目次
第一章
壱、 鹿苑寺流 鹿苑寺流を知る
弐、 松田家一門 祖の松田家一門に関すること
参、 松平四家 松田家祖の後継家(分家)
肆、 大河内松平家 江戸時代の祖
伍、 伊勢平氏維盛流 伊勢平氏を始祖とする血筋の物語
陸、 至宝家 三条家と共に生きる名門家
漆、 主要関連家 松田宗家に関わる家
捌、 家紋 歴代家の家紋の種類、由来など
玖、 証 検非違使別当(大理卿家)、羽林家
拾、 無鄰菴 大河内松平家と無鄰菴
拾壱、奈良松田家 祖を示すもの
第二章
拾弐、三条家 三条家の概要
拾参、松平三条家 真・松田宗家
拾肆、松田宗家 真実と菩提寺
拾伍、創設 近代の祖が創設したもの
拾陸、輝照 三条輝照との別れ
拾漆、至輝 哲学者
拾捌、松田宗家伝承者 歴代
拾玖、松平三条家歴代 人物一覧と主な政策
弐拾、著名人 松平四家出自その他の主な人物一覧
弐壱、本姓 本姓のお話
弐弐、子孫 現代に関する子孫について
弐参、継承 松平三条家
弐四、華橋院 未来のお話
三条家
家 紋 三条蝶
替 紋 十二葉菊
本 姓 松平京家鹿苑寺流嫡流
始 祖 三条正永(松平信綱)
家 祖 三条輝綱(松平輝綱)
中 興 三条至輝(皇迦亨)
通 字 至
別 称 松田宗家
種 別 公家(清華家) 華族(公爵)
極 官 太政大臣兼左大臣
出身地 埼玉県北足立郡伊奈町小室
根拠地 東京都、京都府、大阪府
著 名 高階栄子、今川国氏、京極宗氏、仁木頼章、
六角氏頼、大内義弘、斯波義敦、北畠教具、
北条早雲、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、
織田信長、伊達政宗、結城秀康、松平信綱、
土佐光起、新井白石、久留島義太、本居宣長、
石川雅望、平賀源内、伊能忠敬、華岡青洲
大塩平八郎、福沢諭吉、大河内輝声
上野英三郎、芥川龍之介、吉野作造、など
分 家 近衛、一条、醍醐、広幡、七条、伏原、鷹司、桜井、
園池、勘解由小路、今川、京極(佐々木)、仁木、
六角、大内、斯波、北畠、北条(伊勢)、毛利、
武田、上杉、織田、伊達、結城、関、新井、久留島、
本居、石川、福澤、大河内、上野、吉野など
縁 家 天皇家、転法輪三条家、徳大寺家、戸田家など
菩提寺 松平氏:平林寺 松田宗家:岡寺
寄進物 松田徳太郎:十三重石塔(岡寺)
主創設 三条輝照:九州大学病院 日本電信電話 東京大学
三条輝耡:京都大学 奈良女子大学 日本航空協会
三条輝重:名古屋大学
商用紋 扇揚羽蝶、花器章、三つ引き
象徴色 純白、銀鼠、承和色
伝統色 深紫、真紅、水色、鳥の子色
紋 様 三条七宝
三条家
系図
松平京家鹿苑寺流
桓武天皇 ─ 葛原親王 ─ 高見王
┌─────────────────────┘
│桓武平氏祖
└ 平高望 ─ 国香 ─ 貞盛
┌─────────────────┘
│
└ 平維衡 ─ 正度 ─ 維盛 ─ 貞度 ─ 盛房 ─ 業房
┌─────────────────────────────────────┘
│山科家祖
└ 山科教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌─────────────────────────┘
│松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
│松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝耡 ─ 輝重 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
│松平三条家中興の祖
└─── 至輝
輝耡 = 氏秀
輝重 = 氏重
藤原北家閑院流(旧本姓)
藤原氏始祖
藤原鎌足 ─ 不比等 ─ 房前 ─ 真楯呂 ─ 内麻呂 ─ 冬嗣
┌───────────────────────────────────────┘
│
└─── 良房 ─ 基経 ─ 忠平 ─ 師輔
┌─────────────────────────┘
│閑院流祖
└ 藤原公季 ─ 実成 ─ 公成 ─ 実季 ─ 公実
┌───────────────────────────────┘
│徳大寺家祖
└ 徳大寺実能 ─ 公親
┌────────────┘
│山科家始祖
└ 山科実教 ─ 教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌───────────────────────────────┘
│松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
│松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝耡 ─ 輝重 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
│松平三条家中興の祖
└─── 至輝
三条家
家紋
三条家
家紋
三条家の定紋は「扇揚羽蝶」。
蝶紋は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、
伊勢平氏である清盛流平家の家紋と、
公家の平氏の家紋として主に用いられ、
蝶紋と言えば、平家の家紋と世に定着する。
祖の意向を司ると、原石は伊勢平氏であることを誇りに受け継がれ、
長期にわたり、重きを置いた高崎藩大河内松平家と
我が流派の直系である家頼流の松田家と直接つながる、
松田幸右衛門信実こと、松平伊豆守信綱を重要視し家紋を定める。
松平伊豆守信綱の定紋は、出世したことに祝して、
「丸に臥蝶に十六菊」から「三つ反り扇」へと変わる。
松平信綱の三つ反り扇紋の経緯を重んじれば、
「蝶」と「扇」を題材とした「三条蝶」は、責務と言える。
蝶は伊勢平氏を象徴し、
扇は、大河内松平家と信綱と至輝を象徴する。
揚羽蝶斑点の数が三が二つで六、つまり、鹿苑寺流を表し、
二と二は、桓武平氏流松田家の家紋丸に二本松と信綱の二男の意。
羽の数は、頼貞流の四番目松平京家を意味する。
「扇揚羽蝶」
「皇雨龍」
「三条唐花」
「三条花角」
「花器章」
「三つ引き」
「三条蝶」
「十二葉菊」
家紋は次のように定める。
商用
対象 三条ブランド 皇霞京
和 定紋「扇揚羽蝶」 副紋「皇雨龍」
飾紋「三条唐花」「三条花角」「十二葉菊」
洋 定紋「花器章」 替紋「(竪)三つ引き」
私用
対象 三条家
和 定紋「三条蝶」 替紋「十二葉菊」
洋 定紋「花器章」
花器章
花器章は、「三条[Sanjo]」のローマ字の頭文字と「皇[Sumeragi]」のローマ字の頭文字を
鏡面反射した構図。つまり、二重にある名字の真実は一つという意味。
鏡は鏡新明智流の桃井春蔵を示すと共に、明智光秀を表す。
家紋の真実
高崎藩の家紋である高崎扇は、高崎藩松平家の家紋であり、
高崎藩大河内松平家の定紋としたのは、始祖の大河内輝耕及び、
家祖の大河内輝声からである。
従って、高崎藩大河内松平家という名称は間違いでない。
大河内輝声以前は、高崎藩松平家の名称であり、
高崎藩大河内松平家ではないことが真実にある。
そこから紐解くと、高崎藩松平家期は高崎扇はあくまでも、
至輝が、扇揚羽蝶紋を商用の定紋として扱うように、
高崎藩の家紋の定紋として扱っていた。
松平信綱から先代までは、真の家紋は臥蝶に十六菊、
または臥蝶に十二菊である。
高崎藩松平家の替紋は、別の資料によると、臥蝶に十六菊でない。
以前調べた時に見かけ、おかしいと思いながら、等閑視し、
次に確認したところ、松平輝和の副紋(替紋)として、蛇目紋とある。
副紋は、他の系統の家紋を使用していたりする場合があり、
松平四家を考える上で、定紋を基本とする。
蛇目紋の真偽及び、真意は次に解く。
考えられることは、高崎藩松平家専用の定紋、副紋ということである。
蛇目紋の意味は、一般に蛇は「田を守る神」とされることから、「田の神」。
松田の由来は、松は田の神を待つ招代であることから、
「松田の目」となり、つまり、真実は松田の宗家であること。
また蛇目紋は円に穴が空いて、輪である形状から、
転法輪三条家を指し、松田宗家の後継家名であることを暗示している。
松平三条家(松田宗家)の家紋は正式に公表されていない。
読み解くに至り、大多喜藩大河内松平宗家が替紋を「臥蝶に十六菊」としていることから、
宗家をクロスの紐付けとし、定紋が「臥蝶に十六菊」替紋が「松田唐花」。
それは旧姓の松田である先代が、松田唐花の家紋を
私に見せてくれたと言う事実が全てである。
付け加えれば、徹底して家族で東大阪にある布施に出かけたということ。
家紋の別資料によると、大多喜藩大河内松平宗家の替紋は「臥蝶に十二菊」
としているので、おそらく、十二菊が正しい。
吉田藩の伊豆蝶は「丸に臥蝶に十菊」としているので、
おそらく、当時は十菊が正しくて、現状は十二菊。
さすれば、宗家は三乗の四で十二菊が正しい。
大多喜藩大河内宗家の替紋が松田宗家の定紋であり、
別資料にある「臥蝶に十二菊」を再現し、
至輝の形バランスに仕立てのが三条蝶である。
おそらく、祖の想いから三条蝶と言う名称にするに違いない。
秘話を解く至り、この替紋をひと目見れば、
厳かな歴史と、血と涙が凝縮された家紋であるに違いない、
堂々と三条という家名と、この家紋を定紋として掲げたいと徳太郎に託し、
その想いを察すれば、自ずと定紋になり得よう。
「三条蝶」の臥蝶は、上と左右にあり、常に天の目として、君臨し、
左大臣、また、反対の右京大夫の意味と重ね、真の姿、仮の姿と合わさる。
臥蝶の右と左は鏡面反射し、その真実を江戸時代前期から現在に至るまで、物語り、映し出している。
「三条蝶」と「松田唐花」は、魂として、子々孫々と、未来永劫に、
定紋、替紋として、松田宗家の象徴として生き続けるのである。
三条家
七宝紋様
雪明
皇雨龍
扇揚羽蝶
三条蝶
三条家
象徴タグ
ドアノッカーⅠ
ドアノッカーⅡ
三つ引き橋
八角
三条橋
三条家
真の家名
初めに、祖の「大河内」と言う家名は、
松平四家にある家々の名称や馴れ初めを示すため、
関連した事柄から、不可避的に選んだ家名と読み取ることができる。
特に、松平京家流北畠家への関連された事柄から窺え、
北畠家の分家として、既に「大河内」は存在する点にそれを証明する。
戸田氏重が明治時代に名字を「松田」に復した点においても、
松田家から様々な分家による家名が誕生していることや、
祖松田家からの分家となる松平北家流の備前の松田家は、
直系の祖にあたる松平京家流宇喜多家に、滅亡へと追いやられている。
そのような経緯から、「松田」に復することは、道理に反することであり、
祖を示すことに重きを置いた、不自然な家名と言える。
では、我が松平京家苑寺流の大河内松平家、真の家名を思索するとしてみよう。
直系の祖である信頼系松田家家頼流から
松平伊豆守家(吉田藩大河内松平家)へと続く官職が、
検非違使別当であり、大理卿家とされ、松平京家流にあたる。
別当は同義で長官に当たり、カミと呼ぶ。カミを「上」の字に宛て、果ての「神」。
また、血筋は桓武平氏(伊勢平氏維盛流)の桓武天皇。
家祖の松田頼盛の娘千手姫は、三条家へ養子となり、
皇室に嫁ぎ、後深草天皇の第七皇子久明親王の実母。
このことを大切にし、後世(至輝)へと伝承されている。
家頼流は、頼直の三男から頼信の三男で、主として、三の倍数になる三と六と九を主題として家紋を作成している。
そして、鹿苑寺は室町幕府第三代征夷大将軍足利義満が開祖となる別荘。
それらを踏まえ、「三条」という名称に重きをおき、
我が国において、「三條」と言う地名を挙げれば、次にある。
「新潟県新潟市江南区三條岡」は越後上杉家及び家臣
「山梨県中央市上三條」は家頼流の分かれた甲斐武田家及びその家臣
「山梨県中央市下三條」は頼貞から信頼までに分かれた甲斐武田家臣
「兵庫県南あわじ市市三條」は頼信流の雑賀孫市
「南」は南家である京家の意
「中央」は松田七流の四番目頼貞流の松平京家の意
これらに共通するのは、上杉家、柿崎家、直江家、武田家、馬場家、真田家、雑賀家…松平京家の家頼嫡流。
「三條」の「條」は旧字で、「旧」は「九」。
つまり、松田秀頼流から数え、嫡流である系統の九番目にあたる高崎藩大河内松平家を指す。
以上から「三條」は、高崎藩大河内松平家の真の家名であると考える。
したがって、圧倒的な勝率から、軍神とも呼ばれる
大理卿家時代に分家した「上杉謙信」に因み、
「新潟県新潟市江南区三條岡」から「三條」を賜ることが、
正しき我が家名と天は仰せつかる。
「條」を旧字から新字に変え、
我が家名を「三条(さんじょう)」とする。
この真意は、至輝が祖を示す関連された一部の事柄から、推理したに過ぎない。
真実は、端然と他にある。
三条
「十」へのこだわりは「三条」は十画であることから一つの理由として挙げられ、三画と七画で
さらに「条」分割すればつくりは「条の上部分」三画、「条の下部分:木」四画となる。
三画と三画で六角、これは家頼流と鹿苑寺流で、四画とは四条流と四つの流派に分かれる。
七画は羽林家の北斗七星である。
また「条」は、旧漢字で「條」であるからつくりは「攸」と「木」から成り立つ。
漢字の音符「攸ユウ」の解字、金文は、
「イ(人)+ 三つの点(水のたれるさま)+攴ボク(木の枝でたたく)」の会意。
人の背中に水をかけ、手にもった枝葉でたたいて身を洗い清めること。
篆文は、三つの点⇒タテの棒線に変化し、さらに現代字は、
攴⇒攵に変化した攸になった。身を洗い清める意で、悠の原字。
しかし、本来の意味は、悠と修が受け持つので、攸は、ここに・
~のところ、などの助字として使われる。
意味は(1)ここに。 (2)ところ(所)。「往く攸(ところ)有り」
(3)ゆったりと。(悠)。「攸攸ユウユウ」(①はるかなさま。②のびやかなさま)
心象
「身を清める」(攸・悠・修・条・滌)
「枝・すじ(條)」(篠・脩・絛)
音の変化
ユウ:攸・悠 シュウ:修・脩 ショウ:篠 ジョウ:条・滌 トウ:絛
これらから関連された事柄が見えてくる。
山科教房(松田頼盛) ─ 教兼 ─ 教広
└ 教音
三条家
氏の定
氏の追加の覚え書き
「氏」に代表される源平藤橘で知られる次に加え、
陰の「氏」として光に変え追記する。
「源氏」
「平氏」
「藤原氏」
「橘氏」
「惟任氏」
「豊臣氏」
「松平氏」
日本の歴史に、
「松平氏」と言う陰の氏が既存していたことをここに記す。
読み方の例
源頼朝 (みなもと の よりとも) 源氏(げんじ)
平清盛 (たいら の きよもり) 平氏(へいし)
藤原道長 (ふじわら の みちなが)藤原氏(ふじわらし)
橘以長 (たちばな の もちなが) 橘氏(たちばなし)
惟任光秀 (これとう みつひで) 惟任氏(これとうし)
豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし) 豊臣氏(とよとみし)
松平信綱 (まつだいら のぶつな) 松平氏(しょうへいし)
したがって真実は、
松平信綱は、豊臣秀吉と同じ、
氏と諱で表記されていたとになります。
ここから考えられることは、
松平信綱の名称に「大河内」という名が入っていないことから、
「大河内」は、信綱(松田宗家)の後継家名(名字)ではない意思表示の表れと見える。
平林寺にある、信綱の墓石に「大河内」と記されていないことからそれを証明する。
墓石には、「川越侍従松平伊豆守源信綱」とある。
大河内を己の正式な名字と主張するならば、「川越侍従大河内松平伊豆守源信綱」となる。
本姓にあたる「源氏」は偽りのため、
それに代わる本姓は「松平氏」。
よって、「川越侍従伊豆守松平信綱」は表に立つ表記であり、
陰の公家形式で記述すれば、
「太政大臣兼左大臣松平三条信綱」が真の名称となる。
また、松平輝貞の墓石には、
「高崎城主従四位下侍従兼右京大夫松平源朝臣大河内輝貞」とあるので、
松平源朝臣大河内輝貞は、松田宗家の系統ではないことを示す。
輝貞は公家形式の記述で、大河内家は公家であることを表し、
それと合わせて、宗家も公家であることを示す。
豊臣には朝臣がついてくるが、松平に朝臣の有無を問うと、
姓の朝臣は、八色の姓の第二位を表すのですが、
源平藤橘、豊臣も含め、全て朝臣であるが故に、不要(略称)とする。
戸田氏重もまた、祖を示すために已むを得ず、「松田」という名字に復し、
松田徳太郎の名称に変更したことが、関連された事柄から読み解くことができる。
松平北家流の備前松田氏と相模松田氏の存在が、
宮津市所収の松田氏系図と奈良松田家が連動し、それを証明する。
松平氏
松平氏とは、桓武天皇の流れを汲む伊勢平氏維盛流の血筋を元に、
松田維盛から始まる法的血族の藤原北家閑院流及び四条流が合わさった
血筋を表す同一血族の集団を「松平氏」と呼ぶ。
三条家
松平氏の成り立ち
松田家秀経流の明智光秀は、
天正三年坂本城主となってから四年後、織田信長の命により、
惟任日向守光秀と改名したとある。
「惟任」とは、朝廷から賜り受けた賜姓であり、
光秀の出自である松田家の伊勢平氏維盛流と藤原北家四条流(頼任)の本姓示す姓である。
次にあるのは、参考として明智光秀、松平信綱、豊臣秀吉の例を挙げる。
武家形式の記述
惟任日向守源光秀 → 明智日向守惟任光秀(真実)
松平伊豆守源信綱 → 三条伊豆守松平信綱(真実)
羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉
三条和泉守松平至輝(仮)
公家形式の記述
従五位下日向守惟任明智光秀
従四位下侍従兼伊豆守松平三条信綱
従一位行関白兼太政大臣豊臣朝臣羽柴秀吉
和泉守松平三条至輝(仮)
現状の史実には明智は無くなり「惟任日向守光秀」の名称となる。
大河内松平家はそれと関連して、松平は惟任に宛てた姓、
このことから松平は家名として扱ってはいるが、大河内松平の「松平」は、
源平藤橘などにある「氏」、つまり本姓と考えられる。
松平もまた、史実に記載はないが、惟任と同じく、朝廷から賜り受けた賜姓であり、
豊臣氏と同種にあたる「氏」である。
従って、松平四家の中でも本姓に、松平氏とつく家系は、
江戸時代に将軍家から松平氏の姓を賜った家系を指すことになる。
例えば、外様大名では、
前田家、伊達家、毛利家、池田家、山内家、黒田家、蜂須賀家、島津家、浅野家、鍋島家
また次の家系も「松平氏」の本姓。
西家 久松松平家
京家 戸田松平家
京家 滝脇松平家
京家 桜井松平家
京家 藤井松平家
これらの一族は、大河内家と同じく、明治時代に松平から久松、
松平から戸田のように家名戻している。
松平が氏であることを認識している家系であることを示す。
「大河内松平」は江戸幕府期の称号であり、
「大河内」は宗家ではない分家の家名である。
信綱からの松田宗家の嫡流は松平氏で、
松田宗家の後継家名は「三条家」である。
つまり、
「旧家名 松田家」
「本姓 松平氏」
「新家名 三条家」
が本来あるべき名称の流れとなる。
三条家
名称表記について
当家名(名字)「三条」とする。
「三条」の家名は未来の本名とし、「松田」を通称とするが、
現段階での本名である「松田」を主として、使用する。
それぞれ、正式名称を「三条至輝(さんじょうゆきてる)」と称し、
通称を「松田実」とする。
「三条至輝」は本来通称であるが、
未来は正式名称として改名を目指す。
従って、改名するまでの個人事業主としての活動は、現状の本名を使用する。
「松田実」
前述であるように、最終的な名称は次の通りである。
正式名称「三条至輝」
別名「松平至輝」
別正式名称「松平三条至輝」
本姓「松平」(藤原北家閑院流 或いは 藤原北家四条流/伊勢平氏維盛流)
家名「三条」 諱「至輝」
尚、「大河内」は分家の家名のため、宗家の名称には含まれない。
松田宗家名称について
松田宗家
この名称は、松田家始祖の頼盛からの嫡流を指し、
現代当主まで、全ての歴代を示す総称。
松平三条家
この名称は、十五代信綱から奈良松田家、現代当主までを示す総称。
三条家
この名称は、松平三条家の松平を単に省略した三条家の総称。
例えば、三条家を指すときに、松田宗家や、
松平三条家と呼称しても間違いではない。
三条家は、転法輪三条家と松平三条家が混同するため、
松平三条家は転法輪三条家と区別するための呼称である。
本来ならば、臥蝶に十六菊の家紋に変わる、信綱の代で松平三条家となり、
松平が先に来るのは、公家形式での呼称となる。
事情により、朝廷から賜り受けた松平氏を称している。
松平三条家
真・松田宗家
第十五代 松平信綱(1596 - 1662)− 武蔵国忍藩主/武蔵国川越藩初代藩主/伊豆守/老中首座
第十六代 松平輝綱(1620 - 1672)− 武蔵川越藩二代藩主/甲斐守
第十七代 松平信輝(1660 - 1725)− 武蔵川越藩三代藩主/下総古河藩初代藩主/伊豆守
第十八代 松平信祝(1683 - 1744)− 下総古河藩主/三河吉田藩主/遠江浜松藩主/侍従/老中
第十九代 松平輝高(1725 - 1781)− 上野国高崎藩三代藩主/右京大夫/老中首座
第二十代 松平輝和(1750 - 1800)− 上野国高崎藩四代藩主/右京大夫
第二十一代 松平輝延(1776 - 1825)− 上野国高崎藩五代藩主/右京大夫/老中
第二十二代 松平輝承(1817 - 1839)− 上野国高崎藩六代藩主/右京亮
第二十三代 松平輝徳(1820 - 1840)− 上野国高崎藩七代藩主/右京亮
第二十四代 松平輝充(1822 - 1862)− 上野国高崎藩八代藩主/右京亮
第二十五代 松平輝聴(1827 - 1860)− 上野国高崎藩九代藩主/右京亮
第二十六代 松平輝聲(1848 - 1882)− 上野国高崎藩十代藩主/右京亮
第二十七代 松田氏秀(1872 - 1924)− 奈良松田家祖/東宮職主事/東宮職庶務課長/宮内事務官兼式部官
第二十八代 松田徳太郎(1890 - 1940)− 奈良松田家初代
第二十九代 松田幸太郎 − 奈良松田家二代/呉服店主
第三十代 松田守 − 奈良松田家三代(仮名)
第三十一代 三条至輝 −
松平三条家
真・松田宗家
松平信祝が吉田藩ではない理由は、
三河吉田藩主とあるが、初代藩主という記載がない。
初代藩主とあるのは、松平信復であるため、
吉田藩大河内松平の家祖は松平信復である。
したがって、松平信祝は宗家にあたる。
そもそも、高崎藩大河内松平家は存在しない。
そこから紐解くと、大河内輝耕は、宗家からの分家の大河内家である。
吉田藩大河内松平家の正確な家祖は、松平信興になり、
クロスしていると考えれば、全てに整合性がとれる。
松平輝高は、正室も継室も松平信祝の娘とあるので、
信祝の婿養子と考えれば、正当な継承者になる。
それを示すために、輝耡は戸田家の婿養子に入ったと考えられる。
とは言え、姓を松田にしなければ、宗家は成立しないため、
夫婦別姓である事実は確かなことだと想定できるが、
実際の話どのようにあったかは謎である。
最後に信復は、輝規の養子となれば、無事クロスが成立する。
松田宗家三十代当主
幸一郎(仮名)は、生まれた時から、祖を示すことの環境と、
それを教え叩き込まれ、生きてきたのであろう。
己の身を顧みず、祖を示すことだけに生き、
私と最後に交わした言葉は、祖を示す関連された内容。
最後まで己の宿命を全うした心は、何よりも武士でした。
無論、父親としては、誉められたものではない。
血筋と環境が、そうさせたのである。
親が身を以てして私に示したのは左大臣。
徳大寺公親、三条公親の「親」を示すこと。
それに合わせて、大河内家の子爵の反対の意味は親を示す。
親は「大人」で、これを「だいじん」と読み、
右京大夫は大人が隠れている。
クロスの観点から考えれば、左大臣となる。
親自身が生前に訪れた宇治平等院と合わせれば、左大臣の官職を、
何代かに渡りを務めたことが見えてくる。
京都御所にある「聴雪」という御茶室の名から、
松平輝聴までは左大臣にあったと考えられる。
全体を通すと、松田信頼から松平輝延まで十四代に渡り、
左大臣の官職を務めたことがわかる。
その後は最長享年40歳と短命なゆえに、中納言までと輝耡の名から示されている。
また、親族に「政」の字が見えることから、太政大臣に紐づけている。
大夫は、まず「大丈夫」に変換する。
変換方法は、伊勢平氏維盛流の血筋の一文字目、信綱から信祝の川越藩。
二文字目、正温から正敬の大多喜藩。三文字目、輝聴、輝聲の高崎藩と考え、
これらを経由している。着目するべき点は大丈夫の二文字目の字「丈」と
二文字目にあたる、正温から正敬の大多喜藩である。
大多喜藩大河内松平家の通字「正」である。
次に、慈照寺の方丈は、
信綱全盛期の1624年に再建され、内部にある襖絵、与謝蕪村と
池大雅が描いたもので、大雅は「大河内」の「たいが」と掛け、
大多喜藩を経由することによりそれに紐づけ、通字の「正」と合わせ「政」が完成する。
最後に該当する、二文字目に入れ、「大政夫」となり、
前述にある、大夫と大人の理論から、夫の横線を大に移動すると「太政大」が完成し、
信綱(宗家)が太政大臣であることを示している。
政の「ぼくづくり」と、「丈」は違う字だが、「打つ」という成り立ちの意味合いで同等としている。
見た目が似ている部分もあると考える。
池大雅は松田家出身と思われる。
おおよそ、前記にある真・松田宗家の内容で相違ないと読み解ける。
また、公親から、宗家の爵位は「公爵」であり、
真の家名は「三条」まで紐づけられている。
左大臣の唐名は「左府」「左丞相」「左相国」などがあり、
至輝は大阪府出身であることから「左府」は大阪府に関連づけられている。
「左丞相」は三条公親を示すとともに、真の家名の「三条」を示す。
松田宗家は、大理卿家であると共に、左丞相家と言える。
松平信綱が、このようなことを含め、祖を示す全体の構成を再構成、思索し、
後裔に伝えていったと思われる。
松田宗家三十代当主幸一郎(仮名)の祖を示す執念を見た。
それは、自らの左親指を天に捧げるというものである。
真意は不明とする。
左大臣、太政大臣の謎を解いたのは親の執念。
真の武士である。
教訓として、
「九仞の功を一簣に虧く」
「花も折らず実も取らず」
「塞翁が馬」
祖が積み重ねてきた栄光が、祖を示すことにおいて、
無になりかねない。
奈良松田家において、権利から責務なりえたことから、
この教訓が生まれた。
祖が積み重ねてきた栄光を示すために、祖を関連づけていたのだから、
結局は宿命となるであろう。
松田宗家の謎を解くために、
この世に私は生まれてきたのだと知るのである。
祖の興味を引く事柄として、父親が私にしたことは、
「昔は良かった」の一度の言葉と、一度だけ家紋を見せてくれた。
これで興味を示せと言うのは酷である。
追加とするなら、「脇差」「五月人形」ぐらいであろうか。
このことから、謎を解かすつもりはさほどないように思われる。
よほど、祖を示すことで苦汁を飲まされたのであろう。
一番の原因は、不自然な環境を作り出す裏方の存在である。
不自然な環境の中で、相乗効果により、
窮境に自ずと立つのであろう。
苦肉の策へと陥り、より不自然な環境へと誘われる。
私に祖のことを教えないことで、それが明らかとなった。
全ては、出自の偽装の問題が、無鄰菴として形となり、
裏方という存在が発生し、要因を占めているのではないか。
また、大河内輝声の短命なことが大きく影響されていると考える。
無鄰菴が開設されたのは1894年ごろなので、
徳太郎の祖父にあたる輝声は享年三十四歳で既に他界している。
輝声が生きていれば、政界に影響力をもたらし、
祖を示す裏方などについて助言できると考える。
何故なら、父の氏秀は婿養子という形であるため、
父よりは祖父の方が、祖を示すことを高崎藩という私生活において、
継承し、熟知していると考えるからである。
そうまでして祖を示さなければならないのかと疑問に思うが、
無知なゆえに、大きな隔たりがあるのだろう。
いずれにせよ、松田宗家秘話による宿命である。
朋友
余談ではあるが、霞拳志郎が、至輝のちょうど二倍の、
第六十二代北斗神拳伝承者]とあるので、
世代は合わないが、私に宛てた、主人公なのではないか。
それゆえ、松田宗家の代数は私の代が三十一代で整合している。
松田宗家は八百年の歴史、それと比べて、
北斗宗家は二千年なので単純に倍の設定になっている。
霞拳志郎は「閻王」と呼ばれ、閻王とは閻魔大王のことであり、
仏教の地獄、冥界の主である。
そこから、何やら不思議と祖と私に通づるものが見えてくる。
蒼天の拳の中で、頻繁に発言される言葉は中国語で「朋友」、友人のことで、
山縣有朋の諱をクロスして紐付けている。
本作では、「朋友」を親友という表現で使用している。
山県が旧字の山縣としているのは、三条を三條としていることと同じで、
「九(字)」つまり、松田宗家とそれに掛けていると考える。
要約すれば、山縣有朋は大河内輝声の「朋友」即ち、親友というにことになる。
親友であればこそ、大河内輝声の短命により後世に響き、
