の名をもつには変わりない。


柊霞京
柊霞京(ひいらぎかきょう)は三条至輝とは異なり、文学者、ピアニストやモデルなど 芸術面で活動する時の通称とし、松田宗家を伝える役目を担う名称。 上杉謙信の「けんしん」に重ね、「霞京」の諱部分は全て音読みとしている。 「ケンシロウ」は「霞拳志郎」に、読み仮名をカタカナにより 音読みを強調していると考え、「霞」は母音が同じ理由から先代が関連付けた「巽」に宛てた字である 可能性が見える。「巽」は後ほど説明するとして、「霞」は「関孝和」の「関」に宛てた字であるのは、 歴代宗家で一文字の名字は他に誰もいないため、第三十一代至輝が「柊」の一文字の名字を称することに より一文字の名字が二つとなり、十三重石塔の逆流で「秋」から「春(玄)」。
そして、雪華模様の「冬」となる。
いずれにしても、「柊」は、吉野作造の家紋は「抱柊紋」ゆえに、柊は自然に導かれ、我が別名の名字で あると祖を示す最後のピースとなる。つまり、祖から賜り受けた名字である。 その証に、「柊」を奈良松田家の系図にある「奈良糸」の糸を繋ぎ、「終」に変わる。 これは、松田宗家の秘密にすることの終わりを告げる意味が込められている。 「奈良糸」は岩倉具視と女系でつながり、柊町を示す高倉通の高倉永家。それは三条正永。 「柊」は祖から至輝への伝言である。

第三十一代松田宗家伝承者 柊霞京
The 31st head of the Matsuda family Kakyo Hîragi

「関孝和」と文字数も合わせ、「柊霞京」の三文字により対になることで完成する。

諱に「霞」の字を選んだのは全体のバランスの美しさや意味によるものが全ての理由で、当然漢字は誰かと重なるものであり、霞拳志郎は偶然に重なっただけである。それよりも、「霞」の由来は、十二親等の自然血族にあたる池大雅(信復)の雅号「霞樵」にあった。 十二親等と池大雅の誕生年1723年で、至輝の誕生日と紐づけている。

柊霞京という名前は、己で考えたとは言え、偶然も重なり祖の関連された事柄から導き出された別名であるが、あたかも祖が私のために用意していた名前のように感じる。
何故なら、霞という字は三条家第十七代当主・三条至輝と同じ十七画の漢字であるため理由に一つあり、 また霞は、春霞、夏霞、秋霞、冬霞と、どの季節においてもその現象は起こり言葉がある。季節とは、三春、三夏、三秋、三冬から成り立ち、一年を十二分する月。 それに合わせるように、関孝和(三春)、生田万(三夏)、松田守(三秋)、そして、柊霞京(三冬)で一年の四季が完成する。 このことから、「至輝(四季)」と合わせ、次の項目に挙げる熟語からも天命により導かれた名前であると確信する。

実は、先ほど完成したと思われる四季は不完全である。 その疑問を解くには、十三重石塔に鍵がある。 十三重石塔の概念では、秋(紅葉)から春(蛙の鳴き声)で、 それは三条輝照(てるあき)から大河内輝声である内容から、歴史に登場する順の「矢野玄道(春)」と「箕作秋坪(秋)」は、時系列の逆流の秋から春である事実を示す。
何が不完全かは論理的に欠ける点にあり、柊霞京は冬があるので三冬なのは確定されている。 そこから、冬の反対は夏になり、そこで柊霞京と姓と名が文字数的に合致している関孝和に着目する。逆流の定義から時系列に逆らい生田万から関孝和の流れとなり、 「生田万(三春)」「関孝和(三夏)」「松田守(三秋)」「柊霞京(三冬)」の順番となる。
何故逆流するのか、その更なる真実は、五月〜六月に田植えをし、九月から十月に収穫する。田植えは五月に行うと平田篤胤の「幽冥論」から指示がある。 「冥」を英語に変換すると現れる"May"の五月である。 現在使用されている太陰太陽暦から五月は春に該当し、田がつく「生田万」は「春」になり、逆流する。
よって、生田万は田植えをする季節「三春」にあたり、生田万、関孝和、松田守、柊霞京と順になり、柊は祖から賜り受けた別名の名字であることが証明され、別名は漢字三文字でなければならないことが定義づけられている。 それは元名である「松田実」から逆流した「柊霞京」である。
時系列を逆流ができるのは、山羊座の守護神、時間の神・クロノス(土星)の能力。



架橋
霞京に別の字を与えた別意の由来。 架橋とは、化学反応における架橋(かきょう、Cross-link)を指し、主に高分子化学においてポリマー(重合体) 同士を連結し、物理的、化学的性質を変化させる反応のことである。 簡単に言えば、既存の高分子上の部位またはグループが関与する反応によって、新しい特質した物質を生み出す ことができる。「クロス」という点において、鹿苑寺流など祖のクロスを示す。 また、新たな可能性を見出す意味も含め、裏の由来として相応しい。


橋架
架橋に逆流系別意の由来。 意味は脳にある橋(きょう)を指し、上部の中脳や大脳と下部の延髄以下の部分の連絡路で、三叉神経、 顔面神経核、蝸牛神経核が通っており、その大脳との連絡を意味する。 松平信綱、関孝和、天野信景から時(祝)の人である祖の数学者の久留島義太から分岐する血筋、国学者の本居宣長の流れが一つ、 自然血族である数学者の安島直円からの流れが一つ、伊豆守系の文人画家の池大雅が一つとして三つある。 また、数学者の関孝和から陶芸家の仁阿弥道八へつづく系統がある。
左大脳半球は論理的で数学者や国学者などを指し、 右大脳半球は芸術的で画家や陶芸家などを指す。それらの四つに分岐する祖から左脳、右脳の架け橋となる。
箕作秋坪も三叉学舎の塾の名称から脳の三叉神経と関連性を持たせ、左大臣や右京大夫、蘭学医杉田玄白との関係性を示している。それを被せるように農学者の上野英三郎の農学。
「クロス」と「十」の根源は、松田の「田」であるが、松田唐花や二重直違などのクロスした家紋から考えられ、脳のクロス働きである「左脳が右手を動かし、右脳が左手を動かす」と結びつけている。


号 冥月 Meigetsu
冥月は次の事柄から由来する。
冥王は「巽」の八卦の五星から得られる名称、冥王星の「冥王」。 ギリシャ神話では冥界の王ハーデース。 ギリシア神話の農耕の神・クロノス(Kronos)の子である。
類似する事柄で、 生まれた日が十二月二十三日であることから、山羊座。 山羊座は、時間の神・クロノス(Khronos)に象徴される土星に守られているとされている。 クロノスは古代ギリシャの時間の神で、ひげと翼を持った姿で描かれる。クロノスは過去から現在、 未来への時間の進行を司ると考えられており、自然の周期や季節と結びついている。 あまり情報がない、謎の時間の神・クロノス。
冥界は冥府とも表記し、大阪府の「府」と掛けていると窺え、大阪府で生まれた場所を冥府と考え、 冥界は死後の世界で、土星の「土」を持つ至輝は、音読みで「シキ(死期)」として関連された「冥王」の「冥」。 時間の神・クロノスは自然の周期や季節と結びついていることから「シキ(四季)」の親密にある、 一年を一二分にした期間の「月」をとり、「冥月」と号する。
クロノスは祖の先手姫の養子先、三条公親と徳大寺公親の諱の縁から来ている関連された事柄と考えるが、 その縁を担いで、冥界の神・ハーデースと時間の神・クロノスの夢の架橋、その名称とは、 「冥月神ハーノス(Netherworld space-time god Hanos)」。