祖を示すことの冷静な判断を担うことができ、正しき道へと導いてくれたと思うのである。>
因みに中国語では、親友は「好友」や「挚友」がその意味に使われる。
「北斗の文句は俺に言え」という霞拳志郎の決め台詞は、
「松田の不祥事は俺に言え」の代替ということになる。
無論、北斗神拳は使えないが、霞拳志郎は、私に少し似ているのかもしれない。
遊び的な関連付けは残念な点もあるが、そのように考えるのも、悪くはない。
共通点は、設定が三十歳という点に於いて、私も三十で独立し、
数年後に幼き頃から見え隠れしていた己の底に眠る、真の力を知るのである。
写真やデザインはさて置き、現在のところは、ピアノがその集大成であろうか。
離れて長いこと弾いていないので、また、やり直さなければならないが。
蒼天の拳は、作品が世に出て、何年後かに数話程度DVDで見ただけなので、
全く以て意識したことはないことはお伝えする。
己の真の力を知るからこそ、今日があると言える。
幸一郎は、その寡黙さゆえに、
松田宗家三十代当主松田幸一郎(仮名) → 第六十四代北斗神拳伝承者]霞拳四郎(ケンシロウ)
× 遡ってクロスしている。
松田宗家三十一代当主三条至輝 → 第六十二代北斗神拳伝承者]霞拳志郎
もしくは、その流れの通りに未来と考えるのも、趣があるのではないだろうか。
拳四郎は幸四郎で、輝耡でもあり、
拳志郎は輝聴でもある。
輝聴は、至輝の六親等に当たるため法的に親族となる。
相法律上、六親等内が親族関係にある。
家祖と始祖
話は遡るが、山科家の家祖は山科実教で、始祖が平家からの養子の教成となる。
それに合わせて、松平大河内宗家の家祖は大河内輝声で、始祖が輝耕となる。
奈良松田家も同じく、祖を示すために松田に復し、松田氏秀が家祖で、始祖が徳太郎となる。
このような形式も、稀であると同時に、山科家からの出自を示すことを目的とし、
頼盛から始まる、松田宗家である証としている。
また、輝耡は頼盛と同じ、三回名を改めていることが自ずと見えてくる。
山科教頼 → 松田頼盛 → 今川国氏
松平輝耡 → 戸田氏秀 → 松田氏秀
今川家の「氏」という通字からも示されている。
輝耡もまた、頼盛同様に、新たな門出となる起点になるべくして、
松田宗家を示す新たな戦いが、徳太郎に託され、始まりを告げた。
松田宗家
真実
左丞相家
第一代 松田頼盛(1243 - 1282)− 本姓 藤原氏
第二代 松田頼直(1269 - 1329)− 本姓 藤原氏/検非違使・左衛門尉
第三代 松田頼貞(1299 - 1359)− 本姓 藤原氏/左京大夫/権中納言
第四代 松田頼近(1326 - 1370)− 本姓 藤原氏/大夫判官/権中納言
第五代 松田頼源(1356 - 1400)− 本姓 藤原氏/左京権大夫/権中納言
第六代 松田頼仲(1397 - 1434)− 本姓 藤原氏/室町幕府管領/左兵衛督/権大納言
第七代 松田善通(1423 - 1471)− 本姓 藤原氏/権大納言
第八代 松田頼済(1458 - 1520)− 本姓 藤原氏/権大納言
第九代 松田信頼(1497 - 1571)− 本姓 藤原氏/検非違使別当/太政大臣兼左大臣
第十代 松平家頼(1521 - 1573)− 本姓 松平氏/別名 松田家頼/大膳大夫/検非違使別当
第十一代 松平頼信(1530 - 1578)− 本姓 松平氏/別名 松田頼信/関東管領/左大臣
第十二代 松平達頼(1534 - 1582)− 本姓 松平氏/別名 松田達頼/右大臣/太政大臣
第十三代 松平頼勝(1567 - 1636)− 本姓 松平氏/別名 松田頼勝/検非違使別当
第十四代 松平秀康(1574 - 1607)− 本姓 松平氏/別名 松田頼通/左大臣
第十五代 松平信綱(1596 - 1662)− 本姓 松平氏/別名 松田信綱/検非違使別当/太政大臣兼左大臣
第十六代 三条輝綱(1620 - 1672)− 本姓 松平氏/左大臣
第十七代 三条信輝(1660 - 1725)− 本姓 松平氏/左大臣
第十八代 三条信祝(1683 - 1744)− 本姓 松平氏/左大臣/太政大臣
第十九代 三条輝高(1725 - 1781)− 本姓 松平氏/太政大臣兼左大臣
第二十代 三条輝和(1750 - 1800)− 本姓 松平氏/左大臣/太政大臣
第二十一代 三条輝延(1776 - 1825)− 本姓 松平氏/左大臣/太政大臣
第二十二代 三条輝承(1817 - 1839)− 本姓 松平氏/権中納言
第二十三代 三条輝徳(1820 - 1840)− 本姓 松平氏/権中納言
第二十四代 三条輝充(1822 - 1862)− 本姓 松平氏/権大納言
第二十五代 三条輝聴(1827 - 1860)− 本姓 松平氏/左大臣
第二十六代 三条輝照(1848 - 1882)− 本姓 松平氏/左大臣
第二十七代 三条氏秀(1872 - 1924)− 旧姓 松田氏秀/本姓 松平氏/宮内事務官兼式部官
第二十八代 三条輝重(1890 - 1940)− 旧姓 松田徳太郎/本姓 松平氏
第二十九代 三条輝治 − 本姓 松平氏/旧姓 松田幸太郎/呉服店主
第三十代 三条輝政 − 本姓 松平氏/旧姓 松田幸一郎
第三十一代 三条至輝 − 本姓 松平氏/元名 松田実/設計者
考察
丹後松田氏系図によると、心源は頼源に置き換えることができる。
それは、頼源は1514没とあり、位置的に年代が合っていない。
また、頼邦流の頼房のところに不可解な年範囲が記載されており、
1508 - 18とあり、十年で没すれば、婚姻どころか、子供も授かっていないと考え、
これは、頼源の1514で没する場所を示している。
妥当な場所は、頼源は同じ「源」の字がある心源に置き換えることを暗示している。
宛頼は、単に宛ての諱のため、『見聞諸家紋』に記載されている松田頼済は、
宛頼の位置に入ることになる。
従って、前記の内容となる。
松田氏系図に誤表記した理由は、分家した家柄を示すためと、
隠れた祖を匂わすためである。
中納言、大納言の考え方として、頼仲が大納言まで昇進した関係で、
前の代までが、中納言を示すために頼仲に改名した。
次に、信頼が左大臣に昇進することにより、
頼邦流(東家)である、頼言に改名し、納言が左隣のひとつ前の宛頼までを示す。
左隣とすることで、信頼の左大臣を表す。
頼言(のぶとき)と信祝(のぶとき)を目印として「とき」を合わせている。
最後に、輝承と輝徳は二十代前半の短命のため中納言、
輝充から輝聲(輝声)までは大納言。
輝聴は大河内松平宗家からの養子なので、その前は大納言。
輝聲は大河内輝名と改正したのでその前も大納言。
一男の輝耕が大河内の継承者なのでその前も大納言。
「頼仲」と同様、輝耡は四男なので四代前の中納言を示す。
凡その松田宗家の官職の年齢
中納言:十三〜二十の間
大納言:十六〜三十の間
左大臣:二十〜
太政大臣:三十〜
※尚、これは極官の太政大臣まで昇り詰めた家頼から想定される年齢で例外も想定される。
※検非違使別当は、副線とある大河内の家名から、大納言と兼務している可能性は高い。
左大臣
左大臣の任期に関して情報によるとたまに、年数が飛んでいる部分がある。
これらは、松田宗家が任期したところと考える。
また、注釈のあるところと、還任ということころはそうではないだろうか。
細かいところは定かではないが、
その他、三条は限りなく怪しくは感じるが、実際のところ不明である。
そうすると、また、前頭に記述した内容も見直さなければならない。
しかしながら、左大臣は検非違使別当のように、長期不在とは行かないと考えるので、
表向の相当なる人物を、ある程度適当に記されたものが、
混在していると考えれば自然である。
注釈や、間が空いていることが、それを匂わせている。
松平氏の誕生
松平信綱の名称に関して、
織田信長は、1549年に「藤原信長」と署名としていることから、
藤原は本姓の藤原氏を用いた名称であり、
織田信長であると同時に、藤原信長でもある。
織田信長は初めに平氏の本姓を称し、平信長であることから、
藤原信長でもり、双方に相違ない事実である。
これを本姓にしたのが、「松平氏」で、
「惟任」と同じ天皇から賜り受けた、賜姓である。
天皇の側近ゆえに、その事実は誰も知る由もない。
そこから、家頼は「太政大臣」まで昇進したことがわかり、
松平元康から松平家康、そして、徳川家康が、「松平氏」の賜姓を示す。
つまり、松平家康は松平家頼であることを示し、
徳川家康が、松田家頼でもあることを示す。
「川」と「田」は親子関係にあり、川から田へと水が供給されることから、親は「松田」にあたるため、これもクロスしている。
それらを踏まえ、松平家頼から松平の賜姓を名乗り、
藤原氏同様、松田から本姓である松平とし、信綱もまた、
信長の署名であるように、惟任光秀同様に、松平の本姓を名乗り、
松平信綱と史実上の表記とし、 それら信長と関連づけることも含め、「信」の字を諱に用いていると考える。
また、奈良松田家が示すように、別名で松田の姓を称したと読み解ける。
松平元康が誕生するとともに、松平氏は誕生した。
誕生の経緯は、血筋も、家柄も双方に、松田家の根本となることであり、
どちらも相違なく、大切にしたい想いから、
松平氏が生まれたと読み解かれる。
従って、伊勢平氏維盛流と藤原北家四条流、
閑院流を表す松田家の「氏」である。
松平は、平氏を強調するのも、その血が、現状の己を作り、
血筋を大切にしている証でもある。
松は、松田の松であるから、藤原北家であり、
松田の始祖の頼盛の想いを尊重し、象徴する。
江戸幕府の征夷大将軍である徳川家康が、
譜代大名に松平を賜姓として振る舞うたのは、松田家からの分家である皆が、
松平氏であることを示すためである。
三条
輝綱から家名は三条となり、三条に因んだ「輝」の通字としている。
通字の意味はのちに説明するとして、
次に見える、信祝はクロスを示すための点を強調する諱として、
信綱が己の功績を祝して三つ扇としたことに紐付けている。
「扇」の漢字の成り立ちは、
戶と、羽(開閉する)とから成り、開閉するとびら、転じて「おうぎ」、あおぐ意を表す。
連想される熟語として、「扇情」「旋条」「施錠」。
このことから戸田との婿養子という紐付けがあり、扉の錠に三つ扇とかけ、
三条の家名を示している。
「旋条」は、雑賀孫市(鈴木重秀)を表す言葉であり、
京都御所にある、六種の松と一緒に植えているススキ、
そして、その近くにある「聴雪」の茶室から、
三条である証が導き出される。
鈴木重秀は、戸田氏秀、戸田氏重からも関連づけられ、
「施錠」から転じて「旋条」の意味を暗示している。
大垣藩戸田家は「藤原北家閑院流正親町三条家庶流」と称していることを合わせ、
行き着く先は同じ「三条」。
それと「扇情」という言葉は、猪熊教利を示す言葉になる。
烏丸光広をはじめ、猪熊教利が人の欲望をあおり仲間としたことから、
その熟語に掛けている。
付け加え、「氏重」の「重」は、中国語の発音は[zhòng](ヂォン)で、
根本となる血筋の伊勢平氏の伊勢や、伊勢神宮は三重県にあることから、
さんじょうを示す県名の意図がそこにある。
北条家は元々、伊勢という家名である点から、三条を示す。
氏秀からは祖を示すため、猪◯問題の出自偽装を晴らすため、止むを得ず、
旧姓の松田を称している。
謎を解明にするに至り、三条の三[San]は英語のSunであることを確信した。
つまり、太陽のように輝く、だから通字は「輝」なのである。
新・三条家は「至」ゆえに、「至」は「雪」であるからして、
「至」は、「太陽の光で雪がこの上なく輝く」の意。
三条家は、雪の光のように、
美しく輝く白銀の世界へと、
朋と共に、皆と共に、
輝くのである。
三条のサンは、山科の山であると共に太陽[Sun]。
それは、日本国の象徴である日の元の日であり、
日本国を背負って生きてきた家系である証。
至輝(元名 松田実)は、三条実美が転法輪三条家三十一代なので、
松田宗家三十一代当主であることと同時に、「三条至輝」であること示す。
元名の諱が一文字なのは、いつか秘話を解き、己で一文字付けるなりして、
「三条の真の名称を完成させよ」との使命なのだと解釈する。
おそらく、氏秀の代で、祖を示す、
目的を達成するまでの流れの構成を説いたと考える。
その時に、三条実美と同じ代の松田宗家三十一代に該当する当主が、
再興請負人の使命を担う。
霞拳志郎は、魔都上海編では、最後に真の伝承者]になるため天授の儀を行い、終えている。
秘話を解き、「三条至輝」に名を改めることにより、真の継承者となるのであろう。
然れど、至輝を霞拳志郎と解くならば、先代は最低でも、丹後の松田氏が先祖であることぐらいは、
告白するべきと考える。全ては、祖を示すことの過ちから、冷静さを欠いた結果であると見える。
今でなら、インターネットの普及により、当たり前のように情報が素早く手に入れられる時代ならば、
想定できたものを、先代は、松田氏が二十八万人もいることはいつ知れず、
松田氏と言えば、丹後しかないと思うていたと言うべきであろう。
丹後の松田氏は、そのほとんどが名称を分家により改めていることや、
資料から伺えるに、二十八万人の内、元々の秀郷流が多くを占めていると考える。
その全ては、同じ魂の導きである。
本姓
松平三条家の本姓は、次に三通りある、
松田宗家松平京家流 松田宗家だけを指す本姓
松平京家苑寺流 輝綱以降の三条となる系統を指す本姓
松平京家流 松田家始祖の頼盛の嫡流以下の家々を表す本姓
鍵となる主要人物
越後上杉家 総合的な関連する事柄
越前松平家 総合的な関連する事柄
松田頼盛 松田家の祖で嫡流を示すと同時に今川家の祖
松田家頼 徳川家康との関係、鹿苑寺流
松田頼通 左大臣、太政大臣を示す
織田信長 平氏(西家)、藤原氏(京家)を称
明智光秀 惟任の賜姓や諱及び西家
徳川家康 家頼から松平氏と太政大臣を示す
鈴木重秀(雑賀孫市) 三条と事件の結びつき示す人物
松平信綱 司令塔
松平信祝 要点となる人物
松平輝聴 要点となる人物
大河内輝声 起点となる人物
松平輝耡(戸田氏秀) 起点となる人物
松田徳太郎(戸田氏重) 祖を示す執行人
山縣有朋 無鄰菴の想い
徳川秀忠 教利の出自偽装犯
猪熊教利 猪◯事件当事者主犯格
烏丸光広 猪◯事件当事者
分家と継承の真実
上杉謙信は、長尾景虎の時に、上杉憲政の養子となり、上杉家を継承した形となるが、
上杉謙信は上杉家の家名を継承しながらも、
家紋を変えていることから、養子ではなく、独自の分家として、
上杉家を背負うた形であると考える。
つまり、長尾景虎(謙信)は、上杉家という家を分家にて立ち上げ、
山内上杉家の関東管領など役目を引き継いだことが真実と捉える。
上杉憲政には龍若丸、憲藤、憲重、憲武、長憲の実子がおり、本流はそちらにあり、
大名などの立場から身をひいた形と考える。
何故なら、松田宗家は朝廷の最高権力者であり、
その実権を天皇から委ねられていると考えるからである。
無論、松田宗家は、天皇の使いであるのと同時に、助言者であり、
太平の世に導くことを念頭においていたと考える。
以前より兼ねてから、室町幕府三代将軍足利義満の鹿苑寺からも窺えるように、
松田宗家は特質な存在であったように思われる。
また、松田宗家が影になることにより、
心理的に家と家のつながりが松田家で遮断されるため、
無慈悲に戦が行うことができると考える。
それと、公家出身よりは、源氏などの武家出身の方が箔が付く上指揮も高まり、皆がまとまりやすい。
松田家からの分家した始祖は松田家の存在を存じていると考えるが、
その後、二代目、三代目になるにつれて次第に薄れていくように思われる。
とは言うものの、祖を示すことの、名称などによる関連付けは継承されていく。
中には、山縣有朋のように、松田宗家を認知している家も少なくはあると見える。
松田宗家は、棋士みたいなもので、駒を指すことと同じように、
分家により、有能な武将を日本全国に配置していくことを担い、
天下太平の世へと、導いていったと考える。
そのまま、何も策を講じなければ、延々と戦国の世は続いている可能性は否めない。
日本の国々を、能力のある武将で統治することにより、国々に統一性が生まれ、
戦の中で武家の主導者を決め、急速に天下太平の世を作り上げたのであろう。
戦い抜いた武将は救世主ではあるが、その源であり、構想者が松田宗家、
乱世の真の救世主。
そして、出自の闇を光に変えるため、真実を伝えるため、
松田徳太郎に託され、神をも越えなければならない宿命となり、
我が命となる。
至輝の境地
二十代後半に、関西から、関東へと場面が移り、
全てが悪循環となり、気付けば私は集中治療室の上で目が覚めた。
緊急手術の末に、私は生きていた。
深夜一時ぐらいの出来事である。
死亡率は20%ぐらいと聞いていた。
入院期間は三週間程度。
つなぎの仕事をしていため、入院前に応募していた企業に、
入院中に外出し、面接を受けた。
それは外出許可を得た当日のことである。
入院中は、比較的何も考えずにとても穏やかに過ごした。
同じ入院していた人が「入院してからもう二年だぜぇ。いつ退院できるのやら。」
との言葉が、鮮明に記憶に残っている。
生きていたことは紙一重であり、迷うた末、私は己で救急車を呼んでから、
時間の経過により痛みは和らぎ、呼ばなくてよかったのかもと思うたからである。
とは言え、のたうち回るを通り越して、身震いするほどの激痛を、
経験してもなおそう思うのだから、そのような気質が、家系にあるのではないか。
その気質とは、己で全て解決しようとする無意識。
それは、第八識の阿頼耶識。
宇宙の万有を保って失わず、万有が展開する際の基体であるもの。
つまり、物が存在し続ける間、物が生かされる方向を示すもの。
阿頼耶識的なものを描く漫画が次にある。
聖闘士星矢 エイトセンシズ
調べたところ、このようにある。
セブンセンシズ(第七感)をさらに越えた第八感。 阿頼耶識(あらやしき)、八識ともいう。
小宇宙の最奥にあるために常人は生前に気づくことはなく、
死後にセブンセンシズを含む全感覚が途絶え、その後に発現する。
死にながらも、発現することが奇妙な話ではある。
死後ということで、魂であることを伝えているのであろう。
仕事中に立てなくなってから、目が覚めるまで七時間。
立てなくなってからも、休憩し、終業時間を迎え、歩けるようになったので、帰宅した。
十分誰かに相談できる時間はあった。
相談することを知らない上に、病気は時間の経過と共に治るとの思想である。
親は私に何も教えない上、何も関心がない。
おそらく、親は、裏方から何かしら私の情報を常に聞いており、
それで満足していたと考える。
このことから、裏方の存在が不自然な環境を作り出していると証明できる。
周りの関連付けに振りまされた結果不幸に苛まれた。
無鄰菴の悲劇と言うべきことであろうか。
後遺症は無い。
このことから言えることは、我が家系において、放置することの危険さを戒めること。
右も左もわからない状態で放置すれば、己で全て抱え込み、烏有に帰するというよりも、
その魂をも失う結果となろうものぞ。
即ち、九仞の功を一簣に虧く。
また、導くことこそ、親の真の愛と言えよう。
そもそも、母親は私が生まれた時から仕方なく育てていた印象がある。
心は母親でなかったように思われる。
不自然な環境から自然と、親の心では無くなるのかもしれない。
不自然な環境に於いて、親として不自然な心になると言う点で合理する。
母親は、子供は大して好きではなく、先代が好きで、一緒になり、
子を産み、中絶を少なくとも私の前に二回していることから、
母親の心では無くなったのではないかと推測する。
心構えの問題と、不自然な行為の結果である。
死することの紙一重の真意は、魂的なことも一理はあるが、
母親は私に関心を持たないから、何かに苦しんでいても、
何も聞こうとしない。私は己で解決することに努めるのである。
それでも私は、当時親への関心は僅かだが、どちらかと言えば好きな方である。
私は思うに、結果論ではあるが、初めから裏方は必要なく、
氏秀、徳太郎から堂々と三条を名乗り、
自然に、世の中に貢献できるように努めれば、
十二分に祖の関連された事柄と、
必要最低限の関連付けだけで、いずれ信用は得れると考える。
宗家が断絶すれば、本末転倒である。
当然ながら、当時インターネットなどの環境はないわけだから、
想像もつかないことであり、全てが未知なことゆえ、感情に押し流される。
正当な方向で、一念通天の志で臨めば、成就するのである。
一念通天に至る境地とは、至輝の無の境地。
それは、無意識おいて、至宝となる万象の境地。
至宝の定義とは、己にとって至宝と感じるものであるが、
主観のため、誰にでも言えるからこそ神秘であり、夢がある。
裏方
裏方が有る状態と、無い状態を考えてみる。
有
裏方がいれば、松田宗家以外の第三者が日常の一部となるため、
祖を示すことを強制されているのと同じである。
一見、祖を示すことを助けてもらえているように見えるが、
周りの関連付けを常に行うのだから、重圧となり、
常に祖を示すことの関連付けを押し付けられている状態となる。
それが何年も続けば、洗脳され、常に関連づけなければならないと言う頭になる。
良いことも悪いことも、少々無理をしてでも、関連づけられるものは関連付けなければという思考になる。
良いことだけを選び関連づけようとするならば、社会的地位や、経済的余裕がなればならない。
ゼロからの出発とし、裏方がついた時点で、悪い方向に進むことが確定している。
始祖の徳太郎は裏方のいない、普通の家庭環境に育ったと考えるので、一代で、
そこそこの財を築いたと見えるが、その後は幼き頃から祖を示すことを教育され、洗脳された状態であるため、
人間関係がうまくいかずに、悪い方向へ進んだと考える。
無論、その背景には無鄰菴という、想いが上乗せされ、圧力としてある。
人間関係がうまくいかない理由は、予め先祖の関連事項を、第三者の裏方が常に出会う人に吹き込むため、
人は構えてしまい、関連づけのために動き、心から打ち解ける仲にはならない。
これが人間関係で生じる不自然さである。
その吹き込まれた内容と、利害が一致しなければ、去ってゆき、時に、牙を剥くのである。
自然な状態を考えるならば、祖のことは己から発しなければならない。
結果的に、寄り添う人間は何人かできるが、親友どころか、人間関係の広がりにはつながらない。
先代は、祖を示すことにおいて苦い経験をしため、
三十一代目の私には、祖のことを何も語らなかったとしか考えられない。
語れないから、余計に、祖の関連付けに振り回され、
裏方の存在も知る由もないのだから、精神的に追い込まれて行くのである。
これが、悪循環であり負の連鎖。
細かく言えば、神に歓迎されない命が存在しているだけに、
無理が生じている分、日常的に悪循環は起こっている。
私が裏方を知ったのは、丹後の松田氏家系図の前後を解き、直系の祖が津山松平家と
勘違いした時に、それが誤りだと悟らすために、見えない形で私の前に現れた。
とは言え、言葉も何もないので、己で間違いと気づくしかないのである。
無
裏方が無い状態は、私に祖のことを秘密にすると言う発想が生まれることは先ずなく、
自分のペース配分で、家族のことを考えながら、必要最低限だけで、
関連づけることができると考える。
その結果、少なくとも親族関係は良好であり、それが良い方向に進んでいる証である。
機を熟せば、書物などで公表すれば、良いことであり、
それを個々に信じる信じないは、時の流れに任せれば良いことである。
私が経験してきた限りでは、人生に於いて何を選択するのも、第一に関連づけること優先している。
そこに留まっていれば良いものを、関連づけるために居住を変える。
居住も、複数関連された地名を選ぶ。
一つ例えれば「大阪市城東区今津中」。
関連付けに振りまされて、人生が良い方向に進むはずがない。
選択式の試験を、賽の目で選び、臨むのと変わりない。
そこに美しい未来はない。
過失先
漫画などに、アイデアを流す必要もなく、宗家の情報は我が家系の財産の一部である。
明治政府が四民平等と主張いる以上、全ての非は、裏方の人件費を出しているところになる。
四民平等に反する行為であるため。
簡単に言えば、真に余計なお世話ということになる。
つまり、無鄰菴の悲劇である。
歴代
信綱という偉大な祖を持つことの宿命を、
ひしひしと感じずにはいられない。
しかしながら、松田宗家歴代でも、
左大臣、検非違使別当となる信頼から秀抜した能力を
有したと見えるので、信頼から至輝までの歴代は、
陰に隠れた形になり、表面化していないだけで、
どれも信綱に比肩する潜在能力は持ち合わせていると考える。
有能な戦国武将を輩出する基盤となる系統であることから証明されている。
特に室町時代後期から戦国時代、そして少なくとも信綱までは、
武術、兵法と文学に極めるほどに長けていたと推測する。
また、仏教までも我が物にしていた可能性を示唆する
それは、聖闘士星矢の乙女座バルゴのシャカという登場人物の特徴から、
「最も神に近い男」と称され、神に近いは天皇に近いことを指していると考える。
「唯一つ神と違うのは弱者への慈悲心が無いこと」と語っていることから、
天皇は慈悲深いお方だが、宗家は、敵となる弱者には無慈悲なのだと窺える。
太平の世に導くのなら、同じ松田家の出自とて、容赦なく討ち払う。
そこから、その時代の目であることを示している。
乙女座は、黄道十二宮の六番目の星座である。
宗家は、武術や兵法、文学、仏教、全てにどれほどの実力かは定かではないが、
一つ言えることは、洞察力に最も優れたいたことは推測できる。
時の目になるために、研ぎ澄まされた洞察力が必要とされる。
洞察力を高めるには、その時代の必要な能力を、経験として、知識として備えることが不可欠であり、
挙げた分野を、ある程度極めなければならないことが読み解ける。
また付け加えて、政治的必要とする教養はもちろん、医学や芸術などにも教養があると見受ける。
聖闘士星矢は、サガが黄金聖闘士の中で最強と称されているが、
真の最強は、シャカとしていると考える。
それと宗家を比較して、何を以て最強なのかは定かではないが、
聡明叡知であることと、地位として、
天皇の次の位であったことは事実と捉える。
例えるならば、特出する能力値が異なる明智光秀の進化系ではないだろうか。
黄金聖闘士は十二あることから、南部家の猶子に入った、
頼近から家名が三条に変わる前の信綱までがちょうど十二代となるので、
それを合わせて、別視点で示していると見える。
そこから、黄金聖闘士に優劣はないと言う見方があるのでないか。
六番目の乙女座のシャカにあたる、信頼が戦国時代の乱世を、太平の世に導いた、
立役者ではないかと考えられる。
それは、宗家が奈良の地を新たな起点と選んだことから、後奈良天皇を示し、
後奈良天皇が座位した期間が1526年から1557年で、信頼が左大臣、
太政大臣を務めた期間と重ね合わさるでのはないか。
後奈良天皇が誕生した日は、1497年1月26日(旧暦 明応5年12月23日)であるので、
もしかすれば、誕生日さえも同じなのかもしれない。
もしくは、生まれ年が同じ、1497年の毛利元就が信頼ではないだろうか。
そして、信綱がその「信」の字を賜り、信頼と信綱共々、太政大臣兼左大臣を示している。
付け加えれば、平成天皇が12月23日生まれで、平成の期間が三十一年であるのと同時に、
後奈良天皇の座位した期間と合わさる。
おそらく、ご高齢で体力の限界はすでに達していたが、三十一年間と、
そこまで座位の期間を伸ばしてくれたのではないかと推測する。
存命であられる天皇は、女系で宗家とつながる。
後奈良天皇の母親は「勧修寺藤子」である。
関連とする、義賊として伝説化された鼠小僧も元を辿れば、松田家の出自なのであろう。
因みに、後奈良天皇の父親の後柏原天皇の母親は「庭田朝子」である。
宗家と皇室とは、親密関係であったことは確かである。
然れど、毛利元就が直系の祖であることは、祖母が廣島県山縣郡に本籍があることから読み取れ、
廣島県は、安芸国を治めていたことから示されている。
奈良松田家の本籍は、奈良県磯城郡(しきぐん)となる。正式名称は、松田信頼か毛利元就のどちらかは定かではないが、元就二十歳の時の有田城合戦が初陣として史実に刻まれているため、少なくとも三子まで宗家の後裔を授け、毛利元就と名を新たにもうけたと考える。松田信頼が陰の名前となる。
時代は移りゆき、形は違えど、
皆、ケンシロウであり、カタカナが特定の者に該当しない理由である。
人の心は時間と共に変わるのであろう。
そして、霞拳志郎が誕生した。
その言葉を私になりに言葉を変え
「松田の不服は私に申せ」「你已經死了」
そこから読み解けば、宗家は一子だけに宗家の象徴の家紋を引き継ぎ、
松田宗家を秘話を伝える役目を担う。
代々、現在に至ること。
三条輝守
先代の祖を示す、主要な関連付けとして、
「輝守」は、渡辺守綱と松平信綱を結びつける名称である。
渡辺氏綱が家祖で、旧名の戸田氏重と紐付け、松田徳太郎を示す。