号は学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名で、一概には言えないが、作家や画家などそれぞれ 別に号を定め、多才な活躍を見せればそれ伴い増えていくと考える。

至輝の場合は号は一つとし、
作家・画家・写真家の名称
柊冥月 Hîragi Meigetsu

設計者・モデル・ピアニストの名称
柊霞京 Hîragi Kakyo



三つの家紋
扇揚羽蝶(三条揚羽蝶)
種別 三条ブランドと柊の定紋
創作 揚羽蝶のオリジナル家紋
意味 伊勢平氏を象徴する蝶紋と松平信綱の功を祝しての三つ扇に由来
人物 柊霞京

柊雨龍
種別 柊の副紋
創作 雨龍のオリジナル家紋
意味 「水龍」であることから、水神として崇められ、雨龍に雨乞いをしたと伝わることから、 岡寺の農民を苦しめていた悪『龍』を善龍に改心させた伝説に由来する。
人物 柊霞京

三条蝶
種別 三条家の家紋
創作 三条家伝来の家紋
意味 久明親王を守る三人の御家人とその伊勢平氏維盛流松平氏
人物 三条至輝


霞蝶々魚
Pyramid butterflyfish
スズキ目チョウチョウウオ科に分類される魚類の一種。
和名は海中が霞むほど大きな群れを作ることに由来する。
英名は白の模様をピラミッドに喩えている。
・全長は約18cm
・頭部は褐色
・体側の大部分と尾鰭、腹鰭は白い
・背鰭や臀鰭は黄色い
生態
チョウチョウウオ科の魚の中では珍しくプランクトンを主に食べる。
水深60mまでの潮の流れが速いドロップオフで大群を作る。
柊霞京の家紋が蝶紋である一つの理由である。


文学者
文学者は、作家や詩人など文学作品を作る人の総称で、 文学を研究する人も文学者と呼ぶ例もある。
北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因も、私の哲学的な詩から始まり、 孤立し精神的に苦しむよりも、他国と向き合う姿勢の方がより良き未来になることを 心理上において経験させ、初首脳会談に導いた例である。 哲学的の詩も、哲学者や文学者としての証である。 文学面においては、松平家物語を著書することが今後の最大の目的となり、 更なる向上が期待される。


巽
「巽」は先代が関連付けしていた地名であり、 城東区今津中(現 鶴見区)から南の位置にある巽北、巽中、巽西、巽東、巽南 と生野区にあり、松平四家との関連付けがされている。
意味は織田信長の松田達頼から、蛇目紋、鹿苑寺龍門滝、山縣有朋などあり、 巽の字にある「共」は、共存する意味で「己」が二つある事由も含め、生野区から 特に上野英三郎と吉野作造の二重の家族を示し、 三条輝照と山縣有朋の親友の関係 も表し、更に鹿苑寺流も表現している。
「巽」は「翼」に変わることが連想されるのでないだろうか。 松田の「田」を「巽」の中に与える、田を持てば「己」は夢を持ち未来に羽ばたく 意味で「羽」に変われば「翼」になり、「日本航空協会」も暗示する。 また、「翼」の成り立ちの「異」のつくりは、人が鬼払いにかぶる面をつけて両手を あげている象形から「節分(二月三日)」と「鬼」を表している。
上部にある「羽」つくりは、鳥の両翼の象形から「中」の字は竹中重治を指し、 上杉謙信の竹に二羽飛び雀の家紋を示す。
ここで思い出して欲しいのは、漢字が変化したことから十三重石塔の梵字キリークの変化身 千手観音菩薩が浮かび上がり、つまり、二重に家族がある歴代宗家である。
「巽」の旧字は「巽」で「己」から「巳」になり、十二支の第六は巳年であることから、 蛇目紋を暗示し「六」と「旧(九)」から鹿苑寺流を表し、また「巳」の意味に方角では南南東、 時刻では午前十時を指すことから「南家」と「東家」と「十」、「とき」を紐づけている。 またこの南東の方角を、中国の八卦で巽(そん)ということから、日本では「たつみ」と読み、 中国と「八」また「孫(そん)」にも紐づけている。このようなことから十二支の辰巳を基盤の 一つとして関連された事柄を思案しているように考える。


諱の真実
先代は、「実」の字は祖を示すためでもあるが、別名を考える上で漢字三文字が至輝の課せられた使命であり、名字と諱が逆流し、 名字一文字、諱二文字とすることの意味を、謎を解くに至り訴えている。 また、大河内松平家にある二重の家族から、「至」の漢字が多数見られることから、 「実(みのる)」は「至(いたる)」であり、至は真の名字である三条の諱で、祖父の幸太郎から思考し、「幸」の字を、誕生日の冬の季節から「ゆき」 と読ませ、雪を「至(ゆき)」の字に使用し、三条家の通字「輝」と合わせ「至輝(ゆきてる)」とし、それを「四季」の熟語をはじめ「しき」と読ませたい狙いがあると考察する。
松田の「松」は「木」と「ハもしくは八」と「ム」が形としてあり、「ム」と「無」にかけ、仏教と重ねていると考える。
「至」の字は「松」と同じく「ム」があるため、「無」も祖の資料から多数見られることからも選ぶべき漢字であり、 「終わり(柊)」と「至る」と掛けて、逆流(クロス)の法則から、三条と表上堂々と名乗る機を祝して、新たな三条家の通字である真実を祖は私に訴えているように思える。
「至」は見た目も「王」に少し似ている点においても、天皇家との関わりを示すことの意味もあると考える。
「三条」と「至」の字の相性が良い点においても、祖が描いた通字である意向を有力視する。

「霞」の字は、春の季語になっており、新しい始まりを意味する印象につながる。そのため、終わりから始まり、つまり、「柊(冬)から霞(春)」と「至る(終わる)から輝く(始まる)」となるため、 陰と陽の関係も含め、「三条至輝」と「柊霞京」の名称は、祖の意向や趣旨に適合すると言える。
漢字自体には悪い意味ない、霞はぼやけて不明瞭な点ぐらいであろうか。 いずれにしても、私が名称を決める上で重視することは、一に見た目の美しさ、二に音の響き、三に意味で、それらを総合的に見た美しさである。