渡辺守綱は三代目となり、奈良松田家の三代目の三条輝守の「守」と紐づけている。
「綱」は松平信綱を示す。
松田宗家の三条に家名の変更を示す、三条家三代目の松平輝祝は、
渡辺守綱と同じ頼済流である江馬時盛と江馬輝盛を示し、完全に関連づけられている。
「江馬時盛」は「北条早雲(伊勢盛時)(松田頼済)」のことを示し、
松平輝祝と合わせ、クロスしていることを表している。
また、三代目ということで北条早雲と合わせ、重ねて三条を示す。
「祝[Toki]」と「時[Toki]」は、山科家の通字の「言[Toki]」、
それと「至輝」の元名「実」の一文字の諱と合わせ、元来の渡辺氏と、
山科家の出自を示すことになる。
然すれば自ずと、松平信綱は「松田信実」のことになる。
何故なら、松平信綱は山科実教で、三条家の始祖と山科家の始祖であること示し、
家祖は実質二代目になる松平輝綱(三条家)と山科教成(平氏)、
これは、松田氏秀(戸田氏秀)と松田徳太郎(戸田氏重)と松田輝守もそれに倣い、
始祖が松田氏秀で、家祖が松田徳太郎、実質四代目が輝守と重ねていることから、
このような構成であることが示されている。
山科実教と徳大寺公親の関係から、松田宗家の四代目頼近の南部家猶子をも示している。
松平信綱の名称は、松田信実から松田正永、松田信綱、そして、
三条信綱へと変わったことだけが真実となり、
松平信綱は、惟任光秀や羽柴秀吉と同じように、
本姓の氏の名称の呼び方と同じであることが読み解ける。
豊臣秀吉は、羽柴秀吉であり、藤原信長は織田信長であり、惟任光秀は明智光秀であり、
松平信綱は三条信綱である。
山科家始祖の「山科実教」であり、徳太郎の徳と合わせ、実教の実父である徳大寺公親。
徳大寺は清華家であり、松田宗家は、清華家であることを示すと同時に、
同じ頼済流の徳川家臣の「酒井忠次」を指し、
「酒」はつぐ(次)で、「酌[Shaku]」で意味の「酒を杯にくむ」に掛け、
公親から公爵であることも示している。
三条に関連したことを付け加えれば、
松田宗家の二代目の分家にあたる、
頼直流の村上義日(よしてる)から「日」を「輝」に変え、
太陽であることを示すことのそれは英語の「Sun」であり、
輝声の資料にある、東京に英学校設立を踏まえ、
漫画にある東京大学物語の主人公は「村上直樹」であることから、
大河内輝声が東京大学の創設者であることを示していると考える。
また、村上義日の官職は左馬権頭であるため、左大臣を示している。
それから、輝声の資料にある「安政6年」から始まり、「重税を課した。」に終わる部分は、
ほぼ出鱈目であるように見える。
松田頼盛
松田家祖の頼盛を示す鍵となる言葉を次に記す。
松田八郎左衛門尉頼盛
誕生年 一二四三年(寛元元年)
伊勢平氏維盛流(桓武平氏流)
山科頼定の実子八人兄弟 → 八郎左衛門尉
頼盛(山科頼房)は四男 → 頼盛の子、頼直、頼成、先手姫、頼行の四人兄弟
山科家は羽林家(北斗七星)で藤原北家四条流
三条公親へ頼盛の娘先手姫の養子 → 第七皇子久明親王(頼盛の実の孫)
先手姫は三番目の子
今川国氏 → いまがわくにうじ → うじ → うし → 牛
松田 → 木をとれば「鬼」
徳大寺公親(閑院流) → 清華家 → 雪華模様(三条実行/松田頼行) → 定紋 松田唐花
山科家第六代 山科教行(頼定六男末子) → 松平北家家祖 松田頼行(頼盛四男末子)
松 → 木をとれば「公」 → 公家 → 公爵
三条は三画と七画で十画 → 條 → 攸+木 → 木は八をとれば「十」
松田宗家
菩提寺
岡寺
山号 東光山
院号 真珠院
寺名 龍蓋寺
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
寺紋 上り藤 輪違い
創建年 七世紀末頃
開山 伝・義淵
中興 法住
所在地 奈良県高市郡明日香村岡八〇六
名称について
「東光山 真珠院 龍蓋寺」であるが、
古来の土地の名から「飛鳥の岡にある寺」から
岡寺」と親しみを込めて呼ばれその名で知られている。
十三重石塔とは
岡寺の龍蓋池の上部にある十三重石塔は、
大正時代に、松田徳太郎を筆頭に寄進された石塔である。
石塔の大きさは、鹿苑寺流に因み三十三尺と思われ、
現在の価格として、調べたところ一億二千万以上。
これは素材として、日本の最高級の庵治石の細目を使用した場合であるが
祖を示す事柄から、庵治石を使用したことが読み取れる。
少し安価のものとして庵治中目があるが、
写真から窺えるのは「庵治細目」であると思われる。
市場の算出は、「庵治細目」で八寸の墓石を作成した場合の三百万から
導き出し、加工や施工費などを考慮した価格帯である。
近江和田氏が摂津国半国守護であることから、半分を治めるので、
徳太郎は半分の費用を収めた事実が見え、至輝に物語る。
十三とは諸説あるが、古代中国の「五行思想」に由来する説がある。
五行思想とは、万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の五種の元素から成り立つ思想で、
骨に通じ白色を意味する「金」は、数字で表すと四と九にあたるため墓所にふさわしいとされる。
五行は自然現象の四季の変化を観察し抽象化された、
自然現象、政治体制、占い、医療などの様々な分野の
根本となる性質の周期や相互作用などを説明する五つの概念。
五つの元素は単に基本要素だけはなく、変化中における
状態、運動、過程という捉え方もされる。
木(もく)
「春」の象徴で、木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となり、
樹木の成長・発育する様子を表す。
火(か)
「夏」の象徴で、光り煇く炎が元となり、火のような灼熱の性質を表す。
土(ど)
季節の変わり目「土用」の象徴で、植物の芽が地中から発芽する様子が元となり、
万物を育成・保護する性質を表す。
金(ごん/こん)
「秋」の象徴で、土中に光り煇く鉱物・金属が元となり、
金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。
水(すい)
「冬」の象徴で、泉から涌き出て流れる水が元となり、これを命の泉と考え、
胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。
この石塔は徳太郎筆頭に宗家の墓所として建立された可能性を示唆し、
以上から岡寺の四季を訴え、墓所を意味する「金」の概念である「秋」の象徴の
その主旨から松田宗家歴代へと流れ重きを置く。
五つの元素は変化中における状態などの点において、
秋から春の季節の変化や次の梵字にある千手観音であることも重ねて訴えている。
奈良松田家の項目で述べた、秋の紅葉から春の石楠花と蛙の鳴き声。
秋の三条輝照から春の大河内輝声へ、
金は鹿苑寺流で三条輝照を主として表し、
十三重石塔に刻まれた梵字は歴代宗家の墓石である真意を伝えている。
梵字
その石塔の四方面に三段に連なる各約六十名で、
計約二百四十名程の寄進者の名前が石塔に刻まれ、
正面の上段に、十ある名前の中に浦野姓が中央に二つあり、
その二つの内、左側に「浦野徳太郎」と名前が刻まれている。
その石塔の四方面にそれぞれ梵字が刻まれ、梵字の意味は次の通りである。
※石塔から見た位置関係
正面
𑖮𑖿𑖨𑖱𑖾キリーク
阿弥陀如来
西方の極楽浄土の教主で、生あるものすべてを救う如来。
千手観音菩薩
千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、願い事をすべて叶えてくれるという観音様。
左側
𑖀𑖾サク
勢至菩薩
智慧の光をもってあまねくいっさいを照らし、無上の力を得させるという菩薩。
右側
𑖝𑖿𑖨𑖯𑖾タラーク
虚空蔵菩薩
宇宙のすべてのものを含み、虚空のように無量の福徳・智慧を具え、
これをつねに衆生に与えて諸願を成就させる菩薩。
宝生如来
大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。
唯識思想における仏の悟りの境地のひとつ「平等性智」を具現化したもの。
裏側
𑖀𑖼アン
普賢菩薩
優れた智慧で現世のあらゆる場所で人々を救済する菩薩。
文殊菩薩
諸仏の智慧をつかさどる菩薩。
梵字の意味はこのようにあるが、
松田宗家が提唱することは、自然の流れの中で出来た、頂点となる主を中心に、
その周りに、力あるもの、知恵あるものの支えによりこの世は形成され、
それにより平和な世が築かれ、または保たれ、現代に至ることを示している。
阿弥陀如来は生あるものすべてを救う如来、天皇と重ね、
その周りには、宗家の歴代、
そこから子々孫々と繁栄する松田家の出自の者達。
この構図は、松田宗家に限らず、子々孫々と代々受け継がれて行く、
この世の全ての人々であることを表している。
十三重石塔は、奈良松田家の墓の代替であると同時に、
宗家の魂を宿した(思いが凝縮された)松田宗家の墓石であり、
この世の平和を願う石塔である。
勢至菩薩は、阿弥陀三尊から、
阿弥陀如来を中尊とし、向かって右側に置かれる右脇侍。
阿弥陀如来から見たら左側となる。
勢至菩薩は、上杉謙信に重ね、
「輝」の通字としていることから、
宗家の「左大臣」と言う立場に重ねている。
虚空蔵菩薩は、右大臣とある織田信長と重ね、
無量の福徳と知恵は、森羅万象にあるこの世の平和を願うことに通じ、
幸せをもたらす宗家の思想。
普賢菩薩は、宗家の立ち位置を示し、
優れた智慧で救済の支援をすることにより得た人々の幸せが、
宗家の幸せであることの信念であると考える。
千手観音菩薩は、
阿弥陀三尊の左脇侍にある観音菩薩で、観音菩薩の中でも、
キリークの梵字は千手観音菩薩であり、千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、
願い事をすべて叶えてくれるという観音様といわれていることから、
松田宗家の歴代と重ね合わせているのではないかと考える。
それに加えて、千手観音菩薩は、観音菩薩の変化身と考えられていることから、
キリークの梵字は石塔の正面、つまり、表にあり、
観音菩薩は、裏の公家の立場である松田宗家に対し、
千手観音菩薩は、その変化後の毛利元就などの表の顔、
つまり、武家であると考える。
無鄰菴に紐づく刻まれた名称
石塔の名称の中央にある二つの浦野姓ついて、
梵字は石塔の一部と考えるので、石塔から見た位置関係に対し、
寄進者の文字を読むのは、読む人の立場から考えるので、向かって
右側 浦野駒吉 → 辰野金吾 → 烏丸光広
左側 浦野徳太郎 → 永見徳太郎 → 猪熊教利
とあるので、無鄰菴の話を思い出していただき、左側は南家、右側は東家。
つまり、猪熊教利の最終家名である「生駒矢柄家」は東家であることを示している。
また浦野姓は、猪◯問題の裏の性ともかかっている。
重ねて、浦野駒吉は右から数えて五番目にあることから駒は将棋の金将を意味し、
龍蓋池と合わせ、辰野金吾示す。
浦は水ぎわの地であることから龍蓋池を指し、「辰」が浦の代わりに入る。
「野」はそのままで、駒は「金」、五番目で「吾」、「辰野金吾」となる。
浦野徳太郎は誕生日が同じである永見徳太郎を示す。
将棋の「将」は、松田宗家歴代の人物はどのような立場であったかを表している。
「将」とは、軍隊をひきい指揮する人。
つまり、将棋で例えれば「金将」で王を守る要となる立ち位置。
五は「囲碁」ともかけている。
それから駒は、裏の性から猪熊教利の後継である矢柄生駒氏ともかかる。
(十三重石塔の浦野徳太郎と刻まれた画像 → )
(烏丸光広、猪熊教利は奈良松田家を参照 → )
徳太郎は氏重
次の家紋は岡寺の新義真言宗の一つである。
輪違い
この家紋に類似した家紋が次にある。
高氏 家祖 重氏 足利氏執事
徳太郎の別名を記すと同時に上下クロスしていることを示す。
そして、二重にある浦野姓の「二重」と「輪違い」にかけ、
二重直違い紋の相模松田家の家祖の松田頼重から
浦野徳太郎は松田氏重であることが示されている。
高氏の家紋は「寄懸輪違い」とある。
「寄懸」は、「よせか」と「よりかか」と読み方がある。
松田頼重から「よりかか」と読ませたい狙いが窺える。
「懸」の字に山縣有朋の「縣」が含まれ、
岡寺十三重石塔が山麓にあることから、
山縣有朋との関連性を表し「さんろく」から鹿苑寺流を示す。
そこから、「縣」「鹿」を引けば「心」と「林」が残る。
更に分割し「山」「県」「系」「有」「朋(友)」「鹿」「心」「林」の漢字となる。
これらの字から訴えかけることは、
「山」山科
「県」県名
「系」系統
「鹿」鹿苑寺
「心」宗家の志(梵字の意味)
「林」羽林家
「有」有職故実(朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束の研究)
「友」山縣有朋、松平四家
つまり、松田宗家、三条家、大河内輝声、松田徳太郎は、松平四家の
松平京家鹿苑寺流であることが関係性から示されている。
補足として、「新義真言宗」の「義」は武士道の思想である。
すなわち、宗家の志となる。
三室戸寺 十三重石塔の関連性
三室戸寺の三重塔は、江戸時代に播磨国三日月藩の初代藩主の森長俊の手により
建立されたものである。
森長俊の父は長継。関成次からの養子で、関家の家祖は関成重。
したがって、松田徳太郎は、三室戸寺の三重塔と十三重石塔を重ね、
関家の家祖が、関成重であることを示し、
また「三条」名字、「四辻家(室町家)」猪◯問題や室町幕府、「戸田」氏秀の妻や江戸時代を
連想されている。
室町時代から江戸時代ということは、三条の祖(松田宗家)が江戸幕府を開いたと
関連されていることが窺え、
江戸時代になり、猪◯問題が起きたとなる。
十三重石塔は、三重塔の前に咲いている額紫陽花と辰野金吾と合わせ、
東京大学を示していると考える。
また寺院及びその境内に関連する所有物として次に挙げる。
・三室戸寺 室町、江戸時代、徳太郎は戸田家と関わりがあった事実を示す。
・宇賀神 三条家の表の顔、高崎藩の副紋蛇目の家紋を示す。
・阪六 山麓を示す補助的な関連されたもの。
・三重塔 三条の家名と松平氏を示す。
・関成重 美濃関氏の家紋は「鳳凰の丸」であることから金閣・銀閣を指し
鹿苑寺と慈照寺、そして宇治平等院の鳳凰堂を指す。
飛鳥寺西方遺跡
飛鳥寺西方遺跡は奈良県高市郡明日香村にある、
飛鳥時代の宮殿関連施設と考えられる遺跡。
『日本書紀』には「飛鳥寺の西」「大槻の樹の下」など記される神聖視されていた
槻(けやき)を中心とした「槻木の広場」があったと考えられている。
槻の位置に関して所在は明らかにはされていないが、次に絞られたとされている。
・砂利敷欠落遺構
2012年(平成24年)の調査で発見された砂利敷の欠落で、
6mほどの規模で飛鳥寺西門の西正面41.5mの位置にある。
遺構の四方に樹根状に欠落が伸びており、人為的に掘られたものではないとされる。
近くには井戸の跡と思われる円形の欠落もあった。
『古事記』などの神話世界では聖樹のそばには泉や井戸が対になって存在するとされる。
・入鹿の首塚
入鹿の首塚と言われる五輪塔は飛鳥寺西門から西へ23mほどの位置にある。
五輪塔は鎌倉末期から南北朝時代に築かれたと考えられ、詳細は不明。
(Wiki資料参照)
岡寺の所在地からこれらも祖を示す内容を補足する形で重ねて関連性を示している。
鍵となる言葉
十三重石塔
三重宝塔
龍蓋池の上部にある石塔
三段から四方面にある梵字と名前
上段の十ある、中央二つの内の左側
いろは順に六番目にある名前
紅葉(秋)から石楠花(春)と蛙の鳴き声
梵字「キリーク」と「サク」次に「アン」と「タラーク」
阿弥陀如来と大勢至菩薩
観音菩薩から千手観音菩薩
正面(表の顔)と背面(裏の顔)
右と左
石楠花は、無鱗片シャクナゲ節の総称であることも踏まえると、
大河ドラマの「麒麟が来る」の麒麟は、千手観音菩薩のことを指し、
戦国時代の歴代宗家のことを指していると考える。
大勢至菩薩は智慧の光をもってあまねくいっさいを照らし、
無上の力を得させるという菩薩である点から、
上杉謙信(頼信流)を指す。
出鱈目であるいろは順の六番目は、系図の三番目の二乗で武田信玄(家頼)を指し、
その十三番目に当たる歴代は「第二十三代三条輝徳(松平輝徳)」である。
従って、武田信玄(松田祖)と江戸時代の松平氏と奈良松田家が、
同じ家系であることを表す。
無鱗片シャクナゲ節から梵字の「アン」と合わせ「無鄰菴」を示している。
極め付けは「タラーク」、一部出鱈目である。
六観音
六観音は、観音菩薩の変化身を表し、六道輪廻の思想に基づき、
六種の観音が六道に迷う衆生を救う考えから生まれたものとあり、
六道の観音様の摂化は宗派により一部異なり、岡寺真言宗は次の通りである。
地獄道 聖観音
餓鬼道 千手観音
修羅道 十一面観音
畜生道 馬頭観音
人道 准胝観音
天道 如意輪観音
阿弥陀如来は天皇を表し、そのほかの如来と菩薩、六観音(菩薩)は宗家の歴代を表す。
阿弥陀如来[天皇] 宝生如来
観音菩薩(六観音) 大勢至菩薩 普賢菩薩 虚空蔵菩薩 文殊菩薩
[毛利元就][武田信玄][上杉謙信][織田信長][伊達政宗][結城秀康]
大勢至菩薩は上杉謙信を表していることは確かではあるが、
どの人物がどの菩薩であるかは特に該当しないものとする。
十三重
十三重石塔にある十とは、信綱から輝照(輝声)までが自然血族である、
伊勢平氏維盛流にて十代分、
三は、輝照(輝声)から氏重(徳太郎)までが三代、重は氏重の「重」であり、
伊勢平氏維盛流を示すのは「三重」伊勢国であった三重県である。
伊勢氏は後に後北条氏に代わり、後松田家(奈良松田家)の真の家名が「三条」であることを示す。
「浦野」とすることで、浦野姓は元より、「松田」の家名は真の家名ではないことを示している。
つまり、「松田」の家名は裏の姓である。
徳太郎の「徳」は、清華家の祖の徳大寺公親と輝徳を線で結び、徳太郎があることを示す。
また、「太郎」は、武田信玄の幼名を指し、伊勢平氏と合わせ「松平氏」となる家頼流を示す。
「太」は太政大臣の「太」でもある。
輝照(輝声)を表すと共に戦国時代の宗家を示している。
十三重石塔は、明日香村の岡寺にあることから、
明日(未来)の平和を願う石塔であることを表している。
第二次世界大戦では、十三重石塔を何かずれた受け止め方をしたのではないか、
三国同盟や真珠湾攻撃など、関連付けとして行い、
司令塔を失った関連付けは、負の方向にしか進まなかったのではないだろうか。
日独伊の三国同盟はドイツの当時の国旗「ハーケンクロイツ」は鉤十字(逆卍)であるため、
東條英機は、同じ頼仲流の蜂須賀と横山に重ねたのではないだろうか。
伊は伊勢平氏となり、当時のイタリア国旗には十字が入っており、
十三重石塔と真珠湾攻撃を重ねている。
そこに、東條英機は、東條を東京や三条とも紐付け、無鄰菴で出てきた旧漢字や偽装犯の「秀忠」など、
徳太郎の祖を示されている。
三国同盟は第三十九代近衞内閣の時に締結されているので、
その流れから第四十代東條内閣と推移していったが、
東條英機は、平和に対する罪で戦争責任を取らされ、死刑(絞首刑)でこの世を去った。
結果から良い指導者とは言えない。
「十」は戦を意味する「銃」の例えでもあるが、戸田氏秀の資料にある年齢を正す
十を加えた年代、一八八二年が戸田氏秀の真の誕生年である。
短歌
天命に
廻り四方に
刻みしと
平和の祈り
故人の思ふ
令和三年 三条至輝
この短歌は、ロシアのウクライナ侵攻における、
両国の説得時に詠んだ短歌である。
ロシアが一時侵攻を休止した時に、
経済制裁を緩和を促す合図として、
私のインスタグラムの内容と合わせるように
ロシアと中国の爆撃機が日本列島の近くを旋回した時に、
その思いを汲んで、私が代弁すると同時に、
祈る想いで平和への思いを綴った短歌である。
あたかも、岡寺の十三重石塔のことを知っていたかのように、
魂の一致である。
「至」も私が己で選んだ漢字である。
それゆえ、大勢至菩薩の「至」も魂の一致であり、
天からの賜りものである。
岡寺へ訪れる経緯
岡寺は、徳太郎の代の本籍があるところから推測し、
いずれ訪れようと考えていた地である。
石楠花が見頃を迎え、それに合わせ、
祈る想いで、徳太郎のお墓があるのではないかと思い、
訪れた場所である。
住職の歴代墓所はあったが、一般的な墓地は見当たらなかったので、
取り越し苦労と思うた。
また、十三重石塔に松田徳太郎の名前がないかと探すが、
名字を意識しすぎて一度目は見つからないまま見限ろうと脳裏をかすめ、
期待もしない上で再度見直した時に、正面の上部に浦野徳太郎と名前があり、
一旦は困惑したが、冷静に考えたところ住職に十三重石塔のことを尋ね、
大正時代に寄進されたものとご教示いただき、
これは松田徳太郎だと断定できた。
全く何も知らなかったところから、
祖の様々なことが明確になるにつれ、
複雑な心境に駆られるが、
祖は形として、江戸幕府ないけれども、
東京大学、京都大学、十三重石塔と、大切なものを残してくださったと
感慨無量に、誇れるかけがえのない無形有形の遺産である。
石塔に刻まれている名称にて、
浦野駒吉を向かって右側にある烏丸光広に例えていることから、
京都市右京区にある光広の墓所の法雲院を暗示し、
高崎藩松平家の右京大夫と右京亮のスケベにつながり、
松田宗家の墓代わりであると示されている。
十三重石塔は、前記にある戦国時代の歴代六名を弔うことを主として、
建てられたものであろうと考える。
そこには前に述べた、平和の願いが込められている。
石塔が建てられた大正七年(1918)は、第一次世界大戦の終戦の年でもあるので、
全ての思いがここに集約されていると私は確信を得る。
松田宗家の聖地、菩提寺であると共に、
世界平和を願う石塔。
つまり、「菩提寺兼世界平和を願う石塔」。
創設
英学校とは
大河内輝声(三条輝照)の東京に英学校設立とは、何を示すことなのだろうか。
同志社英学校と言う学校を見つけ、京都府に開かれた学校とある。
設立者とある謎の新島は新島襄のことであり、
同志社大学の前身が同志社英学校であるので、
同志社大学の創設者は新島襄となる。
然すれば、大河内輝声は何という学校と設立したのだろうか。
その疑問の謎が深まるばかりである。
箕作阮甫は、東京大学の設立に関わった人と言う少しあやふやな点があることから、
東京大学の設立が1877年(明治十年)とあるので、
その五年後に大河内輝声が三十四歳の若さで他界している。
時期的には、輝声が二十九歳の時に設立となるので、申し分のない年である。
大河内輝声が大きく関わっているのではないかと推測できる。
もう一つの理由は、東京大学の設立者の箕作阮甫は、設立関係者とだけあり、
それ以外に携わった人の名前は出てこないからである。
それと、大隈重信はよく聞くが、箕作阮甫は私は聞いたことがなかったからである。
示す暗号として、三条氏秀(戸田氏秀)が東京帝国大学(東京大学)を卒業していることから、
東京に英学校の英は英国であり、それは大英帝国。
戸田氏重(松田徳太郎)は大隈重信を指すことにより、東京大学のことと読み解ける。
真の設立者は、大河内輝声となる。
明治政府によって1877年(明治十年)4月に設立された日本最初の(官立)大学とあるので
大河内輝声は政府側の人間になり、東京大学の資料には、箕作阮甫は登場しないので、
箕作阮甫と協力して設立したのではないかと考える。
そして、輝声の資料において、東京に英学校設立とだけあるのは、
何かを示していることは確かであり、
東京大学の前身の一つである大学南校を卒業した経緯もあり、
大河内輝声を中心に設立されたと考えれば自然である。
江戸幕府の礎を築いたのが、松平信綱であれば、
東京大学の礎を築いたのは、大河内輝声と読み解ける。
補足として、東京大学の歌「ただ一つに」の歌詞一番と二番の冒頭。
作詞、大森幸男
一、ただ一つ 旗かげ高し いまかがやける
二、ただ一つ 歌ごえ高し いまなりわたる
ここから漢字を導き出せば、次となる。
「忠」「一」「市」「景」「高」「今」
「輝」「宇多」「声」「肥」「成」「業」
「渡」「和」「済」「弥」
「輝声」を初め、松田宗家に関連する漢字ばかりであることが、何よりも証。
奈良松田家もまた、「東大」という名称の近くに本籍を置いている。
その近くの神社には、紫陽花や額紫陽花が咲き乱れる。現在は野生の鹿により、食べられて取り除いたと聞いた。また、徳太郎が、岡寺に十三重石塔を寄進した一つの関連づける事柄として、安田講堂を東京大学に寄贈した、安田善次郎と重ねていることから、東京大学を示していると思われる。
東京大学
三条輝照は、大友義鑑に名乗り方を合わせ、大友家の家祖を示している。
大友義鑑の家紋は抱き花杏葉紋。
次に松平氏の原点となる頼源流の松平家の家祖は親氏で、その家紋は剣銀杏紋である。
そして、東京大学の校章は「銀杏のマーク」である。
慈照寺には銀閣があり、輝照の「照」があることから、
次のような流れで紐付けされている。
松平親氏[剣銀杏紋]
慈照寺(銀閣)[室町幕府八代将軍足利義政(妻日野富子)]
大友義鑑[抱き花杏葉紋]
松平輝照(大河内輝声)[太政大臣兼左大臣]
畠山金吾家[頼盛流松田八郎左衛門尉]
辰野金吾[東京駅設計者]
浦野徳太郎(氏重)
[岡寺(龍蓋寺)十三重石塔 裏側梵字アン 秋(紅葉)〜春(花と蛙の鳴き声)]
↓
東京大学 東大マーク(銀杏のマーク)
とつながり、東京大学を示す。
様々な関連した内容から、紛れもない事実と捉える。
聴雪
京都御所の孝明天皇のお好みにより建てられた御茶室「聴雪」。
聴雪は、安政度御造営(安政二年(1855))の二年後に建てられた入母屋造、杮葺の御茶室。
上の間,中の間,下の間,および水屋の間という四つの部屋で構成。
孝明天皇が将軍徳川家茂を招いて酒宴を催されたり、
右大臣近衛忠凞を召してお茶湯を催されるなど
プライベートな空間として使用された茶室とある。
1857年に建てられたことになり、
左大臣の資料に近衛忠凞は1857年に左大臣に就任とあるので矛盾している。
右大臣と左大臣を兼ねることはないので、
「聴雪」の名前から、松平輝聴(三条輝聴)が左大臣を務めていたと明白となり、
その流れで、松平輝聲(三条輝照)の極官も左大臣である事実が読み解ける。
左大臣が太政官における事実上の最高位であったこと踏まえれば、
東京大学は明治政府により設立されたとある内容は、
左大臣である大河内輝声(松平輝聲)により設立された内容に置き換えても、
ごく自然である。
内務省
大河内輝声は、宗家の陰的な立場に終止符を打つため、
真の後継者四男輝耡を、形式上戸田家の婿養子として送り、
戸田氏秀と資料にはあるが、実際は三条氏秀と名字を変えず、
夫婦別姓であった可能性が示唆される。
その後、祖を示すためにと、第一子の三条氏重は、
松田徳太郎と名を改めたことに合わせ、
三条氏秀も始祖となるため、松田氏秀と改めたのではないかと、
過去の流れから推測ができる。
このような流れからも、やはり大河内輝声の短命さが、
宗家に暗い影を落としたことの影響として、十二分に考えられる。
内閣制度の創設したのは明治十八年であることから、
大河内輝声がこの世を去った三年後にあたる。
輝声が存命中は左大臣の官職であったと想定されるので、
内閣とは、大河内の「内」と「閣」は二階づくりのりっぱな御殿。<
たかどの。貴人の住む所。などとある。
伊藤博文は、輝声の号が「源桂閣」であることから、金閣寺や銀閣寺とも掛け、
内閣制度と名づけたと考える。
金閣や銀閣の呼び名は元々あったように思え、
そこから「金閣寺」や「銀閣寺」の通称の呼び名が一般的に広まったと考える。
内閣制度が創設する前に内務卿という太政官制に基づく卿があり、
初代内務卿に大久保利通が就任していることから、
内閣の内は内務卿の「内」であることが正確にはあり、
内閣の名称は大河内輝声との関係性は定かではない。
一つ気になることは、蒼天の拳の主人公霞拳志朗はヘビースモーカーであり、
大久保利通もヘビースモーカーであることから、関連性を持たせている。
そこから大久保利通が行政としての行いが、大河内輝声と関連している可能性が
あることは否めないように思える。
大久保利通が実質的・事実上の初の内閣総理大臣とあるが、
これは大河内輝声ということの可能性は大いにありえると思うは私だけだろうか。
東京大学を創設する技量や裁量がある人物ならば、
内務卿(内務省)などの構成も
思考の中にあると考えるからであり、
大久保利通の尊敬する人物に徳川家康とあるので、
徳川家康同様に、表に大久保利通を立てたと考えるのが妥当である。
そこから紐解くに至り、
岩倉具視はお札の肖像画になり得て、
大久保利通はお札の肖像画にはなるに至らなかったのではないだろうか。
内務省新設を示す祖の関連付けとして、輝耡(氏秀)の職務、宮内事務官兼式部官。
ここから大河内輝声の太政大臣兼左大臣という肩書きも見えてくる。
輝耡(氏秀)は、戸田家の婿養子に戸田氏共の娘の米子と婚姻し、
女系で岩倉具視に繋がるため、岩倉具視は同じ公家でもあり、三条輝照(大河内輝声)の官位を示す。
そこには「贈正一位」とあるので、
三条輝照(大河内輝声)の官位が「正一位」であることが読み解ける。
維新の三傑と呼ばれる大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛を差し置き、
岩倉具視が札の肖像画となっている。
大久保利通は嫌われ者とあるが、それが理由としても、内務省を新設したのならば、
国への貢献度は計り知れないと考え、大久保利通が札の肖像画に選ばれないのなら、
岩倉具視も肖像画になり得ないのが自然な流れと考える。
従って、岩倉具視が札の肖像画になることで、三条輝照(大河内輝声)を敬重の意であると考えられる。
そこから輝耡(氏秀)が宗家の正統継承者である事実が窺える。
京都大学
京都大学学歌の歌詞を読めば自ずと見えてくる。
松平氏秀が二十五歳の時に設立となるので、
京都市情報館のWebサイトにある「文化史25 京都の大学」ページの
「文化史25」の意味は不明だが、それを物語るのではないだろうか。
東京大学設立一八七七年のちょうど二十年後の一八九七年である。
十三重石塔には、「じゅう」が二重にあるから
二十年の意味も含まれている。
札幌農学校
札幌農学校は輝照が二番目に創設した学校で、札幌に置かれた高等教育機関、
北海道大学の前身となる。
初代教頭クラークが学長を務めたマサチューセッツ農科大学をモデルとし、
農学に限らず理学、工学、英文学等の幅広い教育を行う。
札幌農学校の創設を示すのは、クラークとマサチューセッツであり、
クラークとは十三重石塔の意味にもあった五種の元素と紐付けされている。
元素記号の覚え方は、「水兵リーベぼくの船七曲がりシップスクラークか」からクラーク。
マサチューセッツは、奈良松田系図にある「マサヲ」、輝耡の「すき」は反対にし、
「キス」の「ちゅう」で、セッツは和田氏の摂津国半国守護の「摂津」となる。
また、北海道大学校歌の「永遠の幸」の歌詞を読めば自ずと見えてくる。
輝照
太政大臣兼左大臣
三条輝照の薨去
明治十六年(1883年)五月、太政大臣兼左大臣三条輝照は、
事実上の東京遷都で衰微する京都の再興のため、
京都御所修復を含む京都保存計画を天皇に建言した。天皇はこれを裁可し、
同計画を取り仕切らせるため三条を京都に派遣した。この京都保存計画により、
御所、御苑、離宮、陵墓など皇室関連施設を管理する宮内省支庁が設置され、
関西所在の社寺を管理する社寺分局も設置され、賀茂の祭礼などが再興し、
御苑内には平安京の建設者である桓武天皇を奉祀する祠殿が建設された。
かつて公家町だった御苑には通路が区画され、樹木が植林され、
溝を改造して清水を疎通させ、不要な建物は除去し、修学院離宮も修復し、
二条城と桂宮別荘は正式に離宮と位置付けられた。
また御苑内と鴨川近辺には外国人向けの旅館として新たに洋館を建設することになった。
これらは逐次実行されて、京都の衰微を食い止める手助けとなった。
この計画にかける三条の情熱は、胸部神経痛を患って消化管狭窄で食事が喉を通らなくなった後も衰えず、
仕事をやめなかった。しかし、天皇は三条の発病を聞いて深く憂慮し、
侍医の伊東方成やエルヴィン・フォン・ベルツを三条のもとへ派遣して診察にあたらせた。
三条の体調は東京に帰れる程度には回復したが、東京に帰京した後に再び病状が悪化した。
三条を案じた天皇は、7月5日に三条邸を行幸して三条を見舞っている。
三条は二人の息子に支えられながら病床を離れて天皇の御前に進み、
親問の恩に浴した。三条の衰弱した様子を見た天皇は涙を流した。
その一週間後に美子皇后も三条を見舞うため三条邸へ行啓することを決めたが、
皇后として行啓すれば、礼を重んじる三条は、無理して病床を離れて送迎しようとするだろうから、
「一条忠香の女(娘)」という臣籍の肩書で訪問することにし、
送迎不要なのでくれぐれも病床に就いたままでいるようにと念を押してから訪問している。
7月19日、三条が危篤状態に陥ったとの報告を受けた天皇は、
宮内卿徳大寺実則を召して「朕親しく太政大臣兼左大臣と永訣(今生の別れ)せんと欲す」と述べ、
すぐに鳳駕を命じ、儀衛が整うのも待たずに三条邸へ向かった。
宮内少輔香川敬三が先に三条邸に入り、天皇陛下がお見えになることを三条に告げると、
三条は天皇の寵眷の厚きに感泣して落涙した。
天皇が三条の病床に到着すると、三条は身を起こして拝礼しようとしたが、
もはや身体が思うように動かせず、ただ合掌して感謝を示した。
その様子を見た天皇は落涙した。天皇は体調のことを三条に尋ね、
三条は奉答しようとするも、もはや声を発することすら叶わなかった。
その後数刻、天皇と三条は無言のまま見つめあうことで最期の別れを告げ、
天皇は三条邸を跡にした。同日に三条の辞表を受理し、翌7月20日に三条は薨去した。
天皇は三条の死を悼み、3日の廃朝(服喪のため天皇が政務を取らないこと)を決定し、
国葬に付すことを命じた。そして天皇の臣下として最高位である正一位太政大臣の地位を追贈した。
位記に付けられた勅語には「朕幼沖ニシテ阼ニ登リ、一ニ匡輔ニ頼ル、啓沃誨ヲ納ル、誼師父ニ均シ、
天憖遺セズ、曷ゾ痛悼ニ勝ヘン」(朕は幼少にして皇位を継ぎ、三条の補導を頼りにし、
その啓沃(思うことを主君に隠さず申し上げること)の教えを納めてきた。
朕にとって師にも父にも等しい存在だった。天は三条を残しておいてはくれなかった。
この悲しみにどうして堪えられようか。)とある。
一般に天皇の勅語は大半が常套句から成り立っており、
このような感傷的な勅語は極めて珍しい。
そこには恩師を失った天皇の本当の悲しみが強く表現されている。
(資料 Wikipedia明治天皇一部転用)
考察
前述にある文章は、岩倉具視を三条輝照に見立てて記載している。
岩倉具視は咽頭癌であるのに明治天皇の資料に記述されている内容は、
癌に一切触れていない。
また明治天皇の資料には、「胸部神経痛を患って消化管狭窄で食事が喉を通らなくなった」
とあるが、岩倉具視の資料には消化管狭窄については何も記されていない。
双方に共通する部分は、咽頭癌の症状は喉や耳にあり、喉に痛みが生じる点にあるが、
根本的に症状の内容は異なる。
喉とは、声を発する時に使う場所であり、大河内輝声を連想される。
最も有力視する裏付けの理由として、正一位太政大臣の地位を追贈したとあるが、岩倉具視の資料に贈太政大臣、
贈正一位の記載はあるが、何故そのような最高位となる官位を追贈するに至ったかが内容から見えてこない。
したがって、国葬は岩倉具視に対して行われたと考えるが、
それ以外は「三条輝照」の内容であることを示している。
岩倉具視と比べて、三条輝照の方が自然な流れと感じるのではないか。
これに感慨深く、悲涙の想いである。
三条実美が流行性感冒で薨去した時に御製をお詠みになられた。
それが、「とこしへに 民やすかれと いのるなる わが世をまもれ 伊勢のおほかみ」
伊勢のおほかみとは、伊勢神宮を指すと同時に、故人の三条輝照を含め、
松田宗家、桓武天皇を祖として伊勢平氏維盛流を暗示していると考え、
このとき三条実美は太政大臣であり、
三条輝照も既にこの世を去り、更に三条実美まで失うとは、
明治天皇の悲痛な想いが素直に表れている句であると察する。
奈良松田家の系図にある重治の「治」は明治天皇をも示していた。
明治天皇の愛重の想いである。
私は忘れていた、「前奏曲 嬰ハ短調」作品3-2、別名『鐘』を自身初の発表会の場で奏で、
次に発表したい曲は、ピアノ・ソナタ第八番「悲愴」第二楽章であることを。
練習を始めた頃、次第にピアノが練習できなくなり、断念し悔しさに滲んだ。
すべきことの一つは、その曲を未来で三条至輝が世に奏でること。
それが私に課せられた三条輝照の追悼の意。
奈良松田家は背負うものが重すぎるが故に、
何も見えなくなったのだと確信する。
何れにせよ、無鄰菴も含め、避けられない重圧であり、天命である。
それらを理解し、前に進む過程が大切で、
松田宗家を知る機会を与えてくれた天に感謝を示す。
愛とは
喜び、怒り、哀しみ、楽しさを分かち合う者同士が、
共に経験し、愛が生まれ、愛を育み、見えない形である。
喜びだけでは、愛は育まれない。逆に怒りや哀しみだけでは愛は育まれない。
喜びがあり、怒り嫉妬があり、悲しみ苦しみがあり、そこに楽しみがあり、
それらから学び成長し、愛は無限に膨らんでゆく。
それは神から与えられる生きる糧でもあり、
奪われることのない、人間の生きる源である。
時代の終わり
松田宗家並びに松平三条家は、江戸幕府を創設、構築設計し、つまり創造した。
一つの黄金時代を越え、それが新たな力により、次の時代へと転換期を迎え、
それに三条家は同調し、新時代への政治の基盤を作り上げ、
輝照の死とともに身を引く意向を示したのだと私はそのように理解した。
江戸時代が三条家の時代であり、それが終わるに至れば、
また三条独自の新たな時代を作れば良いのだと考え、
三条家歴史の一つの区切りを設け、新たな始点として徳太郎に未来を託した。
京都保存計画を遂行するにあたる輝照の姿を、
とても有益に指揮官として輝いている様子が、
脳裏に焼き付くのは何故だろうか。
知るはずもない、遠い親族を。
至輝
哲学者
諱の由来
至輝の諱の由来は、三条実行にあり。
三条実行は、三条家の始祖であり、松田頼盛の娘千手姫は三条家に養子になり、その後、天皇家に嫁ぎ、天皇との間に生まれた第七皇子の明久親王が、
鎌倉幕府八代征夷大将軍に任じられた歴史があり、
祖は、武家である表の顔を持ち、武士の威厳を保つため、
主体は公家である真相や天皇家の縁を公にできず、
政治的中心の地位を担ってきた。
転法輪三条家の縁は、頼盛の兄弟である「山科教行」と紐づけるため、
松田頼行も含め、山科家が出自である事実を表している。
したがって、三条実行から「ゆき」の言葉を賜り、
また、天より「至」の字を賜り、
祖につなぐ意味も含め、
三条家元来の通字の「輝」と合わせ「至輝(ゆきてる)」と命名。
「ゆき」は「雪」であり、
我が祖の松田宗家は、雪華模様を題材にした家紋の意図から、
転法輪三条家の家格「清華家」を表し、三条実行を指す。
至輝は冬季の生まれでもあり、我が諱に相応しいと解釈する。
「至」の字は行き着く果ての意であり、
計らずも、誕辰和色(誕生色)である深紫の別名、至極色に因縁し、
恐れ多くも、十三重石塔にある大勢至菩薩の「至」でもあることに付随する。
諱の考え方
謎を解くに至り、
今、己の名前を考えるとするならば、
三条至輝とするべきことなのかもしれない。
三条の祖の「輝」の通字をつなぐ意味で初めに入れたい思いに駆られた。
元名の「実」は、山科実教、松田信実や三条実行や閑院流の祖の通字であることに、
清華家を示すことの意味が強いように感じた。また、親族に「真」の字が見えることから、「真実」を述べる真意を表し、奈良松田家でも記述した、重要な関連がある真田信幸と関連して、松平信綱を示す点おいて比重を置いている。
三条実美は三条輝照(大河内輝声)の建前上の太政大臣である事実も合わせて示している。
私が名前のことを父親に問い質すと、諱が変わるように想定し、 取るに足らない諱であることを伝えたく、「会社の人に考えてもらった」と、<
私に答えたのかと今は思う。
それを裏付けるのは、信綱から始まる三条家の歴代の諱を見ても、
閑院流や伊勢平氏維盛流から賜ったものと思われるようなものない。
信綱の初名である信実ぐらいであろうか。
このような点から「実」は妥当な字ではないよう考える。
例えば次の漢字からは、
「輝」「至」「実」の順の重要度と考える。
「輝」は松平三条家の元の通字。
「至」は己で考えた字で天からの賜りもの。
「実」は祖を示すために、仕方なく親がつけた諱。
と考えれば、重要度は前述の通りになる。
輝声
大河内輝声は、何故、三条輝照から「てるな」としたか、
大河内は、藤原魚名から、羽林家で四条流であることを示している。
ここから考えられることは、頼盛からの松田宗家が、
清華家であることを示し、当然ながら分家をすれば清華家ではなくなる。
宗家の立ち位置は謎多きことだが、公家(清華家)と武家を掛け持ちしていた
と考えるのが正しいように思える。
もう一つの理由は、大河内を称したのは、官職が太政大臣兼左大臣に昇進したときで、
「輝聲(てるな)」は大河内の名字を別に持つときに併せ持った諱であること。
「聲」の漢字を選んだ理由は、三条輝聴(松平輝聴)から来るもので、
三条輝聴も太政大臣兼左大臣であったことを示す諱であると読み解ける。
「輝聲」「輝声」と旧字と新字があるのは内務省を新設したことを示すのと、
無鄰菴の創設した山縣有朋の名前がそれに倣い大河内輝聲を示している。
したがって、名前は二つあり、大河内の諱は二通り記述がある。
表 大河内輝聲(輝声)
裏 三条輝照
おそらく、年号にある昭和の意味の一つであると考えられる。
「照」から「昭」。
「れんが(連火)」の首部がなくなり、
「昭」は明らかにするの意で、次のことから宗家を指していると考える。
首部は老中首座の松平信綱。
連火は火が並んでいることから「明暦の大火」信綱の采配。
首部は無くなりは、政治から宗家は離れ、宗家を明らかにする意と考える。
「昭和」の意味は、大河内輝聲の系統、松田宗家が平和にしてくれたと解ける。
昭和の次の年号「平成」は、それを補う年号であることが見えてくる。
次に、輝声が創設した東京大学の所在地は次にあることから、
東京都文京区本郷7丁目3−1
大河内の羽林家の北斗七星と三は三条を示すことにあり、
本郷は「本郷信富」のことを指し、松田家の出自と思われる。
本郷信富は江戸幕府初代奏者番であり、
三条氏秀(戸田氏秀)は宮内事務官兼式部官とあるので、
奏者番は、城中における武家の礼式を管理する役職。
それに対し式部官は、儀式、交際及び雅楽に関する事務を行う。
礼式は儀式なので、環境は違えど、儀式に関する仕事という点において、
同じであることから、関連づけられている。
更に、文京区は、文久二年に従五位下・右京亮に叙任されたと輝声の資料にあるので、
そこから年号と右京亮とそれぞれ漢字を組み合わせ、文京区としたと考える。
以上のことからも、東京大学は大河内輝声が創設した確たる証である。
話は至輝に戻り、至輝は音読み「しき」。
「しき」という意味は様々あり、
「式」「四季」「色」「指揮」「士気」「死期」「識」
良い意味や悲しい意味もあるが、どれも素晴らしいと私は思う。
「式」一定の作法の伴う行事。 - 氏秀の職業であり、祖の東京大学の関連された事柄にある。
「四季」一年の間に移り行く春・夏・秋・冬の四つの季節。 - 松田祖の諱に関連することや家紋など。
「色」光によって目にうつる、物の感じの一つ。 - 祖の「輝」の通字に通ずる。
「指揮」人間の集団を指図し動かすことや音楽の演奏に指示。 - 左丞相家から連想される。
「士気」人が団結して物事を行う時の意気込み。 - それを統率する左丞相家。
「死期」命が終わる時。また、命を捨てるべき時。 - 歴代の短命さや長命など命の儚さや死時。
「識」物事を見分け、知り分ける。さとる。 - 正に松田宗家に相応しい言葉。
七つの「しき」を胸に刻む。
上杉謙信の家紋は「竹に雀紋」。
麻雀の「雀」にかけている。
逸話
・自立
三歳の頃だろうか、この出来事は鮮明に覚えている。<
まだ母親はおんぶ紐を使い私をおんぶしていた頃、
お菓子屋さんで母親は店主の人と話し込んでいた。
私はおんぶされて話し込んでいることに退屈を覚えたのか、
近くにある、キャラメルを手に握り締め、
そのまま持っていればどうなるのだろうかと考え、
キャラメルを持ったまま帰宅した。
母親は帰宅した時に、お金を払わず持ってきたことに気づき、
後で払いにいくようなこと言ったのは定かではないが、
私に対して、仕方ないような態度を示し、叱りもしない。
私はその時母親に対して、言葉を発していないのも記憶している。
おそらく、キャラメルがさほど欲しい訳ではなく、
悪いことしている認識があり、このようにすればどのようになるか、
母親の反応を見たいと思うてたのかと考える。
何故かこの出来事は今もはっきり記憶にある。
私をおんぶ紐でおんぶし話し込むくらいなのだから、二歳か三歳が妥当である。
二歳だとしたら、驚くべきことなのかも知れない。
私の記憶では己の身体は大きくなく、二歳児程度でもあったように思える。
母親は叱っても仕方ないと考えたか、愛がないのか、はたまた、
関連づけられているから良いと思うたのかは定かではないが、
経験してきた中で、少なくとも愛がないのは確かな事実である。
仕方ないと考えたならば、二歳児ぐらいなのかと思えるが、
二歳児にしても、普通ならば「黙って持ってきてはダメでしょ」と軽く叱ると私は思う。
愛がない理由は、私に一切の関心がなく、
幼き頃、母親に公園に連れて行ってもらった記憶はない。
何が言いたいかは、子供のことよりも、己の行きたい場所に連れて行く。
例えそこが子供にふさわしくない場所であろうが連れて行く、例えば喫茶店であるとか。
私は店内で、ぐずるとか騒ぐとか泣き喚くなど記憶にないから、
その点連れて行きやすいのだと考える。
無論、心は母親ではない。
また、物心つく時から、何もしてくれなければ、己で解決しようという魂があり、
そのような点では、さほど手のかからない、幼少期であったと思えるが、
母親が私に対して関心がないことに、社会人になり過去を振り返るまでは、
それがおかしなことに気にも留めなかった。
それは、私が母親に頼らないから、当然の結果だと思うてたということ。
裏を返せば、私は両親に、物心つくこのことを試した時から、
基本的に何も期待をしていなかったと言える。
証に、親にどこかに連れて行ってほしいとか、何か欲しいと懇願したことはない。
親とどこか出かけた記憶は遊園地や海などあるが、親が希望する関連付けの場所である。
欲しいものについて、誕生日だけは、親が進んで何かを買ってくれていたので
欲しいものを親に告げていた記憶はある。
今思えば、それ自体も心からではなく、祖を示す関連付けのためであるが、
それにより、愛があると学生の頃は錯覚し、前述にある「母親が私に関心がない」流れにつながる。
補足すれば、ちょっとした玩具は、買い物のついでに寄って父親に買ってもらった記憶は多くはある。
例えばプラモデル。城のプラモデルを買ってもらった時に、確か一度だけ親に、
城巡りがしたいとその流れで言った記憶はあるが、実現しなかった。
それが唯一親に告げた行きたい場所であった。
その前に大阪城は一度だけ親の意志で記憶しているが、
私の希望を聞くならば、祖を示す城は川越城か春日山城になり、
双方とも遠く、現存しない上、何故川越城となるから流されたと解釈する。
その時期に父親と戦国時代について話した記憶があり、
私が希望とすることが関連付けにより、叶えられないから、
また、関連付け以外のことは話せないから、父親とは話さなくなったと今は思う。
無論、城巡りに関して催促した覚えはない。
大阪城は、再建した偽造犯徳川秀忠との関連付けである。
物心ついた時から、心は親に見切りをつけ、精神的に自立していたと考える。
話は戻り、いずれにしても、物心がつく年齢から、
二歳半から三歳半の間であったと推測できる。
何かを試すのは、松平信綱や大河内輝声の血を受け継ぐ魂が宿る証であり、
物心つく頃から親が親ではない何かを察し、
精神的に自立していたことは驚愕するべき人物像ではないか。
至輝の計り知れない将来性を感じされる事柄だと今は思う。
・上昇
高校生の時、一年一学期の中間と期末を比べて、
学年で中盤あたりだった順位を、十位以内まで成績を上げ、それを卒業まで維持したこと。
高校の数学の試験で、三度ほど百点を取ったことを記憶しているので、
私は理数系であるのだが、本来は文系も強いと思う。
高校自体のレベルは自慢できるような学校ではないので、
参考になるかは不明だが。
ストレスにより潰されたと言え、忘れ去りたい過去であり、
常に心の中にある思いは、魂と結果がかけ離れていた。
私はどのような人間なのか、環境に翻弄され、
迷走し、宗家の謎を解くことにより、全てが腑に落ちた。
既に小学校中学年の時には、身体に何らかの異変が起き、前兆を見せていた。
・心像
非正社員で働いていた二十歳前後の頃、
宅配の仕事をしていた。
かき入れ時、二件か三件ぐらいまでは同時に配達は通常のことである。
当時、スマートフォンのような便利なものはなく、
店舗内で宅配先の地図を覚え、店舗から出れば基本は何も見ずに宅配を終える。
仕事に就いてから半年ぐらいは過ぎようとしていた頃のこと、
クリスマスや正月などは非常に忙しく、宅配物の山が出来上がる。
バイクに詰める量も限界はあるのだが、五件分の宅配物を一度に積み込み、
五件分の地図を頭に叩き込み、特に迷うことなく配達を終えた。
五件ある内の四件分は住宅街と家ばかり均等に建ち並んでいるため特出した目印もなく難関である。
更に、最後の一件は表札がなかったので、
それに誇張して結果的に最難関であったが難なく終えた。
ここから読み取れることは、最後一件まで正確に記憶しているという点である。
五件分となると、普通なら、地図を積んで宅配するのだが、
私には地図は不要である。
つまり、日々積み上げた経験が心像の働きにより、
それを可能にさせる能力。
因みに頭に叩き込む時間は、一分程度。
方法は五件分を頭の中でのシミュレーション。
付け加えて、その業種の宅配用語でまとめて宅配することを次のように宣言し、店を後にしていた。
それにより、店内にいるスタッフに仕事容量を伝え、業務が円滑に遂行するための一つの内約である。
二件分 ダブル
三件分 トリプル
四件分 フォース
五件分 フィフス
・死期
二十代後半、大阪から東京に活動の場を変え、
環境により多大なストレスを被り、つなぎの職場で突如崩れ落ち、
一時的に立てないようになった。
つなぎの仕事とは、店舗での商品の説明販売する仕事。
近くを通ったスタッフが声をかけてくれ、
救急車を呼ぼうかと言われたが、それを制して、
とりあえず、休むことになり、休憩室で一時間ほど休み程良くすれば、
違和感があるが、歩いて帰れるようなり、電車で帰宅に向かった。
最寄りの駅から、家までは十分程度、所々で座り休憩しながら帰宅した。
このような状況下の中で、未知なる激痛に襲われ、
まだ救急車を呼ぶことに躊躇うことの精神は、
侍であると同時に、死期を見計らった出来事である。
心は常に背水の陣であった。
生まれた時から、魂は「侍」であり、「公卿」である。
原因は四つの負の環境と当日三つの不運が重なり起こり得たと考える。
負の環境の一つは、新しい仕事に慣れていない三日目の出来事であること。
当日一つ目は、バイク通勤による警察の過剰取締による違反。
信号待ちの赤から青に変わる時、自動車は加速するのが遅いので、
信号待ちの車をパスして先に出発したら前に警察が待ち構えており、
違反切符を切られた。
なぜ切られたか、初めはよくわからなかったが、言われればそのようなことかと思い、
切羽詰まって故に、これが原因の一つ。
どのようなことかは、そこは中央線が黄色だからそれを右に超えて先に行ってはならない、
違反は違反なので仕方ないのだが、融通の効かないような理由である。
交通ルールも大切だと思うのだが、それに縛れすぎるのもどうかと思うのである。
それがストレス社会の一つの要素であると考える。
黄色線は、走行時に超えて追い越せして行けば危険だから、
黄色の線なのではないかと思うだが、
これも第三者の謀であればただの人殺しである。
第三者の場合の意図は、バイク通勤は危険だからやめせる手立てであると考える。
そうであれば、余計なお世話と言える。
当時愛用していたのがベスパ100で、このスクーターでは転倒したことはない。
スクーター自体倒したこともない。
何故なら、三速のギアチェンジがあり、かっ飛ばすようなスクーターでない上、
ブレーキも、エンジンブレーキで止まるようなスクーターで安全である。
反対に、エンジンブレーキでしか止まれないので無茶な走行はできなく、
ブレーキレバーやフットブレーキの使い方は、少しスピードを落とすのと、
最後に完全に止まる時ぐらいで、あまり効かないから急な対応はできないため、
無謀にかっ飛ばすような走行はできないと言える。
二つ目はそれにより遅刻し、遅刻すると言う危機感から来るストレスである。
三つ目は遅刻したことの理由を正直に担当のスタッフに話、
うちはバイク通勤は禁止しているとすごい剣幕で怒られたこと。
おそらくこれら一連の流れは第三者の謀かと思われる。
バイク通勤の禁止は、事前に聞かされておらず、
怒る程度が釣り合わないからである。
通常なら、外部から来ていることも考慮し、軽く注意を促すに留まる。
働いている最中、第三者と通じている時の友人が
その日の午前中に私が働いている店に訪れた。
私は友人に体に違和感があると告げた記憶がある。
その後、午後の休憩が終わり、立てなくなると言う事態に陥る。
タイミングが良すぎるのでその友人は第三者の関連付けであると見え、
祖を示すため、寄り添うためだけの仲である。
入院し、見舞いに訪れた人は、当時つなぎの仕事は派遣で、
その担当者の方だけ、一度だけ、小説だったか、本を差し入れてくれたが、
おそらくこれも、第三者による関連付けであろう。
そして、私を東京へと導いたのも第三者によるもので、その時の友人を使い、
東京で働くことに興味を持たせ、推し量った。
就職を決めてから東京に移住し、試用期間の三ヶ月で切られた。
その間に営業の方が一億円でしたか、損失を出し、
その影響と思われる。
隣にいた人は、四時間から六時間ぐらい毎日のように残業していたので、
ブラック企業なのは間違いない。
私の業種では残業は日常的にあるが、それしても酷いように感じた。
無論、この就職した会社にも第三者の手は掛かっている。
その後のつなぎの仕事となる。
この時すでに異変は進行していた。
余談ではあるが、自宅マンションの前に停めていたスクーターを
駐輪違反の切符を切られたのも、おそらく、第三者の仕業である。
管理人などであれば、通報する前に一度警告の張り紙をするからである。
黄色の線と同じように、通常過剰な取り締まりを警察がするとは思えない。
また、時計はしない人間でしたが、七万程度の腕時計を購入し、
一ヶ月も満たない程度しか使用していなく、突如家から消えた。
神隠しにあったような状態でした。
これも第三者の仕業である可能性は高い。
それは、携帯はGPS替わりであり、時計として常に手元に携帯しなければ
都合が悪いからである。
スクーターはその後、殆ど乗りはしなかったが、
たまにスクーターを乗れば、また何の違反かはわからず、
後方から、バイクの警察に何やら止まりなさいと声をかけられ、
違反を切られた、矢印信号がらみではあったようだが、
今ではどのような違反であったかは思い出せない。
その後、スクーターを売ることにした。
この一連の流れも、スクーターを手放させる第三者の謀であると考える。
このようなことが子供の頃から日常的に起きているため、
人間関係も含め、不自然な環境の中、悪循環により、
常に多大なストレスが付き纏うのである。
故に、己の通常の一割も満たない程度の力しか誇示していない。
おそらく、職権乱用と考えるのが妥当である。
・覚醒
三十歳過ぎてピアノを習い出した。
人生の中で一番楽しいと思えるものに巡り会えた。
二年後の発表会で『鐘』を奏で、
人生の中で生きてる実感が籠る出来事である。
この時異変は最高潮を迎えようとしていた。
それ故に、神懸る魂が燻っていたと言える。
・目
祖を突き止め、謎を解き明かした洞察力と観察力。
何も根拠もなく、漠然と丹後の松田家が祖であると思い、
松田頼盛から大河内輝声、至輝までの系統であることを解き、
京都御所で、ただ変わった綺麗な松があると、
通常なら素通りする可能性の高い景色をカメラに納め、
六種の松とススキがその景観内にあることに気づき、
また、その意味を祖の松田家の流派と雑賀鈴木氏であると定義し、
それにより祖が広がり、主要な宗家の謎を解き明かした。
その中で鹿苑寺内にある龍門滝の謎の鹿苑寺流は、
特に確信はなく、系図がそのように見えたからその思考に至り、
錯綜とした謎が解けるにつれて確信に変わり、
転法輪三条家の本姓「藤原北家閑院流嫡流」と重ねている。
俯瞰から物事の本質を見抜く目である。
私が過去に成した形跡は、偶然でもなく、
紛れもない実力で、真実にある。
一、北朝鮮とアメリカ合衆国との初首脳会談への起因
一、コロナウイルス収束の手引き
一、環境問題定義と推進
一、黒色流行問題定義と抑制
一、ロシアによるウクライナ進攻及び戦争の和睦の説得
(一旦は両国の交渉が結束されると見えたが、交渉は決裂した)
流れ
我、この世に生まれ、物心ついた時から親を親であることを根底にある意識は認めていない。
不自然な環境の中、両親との身に詰まる会話も全くなく、生きてきた。
父親とは戦国時代の話を小学校低学年の時に話したぐらいで、それ以外はほぼ皆無に等しい。