名称関連
祖の家紋や名称を示す関連性を次に一覧する。

「柊」
・吉野作造 家紋 抱き柊紋 「柊」漢字

「霞」
・渡辺崋山 「崋」読み方
・池大雅 号 霞樵(かしょう) 「霞」漢字

「京」
・山田宗徧 茶号 今日庵(きょうあん) 「今日」読み方
・仁阿弥道八(二代高橋道八) 「橋」意味

吉野作造
政治学者

第二十八代松田宗家伝承者

Yoshino Sakuzo 1878 - 1933

略歴
吉野作造は至輝の曽祖父にあたる。
一八九十年に三条輝照の四男として東京に生まれる。
幼少時から英才として知られ、高校在学中に洗礼を受け 浸礼派を生涯の信仰とする。
東京帝国大学法科大学政治学科卒業の上、 東京帝国大学院を進学し一九〇六年に卒業後、 東京帝国大学工科大学講師に就任。
大学政治学科を卒業の際、銀時計を受領した。
銀時計とは、成績優秀者(首席・次席)に対して、 天皇からの褒章として銀時計が授与された。
講師を経て一九〇七年に、中華民国北洋大臣の長男の 家庭教師として、天津に赴任する。
一九〇八年から一年間北洋法政專門学堂の教鞭を執る。
一九〇九年に帰国し、東大法科大学助教授に就任する。
翌年一九二十年から三年間の欧米留学。
一九二十三年帰国後、東京大学で政治史講座を担当する。
初回の講義は、「現代政治的進化の外観」と題し、社会主義の現在や過去か ら各国における回答の情勢を詳述した。

一九二十五年、法学博士号を授与される。

北洋法政專門学堂とは、直隷総督兼北洋大臣袁世凱氏の新政推進事業の一環 として創設され、高等なる法律、政治、理財の専門学を教授し完全なる政法 的人才の養成を目的とする。
政治の正科が三年、法律のニ科が三年、計六年の修業過程の上、政治のエリ ートを養成する学校である。

松平三条家歴代
人物一覧と主な政策
松田宗家 Matsuda-soke
       公家(羽林家)                        武家(別名)
松田宗家第一代  松田頼盛(1243 - 1282)             [第一代松田宗家伝承者]  今川国氏
松田宗家第二代  松田頼直(1269 - 1329)             [第二代松田宗家伝承者]  京極宗氏 佐渡守
松田宗家第三代  松田頼貞(1299 - 1359)権中納言         [第三代松田宗家伝承者]  仁木頼章 左京大夫
松田宗家第四代  松田頼近(1326 - 1370)権中納言         [第四代松田宗家伝承者]  六角氏頼 近江守
松田宗家第五代  松田頼源(1356 - 1400)権中納言         [第五代松田宗家伝承者]  大内義弘 左京権大夫
松田宗家第六代  松田頼仲(1397 - 1434)権大納言         [第六代松田宗家伝承者]  斯波義淳 左兵衛督
松田宗家第七代  松田善通(1423 - 1471)権大納言 正二位     [第七代松田宗家伝承者]  北畠教具 権大納言
松田宗家第八代  松田頼済(1458 - 1520)権大納言         [第八代松田宗家伝承者]  伊勢盛時 左京大夫
松田宗家第九代  松田信頼(1497 - 1571)太政大臣兼左大臣 正一位 [第九代松田宗家伝承者]  毛利元就 陸奥守
松田宗家第十代  松田家頼(1521 - 1573)検非違使別当 従三位   [第十代松田宗家伝承者]  武田晴信 信濃守
松田宗家第十一代 松田頼信(1530 - 1578)左大臣 従二位      [第十一代松田宗家伝承者] 上杉輝虎 弾正少弼
松田宗家第十二代 松田達頼(1534 - 1582)太政大臣 正一位     [第十二代松田宗家伝承者] 織田信長 右大臣
松田宗家第十三代 松田頼勝(1567 - 1636)検非違使別当 従二位   [第十三代松田宗家伝承者] 伊達政宗 権中納言
松田宗家第十四代 松田頼通(1574 - 1607)左大臣 正二位      [第十四代松田宗家伝承者] 結城秀康 権中納言

三条家 Sanjo-ke
       公家(清華家)                        伝承者(別名)
三条家第一代   三条正永(1596 - 1662)太政大臣兼左大臣     [第十五代松田宗家伝承者] 松平信綱 侍従
三条家第二代   三条輝綱(1620 - 1672)太政大臣兼左大臣     [第十六代松田宗家伝承者] 関孝和 数学者
三条家第三代   三条信輝(1660 - 1725)太政大臣兼左大臣     [第十七代松田宗家伝承者] 新井白石 朱子学者
三条家第四代   三条信祝(1683 - 1744)太政大臣兼左大臣     [第十八代松田宗家伝承者] 久留島義太 数学者
三条家第五代   三条輝高(1725 - 1781)太政大臣兼左大臣     [第十九代松田宗家伝承者] 本居宣長 国学者
三条家第六代   三条輝和(1750 - 1800)太政大臣兼左大臣     [第二十代松田宗家伝承者] 杉田玄白 蘭学医
三条家第七代   三条輝延(1776 - 1825)太政大臣兼左大臣     [第二十一代松田宗家伝承者]大塩平八郎 儒学者
三条家第八代   三条輝承(1817 - 1839)左大臣          [第二十二代松田宗家伝承者]生田万 国学者
三条家第九代   三条輝徳(1820 - 1840)左大臣          [第二十三代松田宗家伝承者]矢野玄道 国学者
三条家第十代   三条輝充(1822 - 1862)左大臣          [第二十四代松田宗家伝承者]箕作秋坪 洋学者
三条家第十一代  三条輝聴(1827 - 1860)太政大臣兼左大臣     [第二十五代松田宗家伝承者]福澤諭吉 啓蒙思想家
三条家第十二代  三条輝照(1848 - 1882)太政兼左大臣 内務卿 公爵[第二十六代松田宗家伝承者]大河内輝声 知藩事 
三条家第十三代  三条輝耡(1872 - 1924)内閣総理大臣 公爵    [第二十七代松田宗家伝承者]上野英三郎 農学者
三条家第十四代  三条輝重(1890 - 1940)内閣総理大臣       [第二十八代松田宗家伝承者]吉野作造 政治学者
三条家第十五代  三条輝治(19xx - 19xx)             [第二十九代松田宗家伝承者]戸田幸太郎 呉服店主
三条家第十六代  三条輝政(19xx - 20xx)             [第三十代松田宗家伝承者] 松田守 技術者
三条家第十七代  三条至輝(19xx - )  哲学者          [第三十一代松田宗家伝承者]柊霞京 文学者

大河内松平宗家 Okochi Matsudaira-soke
       公家(羽林家)                        別名
大河内松平宗家五代松平正温(1725 - 1782)弾正忠          [父三条信祝・一男松平正升]安島直円 財政家
大河内松平宗家六代松平正升(1742 - 1804)弾正忠          [父松平正温・一男松平正路]伊能忠敬 天文学者
大河内松平宗家七代松平正路(1765 - 1808)弾正忠          [父松平正升・一男松平正敬]華岡青洲 外科医
大河内松平宗家八代松平正敬(1794 - 1832)織部正          [父松平正路・二男三条輝聴]渡辺崋山 画家


三条 SANJO(ブランド)
第一代経営者  三条至輝(202x - )     第一代三条設計伝承者  柊霞京 ピアニスト
第二代経営者  三条至永(20xx - )     第二代三条設計伝承者  柊拳志郎 拳法家 
※ 二代目は例えばの話で別名は伝承者のみ「柊」姓を継いでゆく。諱は己で自由に名付ける。