母親に対しては、日常の片言の会話をする程度。
名前も不自然であり、受け入れられない環境がそこにあった。
親の素性を全く知らない上にも、
何を支えに生きて行けば良いのか、何を目的に生きて良いのか、
精神が不安定のまま迷走する日々が続いた。
年月が経ち、時に私は、己が何者であるかを知りたいと考え、
丹後松田氏系図と向き合い、謎を解き明かすにつれ、
己はただ、祖が創り出した亡霊と戦うていたと知るのである。
父親が親指を無くしたのは、関節に的に亡霊が追い込んだからである。
洗脳により、追い込まれた上での出来事。
それは、徳太郎から流れとしてつながり、その結果となる。
そのような出来事につながる苦い過去があるから、
私に先祖のことを話さなかった経緯は窺えるが、
原因はそうではなく、祖を示す程度の問題が全てで、
本質は、常に関連付けを強制的に行わせ洗脳し、出会う全ての人に
関連付けを何かしらの方法で遂行させる第三者の存在である。
心理的に第三者がいることにより、
祖を示さなけれならないと強くその衝動に駆られ、
第三者から出会う人にそれを手伝ってもらうように促させば、
先ずそれだけの付き合いにしかならない。
洗脳により全ての行動を祖を示すことに拘束される訳だから、
依存はしているが、本当にしたいことではないので、
人間関係も含め常に多大なストレスが付きまとう。
叔父は、第三者が叔父(叔父の家族)から離れ、第三者のいる生活と、
いない生活を経験し、いなくなってからの方が幸せであると
実感したから、二度と松田宗家に関わりたくないと考え、
宗家家族との絶縁関係を望み、音信不通になりえた。
無論、私には祖の謎を解くまでは意味が分からなかった。
哲学者
哲学者としての学問は、仏教をほんの少しばかり嗜んだ程度で、
全ては経験から得られた独自の悟りの世界である。
学問とは、経験の中で起きた現象などを伝えている目的で言語化しているため、
「百聞は一見にしかず」の言葉が示すように、経験より優るものない。
ウクライナ戦争は、ロシアが一方的に悪いように見えるが、人により受け取り方
や、脅威に感じる度合いなど様々である。
それら両国の価値観の違いにより、すれ違いが生じ、最終手段として脅威を無く
そうと戦争に発展した例であると考える。
無論、国際の秩序を乱しているロシアに全ての非はあるが、何故そのように侵
攻しなければならい状況にまで至った道理を考えるも和解への道筋と捉える。
長引けば長引くほど被害が大きくなり、双方により深く亀裂が入れば憎悪は肥大
し、和解は困難となり手立てはなくなってゆく。
それ故、私は祈る思いであの和歌を詠んだものである。
隣国である以上、未来永劫隣国同志である。
住居による隣居同士である場合においても騒音などには気配りはするの同じで、
互いに配慮し合わなければらない運命に置かれる関係であるのは確かである。
私はどちらの味方のでもなく、平和の見方である。
裏を返せば両国の味方であり、双方の国の目線で物事を考え中立な立場でなければ
和解の説得はできない。
中立な立場とは、物事の道理の本質を理解できる神や仏の立場。
互いに譲れないものがあるから、戦争に発展し、解決できないでいるのだから、
経過と共にその気持ちを抑える事ができなく、その信念を無理に変えようとは
思わない。その結果の「祈る思い」であった。
平和的に解決するに越した事はないからである。
配慮とはどのようなことか、NATOの加盟を示唆する前に予め両国間の信頼性を
改善できていれば、ロシア国は強行には及ばなかった一つの要因として考えら
れるが、両国の歴史的な問題もあり、クリミア半島も含め、単純な問題ではない
のは確かである。
ウクライナ国側にそのつもりはなくても、ロシア国側から見たら、
歴史的背景から何を仕出かすかわからないとなり、脅威に受け取られ、
NATOに加盟すれば、どうすることもできないと考え強行に及んだと考えられる。
脅威をなくし、安心して暮らせる世の中をロシア国民は信じていたと思われる。
その深刻さは、ロシアの国人でなければ理解できない。
それ故、配慮に欠ける行動であるが、神ではない限り避けることのできない侵攻
であったと見解に至る。
無論、そのような心境を他国に説明しようもないから経済を犠牲にしてまで侵攻
に及んだと推察する。
ここに記した内容は戦争が起こる経緯であり、現状は長期にわたる戦争により、
両国の考えも多かれ少なかれ変動していると思われる。
要約すれば、ロシア国は経済制裁を承知の上侵攻し、短期間で主要箇所を制圧し
ウクライナ国側に全ての条件を呑むようにと計算していたが、米国はじめとする
支援も含め、想像以上に苦戦を強いられ、泥沼化していった。
いずれにしても国際秩序を乱すロシア国側に戦争を起こした責任は全てあるのは
事実であるが、人と人が生きていく上での配慮も怠ってはいけないという教訓で
ある真実も受け止めていただきたいと切に願う。
説得が功を奏して、
一度、両国の交渉が締結されかけたことは事実にあり、それを覆したのは、
その後のロシア国側の多数の戦闘機による威嚇にて、それに不快を感じた
ウクライナ国側の態度が、ロシア国側の考えを一変させたと考える。
ロシア国側はウクライナ国を信用できるかを試したのではないかと推測でき、
その結果、信用できないと判断したと考える。
とは言え、その前に私はウクライナ国がロシア国の信用を得るため、
ウクライナがロシアに対して反発するような言動や行動は慎むようにと伝えていた。
私が強く念を押すことが出来ていれば、結果も変わっていた可能性は否めない。
悔やむ唯一の点である。
ロシア国がどのようの真意もって侵攻したかは定かではないが、
ウクライナ国をある程度、ロシアの思い通りに共存する関係にしておきたい
という狙いが理由として挙げられるのではないか。
思い返せば、初期にロシア国側がウクライナ国に求めた条件は次に三つある。
「非軍事化」「中立国化」「NATO非加盟」
私が大統領の立場として考えれば、この三つの内飲めない条件は非軍事化である。
その考えはウクライナ国と同じであることを前提に、その後条件が二つ増え、
少しでもウクライナ側の良い条件で交渉が締結されることを願い、
説得に当たっていた。
それから、ロシア国がウクライナ国を信用していない理由は三つの条件からも明らかであり、
指導者が歳を取り病気も患えば、両国の歴史もあり、より一層心配症に陥るのであろう。
初めの三つの条件を見れば、NATO加盟よりもまずは隣国との関係性を重視していれば、
違った結果になった可能性として、私の話を踏まえれば誰もが思えるのではないだろうか。
リーダーによって志は十人十色であるが、国民を守ることをまず何よりも考えなければ
ならないと考えると共に、リーダーを選ぶのもまた国民であるのだから全てはつながって
いるのである。起こるべくして起こり、避けられない戦争であったと振り返る。
仏教を少し嗜んだのは、己の思想はどのように適応しているかを確かめる上で、
知識として唯識について少し学んだ程度である。
今後機を熟せば、既存の学問と向き合う機会を得、あらゆる学問を知りたいと
魂は私に訴えかける。
されど、すべき事から順に進むべき道筋を辿るのが道理である。
輝耡が残した言葉として、
「私たちが最も心がけるべきことは、
今現在正しいとされることを守り続けることよりも、
常により正しいことを追求する向上的な態度をもつことでなければなりません。」
これは大正という時代の言葉の表現であって、この言葉の本質は、
正しいことには理由があり正しいことであって、それをむやみ覆す意味ではなく、
向上心や常に何かを追求する姿勢を忘れてはならない。
簡単に言えば、物があって当たり前ではなく、<
何故、それがそこにあるのかを問うことにこの言葉の真髄はあると私は考える。
当然、哲学的に道徳的に考えても、人が不快と感じる行為は、名誉とはほど遠く
真逆の行為である。不快な事で名誉は屈辱であると誰もが想像できる事であり、
それ受けようとする人間は、そもそもその機会すらなく名誉に値しない。
それと、人が不快に感じることは未来に悪い影響を与えかねない。
模倣
著作物に関して、著作権の観点から鞄の模倣的なものを良いとすれば、
悪影響を及ぼすことが想像できる。
自然に重なるのであって、意図して重なるものではない。
未来
可能かどうかわからないが、京都大学文学部に無性に行きたくなった。
松平家物語を書く前に文学部で勉強し、より完成度の高いものを目指す主旨である。
あくまでも現在の心境なのでどう変わるかは不透明であるが、
松平家物語を作る上で、資料などの観点から京大文学部は理に叶う道筋である。
またその気になれば、松平家物語の派生とする物語も作れよう。
神の試練を乗り越えるのなら恐れるものは何もない。
全てが可能である感覚さえ、不思議と自然に湧いてくる。
中途半端なものは作りたくなく、やはり最高のものを目指すのは宗家の魂。
いずれにしてもやるべきことは次にある。
・三条ブランドの創設
デザイン・美術・服飾[経営者 デザイナー 写真家][モデル]+α[職人]
・冥月院の創設
デザイン・美術・建築[デザイナー 画家]+α[建築家]
・松平家物語の著書
歴史・文学[文学者 哲学者]+α[京都大学文学部卒業]
・ピアノ
クラシック音楽[ピアニスト]+α[作曲家]
宇宙
進化と退化を兼ねて時を刻む
無常の空間 天に従う心
無量の運命 天に向かう心
無数の軌跡 未知なる星を
無数の奇跡 新たなる星を
未来を切り開く心無限なり
偉大なる宇宙永久なるそら
展望
三条家第十七代当主
本名 三条至輝[経営者・哲学者・設計者]
第三十一代松田宗家伝承者
別名 皇霞京[文学者・画家・写真家・設計者・ピアニスト・モデル]
松田宗家伝承者
歴代
第三十一代松田宗家伝承者
皇迦亨 Sumeragi Kakyo[文学者]別字「霞京」号「冥月」
常人離れした感性を持っており、独自の悟りの思想から様々な世の問題と向き合う。
Webデザイン講師としての経歴があり、特技や逸話として、写真、ピアノ、心像記憶、
和歌や詩など多彩な能力を見せ燻っている。
迦亨(かきょう)は「霞京」とも表記する。
(詳細 →)
第三十代松田宗家伝承者
松田守 Matsuda Mamoru[技術者]
〈一親等自然血族〉
第二十九代松田宗家伝承者
芦田幸太郎 Ashida Kotaro[呉服店主]
〈二親等自然血族〉
1878 - 1933 (明治・大正・昭和時代)
第二十八代松田宗家伝承者
吉野作造 Yoshino Sakuzo[政治学者]号「古川学人」
〈三親等自然血族〉
幼少時代から英才で知られ、「民本主義」という訳語の提唱者、「黎明会」の設立発起人。
東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。
(詳細 →)
1872 - 1925 (明治・大正時代)
第二十七代松田宗家伝承者
上野英三郎 Ueno Eisaburo[農学者]
〈四親等自然血族〉
農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者であり、
東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。
1848 - 1882 (江戸末期・明治時代)
第二十六代松田宗家伝承者
大河内輝声 Okochi Teruna[知藩事]号「源桂閣」
〈五親等自然血族〉
1835 - 1901 (江戸後期・明治時代)
第二十五代松田宗家伝承者
福澤諭吉 Fukuzawa Yukichi[啓蒙思想家]諱「範」
〈六親等自然血族〉
豊前国中津藩に生まれる。五歳ごろから漢学と一刀流の手解きを受け始め、短期間で実力をつけ漢籍を修める。
学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。二十三歳の時に大坂の中津で緒方洪庵に蘭学を学ぶ。
万延元年から慶応三年の七年間にかけて幕府の遣欧米使節に参加し、『西洋事情』等の著作を通じて欧米文化を紹介。
慶応四年に慶應義塾を創設し、明治以降官職に就かず、位階勲等を受けなかった。
『学問のすすめ』はじめ多数の著書を残した。
1826 - 1886 (江戸時代後期)
第二十四代松田宗家伝承者
箕作秋坪 Mitsukuri Shuhei[洋学者]号「宜信斎」
〈不明自然血族〉
美作国津山藩士の箕作阮甫に次いで、緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び弟子となった。
幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事し、三十三歳のときに幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝
となる。明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず福沢諭吉の慶應義塾と並び称される
三叉学舎を開設。秋坪は古賀侗庵に学んだ漢学の大家でもあった。教育者として、秋坪は二・三歳から六・七歳までの
児童を教育することが最も効果的だと主張し、教育能力を欠く家庭の父母、特に女子への教育の重要性を説いた。
1823 - 1887 (江戸時代後期)
第二十三代松田宗家伝承者
矢野玄道 Yano Harumichi[国学者]号「谷蟆」
〈十三親等自然血族〉
伊予喜多郡の人で、上京して玉松操らと相謀り、国事に奔走した。維新後は神祇官判事、大学中博士などに任じられ、
国学界の指導者として活躍した。のち嫌疑を受けて幽閉、復帰後は宮内省御用掛を経て退隠し、学事に専念した。
青年時に学んだ老荘思想の影響により、名誉や高い地位を求めず、妻を娶る事なく一生独身で通し、一心不乱に
国学の研鑽に励み、一生を国学の著書の執筆に捧げた。『神典翼』『皇典翼』はじめ約七百巻にも及ぶ。
1801 - 1837 (江戸時代後期)
第二十二代松田宗家伝承者
生田万 Ikuta Yorozu[国学者]号「大中道人」
〈十五親等自然血族〉
藩校で儒学を学び、文武両道に通じたが、陽明学を奉じるにおよんで師や友に疎まれるようになったと聞く、
数え二十四歳のとき、江戸で平田篤胤に入門して国学を学び、深く学んだのは日本の古典と易学。
平田塾の塾頭を務め、篤胤に「後をつぐものは国秀」と将来を嘱望されたが、著書の内容により藩から
追放処分を受けた。その後越後国柏崎で桜園塾を開き国学を講じた
著作に『岩にむす苔』『古易大象経伝』『大中道人謾語』『日文伝評論』『大学階梯外篇』『良薬苦口』。
1776 - 1843 (江戸時代後期)
第二十一代松田宗家伝承者
平田篤胤 Hirata Atsutane[国学者・神道家]号「気吹舎・大壑」
〈十四親等自然血族〉
秋田郡久保田城下の中谷地町に生まれ、生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学や神道とは無縁であった。
篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後二年経った享和三年のことであった。妻の織瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した。
国学を学び神代文字の存在を唱え、尊皇復古を主張する神道説を説く。その思想は、平田学派を形成し、明治維新の精神的指導力となった。活動範囲は古典研究をはじめ多岐にわたる。
復古神道(古道学)の大成者であり、国学の四大人の中の一人として位置付けられている。
1754 - 1830 (江戸時代中期)
第二十代松田宗家伝承者
石川雅望 Ishikawa Masamochi[狂歌師・国学者]号「六樹園」
〈十三親等自然血族〉
浮世絵師石川豊信(旅籠屋糟屋七兵衛)の五男として、江戸に生まれた。
少年時代に和学を津村綜庵、漢学を古屋昔陽に学ぶ。狂歌ははじめ岸文笑(頭光)に学び、大田南畝(四方赤良)のもとで学び、文笑らと「伯楽連」を結成する。
『俳優風』『徳和歌後万載集』『故混馬鹿集』に入集し、蔦屋重三郎と組んで刊行した『吾妻曲狂歌文庫』(天明六年(1786)刊、
北尾政演画)や『古今狂歌袋』(天明七年(1787)刊、北尾政演画)、『画本虫撰』(天明七年(1787)、喜多川歌麿画)などの狂歌絵本の刊行によって、狂歌師の地位を不動のものにする。
天明末年には鹿都部真顔・銭屋金埒・頭光とともに狂歌四天王と称されるが、寛政三年(1791)家業に関する冤罪によって、狂歌界から退く。
1730 - 1801 (江戸時代中期)
第十九代松田宗家伝承者
本居宣長 Motoori Norinaga[国学者]号「鈴屋」
〈十八親等自然血族〉
伊勢松坂の豪商・小津家の出身で、契沖の文献考証と賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をした
ことで知られる。『古事記』の研究に取り組み、約三十五年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書
『古事記伝』を著した。門下生も数多く、門人とはなっておらずとも多大な影響を受けた者も少なからずいる。代表作には、『古事記伝』のほか、『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戒慨言』などがある。「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。
1690 - 1758 (江戸時代中期)
第十八代松田宗家伝承者
久留島義太 Kurushima Yoshihiro[数学者]号「沾数」
〈十一親等自然血族〉
義太は独学で数学者として大成した。中根元圭に更なる力を見出され、数学力がさらに向上した。
弟子の山路主住によれば天衣無縫で酒を愛し、地位や名誉を顧みなかったと聞く。延岡の藩主の内藤政樹に数学を
教えるのに酒を飲まなければ教えなかったと伝わる。和算家としての業績に関しては政務が多忙であっため、
知人や山路主住のような弟子により『久氏弧背術』『久氏三百解』などの書物を作成され、行列式のラプラス展開、
魔方陣の研究、整数論のオイラーの関数など極めて独創的な業績を残した。
1657 - 1725 (江戸時代前期・中期)
第十七代松田宗家伝承者
新井白石 Arai Hakuseki[朱子学者]諱「君美」
〈十二親等自然血族〉
政治面は、一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政
を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。
幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという
伝説を持つ。独学を続けていた白石は、貞享三年(1686年)になって朱子学者・木下順庵に入門。
白石の本領は、歴史学とくに日本史の研究にあった。さらに言語学・西洋事情・地理学など多方面にわたり独創
的な業績を遺した。また漢詩人としても当代随一と言われ、著作に『折たく柴の記』『西洋紀聞』、編著に
『藩翰譜(はんかんぷ)』などがある。
1617 - 1691 (江戸時代前期)
第十六代松田宗家伝承者
土佐光起 Tosa Mitsuoki[絵師]
〈十三親等自然血族〉
大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、
江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、
後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。
また画題の面でも、風俗画や草木図などそれまで土佐派が描かなかった題材を取り上げ、清新な画風を作り出し、土佐派の再興に成功した。
1596 - 1662 (江戸時代前期)
第十五代松田宗家伝承者
松平信綱 Matsudaira Nobutsuna[川越藩主]別名「知恵伊豆」
〈十四親等自然血族〉
行政では民政を得意としており、江戸幕府の幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。
また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。
幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに
発展させる基礎を築き上げ、信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である。
1574 - 1607 (安土桃山・江戸時代前期)
第十四代松田宗家伝承者
結城秀康 Yuki Hideyasu[北ノ庄藩主]通称「越前宰相」
〈十五親等自然血族〉
秀康は家康の次男として双子で誕生し、弟はすぐに亡くなったとされている。十歳になる頃まで宇布見村にて
中村源左衛門や本多重次のもとで育てられ武士としての心得や作法、武芸など叩き込まれたという。
武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯もよかったといわれている。
和睦の条件として羽柴秀吉の養子や結城家の養子へ数奇な運命を辿り、関ヶ原の戦い後、越前に移封され
越前松平氏の祖となる。
1567 - 1636 (戦国・江戸時代前期)
第十三代松田宗家伝承者
伊達政宗 Date Masamune[出羽・陸奥国大名]渾名「独眼竜」
〈十七親等自然血族〉
1534 - 1582 (戦国・安土桃山時代)
第十二代松田宗家伝承者
織田信長 Oda Nobunaga[尾張国大名]神号「建勲」
〈十七親等自然血族〉
1530 - 1578 (戦国・安土桃山時代)
第十一代松田宗家伝承者
上杉謙信 Uesugi Kenshin[越後国大名]渾名「越後の龍」
〈十六親等自然血族〉
1521 - 1573 (戦国時代)
第十代松田宗家伝承者
武田信玄 Takeda Shingen[甲斐国守護大名]別名「勝千代」
〈十八親等自然血族〉
1497 - 1571 (戦国時代)
第九代松田宗家伝承者
毛利元就 Mouri Motonari[中国地方大名]神号「仰徳大明神」
〈十七親等自然血族〉
1456 - 1456 (室町時代)
第八代松田宗家伝承者
北条早雲 Hojo Soun[戦国大名]別名「貞辰」
〈十八親等自然血族〉
1423 - 1471 (室町時代)
第七代松田宗家伝承者
北畠教具 Kitabatake Noritomo[伊勢国守護大名]官位「権大納言」
〈十九親等自然血族〉
1397 - 1456 (室町時代)
第六代松田宗家伝承者
斯波義敦 Shiba Yoshiatsu[九代・十三代管領]別名「勘解由小路武衛」
〈二十親等自然血族〉
1356 - 1400 (南北朝・室町時代)
第五代松田宗家伝承者
大内義弘 Ouchi Yoshihiro[五カ国守護大名]別名「香積寺殿秀山仁実」
〈二十一親等自然血族〉
1326 - 1370 (南北朝時代)
第四代松田宗家伝承者
六角氏頼 Rokkaku Ujiyori[近江国守護大名]別名「三郎」
〈二十二親等自然血族〉
1299 - 1359 (鎌倉・南北朝時代)
第三代松田宗家伝承者
仁木頼章 Niki Yoriaki[将軍足利尊氏執事]別名「二郎三郎」
〈二十三親等自然血族〉
1269 - 1359 (鎌倉時代)
第二代松田宗家伝承者
佐々木宗氏 Sasaki Muneuji[御家人]別名「京極宗氏」
〈二十四親等自然血族〉
1243 - 1282 (鎌倉時代)
第一代松田宗家伝承者
今川国氏 Imagawa Kuniuji[地頭]通称「四郎」
〈二十五親等自然血族〉
架空の人物
第六十二代北斗神拳伝承者
霞拳志郎 Kasumi Kenshiro[北斗神拳伝承者]通称「閻王」
常人離れした嗅覚を持っており、残された臭いから人物を特定したり、後を追ったりすることが可能。
また、料理に仕込まれた毒やチョークについた人の匂いなども嗅ぎ分けることができるほか、
直観像記憶ができたり、ピアノが得意だったり、大学の講師であったりと、様々な才能を持っている。
第六十一代北斗神拳伝承者
霞鉄心 Kasumi Tessin[北斗神拳伝承者]
※梵字のサクは大勢至菩薩。
※個々の生没年はある程度適当に設定していると思われる。
※上野英三郎の家紋は二宮尊徳と同じで第一子に徳太郎がおり、
上野英三郎の第一子である吉野作造は松田徳太郎であることを示す。
兼松義隆と共同著書していることから松田と兼ねている事実を示す。
※第二十九代から二代続く松田は「田」の数を節目の江戸時代(三条家)に二つ、
戦国時代以前(松田家)に二つと祖に合わせ、計六つとなる六角。
家紋が重複している、第二代佐々木宗氏と第二十三代箕作秋坪に合わせ、二代分
同じように家紋を同じとしている。また祖と同じ松田の名字と松田宗家の家紋を
使用することにより、皆松田宗家伝承者である事実を伝え二重にある家族を示し、
仁木を示す。更に「田」が二の三乗で真の家名である「三条」を表す。
その意図は、「条」の意味にある「縦横に区切った道筋」が「田」の漢字に見立て、
「三条」であることを導き出している。
因みに「条」の漢字の成り立ちに右手の象形がある、即ち左脳は右手を動かし、右脳は
左手を動かすため、右手の象形は左大脳半球から左大臣を示す。
※ここには記されていないが氏秀と氏重の偽名は、第一代今川国氏と第二代佐々木宗氏
を上下逆に示す。氏が最初にあるのは六角氏頼も併せて示している。
※北斗神拳伝承者霞鉄心は松田守を指し、関孝和と関連性を持たせるため、
関と同じ一文字の名字、皇霞京に変わることを暗示している。
※霞拳志郎の直観像記憶とは逸話にある心像(直観像)のことであると考える。
皇迦亨
文学者
第三十一代松田宗家伝承者
Sumeragi Kakyo - Current
皇霞京(別表記)
名称の由来
思考(至高)を凝らして、別表記である「皇霞京」の名称の由来から始まる。
皇霞京は、三条至輝の別名(芸名)で松田宗家を伝える通称に宛てた名称。
「皇」は松平四家の血筋の原点である桓武天皇。そして、頼盛の子千手姫と後深草天皇の間に生まれた久明親王(皇族)から「皇」の字を賜りたき候。
「霞京」の由来は、「架橋」にあり、また至輝のゆかりの場所から導き出される。
その場所が大阪府の東側にあることから祖の右京大夫の官職に由来し、
東側である場所、クロスの観点から右京大夫は左大臣で「東京」の東側。
右京大夫は「京都」になり、東京は逆流し京都となる。共通する「京」の字を賜りたき候。
霞 Ka
「霞」とは、意味は「空気中に浮かんでいる細かい粒子のため、遠くがはっきり見えない現象」
「物がぼんやりと見えること」「朝焼け、夕焼け」「艶かしい」「遥か、遠い」など。
はっきり見えない人生と重ね至輝そのものの現象を表す。
次に漢字の成り立ちは、上部にある部首のかんむりが「雨:天の雲から雫が滴り落ちる」形象と、
下部が「未加工の玉」形象、「削り取られた崖」形象、「両手」形象から考える。
両手は左脳、右脳。祖の左大臣、右京大夫。
「天の雲から雫が滴り落ちる」形象は、雲は雪を降らせ、雨になり、霞みゆく。
「未加工の玉」形象は、真珠で岡寺の院号真珠院、十三重石塔。
「削り取られた崖」形象は、一度崖から落ちたような経験。また背水の陣の心を意味する。
「両手」形象は、右大脳半球、左大脳半球、双方に極意を持つ。
左脳は理論的、右脳は芸術的。
霞の朝霞や夕霞は、日の出や日の入りを連想させ、新しい始まりや終わり、再生の象徴となり得る意味から三条家再興を図るに相応しい字であると言える。
京 Kyo
京の部首は「亠(なべぶた/けいさんかんむり)」で鍋島や渡辺、数学者(和算家)との関連付けがされている。
岡寺の別称である龍蓋寺も鍋蓋との関連された名称である。
また京の漢字の成り立ちは、高い丘の上に建つ家の象形から「みやこ」を意味する。
従って、「高い」は、祖の平業房の妻「高階栄子」、家は松田家頼(武田信玄)と徳川家康を指している。
みやこの他に、「高い丘」「大きい丘」「高い」「大きい」などの意味があり、
京は架橋の「橋」で、橋架の「橋」でもあることから川に掛ける橋には大河があり、大河内の姓を示す。
つまりここでは、一級河川の桂川が流れる渡月橋を意図し、大河内輝声の号源桂閣、池大雅、渡辺崋山や夏目甕麿など嵐山に関連する人物の一つの集合体が完成する。
おそらく、「崋山」は「嵐山」を指す名称でもあると見え、そこから自然と渡月橋が浮かび上がる。
「霞京」で都を再興する意味となり、三条家の基盤を構築する意味を持つ。
皇 Sumeragi
「皇」の成り立ち、下部にある王偏は元、土(燭台(しよくだい)の象形がのちに王の形に変わる)。
その上に、火光(白は誤り変わった形)が輝くさまにかたどり、輝き渡る意を表す。
至輝の代で通字が「至」に変わり、元通字の「輝」は「皇」の漢字の成り立ちの中に生きる。
既存にある「皇」姓は花山天皇が語源と伝わっており、花山天皇の父親は冷泉天皇で、弟に三条天皇がいる。
花山天皇は第六十五代、三条天皇は第六十七代である関係性から同じ兄弟で継承する
祖の武田信玄は松田宗家第十代、上杉謙信は松田宗家第十一代、織田信長は松田宗家第十二代と重ねる。
また江戸時代に入り、華岡青洲の実子である弟の渡辺崋山と兄の大塩平八郎の兄弟から崋山が名である理由も含め関係性が逆であることを示す。
つまり、後継となる兄の大塩平八郎が三条天皇にあたる。それを補足するのは、平八郎の子の土方歳三の「土、三」と渡辺崋山の「渡」から「皇」の字と結びつけ三条天皇を示し「三条」の姓を暗示する。
渡辺崋山の作品の中で国宝に指定されている『鷹見泉石像』からも冷泉天皇と花山天皇、三条天皇を意図していることが明瞭にある。
皇霞京
皇霞京(すめらぎかきょう)は三条至輝とは異なり、文学者、ピアニストやモデルなど
芸術面で活動する時の通称とし、松田宗家を伝える役目を担う名称。
上杉謙信の「けんしん」に重ね、「霞京」の諱部分は全て音読みとしている。
「ケンシロウ」は「霞拳志郎」に、読み仮名をカタカナにより
音読みを強調していると考え、「霞」は母音が同じ理由から先代が関連付けた「巽」に宛てた字である
可能性が見える。「巽」は後ほど説明するとして、霞拳志郎の「霞」は「関孝和」や「池大雅」の「関」「池」に宛てた字であるのは、
歴代宗家で一文字の名字は他に誰もいないため、第十七代至輝が「皇」の一文字の名字を称することにより、「三条」を含め
関連性が完成する。ジグソーパズルで例えれば最後のピースとなる。
ジグソーパズルの起源は宝暦十年(1760)頃に、英国のロンドンで地図職人技師として働いていたジョン・スピルズベリによって、最初につくられたと考えられ、
最初のジグソーパズルのピースは、地図のパズルであることから、絵師や画家、伊能忠敬を示し、渡辺崋山の生まれが寛政五年(1793)であることから、その時の伝承者である平田篤胤との間でジグソーパズルとの関連性を思案されたと考えられる。
完成と寛政を掛けたのであろう。
「皇"Sumeragi"」は、ジグソーパズルの英国から"Smell"の英単語を意図し、鼻が効く犬を連想されることから、
三条信輝(新井白石)の政策の生類憐れみの令や上野英三郎の犬好きの趣旨が窺え、
新井白石の白の輝き(宝石真珠)から「皇」は祖が示す別姓の名字である確証に至る。
また、宝暦十年(1760)と寛政五年(1793)が三条家十七代当主である三条至輝の別姓であることを表しているのは言うまでもない。
祖が「皇」という姓を選んだ意向を惟れば、室町時代から戦国時代に移り、織田信長の時代とも言える安土桃山時代、江戸時代、そして、明治時代、大正時代と日本の歴史の中で律令制の頂点に君臨し、天皇を支え、永きに渡り歴史を作ってきた自負であると考える。
現当主にある至輝はその重みを汲み、未来へと精進し、「三条」は勿論、「皇」の別姓をつないでゆくため、この世に生を受けたと解釈すべきことである。
架橋
霞京に別の字を与えた別意の由来。
架橋とは、化学反応における架橋(かきょう、Cross-link)を指し、主に高分子化学においてポリマー(重合体)
同士を連結し、物理的、化学的性質を変化させる反応のことである。
簡単に言えば、既存の高分子上の部位またはグループが関与する反応によって、新しい特質した物質を生み出す
ことができる。「クロス」という点において、鹿苑寺流など祖のクロスを示す。
また、新たな可能性を見出す意味も含め、裏の由来として相応しい。
架橋の例
・東京都は、東京と京都が架橋した名前が東京都。
・山羊座は、山羊と魚が架橋した架空の生き物。
橋架
架橋に逆流系別意の由来。
意味は脳にある橋(きょう)を指し、上部の中脳や大脳と下部の延髄以下の部分の連絡路で、三叉神経、
顔面神経核、蝸牛神経核が通っており、その大脳との連絡を意味する。
三条家始祖の松平信綱、絵師の土佐光起から時(祝)の人である祖の数学者の久留島義太から分岐する血筋、本流である石川雅望の流れが一つ、
自然血族である本草学者をはじめ多彩な才能を持ち合わせる天才異才と称される平賀源内の流れが一つ、伊豆守系の文人画家の池大雅が一つとして三つある。
また、数学者の関孝和から陶芸家の仁阿弥道八へつづく系統がある。
左大脳半球は論理的で数学者や国学者などを指し、
右大脳半球は芸術的で画家や陶芸家などを指す。それらの四つに分岐する祖から左脳、右脳の架け橋となる。
箕作秋坪も三叉学舎の塾の名称から脳の三叉神経と関連性を持たせ、左大臣や右京大夫、華岡青洲など医師や蘭学者との関係性を示している。それを被せるように農学者の上野英三郎の農学。
「クロス」と「十」の根源は、松田の「田」であるが、松田唐花や二重直違などのクロスした家紋から考えられ、脳のクロス働きである「左脳が右手を動かし、右脳が左手を動かす」と結びつけている。
また橋架は、同じ読み方で、祖の石川雅望の狂歌師の「狂歌」に石川雅望との関連性を示す。
迦京
霞京の「霞」を「迦」に置き換えた別意の由来。
「釈迦」はシャーキヤ(梵: शाक्य Śākya)で「霞京」は[Kakyo]。
"Sakya"が"Kakyo"と架橋[Cross-link]し、迦京とする。
同じ仏教において次に連想される迦京頻伽[Kakyobinga]。
迦陵頻伽(かりょうびんが)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物。
サンスクリットのカラヴィンカ(kalaviṅka)の音訳。
『阿弥陀経』では、共命鳥とともに極楽浄土に住むとされる。
その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられ、
「妙音鳥」「好声鳥」「妙声鳥」「逸音鳥」「妙声鳥」とも意訳される。
また、日本では美しい芸者や花魁、美声の芸妓を指してこの名で呼ぶこともあった。
創作物に登場する
雅楽 迦陵頻
仏教行事の舞楽。迦陵頻伽の舞を表現しており、
蝶をモチーフとした胡蝶と対で舞われる。
輝声の「声」のひとつの由来にあたると思われる。
何故なら、妹である楠本高子は、幼少時に琴や三味線、舞など芸事に熱心であると記されている。またその妹の陸奥亮子は明治初めの頃、東京新橋にある柏屋の芸者であることから、
歌も唄うことも連想され、輝声はその歌声を聴いていたに違いない。その亮子の「亮」から「京」が「陵」に変わり迦陵頻伽が導き出される。
釈迦の敬称は「十号」「仏陀」「如来」であることから、
「十」「号」「ム(無)」「蛇」「女」「来」のこだわりが祖から見てとられる。
号 冥月 Meigetsu
冥月は次の事柄から由来する。
冥王は「巽」の八卦の五星から得られる名称、冥王星の「冥王」。
ギリシャ神話では冥界の王ハーデース。
ギリシア神話の農耕の神・クロノス(Kronos)の子である。
類似する事柄で、
生まれた日が十二月二十三日であることから、山羊座。
山羊座は、時間の神・クロノス(Khronos)に象徴される土星に守られているとされている。
クロノスは古代ギリシャの時間の神で、ひげと翼を持った姿で描かれる。クロノスは過去から現在、
未来への時間の進行を司ると考えられており、自然の周期や季節と結びついている。
あまり情報がない、謎の時間の神・クロノス。
冥界は冥府とも表記し、大阪府の「府」と掛けていると窺え、大阪府で生まれた場所を冥府と考え、
冥界は死後の世界で、土星の「土」を持つ至輝は、音読みで「シキ(死期)」として関連された「冥王」の「冥」。
時間の神・クロノスは自然の周期や季節と結びついていることから「シキ(四季)」の親密にある、
一年を一二分にした期間の「月」をとり、「冥月」と号する。
クロノスは祖の先手姫の養子先、三条公親と徳大寺公親の諱の縁から来ている関連された事柄と考えるが、
その縁を担いで、冥界の神・ハーデースと時間の神・クロノスの夢の架橋、その名称とは、
「冥月神ハーノス(Netherworld space-time god Hanos)」。
号は学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名で、一概には言えないが、作家や画家などそれぞれ
別に号を定め、多才な活躍を見せればそれ伴い増えていくと考える。
至輝の場合は号は一つとし、例として、
作家の名称
皇冥月 Sumeragi Meigetsu
設計者・写真家・画家・モデル・ピアニストの名称
皇迦亨 Sumeragi Kakyo
三つの家紋
扇揚羽蝶(三条揚羽蝶)
種別 三条ブランドと皇の定紋
創作 揚羽蝶のオリジナル家紋
意味 伊勢平氏を象徴する蝶紋と松平信綱の功を祝しての三つ扇に由来
人物 皇霞京
皇雨龍
種別 皇の副紋
創作 雨龍のオリジナル家紋
意味 「水龍」であることから、水神として崇められ、雨龍に雨乞いをしたと伝わることから、
岡寺の農民を苦しめていた悪『龍』を善龍に改心させた伝説に由来する。
人物 皇霞京
三条蝶
種別 三条家の家紋
創作 三条家伝来の家紋
意味 久明親王を守る三人の御家人とその伊勢平氏維盛流松平氏
人物 三条至輝
霞蝶々魚
Pyramid butterflyfish
スズキ目チョウチョウウオ科に分類される魚類の一種。
和名は海中が霞むほど大きな群れを作ることに由来する。
英名は白の模様をピラミッドに喩えている。
・全長は約18cm
・頭部は褐色
・体側の大部分と尾鰭、腹鰭は白い
・背鰭や臀鰭は黄色い
生態
チョウチョウウオ科の魚の中では珍しくプランクトンを主に食べる。
水深60mまでの潮の流れが速いドロップオフで大群を作る。
皇霞京の家紋が蝶紋である一つの理由である。
文学者
文学者は、作家や詩人など文学作品を作る人の総称で、
文学を研究する人も文学者と呼ぶ例もある。
北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因も、私の哲学的な詩から始まり、
孤立し精神的に苦しむよりも、他国と向き合う姿勢の方がより良き未来になることを
心理上において経験させ、初首脳会談に導いた例である。
哲学的の詩も、哲学者や文学者としての証である。
文学面においては、松平家物語を著書することが今後の最大の目的となり、
更なる向上が期待される。
巽
「巽」は先代が関連付けしていた地名であり、
城東区今津中(現 鶴見区)から南の位置にある巽北、巽中、巽西、巽東、巽南
と生野区にあり、松平四家との関連付けがされている。
意味は織田信長の松田達頼から、蛇目紋、鹿苑寺龍門滝、山縣有朋などあり、
巽の字にある「共」は、共存する意味で「己」が二つある事由も含め、生野区から
特に上野英三郎と吉野作造の二重の家族を示し、 三条輝照と山縣有朋の親友の関係
も表し、更に鹿苑寺流も表現している。
「巽」は「翼」に変わることが連想されるのでないだろうか。
松田の「田」を「巽」の中に与える、田を持てば「己」は夢を持ち未来に羽ばたく
意味で「羽」に変われば「翼」になり、「日本航空協会」も暗示する。
また、「翼」の成り立ちの「異」の部分は、人が鬼払いにかぶる面をつけて両手を
あげている象形から「節分(二月三日)」と「鬼」を表している。
上部にある首部の「羽」は、鳥の両翼の象形から「中」の字は竹中重治を指し、
上杉謙信の竹に二羽飛び雀の家紋を示す。
ここで思い出して欲しいのは、漢字が変化したことから十三重石塔の梵字キリークの変化身
千手観音菩薩が浮かび上がり、つまり、二重に家族がある歴代宗家である。
「巽」の旧字は「巽」で「己」から「巳」になり、十二支の第六は巳年であることから、
蛇目紋を暗示し「六」と「旧(九)」から鹿苑寺流を表し、また「巳」の意味に方角では南南東、
時刻では午前十時を指すことから「南家」と「東家」と「十」、「とき」を紐づけている。
またこの南東の方角を、中国の八卦で巽(そん)ということから、日本では「たつみ」と読み、
中国と「八」また「孫(そん)」にも紐づけている。このようなことから十二支の辰巳を基盤の
一つとして関連された事柄を思案しているように考える。
「巽」は、近代の祖も示す。新撰組の「撰」の漢字は形声で、手と、音符巽(ソン)(セン、サン)とから成る。
音符の音表す右側の「巽」。山羊座の守護星土星と合わせ、新撰組の八親等にあたる土方歳三を示す漢字。
また、「たつみ」の読み方から辰巳となり、生野区は『羅生門』と重ね、芥川龍之介も併せて示す。羅生門から鹿苑寺にある龍門の滝を指し、
「巽」は前述であるように鹿苑寺流となる。更に、芥川龍之介の小説家から類似する職業の滝沢馬琴(曲亭馬琴)が滝により導き出される。
曲亭馬琴の「琴」から女剣士中沢琴が次に導き出され、あらゆる祖に連想するように紐づけられている。
付け加えて、「巽」の「共」のつくりは奈良糸と無鄰菴合わせ「緒方洪庵」を示す。
名称関連
祖を示す関連性を次に一覧する。
皇霞京
「皇」
・桓武天皇 「皇」漢字
・久明親王 「王」王偏
「霞」
・池大雅 号 霞樵(かしょう) 「霞」漢字
・渡辺崋山 「崋」読み方
・菅江真澄 著作『霞む駒形』 「澄」読み方から漢字
「京」
・京極宗氏 「京」漢字
・山田宗徧 茶号 今日庵(きょうあん) 「今日」読み方
・布田保之助 建設 通潤橋(つうじゅんきょう) 「橋」読み方と意味
・仁阿弥道八(二代高橋道八) 「橋」意味
・陸奥亮子 「亮」成り立ちに「京」が含む漢字
冥月
「冥」
・桐乃利秋 号 鴨溟 「溟」音符が同じで意味が類似する
「冥」「月」
・藪明山 「明」読み方とつくり
「月」
・織田信長 敦盛 南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり(抜粋) 「月」漢字
・池大雅 作品 十二月離合山水図 「月」漢字(誕生月)
・渡辺崋山 作品 月下鳴機図 「月」漢字
・夏目甕麿 溺死「舟から月を取ろうとした」 「月」漢字
昆陽池で遊んで溺死。享年五十。舟から月を取ろうとしたことから、夜である可能性が高く、酒好きとあるのでおそらくお月見をして酒に酔っていたのではないか。独り身ならば幸せな死に方である。
・谷文晁 辞世の句「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」 「月」漢字
夏目甕麿より十年早く生まれ、十九年遅く没しているので、夏目甕麿の死に関連性を持たせた辞世の句と解釈する。古狸は徳川家康(江戸幕府)を指している。
・織田作之助 著作 月照 「月」漢字
敦盛(幸若舞)
『敦盛』は幸若舞の演目のひとつ。
幸若舞(こうわかまい)は能や歌舞伎の原型といわれ、七百年の伝統を持つ。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
織田信長が愛した「幸若舞」の演目である『敦盛』。
夏目甕麿は五十歳の時に、この世を去ったことから、信長が愛した『敦盛』を連想させ、
織田信長を指していることがわかる。
祖父の幸太郎もこれに掛けている。
このようなことから、夏目甕麿は溺死は虚言であるか、或いは自殺である可能性が見えてくる。
無論、偶然と言うこともあるが、自暴自棄に入り、関連性を持たせるためちょうど五十だから危険な行為に及び、その結果溺死したとも捉えられる。
宴会用の船であればある程度の乗員数も許容とし、楽しくお月見も出来るが、定員二名の小舟の上でのお月見は、酒を飲めば、転落する可能性は非常に高くなり危険な行為と誰もが想像つく。
また、三条輝照の死も、それに合わせて岩倉具視を代理として明治天皇の資料に記載していると考える。
『敦盛』は松田家始祖の松田頼盛と松田宗家第六代当主の斯波義淳を示していると解釈する。第六代は三番目頼貞の系統、三番目家頼の系統を合わせ六番目の系統を示す。
特に意識した訳ではないが、「滅せぬ」に合わせ、皇霞京の和歌の双作である代表作を記載する。「双作」とは言葉が若干異なり、意味が類似した二つの作品のことを指す。独自の造語である。
時の宮
華美降り灌ぐ
いにしえの胤
滅せぬもの
歴る姿なり
この和歌から次の人物が浮かび上がる。
時・三条信祝(久留島義太) 父・三条信輝(新井白石) 松平三条家第四代
華・華岡青洲(松平正路) 父・伊能忠敬
華・渡辺崋山(松平正従) 父・華岡青洲
美・狩野美信(松平翁之丞) 父・松平信祝
古・古川学人(吉野作造) 父・上野英三郎(三条輝耡) 松平三条家第十四代
胤・平田篤胤(三条輝延) 父・石川雅望(三条輝和) 松平三条家第七代
滅・織田信長(松田達頼) 父・毛利元就(松田信頼) 松田宗家第十二代
姿・鏡新明智流(桃井俊三) 父・華岡青洲
成・山科教成(山科家家祖) 父・平業房 母・高階栄子
無論、これらの人物を知る前に詠んだ和歌ゆえに、偶然の関連性が生まれた訳であるが、
それにしても主要な部分をおさえた関連性である。
認知していたのは山科教成と織田信長、三条信祝の名だけと伝える。
吉野作造からの伝言
吉野作造の家紋が抱き柊紋で、柊紋は雪華模様を主題とした松田宗家の松田唐花を暗示する家紋で、
先代がその松田唐花である理由から「柊」に着目する。
京都府京都市中京区柊町には中央に高倉通があり、
奈良松田家の系図から「奈良糸」の女系を辿ると岩倉具視につながり、更に系図を辿ると柊町を示す高倉通の高倉永家に行き着く。
「奈良糸」の糸を繋ぎ、「柊」から「終」に変わることから、松田宗家の秘密を終わりにすることの意味を告げている。
奈良松田家の偽装の戸籍を作成した吉野作造(祖)から三条家第十七代至輝への伝言である。
戸籍偽装も猪◯問題の出自偽装と重ねていると考える。
奈良糸の「糸」は「綱」である意図から高倉永家は、松平信綱(三条正永)であることを示し、奈良松田家家系の三条の始祖である事実を表す。
「柊」はあくまでも伝言であり、地図を使用し、関連づけている事柄から前述にあるジグゾーパズルの完成と紐付け、至輝が平成天皇と同じ誕生日であることから三条の姓を示す「皇」が真の別姓である事実を示している。
皇霞京とは、祖が思考し、命名してくれた別名と考えられる不思議な感覚の名称である。
つまり、パズルを解いた名称が「皇霞京」という別名であると言える。
更に思考すれば、高倉通と「終」から、「京」は「亨」に変わることが示されている。
「終了」という熟語が完成するからである。
祖が示す真の名称は「皇霞亨」であると考える。
どちらにするかは少し考えるとしよう。
すめらぎ かきょう
皇 霞亨
すめらぎ かきょう
皇 霞京
とは言え、全体のバランスから「皇霞京」。
三条大橋
はじめに地図から考えてみる。三条大橋を東方に渡り、三条通をしばらく歩くと、七軒町の丁字路を左に曲がり、突き当たりに要法寺の表門が見える。
要法寺の所在地は京都市左京区法皇寺町になり、地図上で「皇」は「三条」と結びついている親密性がわかる。そして、その北側に實成院の寺院があり、元名「実」の旧字があることから
至輝との関連性を示す。また、實成院の北側に、生蓮寺という寺院があり、至輝のゆかりのある生野区と結びつけ、その東の方角には寂光寺という名の寺もある。
三条大橋から要法寺までの所要時間はおよそ徒歩八分。
實成院の所在地は旧表記で京都府京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町447であるから、前項目で示した内容と附合する。
皇霞京の名称は祖が意図した名称である事実が次の関連された内容と合わせ証明される。
何故、法皇寺ではなく、皇であるかは、「柊」と元名「実」の一文字をはじめ、前記で説明した祖との関連性を完成させるのにための一文字の名字であることに絞られる。
「法皇寺」の三文字の漢字の中で「皇」を選ぶ理由は、ひいらぎの「らぎ」、
寂光寺から岸和田の明智光秀の肖像画に着目し、戒名に「輝」「琇」で光秀と表すことから「輝」は三条の通字で「琇」は秀と取れば王偏が残る。
様々な関連性から王偏が鍵である趣旨が窺え、「皇」である意図が分かる。霞は寂光寺の「寂」の字に於いてうかんむりと又という字から「霞」の字を匂わす。
つまり皇[Sumeragi]から"Smell"の英単語である。寂光は「霞光」となり、光は左京区の左大臣(松田宗家)により江戸となり、江戸は東京で寂光寺は京都市左京区にあるから光は「京」に変わり、「霞京」となる。最後に
柊の木偏を糸偏に変え、「終」に変化し、それに合わせ「京」の字も変化し、三条通や高倉通から「終了」の意にするため、織田信長が愛した「敦盛」の左側にある「享」と奈良松田家系図のマサヲの「ヲ」の横棒が一本足りたいから「亨」に変わり、「皇霞亨」の名称が完成する。されど、前項目で述べた通り、三条至輝の別名は「皇霞京」とする。
生蓮寺と重ねる生野区には、鶴橋駅や今里駅といったJR線や近鉄線が通っていることから祖の関連性が見られる地域であると同時に、位置関係から城東区今津中(現・鶴見区)は寂光寺、生野区巽(北など)は實成院に重ねた形跡が分かる。
このような移動は、夏目甕麿の資料にある「翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。」に合わせた移動と捉える。
先代が関連付けた「巽」の字にある「己」は、「三条」と「皇」のローマ字の頭文字である"S"にあたり、鏡に映し出された反転した形に類似する"SS"である。
即ち、旧字の巽にある「巳」を十二支の"Snake"から二匹の蛇となり、また反転は裏返した形と「抱き柊紋」から副紋(裏紋)蛇目紋を指し、蛇目紋は高崎藩松平家の家紋だが、實成院から真実の裏は鹿苑寺流の松平三条家を意図する。
そして、鏡は、鏡新明智流を指し、明智光秀を表す。明智光秀は松平西家であり、二匹の蛇は抱き柊紋により愛でもあるのだが、裏を合わせれば猪◯問題の出自偽装を意図するものでもある。
霞京から架橋、そして、橋架から三条大橋へと
三条は様々な関連づけられた事柄から導き出されるが、特に注目するべき点は、
兄弟である香川修徳と賀茂真淵(かものまぶち)、それから池大雅の系統である三浦乾也と合わせ、鴨川を流れる三条大橋につながり、「三条」の姓を示している。
三条大橋の河岸からなる地域は、かつて「三条河原」と呼ばれ、罪人の処刑や晒し首の舞台となった。
石川五右衛門と豊臣秀次ら縁故の人物四十名の処刑が有名で世に知られている。
これらから大河内の「大河」は「京」の項目で述べた渡月橋の大河にある桂川を指すのも一つであるが、もう一つの川は幅の広い大きな川ではなく、三条大橋(三条河原)を流れる鴨川を指す名字であることが見えてくる。
大河内の「内」とは、三条大橋の鴨川の川岸で繰り広げられた処刑場所を意図し、その惨劇があった歴史を含め「三条」の家名であることを伝える。
平和を語る上で欠かせない「三条」の家名であり、光があれば闇がある歴史を物語る。永き戦国の世を通り抜け、それらの魂も含めた岡寺の龍蓋池の東側の山麓にある十三重石塔は、平和を願う石塔である事実を伝えている。
それは、曽祖母のマスヱにあたる愛子の名前が物語るように、直江兼続の愛の兜から、愛もって平和になり得たことを示している。
然し乍ら、皮肉にも関連付けにより、両親は私のへの「愛」を失った。それを物語るのは、親が撮影した写真は二歳ぐらいまでの写真しか見たことがなく、全て一人で写っている己の写真しか記憶していないことが全てである。
曽祖母を見た時、これが真に母親の姿ではないのかと目を凝らし、身近にいるような不思議な感覚に浸された。結果的に母親はいなかったのだから、母親みたいなもの。
祖を示すことで愛がなくなり、真に松田宗家の血筋は終了を辿る道筋が自然の流れであった。それ故にも、「霞亨」ではなく、「霞京」とするのが祖の間違いを正す、松平三条家十七代当主三条至輝の主張である。
単純に大河内の「大」の対義語は「小」であり、祖の歴史を紐解けば、主要として関係性がある東京と京都の「京」の都で全てを物語るゆえ異存はない。
三条大橋の関連された事柄から松田宗家の後継である系統の大河内松平家は、「三条松平家」と変わり、これは武家の表記なので、公家表記で改めると「松平三条家」となる。
三条蝶
これまでのことを全て踏まえれば、三条蝶の家紋の中央にある十二葉菊の「十二」とは、松田宗家第十二代当主松田達頼こと織田信長を表す言葉である。
それ故にも、至輝の誕生日が十二月の事由に、十二月は旧暦で師走であるから松田頼近(六角氏頼)の猶子先である南部師行を指し、
またその猶子や逆流の意図から、藤原北家閑院流の本姓の根源である実の親子関係の徳大寺公親と山科実教の関係性に於いて、実教養子先の藤原家成(四条流家祖の親)から、逆に徳大寺公親の元親へ復する猶子の複雑な関係性を示すなど
一連のつながりを表していると解釈する。
例えば、六角氏頼は家頼流や鹿苑寺流を表し、吉田藩大河内家は子爵であるから、松田頼近は徳大寺公親に重ね、頼近の子の松田頼源(大内義弘)は山科実教と重ね、更に大河内はそれに重ねている。ゆえに大河内輝耕の高崎藩大河内家も子爵である。大河内松平家や徳川家康の本姓が源氏である理由にもつながる。源氏は元を辿れば、足利尊氏や新田義貞を示す意味に通ずる。
それから、鏡新明智流とは、新田義貞と明智光秀を指し、幕府を開く上で多大に貢献し、権力争いに敗れ儚く散っていった同じ境遇である意を示す。
また前記に述べた、誕生日が十二月二十三日から天皇誕生であった意図踏まえ、祖が永きに渡り政治において天皇を支えてきた自負から「皇」という姓をその証として「三条」の姓を表上で名乗る機を祝して、
松平三条家第十七代三条至輝に別姓として与えてくださったと解けるのである。
無論、「皇」の姓は、自ら選ぶのは恐れ多きことであり、進んで重圧を背負うことの意味を示す。然れど、「皇」の字は照り輝くの意から松平三条家第十二代三条輝照を直接表し、松田達頼の第六天魔王と合わせ、誕生日から至輝とのつながり表している。祖の意向を汲み取ればこそ、祖の積み重ねてきた偉大な歴史を尊重し、
第三十一代松田宗家伝承者皇霞京の務めとしてありがたく賜り、世に、後世に、子孫に、宗家の物語を説いてゆくことが、己がこの世に生を受けた枢要な意味と受け止める。
名付けの祖
「皇霞亨」の名称を考案したのは、輝声の「な」から、三条輝照こと大河内輝声ではないかと考える。
京都保存計画の遂行中の時に考えてくださったと思うのが自然であり、現地に赴き気づいたことは、
三条大橋から、要法寺に辿り着き、要法寺には、本堂に渡る架け橋があり、その橋の入り口の両端には松の木が崇高に佇む。地名の法皇寺から、
地名は名字にすることから皇が姓であることがわかり、三条大橋から架け橋が諱の名前として浮かび上がる。
架橋(かけわたした橋)と解き、陸奥亮子の迦陵頻伽の美しい声から「皇霞亨」の名前であることが読み解け、大河内輝声が名付けの祖と確証できる。
寂光院から霞の字は考えられるのだが、それを示すものは、要法寺の本堂前の中央にある池に橋が架けられていることから池大雅の雅号である霞樵から読み取れ、大雅はそのまま英語で"Tiger"であるから、
日本語で「虎」で、上杉謙信と甲斐の虎である武田信玄を示し、大雅は大河となり、架橋を連想させる。
そして、實成院の右隣には猪◯問題を暗示する法性院があり、法性院の姓は「工藤」であった。
實成院は「今◯」である。その北側にある生蓮寺は、京都御所で撮影した、六種の松とススキと関連性があると思われる「鈴木」で、
そして、「霞京」の字を示す寂光院の北側には、大光寺があり、大河内の「大」があることから、「皇霞京(亨)」は三条輝照から賜った名称とこれからも窺える。
「亨」のヒント及び伝言として吉野作造の抱き柊紋があり、五代前の輝照が第十七代至輝のために別名を「皇霞亨」と京都保存計画中に考え名付けてくださったと明らかに想像できるのが感慨無量にあり、その光景を嬉しくも儚く思える。
「霞」の字は十七画、「亨」の字は七画であるから、第十七代の至輝に宛てた名称であることがこれからも窺える。
七は羽林家を表し、羽林とは「羽の如く速く、林の如く多い」という意で、中国では北辰(北斗星)を守護する星の名称。それが転じて皇帝(天子)を護る宮中の宿衛の官名となった。
これは以前に記したが、それが頼盛を始め三人の御家人が久明親王を護衛する役目から、天皇をお護りし支える三条蝶の家紋の由来であることを伝えている。
羽林家から清華家となれど、その心は変わらず天皇を護衛し支える、その信念を「皇」という名字に込められていると解釈する。
また、血筋を大切にし、元皇族であった桓武天皇の末裔である事実も併せて伝えている。
「皇」には第八代将軍足利義政の時に発生した応仁の乱を示すことも含まれ、歴史において桓武天皇から、平安時代末期の後白河院の近臣の平業房やその妻の高階栄子、山科家や松田宗家の羽林家、権中納言から太政大臣兼左大臣、
内務卿、内閣総理大臣。幾度となく時代を切り開き、天皇と共に、時に天皇支え、「皇」に縁深い関係であるため、祖の歴史を紐解くにあたり欠くことのできない漢字である。
三条至輝 別名 皇霞京