主な政策と成果
毛利元就  政治体制 毛利両川体制 朝廷・幕府との関係 女子の資産相続
織田信長  朝廷政策 宗教政策[比叡山を焼き討ち]
      経済・都市政策[楽市・楽座令] 軍事組織体制
松田頼通  朱印船制度の創設(1600-04)
松平信綱  幕藩体制の完成(1639-48) 島原の乱の鎮圧(1637-38)
      慶安の変の鎮圧(1651) 承応の変の鎮圧(1652)
      明暦の大火の対応(1657)
三条正永  禁教令(1612,1614) 武家諸法度(1615)
      禁中并公家中諸法度(1615) 鎖国令(1633)
      諸士法度(1635) 田畑永代売買禁止令(1644)
三条輝綱  寺院法度(1665)
三条信輝  生類憐みの令(1687)
三条信祝  正徳の治(1709-16) 享保の改革(1716-35)
三条輝高  諸経費削減(1750-71) 倹約令の発布(1751-83)
      公事方御定書(1754) 御手伝普請(1757)
      拝借金の停止(1771,1783) 上知令(1764,1769)
      長崎会所の健全化(1742-48) 通貨政策
三条輝和  蝦夷地開発(1785-1821) 御用金令(1783-86)
      貸金会所(1786) 寛政の改革(1787-93)
福澤諭吉  慶應義塾大学創設(1858)
三条輝聴  天保の改革(1841-43)
三条輝照  賛生館創設[九州大学病院](1867) 師範学校創設(1872)
      内務省新設(1873) お茶の水女子大学創設(1875)
      広島大学創設(1874-1948) 官設鉄道創設(1872)
      札幌農学校創設[北海道大学](1876) 東京大学創設(1877)
      京都保存計画(1882)
上野英三郎 農業工学の創始者
三条輝耡  日清戦争指導者(1894-95) 日露戦争指導者(1904-05)
      法案[航海奨励法・造船奨励法・民法・日本勧業銀行法]
      京都大学創設(1897) 福岡医科大学創設[九州大学医学部](1903)
      東北大学創設(1907) 奈良女子大学創設(1908)
      九州大学創設(1911) 日本航空協会創設[帝国飛行協会](1913)
      京城大学創設(1924)[高宗 ソウル大学創設(1946)]
吉野作造  大正デモクラシー(1912-23)
三条輝重  第一次世界大戦指導者(1916-18) シベリア出兵(1917)
      対華外交(1917,18) 教育政策(1919)
      交通政策 選挙制度の改正
      講和問題(1919) 名古屋大学創設(1939)
松田徳太郎 岡寺十三重石塔の寄進(1918)
三条至輝  北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因(2019)
      新型コロナウイルス収束の手引き(2020)
      黒色流行問題定義と抑制(2020-23)
      環境問題定義と推進(2021)
      ロシアによるウクライナ進攻戦争和睦の説得(2022)


内閣総理大臣
三条輝耡 第五代内閣(1892-1896)代役 伊藤博文 第十一代内閣(1901-1906)代役 桂太郎
     第十二代内閣(1906-1908)代役 西園寺公望 第十三代内閣(1908-1911)代役 桂太郎
三条輝重 第十八代内閣(1916-1918)代役 寺内正毅 第十九代内閣(1918-1921)代役 原敬
     第二十代内閣(1921-1922)代役 高橋是清 第二十一代内閣(1922-1923)代役 加藤友三郎
     第二十二代内閣(1923-1924)代役 山本權兵衞 第二十三代内閣(1924-1924)代役 清浦奎吾


備考
・先代が至輝に話した武将は明智光秀と伊達政宗であり、親族に「政」の字が見える ことから真の名前は「三条輝政」であることが導き出される。 また、伝承者十三代目は伊達政宗であり、先代が第三十代なので、 「十三重石塔」と「三」が「二重」と、足して「六」を表す。
・広島大学は1949年に新制大学として設置されたため旧広島大学とは連続性はない。
・札幌農学校は、札幌に置かれた高等教育機関で規模を拡大し、 北海道帝国大学、現在の北海道大学へと発展を遂げた。
・ソウル大学は、京城大学(京城帝国大学)と九つの専門学校を一つの国立大学 として高宗によって新設されたため、京城帝大との連続性はなく、京城帝大を 起源としない。
尚、理事会や一部の施設は京城帝大のものを流用しており、 一部の学部は日本統治時代の学校を前身としている。
・ウクライナ戦争の和睦の説得は、その影響により一旦は両国の交渉が結束される と見えたが、ロシア国側の態度が一変し、交渉は決裂し失敗に終えた。 結果的に両国の関係は改善には至らなかったが、両国及び世界の平和のために尽 力した事実を明記している。

三重の名称
第十四代  旧:松田頼通 本:松平秀朝  表:結城秀康
第十五代  旧:松田信実 本:三条正永  表:松平信綱

二重の名称と氏
第二十六代 本:三条輝照 氏:松平輝照  表:大河内輝声
第三十一代 本:三条至輝 氏:松平至輝  旧:松田実

四重の名称
第二十七代 本:三条輝耡 旧:松田氏秀  偽:戸田氏秀  表:吉野作造
第二十八代 本:三条輝重 旧:松田徳太郎 偽:浦野徳太郎 表:上野英三郎

旧:旧名称 本:本当の名称 表:表上の名称 偽:偽りの名称

上野英三郎の考察
・上野英三郎は誕生年一八七二年と偽っていると同時に輝耡の真誕生年を示している。
・浦野と上野で「裏の上」と表し、己も含め歴代宗家を示している。 
・1890年(明治二十三年)に農科大学予科に編入と、さりげなく本当の生まれ年を明記し ている。至輝の誕生日十二月二十三日とかけている。
・「上野」の名字は、祖が高崎藩主であった「上野国群馬郡高崎」から由来があることがわかる。
・第十八代寺内内閣の真実は三条輝重が受け持った内閣である。 呼称として「ビリケン内閣」と呼ばれ犬好きであった上野英三郎と関連性を持している。 寺内内閣の資料にある写真「内閣発足時」上段左から三番目の人物が三条輝重(当時二十六歳) と思われる。写真の並びから十三重石塔と関係性を示していることがわかる。 写真の注釈には岡田良平とあるが、「内閣の顔ぶれ・人事」にある岡田良平を比べてみると 若干似ているように見えるが全くの別人である。この時岡田良平は五十歳となるので、 写真から五十歳には到底見えなく、これは三条輝重の寿命である。
・第十九代原内閣の真実は引き続き三条輝重が受け持った内閣である。 それ示す内容は「原内閣」の資料に1921年(大正十年)11月13日まで続いた日本の内閣とある。 また「原敬」の資料には内閣総理大臣の在籍期間は1921年11月4日までとあり矛盾している。 1921年11月4日に暗殺されたため11月4日までとなるは自然であるが、原内閣資料には、 11月13日とあるのは十三重石塔を関連されるものと推測し、引き続き三条輝重が政権を握ったと 考えるのが妥当である。
第十八代、第十九代と合わせ、計五年間の内閣総理大臣に在籍した期間となるため、 三条輝耡の第五代内閣総理大臣を示していることにつながる。
第五代の意味は、伊勢平氏維盛流から山科教成から数えて五代目の「頼房」が松田家祖の「松田頼盛」 を指している。「教成(のりしげ)」と「輝重(てるしげ)」を合わせていることから示されている。 「輝重」は「氏重」で頼房は「今川国氏」であることも示している。
・女子大学が輝照の代と輝耡の代で二つあるのは、頼房(松田頼盛)の山科家期の家族構成の兄妹を 表している。また替え玉の「岡田良平」は、弟の「定平」を示している。
至宝家山科家参照 →