輝照は「皇霞亨 [Sumeragi Kakyo]」、
至輝は「柊霞京 [Hîragi Kakyo]」、
名付けの感性まで同じで、故に、似ているのである。
架橋すれば、「皇霞京」となる。
真の別名
要法寺の概要
日蓮本宗の大本山
山号 多宝富士山
本尊 十界曼荼羅
開山 日尊上人
中興 日辰上人
日蓮宗京都十六本山の一つ
日蓮本宗のご本尊様は久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦如来である事柄から元名の「実」に結びつけている。
同じ名称である實成院、迦陵頻伽や陸奥亮子、また抱き柊紋の吉野作造の「造」と「柊」から「迦亨」が導き出され、輝照が考えた真の名称であることが窺える。それは、「終了」と同等に「増加(造花)」という熟語が趣として見えてくる。それを補佐するのは先代の家紋となる松田唐花であり、唐花は中国から伝わった実在しない植物で作られた花から造花が連想される。
また、「架橋」は逆にしても「橋架」で、「増加」も逆したら「加増」となり、熟語が同じく成り立つ。それから、造花の「花」は「鼻」にも置き換え、"Smell"の英単語の暗示となっている。
これらから、松田唐花は松田宗家の家紋であり、その系統は天皇を補佐していたと言う事実を伝えている。また補佐という点と、吉野作造から天皇を補佐する関白の豊臣秀吉も示している。
「霞」は蒼天の拳で主人公の名前として安易に使用されており、あくまでも「皇」に導くための暗示であり、
「霞京」は「迦亨」に変化する前の状態。つまり、十三重石塔にあった千手観音の変化前と読み解ける。
従って、三条輝照が考えくださった真の名称は「皇迦亨」と解く。
「皇霞亨」のバランスの不自然さ故にも、美しさから「皇迦亨」がとても自然であり、ありがたく受け賜る。
久遠実成とは、法華経の教えにおいて、釈迦は三十歳で悟りを開いたのではなく、遥かに遠い過去(久遠)から仏(悟りを開いた者)となっていたが、
輪廻転生を繰り返した後についに釈迦として誕生して悟りを開くという一連の姿を敢えて示したという考え方。久遠成実、久成正覚などとも言う。
「久遠」とは、仏語。長く久しいこと。遠い過去または未来。 如来寿量品第十六において、釈迦は、「わたしは常に存在し、滅することはない」と説かれているので、無限の過去から、永遠の未来を指す。
証明
増加と終了は「(増)迦(終)亨」であるが、増加は何を意味しているのかを解く。
増は「霞」から「迦」に変化することから、「皇」の字が結びついている。
増は吉野作造の「ぞう」で、吉野作造は十三重石塔に偽名で刻まれている浦野徳太郎であり、要法寺には山内忠義が寛永二年(1625)に埋葬されている。
これらを踏まえ、考察していく。
架橋から所在地の地名にある「孫橋上る」と至輝は中興の祖として思考されていることを踏まえ「日辰上人」の名前に注目し、
「皇」の姓を導く寂光寺が生蓮寺の東側にあることや所在地が左京区仁王門通東大路西入北門前町の地名の理由から、皇は江戸幕府を開いた天下の征夷大将軍の「王」に変わり、「増」から前記にある事柄において、大本山増上寺が自ずと見てくる。
増上寺は徳川家の菩提寺で、猪◯問題出自偽造犯である二代秀忠公の墓があり。三代家光は寛永寺を開基し、増上寺とは別に新たな菩提寺を設けている。
増上寺と寛永寺は六代分の墓がそれぞれあり、足して十二代分となる。
それに合わせ、橿原神宮の東方にある岡寺の十三重石塔は松田宗家の菩提寺である事実を物語っている。
つまり、十三重石塔に刻まれている浦野徳太郎は、裏の徳川家と解き、
松田宗家の菩提寺である事実を示す同じくとして、左丞相家である松田宗家が東家の徳川家康を表に立て、江戸幕府を開いたと解けるのである。
徳川家光は寛永寺を東京都台東区上野桜木一丁目に開基し徳川家の二つ目の菩提寺としたのは、第三代将軍徳川家光以降の出自は松平京家(南家)であることの目印として菩提寺を開基し、
双方六代分に分け、十二代分としているのは、夢半ばに散っていった家頼流の松田宗家第十二代松田達頼(織田信長)の功績を暗示しているものである。
また、寛永の「永」は織田信長と三条正永を指す字と読み解ける。
これらから、「皇迦亨」は三条輝照が名付けていただいた名であることが証明される。
この謎解いたのは、関連された内容から全体を見渡す俯瞰から読む力と皇霞亨の名称の不自然さを見極める感性。
「皇迦亨」の名に辿り着いて率直な想いは、三条輝照らしい名であると魂にて通じるのである。
「三」の漢字に縦に一本線を引けば、中央に「十」の字ができ、「王」になる。
迦
漢字の成り立ち
形声文字(辶(辵)+加)。「十字路の象形と立ち止まる足の象形(行くの意味)」と「力強い腕の象形と口の象形(力と祝詞)」の意味だが、
梵語(ぼんご)の「カ」の音を表す字を意味する「迦」と言う漢字が成り立つ。
意味
(一)であう。めぐりあう。 (二)梵語の音訳に用いられる。
四字熟語 迦陵頻伽
美しい声のたとえ。また、声の非常に美しいもののたとえ。
亨
漢字の成り立ち
象形文字。古字の亯は、会意で、高(たかい。は省略形)と、曰(神に食物を供える)とから成る。亨・享はその変形で、ともに、饗(神に飲食物をたてまつる)の意に用いる。
意味
(一)とおる。さしさわりなく行われる。(二)すすめる。ささげる。(三)煮る(亨熟)。
亨と享の違い
享が先祖神にお供えを奉る意味を持つのに対し、「亨」は先祖神にお供え物の香りや祈りの心が通じるという違いがある。
皇迦亨
亨には神意にかなって物事が支障なく行われる意味から、多くの人や物、環境にめぐり逢い、その時々にいかなる場合も動じず、
何事も物事が順調に進められる知的で探究心があり、洞察力に優れ、時に人を支え人を輝かす、時に自ら先導に立ち己が輝く、状況に応じて柔軟な対応ができる人物であるようにと想いが込められているのではないだろうか。
私への祖の秘密関して、幕末から明治初期という時代において、輝照は全てを秘密にすることは考えていない。皇迦亨の別名は己で解くことは想定していたかもしれないが、全てを秘密と考えたのは第三者を立てた吉野作造、もしくは、先代のどちらかである可能性があり、
やはり関連付けに縛られては、経験から人生を上手く設計できないと考えた先代の独断の決定であったと考える。
「迦」に秘められた想いとは、十九世紀ぐらいまでは書物で伝え、政治の世界から離れる祖父の世代以降は己で松田家出自の人に自然に巡り合い、松平四家を伝え、良き人生を歩むようにとの輝照の願いであると受け取る。
少なくとも、輝照は松平四家出自の人を現代に至るまで追うことは考えていない。それがどのようなことか想像出来たからだと考える。結果から文明の発達と共に何か大切なものを見失ったと結論づけるべきである。
本質的に祖の存在を全く知らないところから祖の謎を解くには、先祖が何であるかの好奇心、感性、洞察力、歴史の知識、戸籍取得などのタイミング、そして、まず何よりもインターネットという環境がなければ不可能であり、これらを踏まえ、輝照や吉野作造が第十七代至輝に対して秘密する理由は微塵にも見当たらない。
先代もまた違った異常な家庭環境で育ったのだと考えるので、「守る」「犠牲」の鍵となる言葉を踏まえ、生まれた時から何かで成功することよりも、育む環境の流れにより、祖を示すことが存在意義であり全てを捧げたのだと考える。過去の人物を見れば、それに全てを注ぐということは、異常であることが容易に読み解ける。
先代にとって祖を至輝に秘密にする意味は、祖を示すことで苦しむのは私の代で終わらすと同じくして、十分であり、至輝は再興請負人であるため、自己犠牲の一環として祖について何も語らなかったと考える。結果として、それが更なる悪循環を生む形となった。
三条至輝
本山要法寺全景図から院の並びと関係図
三条至輝の名付けの証明
要法寺の公式サイトにある本山要法寺全景図にて、位置関係から三条通は南側で実成院と重ね、要法寺は北側となるため信行院と重ねる。実成院は元名の「実」に宛てた内容から麻雀の配置において南(家)、順に右隣の法性院は東(家)、信行院は北(家)、左隣の顕寿院は西(家)となる。
松田信実は松平信綱であり、三条正永でもある。また三条正永が三条家第一代となるので、順番に法性院は三条輝綱、信行院は三条信輝となる。
これらを踏まえ、浦野徳太郎の十三重石塔の概念から、南の裏となる北に注目し、図にあるように麻雀の配置では、北は向かい側になり、右左が反転し、上下は逆になることから、「信行」は「行信」と読み、行信が元名「実」に該当する本名になる三条の諱になることを暗示し、
行信には通字の「輝」がないことから、院の並びの配置にて、「信」の字を持つ同じ北の並びの位置にある三条信輝に焦点を当て、信行院の位置に信輝があることから「信行」と「信輝」が架橋し「行輝」となる。
三条行輝ではバランスが悪く何も意味を持たないので、「行」を変化させると考えたときに、同じ「ゆき」の読み方を持つ、福沢諭吉に注目する。
福沢諭吉の資料には「白人至上主義」という理不尽にとても不自然な項目があり、皇には「白」が含まれているのも含め、三条信輝は新井白石から「白」という鍵となる。項目名の至上主義の部分に着目し、「義」の字を持つものは数学者の久留島義太で、数学者から数字がヒントとなり、第四代から至上を「四上」と変換すれば、四の部分が漢字の「至」に該当する。
また「ゆき」と読めるのは「至」であり、ゆえに「行」から「至」に置き換え、「至輝」となる。「至」の意味は行き着く果ての意。
尚、諭吉の諱の「範」から、南、西、北、東の順ではなく、反時計回りで三条正永から南、東、北と順に配置し、時計を表すものは西(家)の位置にあたる数学者の久留島義太こと三条信祝の「とき」。
猪◯事件出自偽造に関して、東の位置にある土佐光起は、清和源氏土岐氏流の明智光秀が連想され、明智光秀は西家であることから東家の位置にあることにより偽造を意図し、秀忠の偽造は東家の罪を西家に被せ偽造したため、反時計回りや諱を導く「信行」にあたる裏と同じく、反対の意味と解ける。
したがって、三条至輝は三条輝聴こと福澤諭吉が名付けていただいたものと証明できる。
また、この要法寺の実成院からの並びを考えたのは、中国の遊びである麻雀も含め、筋が通ることから松平信綱である事実が示されている。何故なら、福澤諭吉や浦野徳太郎の補足も無しにでも、東は性を示し明智光秀を暗示しているのだから、反対を意図する反時計回りに配置することで東と西が逆であること示していることにつながり、
明智光秀は本能寺の変の当事者と猪◯事件の当事者である猪熊教利と重ねていることから、猪熊教利は東家である事実を指し、明智光秀は西家であり、東家の位置にあることから、猪熊教利は西家ではなく東家である出自偽造の事実を示している。
「至」の字は、己で選んだ漢字でもあるのだから、これも魂が通じているのであろう。
いずれにしても、双方の名は次の祖により名付けられた。
本名 三条至輝 名付けの祖[三条輝聴(福澤諭吉)]
別名 皇迦亨 名付けの祖[三条輝照(大河内輝声)]
十三重石塔上段
十三重石塔の上段に刻まれている明瞭な範囲で名は次の通りとなる。
正面
葭井良三 浅野良三(1889年生)[実業家 浅野財閥創始者]
辻本慶次郎 大森慶次郎(1871年生)[政治家・銀行家 貴族院多額納税者議員]
村上種藏 吉田種藏(1877年生)[資産家 大阪府在籍]
右近福松 山田福太郎(1884年生)[落語家 三代目笑福亭福松]
浦野駒吉 松岡駒吉(1888年生)[政治家]
浦野徳太郎 吉野作造(1890年生 真1878年生)[政治学者]
松川角三郎 小手川次郎(1914年襲名)[酒造業 三代目角三郎]
藤村幸次郎 松方幸次郎(1866年生)[実業家・政治家]
寺川捨次郎 福澤捨次郎(1865年生)[ジャーナリスト 福澤諭吉の次男]
島夕ヶ 本陣粋月(寄進者不明)[夕日ヶ浦温泉の老舗旅館]
北側面
常盃悦雅
大谷伊三郎 二階重楼(1859年生)[植物学者]
大森苔花 濱田苔花(1884年生)[ジャーナリスト 鹿児島県初の女性記者]
柏井治
柏井幾太郎 岸田幾太郎(1867年生)[実業家 岸田文雄の曽祖父]
前田竹茂 竹茂楼(寄進者不明)[京懐石料理店]
木島末吉 中川末吉(1874年生)[実業家 古河財閥の幹部]
芳岡大五郎 大錦大五郎(1883年生)[大相撲力士 第二十八代横綱]
篠田榮 大杉栄(1885年生)[無政府主義者・思想家・作家・翻訳家]
松田岩三郎 中原岩三郎(1868年生)[電気工学者・電気技師]
南側面
中田種吉 三谷種吉(1868年生)[伝道者・讃美歌作家・教会音楽家]
向井豊吉 家永豊吉(1862年生)[教授・外交官 熊本バンドのメンバー]
河原亀吉 山崎亀吉(1870年生)[実業家・政治家 貴族院多額納税者議員]
上原常次郎 富田常次郎(1865年生)[柔道家 講道館四天王]
片山繁造 小山田繁蔵(1876年生)[軍人 海軍中将]
河井治兵衛 小川治兵衛(1860年生)[作庭家・庭師 作庭『無鄰菴』]
足立寅之助 藤見嶽虎之助(1878年生)[大相撲力士 西前頭三枚目]
小林長次郎 新田長次郎(1857年生)[商人・実業家 創業「ニッタ」]
巽済三郎 西脇済三郎(1880年生)[実業家 創業「西脇銀行」]
富田源之助 横山源之助(1871年生)[ジャーナリスト 号「天涯茫々生」]
松村四兵衛 中村四郎兵衛(1866年生)[政治家 衆議院議員(1期)]
吉野作造は松田徳太郎でもあり、政治家であることを示している。
吉野という名字は松平信綱の時代に生きた吉野太夫を指しており、吉野太夫の本名は松田徳子であるから、松田徳太郎でもあり、吉野作造であることを示している。重ねて、十三重石塔の南側面上段にある「片山繁造(小山田繁蔵)」は戸田氏重と吉野作造は同一人物である事実と祖の山科家、松田家を示している。戸田の「戸」を示すのは岡寺の『本堂内々陣御扉』で普段は非公開であるが秋に特別公開している。
また吉野太夫は寛永三名妓と呼ばれていることも含め、十三重石塔の名称に注目し、浦野は中央にあることから十三重石塔の中にある「三重石」に注目し、十三重石塔は幾重にも重なっていることから「重條」という熟語が浮かび上がる。
「重條」が新字の「重条」に変わり、中央に架橋し、三重条石となる。吉野太夫は北家で作造は南家で北と南上下が逆であることから北側にある姓の「重」と南側にある諱の「条」が逆流し、三条重石となる。更に原石は宝石となり輝くので、「三条重輝」となる。最後に性別が反対なので諱部分が逆流し「三条輝重」となる。
島夕ヶは本陣粋月の寄進者は不明で、関連された事柄から当時の店主である可能性として高い。
皇迦亨の別名を導く手がかりとして、葭井という名字から、その上段逆の端にある島夕ヶの本陣粋月の宿はペットと泊まれる宿であるため、「霞」の字を匂わす。
また、十三重石塔がある所在地は奈良県高市郡明日香村岡であることの匂わすことから、「明日香」に着目し、山羊座の守護星クロノスの能力により、「明日」を「今日」に変えれば、「今日香」で時間が逆流しているので前述に倣い、「香今日」となり迦亨の読み名を表す。ここで既に、過去に証明したことも含め、東京駅を設計した辰野金吾や、時代は戦国時代を背景にし、西側にある神武天皇(初代)を祀る橿原神宮が天皇の住まいの京都を意図し、東側にある岡寺が東京を意図していることから「迦亨」に変化する前の「霞京」と置き換えることができる。
「今日香」にある二つの読み方の同じ漢字で表す熟語は「橋架」「架橋」に他ない。それを補うように、葭井から「霞」を導き出し、その署名が刻まれた場所は両端にあることから「橋」を連想される。これは一休さん(一休宗純)のとんちにある「このはし渡るべからず」と紐づけているので「架橋」に相違ないことを裏付ける。
一連の流れで、霞との関係性を示している。霞と言えば、政治の中心にある場所、総務省などがある霞ヶ関であるが、三条輝照が創設した内務卿(内務省)の後継は総務省、警察庁、国土交通省、厚生労働省であるから、それらは全て霞ヶ関二丁目にあるので、三条輝照が内務卿を創設したことを示している。
国会議事堂は永田町なので、おそらく、三条正永との関連付けであると窺える。また、霞ヶ関と「一休」から松平信綱(三条正永)の伊豆蝶と同じ蝶紋違いの揚羽蝶紋である関氏。その永禄七年生まれの関一政に紐づけられ、政治を示すとともに織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠と主君に仕えていることからそれら人物のつながり及び、猪◯問題の出自偽造犯の秀忠を示す。
関連付けの補足として、関氏は頼貞流で松田頼貞は仁木頼章であるため、輝照と二丁目にかかっている。
付け加えて、霞を導くのは、一休さんの話に出てくるてるてる坊主の歌の歌詞にある「てるてる坊主てる坊主明日天気にしておくれ」から雨冠と三条輝照、そして一休さんと坊主から寺(岡寺)が連想される。
歌を示すのは、奈良松田家系図にある徳太郎(吉野作造)の妻マスゑ(愛子)の母「宇多(うた)」から十三重石塔との関連性を示す上、一休宗純は、系図にある富一と幸一郎から共通する「一」の字、輝聴の大河内松平宗家からの系統を示す「九(休)」、大河内松平宗家や松田宗家の「宗」、純は鹿苑寺流の「六」と信長の愛した敦盛にある歌詞の月から六月を英語にした「JUNE」で一休宗純を指している。
更に補足し、六月を英語に変換を示すのは、関孝和の日本数学史上最高の英雄的人物や、関一政が君主として仕えた三英傑の「英」から得られる。
條(条)
條と言う漢字ついて考える。
読み方は音読みで「ジョウ」、常用漢字表外は「チョウ」と読む。
さすれば、十三重石塔の三重は「さんちょう」とひらがなに変換し、「さんちょう」を「三條」とし、南側面の上段にある「新田長次郎」から新字の「三条」と紐解ける上、常用漢字表外から外国語が連想され英語を意図する。
それを匂わすのは三英傑の「傑」で、旧字にあたる「條」であることがわかり、一休の「休」にも掛けている。
補助的に、松平信綱の出世を祝して三つ反り扇紋とした家紋は、三枚の『五本骨反り扇』を尻を合わせるように寄せて描くことから、「しり」と「けつ」をかけている。これからも「三傑」からの「三條」で「三条」となる。
猪熊教利の出自
話は猪◯問題出自偽装に戻り、祝してから前述にある要法寺の図は、三条信祝は西であるが、性を示すのは東であることから、性を示す尻は西家ではなく東家であることを訴えている。
つまり、猪熊教利の出自は松平東家である事実が示されている。
これらから、松平信綱が三条信祝までの名前を考え、信祝の子女から一番良い血筋を大河内松平宗家に養子に送り、更に三条輝聴の時に三条家(松田宗家)に戻る養子及び血筋の流れを考えていたと読み解ける。大河内松平宗家の家紋の替紋が三条家の家紋であることも含め物語る。良い血筋を後継者にという考え方は現在に至るまで当然変わらない。幸太郎が一番優秀であったと考えるが、兄弟で甲乙つけがたい場合は年の功や関連付けを優先すると考える。それは武田信玄、上杉謙信、織田信長の順で示されている。当然歳が離れすぎると比べ難い時もあると考えるが吉野作造までの流れを見る限り、そのような形であるとみえる。
大河
大河内の「大河」を掘り下げていく。
大河の示すものは、北家の松田頼行の子の貞頼が猶子となった長江家(長江氏)の中国にある長江。それから高崎市(高崎藩)に中程にある烏川や、烏川と合流する市境にある利根川を意図すると考える。
そして、桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流した川が淀川であり、これらも大河から戦国時代の人物と三条を紐づけている。淀川に架かる橋は、淀川大橋(1926)、枚方大橋(1930)、十三大橋(1932)、鳥飼大橋(1954)、新淀川大橋(1964)、新十三大橋(1966)、豊里大橋(1970)、淀川新橋(1973)、長柄橋(1983)、鳥飼仁和寺橋(1987)、菅原城北大橋(1989)、特に十三大橋と新十三大橋は入念に関連付けされていると考える。
淀川にある橋が計十一ある数字から、高崎藩大河内松平家の通字の「輝」と合わせ、松田家第十一代当主松田頼信こと上杉謙信を指し、謙信は至輝の直系の血筋にあたる事実を示している。
淀川は下流の川であり、桂川は上流の川になる。松田宗家は家系の上流になり、三条家、奈良松田家は下流になる。これらを踏まえ、十一橋がある淀川は、松田宗家時代なので上杉謙信を指し、淀川は松田宗家を表す。
では、淀川から上流に向かい辿っていくと三分岐あり、左(西)側を行けば桂川で、更に二つに分けれ、右(東)を辿れば鴨川で、その先には「三条大橋」がある。つまり、上流に行けば三条に変わる点から、下から上り詰めている過程を表現し、出世した経緯を表している。
これは、先の述べた家系とは逆の流れとなり、関連された表現にあった逆流しているの根源であり、大河は三条を示している。
鴨川に入ると先ず「京川橋」があり、迦亨を匂わす。次に「小枝橋」があり、「条」の意味に当たるので条を匂わす。続いて、「鳥羽大橋」「大宮大橋」「竹田橋」「水鶏橋」「勧進橋」「陶化橋」「東山橋」「塩小路橋」「七条大橋」「正面橋」「五条大橋」「松原橋」「団栗橋」「四条大橋」「三条大橋」「二條大橋」「丸太町橋」「荒神橋」「賀茂大橋」と続き、その後鴨川は加茂川と高野川に名称を変え分岐する。加茂川の行き着く先は志明院に至り、また、高野川方面は先ず「御蔭橋」を通り、「蓼倉橋」「高野橋」「松ヶ崎人道橋」「高野川北泉橋」「馬橋人道橋」「松ヶ﨑橋」「山端橋」続いた先に本流とは別に岩倉川へと流れる分岐があり、その後本流を進むと「花園橋」を通り、「三宅橋」「駒飛橋」から猫猫寺のそばを通り、「七瀬橋」「八瀬大橋」「窯風呂橋」「新八瀬橋」を経て、高野川は大原で二つに分岐し、右ゆけば三千院を通り音無の滝に至る。三条大橋と三千院、そして加茂川の志明院から、転法輪三条家へ養子の千手姫と後深草天皇の第七皇子の久明親王を示す。第七皇子の七は三条家第十七代当主至輝で、また元名の松田実や父の松田守から松田頼盛の娘千手姫と転法輪三条家祖の三条実行を示している。これからも「皇」の姓を示している意図が読み取れる。
次に三分岐の中央を行けば宇治川で、上流に向かい先ず「淀大橋」、そして「宇治川大橋」「巨椋大橋」を過ぎ、しばらくすると山科川に分岐し、山科川は山科へと続き「中野橋」「六地蔵橋」「新六地蔵橋」「大元橋」「東出橋」「勧修寺橋」「瀬戸河原橋」「番所橋」「椥辻橋」「封ジ川大橋」「三ノ宮橋」と続き、途中で山科音羽川に変わり「横石橋」過ぎると仙人滝が見え、牛尾山に至り、祖の山科家を示す。本流の上流に向かえば「隠元橋」「宇治川橋」「宇治橋」「朝霧橋」「白虹橋」「天ヶ瀬橋」とあり、瀬田川に変わり「大峰橋」「喜撰山大橋」「曽束大橋」「南大津大橋」「鹿跳橋」「瀬田川令和大橋」「瀬田川橋」「瀬田の唐橋」「瀬田川大橋」、琵琶湖に辿り着く。琵琶湖と言えば織田信長の安土城を示し、上り詰めた先が安土城築城に至る。山科川と山科音羽川を合わせたら橋が十二あるので、祖の山科家と松田家の系統のつながりを示し、松田宗家第十二代松田達頼は織田信長である事実を示す。
本流である宇治川と瀬田川を合わせ橋の名称が十七あることから、三条家第十七代当主三条至輝と誕生日の十二月から織田信長と重ねている。補足して、「瀬田川橋」の名の橋が二つあるためそれを一つとしている。令和元年に「瀬田川令和大橋」が開通したため橋の数としては十八となる。
最後に、三分岐の右(東)側を行けば木津川で、まず見えて来るのは「木津川御幸橋」、そして、「木津川大橋」「新木津川大橋」と続き、「山城大橋」「玉水橋」「開橋」「泉大橋」「木津川橋」「恭仁大橋」「笠置大橋」「潜没橋」「恋路橋」「大河原大橋」と木津川には計十三の橋があり、十三重石塔を示す。木津川は高山ダムで名張川に変わり、最初に見えて来る橋は「高山大橋」で、それを抜けると月ヶ瀬湖に変わり、また名張川へと変わり、奈良へと入る。
奈良に入れば「月ヶ瀬橋」「五月橋」「新五月橋」「広瀬橋」と続き、その後は三重に入り、「薦生橋」「夏秋橋」「大屋戸橋」「名張大橋」「新町橋」「鍛冶町橋」「沖津藻大橋」などとあり、「新夏見橋」と「夏見橋」の間に青蓮寺川の分岐がある。その後名張川方面は、「前川瀬橋」を通り、比奈知ダム、ひなち湖があり、また名張川になりすぐに「赤岩大橋」が見え、更に上流に進むと分岐があり、片方は本流の名張川で直ぐに途絶え、もう一つの分岐は神末川で、行き着く先は三峰山の山頂付近に至る。所在地は三重県松阪市飯高町月出。
つまり、名張川は、大河内輝声、輝耕の高崎藩の流れや、「直ぐに途絶え」から戸田氏秀(上野英三郎)、戸田氏忠(高村光太郎)・氏直(双葉山定次)の流れを表し、神末川は三条輝重(吉野作造)から現当主である三条至輝(皇迦亨)の流れで、その流れの行く末は、神のぞ知る。
言い換えれば、三峰山山頂付近に至る所在地から、三重は三条で月が出るから前述に示した内容と重なり整合性が取れ、その未来は新しい「三条」の家系が始まる意味を示している。
三峰山は、大和、伊勢にまたがる標高千二百三十五メートルの山で、室生赤目青山国定公園に指定されており、これらの内容から伊勢平氏や室町幕府、猪熊教利の出自の偽装先となる四辻家(室町家)を示唆する。
十三重石塔の上段の署名にある島夕ヶの本陣粋月は、名張城跡に藤堂高吉の手により建てられた名張陣屋と重ねている。藤堂高吉は丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子となる事実から、上杉輝虎や羽柴秀吉、黒田孝高、織田信長、明智光秀、吉野作造、高階栄子、藤原氏などを匂わし、本陣から人物と合わせ、「本能寺の変」と、三峰山ゆえの天王山の「山崎の戦い」が連想される。
先代が生前訪れた宇治平等院の「鳳凰堂(国宝)」から「三峰山」は「みうねやま」とよむが十三重石塔の中央から考え、「三峰山」と「天王山」は「峰王」で「ほうおう」と読め、それを仄めかすのは淀川の中央に分かれる宇治川である。つまり、「三峰山」は「天王山」と重ねているため「山崎の戦い」となる。
「三峰山」は「さんぽうざん」読みたくなることから、「天保山」と重ね、神末川から「神保氏」が浮上する。これもなんとなく性を匂わすと言う意味なのであろう。ここから宇治平等院の藤原頼通と大河の利根川から大久保利通を匂わす。
このような関連付けができるのは頂点に上り詰め、常にそこから我が国である日本を動かしていた証と捉えるのは容易に理解できるのではないだろうか。
十三重石塔の名の意味に成すのは、単に「三条」や「三:ぞう(像・蔵・造)、さん、み(巳)」「十:銃」「重:じゅう、しげ(繁・成・茂)、ちょう(蝶・鳥・聴・兆)」「石」「政党」、松田宗家第十三代当主松田頼勝(伊達政宗)、三条家第十三代当主三条輝鋤(上野英三郎)だけではなく、明智光秀の本能寺の変の十三日後に、羽柴秀吉により山崎の戦いにおいて敗北し終えた十三でもある。
桂川は上流の方へ行くと大堰川に変わり、明智光秀の丹波の拠点であった亀山城址のそばを通ることや、淀川の中央の宇治川経由では、琵琶湖に辿り着くことから琵琶湖の西側には坂本城址があり、明智光秀を紐付けていることが分かる。
桓武天皇
第十七代の至輝にこだわった最大の理由として、桓武天皇の生誕年737年(天平9年)と没年月日806年4月9日(延暦25年3月17日)から没年月日の旧暦である十七日との紐付けを行い、旧暦の基準は月の動きであるため、月を強調し、前述で示した通り織田信長の敦盛の関連性を象徴する。三月十七日ゆえの三条十七代で至輝と考える。旧暦の名称は太陰太陽暦(天保暦)であるから太陽の「SUN」、日の丸や転法輪三条家の「三条」の姓を示す。また、延暦の元号から、延暦寺の比叡山焼き討ちが連想され、織田信長と明智光秀、羽柴秀吉を匂わす。
没年月日を紐づけることにより、明治天皇の資料にあった岩倉具視の薨去は三条輝照の薨去である事実や明智光秀、織田信長、夏目甕麿など終わりを示す意図が一つ、誕生と反対であるため、逆であることを強調する意図があると読み解ける。
桓武天皇は、松平氏の原点であり、桓武平氏流である丹後松田氏につながる。淀川から東の木津川経由は三重の三峰山に至り、十三重石塔に重ね、西にある橿原神宮は天皇の原点であり、それに合わせ東にある十三重石塔の原点を示すのは、十三重石塔を至輝に紐づけることで、松田宗家は桓武天皇を祖とする伊勢平氏維盛流である出自を表す。西側の桂川経由は理論上山に向かうため丹後までは行かぬが、亀山城址のそばを流れているため、明智光秀と戸田氏秀(上野英三郎)を重ね、戸田氏秀は表上は宮内省で宮内事務官兼式部官を務めたことが「宮」を仄めかし、東側の木津川は丹後の宮津市を表し、丹後の松田氏であることを指している。
千手姫
藤原北家閑院流庶流 清華家
徳大寺家 始祖 徳大寺実能
藤原北家閑院流徳大寺庶流 羽林家
松田家 始祖 頼盛
徳大寺公親 ─ 山科実教 = 教成 ── 頼房
父 松田頼盛(山科頼房) ─ 千手姫(金剛心院)
║
後深草天皇
║
後宇多天皇(後夫)