戸田幸太郎の考察
・戸田幸太郎の「戸田」姓を示すものは依田氏の祖、芦田信守にあり、系図を芦田信守から依田信幸と流れ、 クロスの法則から、松田幸太郎ではなく、戸田幸太郎となり、松田守はそのままとなる。
・三条輝重の二重にある家族の幸太郎の方に第三者が付いたことが上野英三郎から読み解ける。
・祖を示す関連付けにより家庭環境の崩壊の始まりを告げ、人間関係が構築できないようになる。 簡単に言えば、第三者による闇への扉を開けることになる。
・政治的関与の導線が全くなくなり、祖を示すことは身近なことに限られ、奈良松田家の家族が 出会う人もその対象となり、第三者による関連がある人を選びながら、更に第三者が事情を 一部始終話し、祖を示すことを手伝って貰いながら、人生を進む形である。 その結果洗脳状態となり、食べる物や遊びに行く場所など全て祖を示すことに拘束される。 これらから、家族の人生がおかしくなるのは火を見るより明らかである。 「けんか」という名前も出てきたが、子供の頃喧嘩も意味もわからなくしていた記憶があり、 理由もなく喧嘩をすれば、喧嘩する意欲も元からない。 三対三の喧嘩であったが、適当なところで終わり何のために行われたかは謎である。 これも第三者が仕組んだことだと考えられる。
このような積み重ねが悪循環となり、人生に悪影響を及ぼしているのは確かな事実である。 常に人間関係を壊されれば、多かれ少なかれストレスは常に付き纏うことになる。 第三者がついたのは、政治や上野英三郎との導線がなくなるためせめてものと考えるが、 それが闇への始まりである。
・輝耡までは二重にある家族をケアしていたと考えるが、輝重の代で宗家側は祖を示す役目を担い、 吉野作造(輝重)との関係性は完全に断たれ、男親は不在になり、その代わりに第三者を付 けたと推測することができる。その大きな理由として、吉野家は子供が七人おり、六女、一男で、男の子は六番目の子と思われ、 女の子ばかりなので、吉野家の方に作造は父親としての重点をおき、宗家の方は第三者に任せたように捉えられる。
それが不自然な環境の始まりである。 祖を示すことだけに執着し、愛のない形だけの家族が出来上がる。 祖の意向としても、四民平等の観点から人件費を捻出している所に全ての過失はある。 因みに松田祖の頼盛だけは山科家、松田家、今川家と三重の家庭を築いたことになる。 これが伊勢国から三重県へと一つの名前の由来に当たると考える。

自然血族系図

三条家・大河内松平家



三条家

松平信綱 ┬ 関孝和 ─ 新井白石 ─ 久留島義太   ┐

     └ 土佐光起                  │

┌───────────────────────────────────┘

└ 松平兼(本居宣長室)┬ 杉田玄白 ┬ 大塩平八郎  ┬ 千葉周作

          └ 与謝蕪村 └ 鷹見泉石  ├ 千葉定吉

                          └ 生田万



大河内松平宗家経由三条家

松平信綱 ─ 関孝和 ─ 新井白石 ─ 久留島義太
┌────────────────────────────────┘

└ 安島直円 ┬ 伊能忠敬 ───────────────┐

         ├ 山片蟠桃(本庄)           │

         └ 某 ─ 松平信弥 ─ 矢野玄道  │

┌────────────────────────────────┘

└ 華岡青洲 ┬ 渡辺崋山 ┬ 土方歳三

      └ 男谷信友 └ 福沢諭吉 ┬ 大河内輝声    ┐

                    └ 根岸信五郎 │

┌─────────────────────────────────────┘

└ 上野英三郎 ─ 吉野作造 ─ 戸田幸太郎 ─ 松田守
┌───────────────────────────────────┘

└ 柊霞京



三条系伊豆守系大河内松平家

松平信綱 ─ 関孝和 ─ 新井白石 ─ 久留島義太
┌────────────────────────────────┘

└ 池大雅 ┬ 大田南畝 ─ 平田篤胤 ─ 佐藤信渕    ┐
                      
     └ 曾我蕭白               │

┌──────────────────────────────────┘

└ 二宮尊徳 ─ 遠山景元




三条系信賢系大河内松平家

松平信綱 ┬ 関孝和  ┬ 新井白石 ─ 久留島義太

     └ 山鹿素行 └ 某 ─ 某 ─ 関盛時
┌──────────────────────────────┘

└ 寺田宗有 ─ 青木木米 ─ 仁阿弥道八




高崎藩大河内松平家

松平信綱 ─ 山田宗徧 ─ 尾形光琳 ─ 香川修徳
┌────────────────────────────────┘

└ 本居宣長



信定系大河内松平家

松平信綱 ─ 柳生三厳 ┬ 佐山検校

              ├ 井戸正明

              └ 賀茂真淵




一覧

松平伊豆守家初代当主(1596-1662)
《第十五代松田宗家伝承者》

松平信綱 律令[侍従]幕府[老中首座]職業[川越藩主]
     他称[別名 知恵伊豆][呼称 松平伊豆守信綱]
     特記[政治の天才]
松平三条家初代当主
三条正永 律令[太政大臣兼左大臣]

松平伊豆守家第二代当主(1640-1708)
《第十六代松田宗家伝承者》

関孝和  幕府[小普請]職業[数学者・旗本]
     他称[通称 紳助][字 子豹][号 自由亭]
     特記[日本数学史上最高の英雄的人物]
松平三条家第二代当主
三条輝綱 律令[太政大臣兼左大臣]

松平伊豆守家第三代当主(1657-1725)
《第十七代松田宗家伝承者》

新井白石 律令[筑後守]幕府[本丸寄合]職業[旗本・朱子学者]
     他称[諱 君美][別号 済美][渾名 火の子・鬼]
     特記[正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼]
松平三条家第三代当主
三条信輝 律令[太政大臣兼左大臣]

松平伊豆守家第四代当主(1690-1758)
《第十八代松田宗家伝承者》

久留島義太 職業[数学者・将棋指し]
      他称[通称 喜内][号 沾数]
      特記[江戸時代の三大曲詰作家]
松平三条家第四代当主
三条信祝  律令[太政大臣兼左大臣]

高崎藩大河内松平家第四代当主(1730-1801)
《第十九代松田宗家伝承者》

本居宣長 職業[国学者・医師]
     他称[名 栄貞][通称 はじめ弥四郎][号 芝蘭・瞬庵・春庵・鈴屋]
     特記[国学の四大人(しうし)]
松平三条家第五代当主
三条輝高 律令[太政大臣兼左大臣]

高崎藩大河内松平家第五代当主(1733-1817)
《第二十代松田宗家伝承者》

杉田玄白 職業[蘭学医]
     他称[字 子鳳][号 九幸翁]
     特記[『解体新書』(『ターヘル・アナトミア』の和訳)]
松平三条家第五代当主
三条輝和 律令[太政大臣兼左大臣]

高崎藩大河内松平家第六代当主(1793-1837)
《第二十一代松田宗家伝承者》

大塩平八郎 幕府[大坂町奉行組与力]職業[儒学者]
      他称[諱 正高][字 子起][号 連斎・中軒・中斎]
      特記[大塩平八郎の乱]
松平三条家第六代当主
三条輝延  律令[太政大臣兼左大臣]

高崎藩大河内松平家第七代当主(1793-1837)
《第二十二代松田宗家伝承者》

生田万  職業[国学者]
     他称[諱 国秀][字 救卿][号 東華・大中道人]
     特記[桜園塾を開塾し、国学を講じる]
松平三条家第七代当主
三条輝承 律令[左大臣]

本姓
松平四家

本姓について、賜姓を賜る時期から、松田頼盛から頼済までは 「藤原北家閑院流徳大寺流庶流」になると想定されるが、 頼済流の島津家が賜姓として「松平」を将軍家から賜っていることから、 武家に関して、松田家の出自が全て松平四家の本姓となり、 公家もそれに準じて松平四家の本姓となる。

秀頼流/秀経流 桓武平氏流   → 松平西家
頼行流     藤原北家四条流 → 松平北家
頼邦流     藤原北家四条流 → 松平東家
嫡流      藤原北家閑院流 → 松平京家

例えば、西家である「秀頼流」「秀経流」は、 「松平西家」であり、秀頼、秀経は、「桓武平氏流」となり、 家の総称で「松平西家」と呼び、あくまでも家の名称である。
本姓は、次の代の貞秀は「松平西家秀頼流」、清定は「松平西家秀経流」となる。

武家の場合
現状は、西家や北家、東家の場合は、 流派が明らかでないので各家の始まりである次となる。
「松平西家秀頼流庶流」「松平西家秀経流庶流」
「松平北家頼行流庶流」「松平北家直頼流庶流」
「松平東家頼邦流庶流」
京家の場合は、全ての流派が明確に分かれていることから、 流派が明確でない場合は、「松平京家流庶流」とする。

例として、奈古野家の本姓は次になる。
「松平京家信頼流毛利氏庶流」
また、伊勢盛時の後裔にある北条家は伊勢盛時が北条氏の始祖であるため、 頼済流の本流であり、「松平京家頼済流嫡流」となる。

公家の場合
立入家は、現状系図が明確なので、「松平西家秀興流」であるが、 公家の場合、松平西家から初めの分家として「立入」を号した場合、 表記は、「松平西家立入流」となる。 無論、「松平西家秀興流」でも間違いはない。 基本、分家した家祖の趣旨や結果的な要素で定められると考える。
分家がある場合は本家と区別をつけるため、 本家が「松平西家立入流嫡流」となり、 分家が「松平西家立入流庶流」となる。 どのような括りで分家したかによりその流派の名称や、 本家の嫡流や支流、庶流の本姓が決まる。

藤原氏などに倣い、松平四家の本姓を定めるのは、 第三十一代松田宗家伝承者の至輝の仕事である。

以上を踏まえ、嫡流の頼通の本姓は「松平京家頼勝流」であり、 頼盛嫡流の総称が「松平京家」である。 「松平京家鹿苑寺流嫡流」は、信綱後裔の三条始祖の信綱からとなり、 吉田藩大河内家は信綱から直下の分家となるため、 「松平京家鹿苑寺流」の羽林家となる。 また「松平京家鹿苑寺流支流」と表記しても同じである。 このことから三条信綱は、鹿苑寺流の祖になる。

支流と庶流の違いは定かではないが、支流は本家を支える意味で共存し、 庶流は本家に囚わられない独立した家柄であると考える。

子孫
現代に関する子孫について
「至輝」の項目で取り上げた、喫茶店に関して、 喫茶店の始祖とされる可否茶館の創業者が「滝沢信夫」と言う人物で、 松田家出自であると考えられるが、情報が不十分で証がない以上「かも知れない」で止まる。 親の関連付けと、愛が有る無いは因果関係はないが、祖を示す関連付けにより、 不自然な環境がつくられ、愛が失われたのだから、全ては無鄰菴に凝縮されている。 今回は、話の流れで可否茶館の創業者を取り上げたのだが、読み方や漢字がそれらしければ、 全てが疑わしくなり、何故この名前はそうでこの名前は違うかなど、限りがないので、 現状は近代的なものは基本私からは触れない。 当然、近代的なものは個人の事情があり、それが見えない以上リスクが伴うため、 無闇に無許可には取り上げられない。

判別材料として、現代に存命の人ならば、五親等乃至は、 六親等以上の家系図と家紋、祖の職業が明確であることが望ましい。 時代を言えば、江戸時代末期から明治時代初期。 無論理想は、松平四家の出自元に辿り着くことであるが、 本質はそれを想像できることにある。
現代においては、メディアの発達と共に、それに影響され、 名前や独自が携わる内容などは、容易に重なる可能性が高くなり、 より古い情報の方が信憑性が高く、重要と捉えている。 またその情報から、ただ読み方や漢字が同じだけではなく、 系図の全体を通して、何か祖の意図した関連された内容が望ましい。

そのような家系は管理行き届き祖を大切にしている上、 証があるのだから、正式に松平四家の出自と言える。 当然、戦国時代から時が流るほど、男系や女系と多くの血筋が分岐し、 限りがなく、私がそれらを探究する義務はない。
鼠小僧を一例として、時にそのような身分に落ちることもあり、 全てにおいて、管理はできない上、敢えて鼠小僧を取り上げる必要もなく、 取り上げることにより、治安悪化の可能性もないとは言えない。 少なくとも時代的に輝聴、輝照、輝鋤までは全くそれには触れていない。 それ故、近代にて何やら関連づけられているのは、宗家の意向であるかは疑わしい。 何故なら、盗賊を美化するのと変わりないからであり、 政治的観点から考えれば、あり得ない。

出自の元から遠ざかるほど、様々な血縁関係が入り混じるのだから、 道筋が明確ではない以上、もはや、それを松平四家の出自と言うべき 道理と捉えるのは難しいと考える。 また、著名な方の中には個人的に教えてほしいであったり、 知った後で検討後公表したいと思う方、様々思惑が生じると予想される故に、 その多くは、個人の心に委ねるしか術はないと同時に、 自然な縁にて、得られるしかない。 当然ながら、私から、あなたはそうであるかもしれないとは言わないから、 松平家物語を著書する構想がある。
以上の内容から、 戸籍が取得できるのが江戸末期ぐらいまでであるからして、 宗家の示す責任は江戸時代生まれまでと認識し、 二度と愚かなことの繰り返さないためにも。
念の為、今後も含め、古い戸籍が取得できない場合においても宗家の責任ではない。 また、内容が不十分で松平四家の出自として判別できない場合においてもその限りではない。 厳格な判別においては、その名字を名乗る家祖や出自元が明確であることとが本来正式であると捉えるが、 内容において祖を示す確かな関連付けをされている場合は、それに準ずるものとして扱う。

松平四家本姓の考え方
本姓は、松平四家以外の出自に婚姻関係で嫁、養子に行けば、 それは松平四家の出自ではなくなる。
宗家は戸田氏秀とあるが、戸田とは名乗ってなく、夫婦別姓で三条から松田に名字を変えた。 漫画で例えれば、マスオさんの立ち位置になるのかと考える。 何故そのような偽名を表に出さなければならなかったのか、おそらく、政治的理由で、 三条と表だって名乗れなかったと推測する。 そして、戸籍も当時大河内輝声とつながっていること自体、三条を名乗れない一つの理由と考え、 また戸籍には、三条輝照とは記載できず、かといって大河内ではないため、 大河内輝声とも記載できないと想像できる。 この時点では、大河内輝声は三条輝照であることを知られてはならないからである。 松田に復し、祖を示すことに重点をおき、いずれ時が熟したときに、 三条を名乗ることを念頭に置いていたと考える。
以上から、末裔が男性もしくは女性である場合も、男系で繋がっていることに焦点を置くため、 父方の先祖を辿る系図を必要とする。 また、宗家の思想は、良い血筋を残すという点にて、祖は松平四家の中で婚姻関係を結び、 良い血筋を選び、宗家は代々その血を繋いできた。 それ故、取り上げるとならば、著名な方や職人、経営者などであるが、ある一定の審査の上行い、 それは世間体に対し、結果的に悪い印象をもたらさなければ良い。
良き血筋を後世に残す、その目印となると同時に、 ご自身の家系を大切に、子々孫々と繋いでいく願いである。 女性の方で、例え松平四家以外の家に嫁いだとしても、 松平四家の血筋をもたらした、新たな家系を育む目印になれば良いと考える。

その背景において正式に認める方には、松平四家として、浅薄なものにはしたくなく、 威厳のある出自元として、その存在を世に伝えて行く義務があると考える。 そこには並々ならぬ荘厳な歴史があり、その想いを汲み取れる関連された内容を必要とする。 よって、世間の人々に説明が付く証を有することが最低条件であり、 それが道理である上、平等であるから慎重にならざるを得ないと言える。 無論、個々にそうであるかないか思うのは自由である。

系図が出自元まではっきりしない家系の本姓に関してその多くは、 「松平京家流庶流」などの表記になるのだが、 本来松平四家と捉える範囲は、薩摩大久保家で考えてみると、 「松平京家頼済流斎藤氏庶流」の大久保家となり、分家の分家ぐらいまでが妥当である。 それが以外は、管理不能範囲であると言えるが、系図が明瞭であれば、 更に、大久保氏から戸田家が分家したと仮定すれば、本姓は次のようになる。 「松平京家頼済流斎藤大久保氏庶流」の戸田家となる。 特定にあたり、私に秘密の意向から、昭和の時代にメディアが発達すると共に、 宗家の情報がどのような流れや意図で第三者から情報伝達され、 関連付けられているか不明のため、個々の仕事上に扱う内容では特定することは難しい。 それらはあくまでも、祖があっての裏付ける材料の一つである。
例えば、薩摩大久保家の系図を見てみると、 大久保仲兵衛から始まる系図の中で五代目に利政の諱が見え、 家紋が一致する同じ頼済流の「斎藤利政(斎藤道三)」を示していることがわかる。
現代に至っては、家紋は、整合性を図ると同時に、 松平四家の内どこの出自なるか特定する上でも必要条件である。
基本必要資料として次に纏める。
・江戸末期ぐらいからの父方(名字を継承する方)の家系図
・戸籍にある最古の本籍地
・家紋
・家系図にある先祖最古の職業
※稀な名字や内容によってはこれ限りではない、必要資料の見定めは個人に任せるとする。

重ねて、藤原氏や桓武平氏、源氏などにしても、誰から特定されるものでなく、 個々の家系で管理するものである。 最低限祖を示せば、自然につながるものであり、 個々の歴代の先祖の意向で、過去は気にしない家系もあると考える。 したがって、当方から探求することはなく、 ご縁による個人の意志に委ねるとする。

現代においての判別基準
松平四家の項目で記載されている名字と同じである場合、 先ず家紋が同じであるか、類似している点が一つの判別基準となり、 それに合わせた諱などの関連されているものであるか。 その他、先祖から伝わる家伝などが判別に至る基準となる。 名字が無い場合は、基本稀少な名字が対象となり、 前記に合わせ、判別に至るには多くの祖を示す資料を必要とする。 また、名字が無い場合においても、現状記されていない事由も考えらるので、 稀少な名字と同じく多くの資料を必要とされる。 その他、名字があり家紋が全く異なる場合においては特定はより困難であるが、 例えば、現状の家紋や名字の前は何であったかなど 古い重要な情報が判別する役割を果たす。
これは何れにしても、松平四家の一覧にない名字には、 判別する一つの決め手の材料となる点に於いては相違ない。 また、松平四家一覧に名字があり、家紋が全く異なる場合の 特定が困難である背景には、先祖の意向や家系の歴史は捨てたと捉えることが 最有力視され、祖に何か問題があり、変えることが想定される。 通常の場合は、名字が変われば家紋が変わり、連動するのが自然である。

然し乍ら、資料多い少ないに関わらず、 基本、松平四家の流派を示す関連された内容が一つの判断基準とされる。 前述にある通り、古い情報の方が信憑性が高く、評価し、判別する。 第三十一代松田宗家伝承者至輝が正式に認めるからには、 祖の松田家が築き上げた歴史を友に共有できる心の「朋友」であると認識する。 然れど、祖が明確であり、自然につながれば、それに准ずることはない。

繰り返し伝えるが、特に存命の方で証のないものや了承のないものを無闇に 松田家の出自だと掲載すれば中には「根拠もなく勝手に掲載するな」などとトラブルに 発展しかねない。出自にしても、当方が取り挙げるにしても、確証及び了承を得られなければ リスクを伴うだけで根本的に不道理なのです。
仮に、現代のおいて、一人明確な人物がいたとして取り挙げたとしたら、何故私は取り挙げて くれないとなり、他に反感を買うことになりかねない。言わば、「触らぬ神に祟りなし」。 その上で公平を期する為にも、一つ区切りを設け、当方の分家に関しての責務は江戸時代 終わりの1868年、場合により1899年までとする。但し、明瞭であり、当方の判断基準に準ずる。 1899年までとしているのは、基本ここまで掲載すれば、自ずと名字で自然につながるのが筋で、 源氏や平氏、藤原氏にしても、名字を公表しているだけであり、同様にその責務を全うすること になるからです。主旨的には、著作権は作者の死後七十年守られると考え方は同じである。 江戸時代以前の系図等の資料がなく、また口伝による伝承もなく、不確かな場合で出自を知りたい 方は専門家などにご相談ください。
例えば、公表している織田信成氏しても、曽祖父の諱がなく、高祖父その先代の諱が記されて いないのですから、名前はそれらしいが証とは言い切れない。その理由は「信成」が自称しだ した父親の諱であれば確かな証になるかもしれない。現状は、何かとってつけられたような感がある。 曽祖父の諱が分かれば、証になるのかもしれない。
ご理解の上、残りは巡り合う縁にて、その旨を言葉でお申し出ください。 どうしても当方に伝えたいことがあるのでしたら、お問合せフォームをご利用ください。

猪◯問題の当事者である、猪熊教利の出自偽造問題の影響により、
愚かな関連付けが見受けることは、残念至極にあり、
不快な思いをさせたことを心よりお詫び申し上げます。

継承
松平三条家
松田宗家並びに松平三条家を三条至輝と名を改めて継承する。


継承する内容

松平三条家第十七代当主  三条至輝
第三十一代松田宗家伝承者 柊霞京

桓武天皇から数え、実に四十七代目の桓武平氏の末裔となる。 血筋は伊勢平氏維盛流で、旧法的血族は藤原氏となり、 桓武平氏の血筋を基盤に藤原氏が合わさった本姓が松平氏。

本姓 松平京家鹿苑寺流
定紋 三条蝶 
替紋 松田唐花(替紋の一つ)
菩提寺「岡寺 十三重石塔」松田宗家の墓の意
   岡寺
   山号  東光山(とうこうさん)
   院号  真珠院(しんじゅいん)
   寺名  龍蓋寺(りゅうがいじ)
   所在地 奈良県高市郡明日香村岡八〇六

松平四家の伝承及び膾炙
西家 松平西家流
北家 松平北家流
東家 松平東家流
京家 松平京家流
   流派
   鹿苑寺流
   頼盛流 頼直流 頼貞流 頼近流
   頼仲流 善通流 頼済流 信頼流
   家頼流 頼信流 達頼流 頼勝流
   頼通流

したがって、奈良松田家は伝承のための別名。


三重県
伊勢国であった三重県の名前の由来は三重郡から来ている。
三重郡は次の三つの町を含む
菰野町(こものちょう)
朝日町(あさひちょう)
川越町(かわごえちょう)

これに松平信綱は、本当の名字である「三条」と通字の「輝」の関連付けを図り、 江戸から近い、川越藩主になりえたと考える。
次に、岩倉具視と女系のつながりにより、 岩倉家と同じ笹竜胆の家紋の伊勢国司の北畠教具と紐づけ、 歴代と同じ公家である境遇を示す。

また山科区にある毘沙門堂を訪れた際に、住職から、むかで札(牛王宝印)を、 武田信玄、上杉謙信共に、甲冑に刻んでいたと聞いた。 山科家の出自である証を常に心に刻み、 そしてそれは、伊勢平氏維盛流である事実を示しているのであり、 松田一門南部家の項目でも紹介した「対い蝶」にその答えがある。 共に兄弟でありながら、戦う宿命であり、どのような胸中であるだろうか。
強い敵と戦う喜びであろうか。それとも・・
松田一門南部家を参照 →

松平信綱は、功績を祝して家紋を「三つ扇紋」に変更したとあるのは、 その「対い蝶」に掛けている。 松平氏は桓武平氏流(伊勢平氏維盛流)である事実を訴えていた。 それ故に、三条家の家紋は「臥蝶に十二菊紋」であることが読み解ける。


松平家物語
松平家物語とは、鎌倉時代に始まり、 戦国時代を主として、江戸時代初期までの松平四家出自の 歴史上に活躍し主だった人物と、 松田宗家との関係性を描いた物語を想定し、 山科家から分家した頼盛に始まり、 主として、戦国時代に重点を置き、最大の謎である本能寺の変を解き明かし、 老中松平信綱までを描いた物語となる。
様々な文献を濫読し、松田宗家、三十一代当主である至輝の目により、 読み解く内容となる。 松田宗家の公家は陰であるため、そこには、 史実にはない至輝の推測の世界が含まれているのは言うまでもない。


松平家物語につづく



名を改めるのは少し先の未来。

冥月院 華閣

正面



背面



店舗


冥月院
構想
冥月とは、冥界と時空が合わさった世界。
冥界は暗闇を想像するが、冥月は銀色の世界を表す。 その起源は「冥」は光がない。くらい。などであるが、 「月」はつき。天体の一つ。としつき。とある。 それらから冥月は、「冥界」が「月」の時空間に支配された世界となる。
その世界とは、単に銀色の世界ではなく、 至輝が想像を膨らませ、未来に創造する表現した 世界のことを指す。 つまり、三条ブランドの概念となるもの。 余談にて、「冥」には、人知を超えた神仏の働き。の意味があり、 人知を超えた哲学者としての顔とも意味する。

冥月院とは、三条の本拠点となる施設。 三条ブランドの将来的な店舗としての役割や 和の文化の活性化を担う拠点となる位置付け。 規模は慈照寺ぐらいを想定し、 和の習い事や観光、店舗、別荘を兼ね備える。 冥月院内の大凡の設計は専門家の補助の元至輝が行い、 壁画や襖絵などは、随所にその道の絵師に依頼するとして、 また部屋により至輝自身が描くことも念頭に置いている。 全体の心象としては、モダン的要素が二割から 三割程度で基盤は古来の日本家屋。 華閣以外にも建物があり、習い事ができる建物や環境、庭園、 東福寺や平安神宮で見られる長い渡り廊下を効果的に取り入れ、 庭園には池や四季に色とりどりに咲き乱れる 花々や植物が植木されており、 季節ごとにより様々な顔を覗かせてくれる。
習い事は華道、茶道、書道。 観光は曜日による開院もしくは定休日を設け、 店舗は基本それらと連動される。 三条ブランドのイベントも行われる。

冥月院の近くの通りには、清水寺や銀閣寺 宇治平等院の近くにあるような 商店通りが構築されることも見据える。
基盤は古来なものであるが、 新しい日本古来の文化として賑わう 中心の拠点になればと構想として思いを巡らす。
構想の規模が大きくなれば、 新しいファッションなどの文化の発信元、 芸術通りとしても拡充し視野に入れる。 平たく言えば、その通りまでもある程度の 趣向的なデザインを至輝は行い、 ファッションも含め芸術を発信する 一大プロジェクトになればと考える。 その通りにあるアパレルブランドが出店する例として、 鞄や小物だけであるとか、その通りの主題にあった服などをセレクトし、 小規模な出店として、店舗を構えていただくような形を想定する。 それにより、そこにしかない芸術性を生み出す狙いがある。 冥月院から一貫性をもたし、趣のある通りへ、 雑貨、土産物、茶店、カフェ、鞄、装飾品、服の二階建ての小店が立ち並ぶ。 つい出店したくなるような、 足を運びたくなるような観光地を目指す。
主題は「共存」であり、一貫性のある建物に看板を掲げるような形式で、 江戸を彷彿される心象。 場所は輝照の想いが眠る京都の地。

店舗
店舗は、前項目のイラストにあるように、 外観にある利用規定は、暖簾は色やデザインを自由にすることが可能。 暖簾は看板がわりの一つとなるため、須要に使用する前提として考える。
屋根にある看板は、カラフルなものではなく、木材や金属などを使用し、 材質を生かした重厚なものに統一する。 基本、規定内に於ける品を損なわなければ大きさ形は自由とする。 あくまでも、現時点での考えである。

このような夢を描くことも未来への楽しみではないだろうか。


この世に何を遺し、何を顧みるか、 そして、何を伝え、何を説くか。
心は、時とともに流れ、移ろうが、 折折に、美しき華に邂逅する刹那の喜びに、 我生きる。



時の宮
華美降り灌ぐ
いにしえの胤
滅せぬ者
歴る姿なり
令和六年七月六日