千手姫養子先
藤原北家閑院流嫡流 清華家
転法輪三条家 始祖 三条実行
三条公親 = 三条房子(千手姫) ┬ 久明親王
├ 行覚法親王
└ 永子内親王
松平京家鹿苑寺流嫡流 清華家
松平三条家 始祖 三条正永(松田信実)
父 三条輝政(松田守) ─ 三条至輝(松田実)
║
婚姻相手(謎姫)
関連性
父 松田守(松田頼盛) ─ 皇迦亨(後深草天皇)
║
婚姻相手(千手姫)
鴨川
京川橋 ─ 三条大橋 ┬ 加茂川経由 至 志明院
│
└ 高野川経由 至 三千院(音無滝)
金剛心院の資料には、千手姫は後宇多天皇より金剛心院の院号と本尊愛染明王坐像を賜ったとある。
後宇多天皇は千手姫(三条房子)の後夫にあたり、後宇多天皇の間には子女は残してはいない。
祖の高階栄子は平業房の妻であり、後夫として後白河天皇と婚姻を結び、千手姫はそれに関連した形である。
また、関係性のところで、松田実の名称は松田信実に宛てた名前であり、三条実行にも宛てた名前であることが図から読み取れる。信実と実行が上下逆であることから夫と妻は逆で関連性を示している。
新たな起点という意味でも松田信実から三条正永、それと同じく松田実から三条至輝に変わる意図が示され、要法寺の南に位置する実成院、北に位置する信行院は、本姓の松平京家(南家)と藤原北家という対比からも上下逆である意図を示している。
つまり、信実と実行が始祖同志、「実」の字を持つ同志架橋し「実実」は変なので無くなり「信行」となる。川は南から北へと上り移り上下が逆になり「行信」。新しい起点と十三重石塔から新井白石の第三代信輝と更に架橋し、「信信」は変なので無になり「行輝」となる。最後に大河の行き着く先の「至」の字に置き換え「至輝」となる。「至」の字を仄めかすのは元名にある「公」と「実」である。
同志を連想させるのは、「新」の付く橋の名前や山科川の「喜撰山大橋」の名前から新撰組を導き出し、名張川の「沖津藻大橋」から沖田総司に着目し、加茂川の至る志明院から大河内松平家の新撰組の同志を探し、架橋するから至輝の下半身魚の山羊座に着目し、その守護星の土星から、「土」の字が付く同志、それは土方歳三であり、「同志」という鍵となる言葉を導く。
また、名張川の途中の分岐にある青蓮寺川を辿ると、「香落橋」「泉大橋」「青蓮寺川橋」「曽爾大橋」「新太郎橋」「漆部橋」「新愛若橋」「中村大橋」「弁天橋」「堂前橋」があり、「土屋原」の地名に至るため、これからも「土」を示しており、更に途中にある分岐の右側を行くと「桃俣」という地名に至る。
名張川には名張大橋と新町橋の間にもう一つ宇陀川に分岐する川があり、その先には本流と滝川に分かれ、滝川の行き着く先は赤目四十八滝を通り、今井という地名に至る。
本流の宇陀川を進めば、次に阿清水川に分かれ、その川の先は名張市竜口にある白山神社に至る。
更に本流の宇陀川を辿ると、「逢瀬大橋」を抜け、室生川に分岐する。本流の宇多川は途中室生湖になり、また宇陀川となり、宮奥ダムに至る。宇陀川は榛原で芳野川に分岐し、芳野川を辿ると惣社水分神社に至る。
芳野川は途中地下を抜ける分岐があり、その流れは佐倉峠に向かい、峠の頂上付近にまで至り、峠の反対側から抜け鷲家川に合流する。鷲家川は吉野川に行く方面や伊豆尾を通り谷尻に行く方面、平野、瀧野に行く方面がある。
吉野川は二方向あり、一方向の東側に行く流れは上流に向かい、最終的に、三ノ公川に分かれ、川上村の二ノ滝や馬ノ鞍谷の大滝、光の滝に至る。
吉野川は西に行けば下流へと向かい、「ごしや大橋」「来摘大橋」「宮滝大橋」「柴橋」「妹背大橋」「桜橋」「上市橋」「吉野大橋」「美吉野橋」「新椿大橋」「椿橋」「千石橋」「水道橋」「梁瀬橋」「阿太橋」「大昭橋」「栄山寺橋」「大川橋」「御倉橋」「阪合部橋」を抜け奈良県から和歌山に入ると紀ノ川へと名称が変わり、「恋野橋」「橋本橋」「橋本高野橋」「岸上橋」「九度山橋」「高野参詣大橋」「三谷橋」「大門口大橋」「大門口橋」「厳島橋」「麻生津大橋」「麻生津橋」「新竜門橋」「竜門橋」「竹房橋」「井阪橋」「岩出橋」、そして「川辺橋」を抜ければ、二つの流れに分かれ「南田井ノ瀬橋」か「北田井ノ瀬橋」をくぐり、直ぐにまた一つの流れになり、「紀州大橋」「紀ノ川橋」「六十谷橋」を抜け、和歌山港に至る。
ここでは注目するべき点は、鹿苑寺流と同じ流れが見てとれる。「竜門橋」から二つに分かれ、「北田井ノ瀬橋」の流れと「南田井ノ瀬橋」の流れが一つになり、和歌山港に至る。鹿苑寺流に重ねれば、「竜門橋」は松田達頼(織田信長)で、「南田井ノ瀬橋」の流れは松平伊豆守系、「北田井ノ瀬橋」の流れは高崎藩系、和歌山港は三条至輝と重ねられ、下流へと向かうので通常の流れであり、鹿苑寺流であることが証明される。それに付随して、三条家は松平伊豆守系から高崎藩系に変わるので、南と北が逆になる意図が示されている。それらの意図から、奈良松田家の系図にある奈良糸の「糸」は「意図」という意味を含まれている趣旨が読み解ける。
意図を説明すれば、「意」の字を分解し、「立」「日」「心」から構成され、「立」は「竜」を指し、「達頼」や西家の足立氏を意図する。「日」は「太陽」「輝」を連想し、日の丸や日野西家を指す。「心」は剣術(武術)の「流派」と「仏の心」、十三重石塔の平和の願いを意図する。これら西の字が見え、鹿苑寺流は、伊豆守系と高崎藩系の婚姻にて交換することから成り立ち、「西」は「東」である意図を示している。東と言えば、吉野川の東は「光の滝」があることから、江戸(東京)を意図しており、徳川家康が太平の世を治め、戦国時代の終焉を迎えると共に関東の江戸に幕府を開いた「光」である。「図」の字を意味するのは、「宮津市」所収の松田氏系図を指し、宇陀川にある宮奥ダムの「宮」や、吉野川の西側にある麻生津大橋、麻生津橋の「津」、上市橋の「市」から宮津市の松田氏系図を指し、丹後の松田氏を意図する。
補足して、芳野川は「ほうのがわ」と読み、「よしのがわ」と読みたくなるので、吉野川を意図し、佐倉峠を越え吉野川に至る趣旨が示されている。
これらから、祖が訴える重要な点の一つして、江戸時代以降の松田の姓は北家であり、奈良松田は北家ではなく南家、つまり姓は「三条」の松平京家である事実を示している。
無論、松田の姓全てが松平北家ではなく、藤原秀郷流波多野氏一族など別の系統も数多く現存しており、松平北家はそのほんの一握り程度と捉える。
松田氏の資料の調査では、百五十八人の調査で、松平北家の松田氏である備前と相模の家紋は、二本線直違紋、組直違紋、松田浪紋からそれらは該当はなく〇であった。このことから、多くても数千人程度ではないかと推測する。
三条家第十七代当主 三条至輝
故に、別名「皇迦亨」である整合性が見て取れる。
いずれにせよ、出自はどうであれ、今がどうであるかが大切。美しい姿であるかどうかが大切であり、そのような人と巡り合い、意義のある人生の時間を共に分かち合えれば、この上ない幸せであると思うのである。
タイタニック号
クリスマスも近づいてきたので、
沈んでゆく場面が切なくて心に染みる。
私は主人公の年齢の頃、同じように海底の奥深く、沈んで行った。
そこから這い上がろうとしている。
それゆえ、死して生きているのである。
死して生きるとは、誰からも心から愛されない。その逆も然り。
その何年後かに一度死ぬ機会を得た。
本来、それが自然な結末であった。
そもそも、生まれながらにして、心から誰からも愛されない。
神に歓迎されない命ゆえに。
すなわち、私が幸せを得るためには、神をも越えて行かなければならない。
少なくとも私の心は、その時に止まったままである。つまり、また再び心が動き出すまでは、その後の誕生日は無いに等しい。
それゆえにも、死して生きているのである。
心は若いのだから、心さえ動き出せば未来は無限に広がっていく。
知識を欲しているのだから、環境と時間さえ許せば、京都大学も必然的に視野に入る。
松平家物語を執筆するのは、ある程度知識を得てからとなるので、少し遠い未来になる可能性がある。
歴史の謎が解けるのは『松平家物語』にて、出来る限り尽力し明らかにすることを名目とする。
話は映像に戻り、TITANICに唯一日本人として乗船していた鉄道官僚の「細野正文」は松田家の出自であると思われる。
1997年の放映された映画が架空の人物である主人公のジャックとヒロインのローズの設定は、松田宗家に関連付けされていると考える。
話の流れにより愛するもの同士が助け合い、最終的にジャックがローズを守る形となり、ジャックは力尽き、海の底へと消えて行く。
ジャック一人なら二人とも生きて帰れたのかもしれないが、愛と言う固い絆で結ばれた二人は一人なのである。
つまり、愛の架橋。
タイタニックのジクソーパズルが家にあったのは、先代がジャックと同じ役目を担っている立場を示す意味も含まれていると、思いを巡らすのである。
吉野作造
政治学者
第二十八代松田宗家伝承者
Yoshino Sakuzo 1878 - 1933
略歴
吉野作造は至輝の曽祖父にあたる。
一八九十年に三条輝照の四男として東京に生まれる。
幼少時から英才として知られ、高校在学中に洗礼を受け
浸礼派を生涯の信仰とする。
東京帝国大学法科大学政治学科卒業の上、
東京帝国大学院を進学し一九〇六年に卒業後、
東京帝国大学工科大学講師に就任。
大学政治学科を卒業の際、銀時計を受領した。
銀時計とは、成績優秀者(首席・次席)に対して、
天皇からの褒章として銀時計が授与された。
講師を経て一九〇七年に、中華民国北洋大臣の長男の
家庭教師として、天津に赴任する。
一九〇八年から一年間北洋法政專門学堂の教鞭を執る。
一九〇九年に帰国し、東大法科大学助教授に就任する。
翌年一九二十年から三年間の欧米留学。
一九二十三年帰国後、東京大学で政治史講座を担当する。
初回の講義は、「現代政治的進化の外観」と題し、社会主義の現在や過去か
ら各国における回答の情勢を詳述した。
一九二十五年、法学博士号を授与される。
北洋法政專門学堂とは、直隷総督兼北洋大臣袁世凱氏の新政推進事業の一環
として創設され、高等なる法律、政治、理財の専門学を教授し完全なる政法
的人才の養成を目的とする。
政治の正科が三年、法律のニ科が三年、計六年の修業過程の上、政治のエリ
ートを養成する学校である。
松平三条家歴代
人物一覧と主な政策
松田宗家 Matsuda-soke
公家(羽林家) 武家(別名)
松田宗家第一代 松田頼盛(1243 - 1282) [第一代松田宗家伝承者] 今川国氏
松田宗家第二代 松田頼直(1269 - 1329) [第二代松田宗家伝承者] 京極宗氏 佐渡守
松田宗家第三代 松田頼貞(1299 - 1359)権中納言 [第三代松田宗家伝承者] 仁木頼章 左京大夫
松田宗家第四代 松田頼近(1326 - 1370)権中納言 [第四代松田宗家伝承者] 六角氏頼 近江守
松田宗家第五代 松田頼源(1356 - 1400)権中納言 [第五代松田宗家伝承者] 大内義弘 左京権大夫
松田宗家第六代 松田頼仲(1397 - 1434)権大納言 [第六代松田宗家伝承者] 斯波義淳 左兵衛督
松田宗家第七代 松田善通(1423 - 1471)権大納言 正二位 [第七代松田宗家伝承者] 北畠教具 権大納言
松田宗家第八代 松田頼済(1458 - 1520)権大納言 [第八代松田宗家伝承者] 北条早雲 左京大夫
松田宗家第九代 松田信頼(1497 - 1571)太政大臣兼左大臣 正一位 [第九代松田宗家伝承者] 毛利元就 陸奥守
松田宗家第十代 松田家頼(1521 - 1573)検非違使別当 従三位 [第十代松田宗家伝承者] 武田信玄 信濃守
松田宗家第十一代 松田頼信(1530 - 1578)左大臣 従二位 [第十一代松田宗家伝承者] 上杉謙信 弾正少弼
松田宗家第十二代 松田達頼(1534 - 1582)太政大臣 正一位 [第十二代松田宗家伝承者] 織田信長 右大臣
松田宗家第十三代 松田頼勝(1567 - 1636)検非違使別当 従二位 [第十三代松田宗家伝承者] 伊達政宗 権中納言
松田宗家第十四代 松田頼通(1574 - 1607)左大臣 正二位 [第十四代松田宗家伝承者] 結城秀康 権中納言
三条家 Sanjo-ke
公家(清華家) 伝承者(別名)
三条家第一代 三条正永(1596 - 1662)太政大臣兼左大臣 [第十五代松田宗家伝承者] 松平信綱 侍従
三条家第二代 三条輝綱(1620 - 1672)太政大臣兼左大臣 [第十六代松田宗家伝承者] 土佐光起 絵師
三条家第三代 三条信輝(1660 - 1725)太政大臣兼左大臣 [第十七代松田宗家伝承者] 新井白石 朱子学者
三条家第四代 三条信祝(1683 - 1744)太政大臣兼左大臣 [第十八代松田宗家伝承者] 久留島義太 数学者
三条家第五代 三条輝高(1725 - 1781)太政大臣兼左大臣 [第十九代松田宗家伝承者] 本居宣長 国学者
三条家第六代 三条輝和(1750 - 1800)太政大臣兼左大臣 [第二十代松田宗家伝承者] 石川雅望 狂歌師
三条家第七代 三条輝延(1776 - 1825)太政大臣兼左大臣 [第二十一代松田宗家伝承者]平田篤胤 国学者
三条家第八代 三条輝承(1817 - 1839)権大納言兼検非違使別当 [第二十二代松田宗家伝承者]生田万 国学者
三条家第九代 三条輝徳(1820 - 1840)権大納言兼検非違使別当 [第二十三代松田宗家伝承者]矢野玄道 国学者
三条家第十代 三条輝充(1822 - 1862)権大納言兼検非違使別当 [第二十四代松田宗家伝承者]箕作秋坪 洋学者
三条家第十一代 三条輝聴(1827 - 1860)太政大臣兼左大臣 [第二十五代松田宗家伝承者]福澤諭吉 啓蒙思想家
三条家第十二代 三条輝照(1848 - 1882)太政兼左大臣 内務卿 公爵[第二十六代松田宗家伝承者]大河内輝声 知藩事
三条家第十三代 三条輝耡(1872 - 1924)内閣総理大臣 公爵 [第二十七代松田宗家伝承者]上野英三郎 農学者
三条家第十四代 三条輝重(1890 - 1940)内閣総理大臣 [第二十八代松田宗家伝承者]吉野作造 政治学者
三条家第十五代 三条輝治(19xx - 19xx) [第二十九代松田宗家伝承者]芦田幸太郎 呉服店主
三条家第十六代 三条輝政(19xx - 20xx) [第三十代松田宗家伝承者] 松田守 技術者
三条家第十七代 三条至輝(19xx - ) 哲学者 [第三十一代松田宗家伝承者]皇迦亨 文学者
大河内松平宗家 Okochi Matsudaira-soke
公家(羽林家) 別名
大河内松平宗家五代松平正温(1725 - 1782)弾正忠 権中納言兼検非違使別当[父三条信祝・一男松平正升]平賀源内 本草学者
大河内松平宗家六代松平正升(1742 - 1804)弾正忠 権中納言兼検非違使別当[父松平正温・一男松平正路]伊能忠敬 天文学者
大河内松平宗家七代松平正路(1765 - 1808)弾正忠 権中納言兼検非違使別当[父松平正升・一男松平正敬]華岡青洲 外科医
大河内松平宗家八代松平正敬(1794 - 1832)織部正 右大臣 太政大臣 [父松平正路・二男三条輝聴]大塩平八郎 儒学者
主な政策と成果
毛利元就 政治体制 毛利両川体制 朝廷・幕府との関係 女子の資産相続
織田信長 朝廷政策 宗教政策[比叡山を焼き討ち]
経済・都市政策[楽市・楽座令] 軍事組織体制
松田頼通 朱印船制度の創設(1600-04)
松平信綱 幕藩体制の完成(1639-48) 島原の乱の鎮圧(1637-38)
慶安の変の鎮圧(1651) 承応の変の鎮圧(1652)
明暦の大火の対応(1657)
三条正永 禁教令(1612,1614) 武家諸法度(1615)
禁中并公家中諸法度(1615) 鎖国令(1633)
諸士法度(1635) 田畑永代売買禁止令(1644)
三条輝綱 寺院法度(1665)
三条信輝 生類憐みの令(1687)
三条信祝 正徳の治(1709-16) 享保の改革(1716-35)
三条輝高 諸経費削減(1750-71) 倹約令の発布(1751-83)
公事方御定書(1754) 御手伝普請(1757)
拝借金の停止(1771,1783) 上知令(1764,1769)
長崎会所の健全化(1742-48) 通貨政策
三条輝和 蝦夷地開発(1785-1821) 御用金令(1783-86)
貸金会所(1786) 寛政の改革(1787-93)
福澤諭吉 慶應義塾大学創設(1858)
三条輝聴 天保の改革(1841-43)
三条輝照 賛生館創設[九州大学病院](1867) 日本電信電話[NTT](1868)
師範学校創設(1872) 内務省新設(1873)
お茶の水女子大学創設(1875) 広島大学創設(1874-1948)
官設鉄道創設(1872) 札幌農学校創設[北海道大学](1876)
東京大学創設(1877) 京都保存計画(1882)
上野英三郎 農業工学の創始者
三条輝耡 日清戦争指導者(1894-95) 日露戦争指導者(1904-05)
法案[航海奨励法・造船奨励法・民法・日本勧業銀行法]
京都大学創設(1897) 福岡医科大学創設[九州大学医学部](1903)
東北大学創設(1907) 奈良女子大学創設(1908)
九州大学創設(1911) 日本航空協会創設[帝国飛行協会](1913)
京城大学創設(1924)[高宗 ソウル大学創設(1946)]
吉野作造 大正デモクラシー(1912-23)
三条輝重 第一次世界大戦指導者(1916-18) シベリア出兵(1917)
対華外交(1917,18) 教育政策(1919)
交通政策 選挙制度の改正
講和問題(1919) 名古屋大学創設(1939)
松田徳太郎 岡寺十三重石塔の寄進(1918)
三条至輝 北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因(2019)
新型コロナウイルス収束の手引き(2020)
黒色流行問題定義と抑制(2020-23)
環境問題定義と推進(2021)
地球温暖化の警鐘(2021)
ロシアによるウクライナ進攻戦争和睦の説得(2022)
内閣総理大臣
三条輝耡 第五代内閣(1892-1896)代役 伊藤博文 第十一代内閣(1901-1906)代役 桂太郎
第十二代内閣(1906-1908)代役 西園寺公望 第十三代内閣(1908-1911)代役 桂太郎
三条輝重 第十八代内閣(1916-1918)代役 寺内正毅 第十九代内閣(1918-1921)代役 原敬
第二十代内閣(1921-1922)代役 高橋是清 第二十一代内閣(1922-1923)代役 加藤友三郎
第二十二代内閣(1923-1924)代役 山本權兵衞 第二十三代内閣(1924-1924)代役 清浦奎吾
備考
・先代が至輝に話した武将は明智光秀と伊達政宗であり、親族に「政」の字が見える
ことから真の名前は「三条輝政」であることが導き出される。
また、伝承者十三代目は伊達政宗であり、先代が第三十代なので、
「十三重石塔」と「三」が「二重」と、足して「六」を表す。
・広島大学は1949年に新制大学として設置されたため旧広島大学とは連続性はない。
・札幌農学校は、札幌に置かれた高等教育機関で規模を拡大し、
北海道帝国大学、現在の北海道大学へと発展を遂げた。
・ソウル大学は、京城大学(京城帝国大学)と九つの専門学校を一つの国立大学
として高宗によって新設されたため、京城帝大との連続性はなく、京城帝大を
起源としない。
尚、理事会や一部の施設は京城帝大のものを流用しており、
一部の学部は日本統治時代の学校を前身としている。
・ウクライナ戦争の和睦の説得は、その影響により一旦は両国の交渉が結束される
と見えたが、ロシア国側の態度が一変し、交渉は決裂し失敗に終えた。
結果的に両国の関係は改善には至らなかったが、両国及び世界の平和のために尽
力した事実を明記している。
三重の名称
第十四代 旧:松田頼通 本:松平秀朝 表:結城秀康
第十五代 旧:松田信実 本:三条正永 表:松平信綱
二重の名称と氏
第二十六代 本:三条輝照 氏:松平輝照 表:大河内輝声
第三十一代 本:三条至輝 氏:松平至輝 旧:松田実
四重の名称
第二十七代 本:三条輝耡 旧:松田氏秀 偽:戸田氏秀 表:吉野作造
第二十八代 本:三条輝重 旧:松田徳太郎 偽:浦野徳太郎 表:上野英三郎
旧:旧名称 本:本当の名称 表:表上の名称 偽:偽りの名称
上野英三郎の考察
・上野英三郎は誕生年一八七二年と偽っていると同時に輝耡の真誕生年を示している。
・浦野と上野で「裏の上」と表し、己も含め歴代宗家を示している。
・1890年(明治二十三年)に農科大学予科に編入と、さりげなく本当の生まれ年を明記し
ている。至輝の誕生日十二月二十三日とかけている。
・「上野」の名字は、祖が高崎藩主であった「上野国群馬郡高崎」から由来があることがわかる。
・第十八代寺内内閣の真実は三条輝重が受け持った内閣である。
呼称として「ビリケン内閣」と呼ばれ犬好きであった上野英三郎と関連性を持している。
寺内内閣の資料にある写真「内閣発足時」上段左から三番目の人物が三条輝重(当時二十六歳)
と思われる。写真の並びから十三重石塔と関係性を示していることがわかる。
写真の注釈には岡田良平とあるが、「内閣の顔ぶれ・人事」にある岡田良平を比べてみると
若干似ているように見えるが全くの別人である。この時岡田良平は五十歳となるので、
写真から五十歳には到底見えなく、これは三条輝重の寿命である。
・第十九代原内閣の真実は引き続き三条輝重が受け持った内閣である。
それ示す内容は「原内閣」の資料に1921年(大正十年)11月13日まで続いた日本の内閣とある。
また「原敬」の資料には内閣総理大臣の在籍期間は1921年11月4日までとあり矛盾している。
1921年11月4日に暗殺されたため11月4日までとなるは自然であるが、原内閣資料には、
11月13日とあるのは十三重石塔を関連されるものと推測し、引き続き三条輝重が政権を握ったと
考えるのが妥当である。
第十八代、第十九代と合わせ、計五年間の内閣総理大臣に在籍した期間となるため、
三条輝耡の第五代内閣総理大臣を示していることにつながる。
第五代の意味は、伊勢平氏維盛流から山科教成から数えて五代目の「頼房」が松田家祖の「松田頼盛」
を指している。「教成(のりしげ)」と「輝重(てるしげ)」を合わせていることから示されている。
「輝重」は「氏重」で頼房は「今川国氏」であることも示している。
・女子大学が輝照の代と輝耡の代で二つあるのは、頼房(松田頼盛)の山科家期の家族構成の兄妹を
表している。また替え玉の「岡田良平」は、弟の「定平」を示している。
(至宝家山科家参照 →)
芦田幸太郎の考察
・芦田幸太郎の「芦田」姓を示すものは依田氏の祖、芦田信守にあり、系図を芦田信守から依田信幸と流れ、
クロスの法則から、松田幸太郎ではなく、戸田家や足利家、後深草天皇、島原の乱の天草四郎など示すため芦田幸太郎となり、松田守はそのままとなる。
・三条輝重の二重にある家族の幸太郎の方に第三者が付いたことが上野英三郎から読み解ける。
・祖を示す関連付けにより家庭環境の崩壊の始まりを告げ、人間関係が構築できないようになる。
簡単に言えば、第三者による闇への扉を開けることになる。
・政治的関与の導線が全くなくなり、祖を示すことは身近なことに限られ、奈良松田家の家族が
出会う人もその対象となり、第三者による関連がある人を選びながら、更に第三者が事情を
一部始終話し、祖を示すことを手伝って貰いながら、人生を進む形である。
その結果洗脳状態となり、食べる物や遊びに行く場所など全て祖を示すことに拘束される。
これらから、家族の人生がおかしくなるのは火を見るより明らかである。
「けんか」という名前も出てきたが、子供の頃喧嘩も意味もわからなくしていた記憶があり、
理由もなく喧嘩をすれば、喧嘩する意欲も元からない。
三対三の喧嘩であったが、適当なところで終わり何のために行われたかは謎である。
これも第三者が仕組んだことだと考えられる。
このような積み重ねが悪循環となり、人生に悪影響を及ぼしているのは確かな事実である。
常に人間関係を壊されれば、多かれ少なかれストレスは常に付き纏うことになる。
第三者がついたのは、政治や上野英三郎との導線がなくなるためせめてものと考えるが、
それが闇への始まりである。
・輝耡までは二重にある家族をケアしていたと考えるが、輝重の代で宗家側は祖を示す役目を担い、
吉野作造(輝重)との関係性は完全に断たれ、男親は不在になり、その代わりに第三者を付
けたと推測することができる。その大きな理由として、吉野家は子供が七人おり、六女、一男で、男の子は六番目の子と思われ、
女の子ばかりなので、吉野家の方に作造は父親としての重点をおき、宗家の方は第三者に任せたように捉えられる。
それが不自然な環境の始まりである。
祖を示すことだけに執着し、愛のない形だけの家族が出来上がる。
祖の意向としても、四民平等の観点から人件費を捻出している所に全ての過失はある。
因みに松田祖の頼盛だけは山科家、松田家、今川家と三重の家庭を築いたことになる。
これが伊勢国から三重県へと一つの名前の由来に当たると考える。
大塩平八郎の考察
大塩平八郎の代で大塩平八郎の乱が要因となり、その時の太政大臣である大塩平八郎は幕府に対して不信感を抱き、反幕府体制の構想を描き始めた。
それが尊王攘夷派の形成に至る序章であると考える。
大塩平八郎の子女は、真田家と同じくして、幕府側と尊王攘夷派に分かれた。
兄の土方歳三は幕府側、弟の福沢諭吉と父の大塩平八郎は尊王攘夷派となる。
真田家の兄の真田信之は徳川側(江戸幕府)、父の真田昌幸と弟の真田信繁が豊臣側(豊臣政権)となり、これらと関連性を持たせている。
味方に着く幕府は同じであれど、立場が逆転している。光と闇の逆転である。真田家の兄は光、弟と父は闇。三条家の兄は闇、弟と父は光。
自然血族系図
三条家・大河内松平家
三条家始祖後裔
三条正永
松平信綱 ┬ 土佐光起 絵師[三条家・吉田藩]
│
├ 山鹿素行儒学者・軍学者[吉綱]
│
├ 菱川師宣 画家[伊織]
│
├ 山田宗徧 茶人[信定系]
│
├ 貝原益軒 本草学者・儒学者[高崎藩]
│
└ 関孝和 数学者[堅綱系]
三条家
松平信綱 ┬ 土佐光起 ─ 新井白石 ─ 久留島義太 ┐
└ 伊藤宗看(初代) │
┌────────────────────────────────────┘
│(松平輝高室)
└ 柳屋お藤
╟───┬ 石川雅望 ┬ 平田篤胤 ┬ 千葉周作
本居宣長
└ 与謝蕪村 └ 二宮尊徳 ├ 千葉定吉
└ 生田万
╔═══════════════════════════════╝
║
╚ 矢野玄道 ═ 箕作秋坪
三条信祝後裔
久留島義太 ┬ 池大雅 文人画家・書家[吉田藩大河内松平家]
│
├ 前野良沢 藩医・蘭学者[中川家]
│
├ 平賀源内 本草学者・地質学者[大河内松平宗家]
│
├ 狩野美信 絵師[江戸幕府御用絵師]
│
├ 司馬江漢 絵師・蘭学者[安藤家]
│
├ 笠森お仙 溝口直温室
│
├ 蔦屋お芳 松平信直室
│
└ 柳屋お藤 松平輝高正室(本居宣長)[三条家]
大河内松平宗家三条家
松平信綱 ─ 土佐光起 ┬ 新井白石 ─ 久留島義太 ┐
└ 都一中 │
┌───────────────────────────────────┘
│
└ 平賀源内 ┬ 伊能忠敬 ───────────────────┐
(本庄)
├ 山片蟠桃 │
(本庄松平)
├ 大黒屋光太夫 │
├ 菅江真澄 ─ 松平信弥 ─ 矢野玄道 │
└ 野村長平 │
┌────────────────────────────────────┘
│
└ 華岡青洲 ┬ 大塩平八郎 ┬ 土方歳三
├ 渡辺崋山 └ 福澤諭吉 ┬ 大河内輝声 ┐
├ 男谷信友 ├ 千葉佐那 │
├ 斎藤弥九郎 ├ 中沢琴 │
└ 桃井春蔵 ├ 根岸信五郎 │
├ 楠本高子 │
└ 陸奥亮子 │
┌───────────────────────────────────────┘
│
├ 上野英三郎 ┬ 吉野作造 ┬ 土浦信子(旧姓吉野)
│
├ 江木欣々 ├ 前田光世 ├ 織田作之助
│
├ 朝吹磯子 ├ 高村光太郎├ 鶴見和子
│
└ 芥川龍之介 ├ 林きむ子 ├ 芦田幸太郎 ─ 松田守 ┐
├ 柳原白蓮 ├ 川上哲治 │
├ 双葉山定次└ 鶴見俊輔 │
└ 沢村栄治 │
┌─────────────────────────────────────┘
│
└ 皇迦亨
吉田藩大河内松平家
松平信綱 ─ 土佐光起 ─ 新井白石 ─ 久留島義太
┌──────────────────────────────────┘
│
└ 池大雅 ┬ 中川淳庵 ┬ 近藤重蔵 ┬ 遠山景元 ─┐
(杉浦) (本庄)
├ 亜欧堂田善 ├ 夏目甕麿 ├ 曲亭馬琴 │
(本庄) (津軽)
├ 小田野直武 ├ 鍵谷カナ ├ 黒川春村 │
(深井)
├ 谷文晁 ├ 富本豊雛 ├ 布田保之助 │
(遠藤) (五井松平)
└ 田能村竹田 ├ 難波屋きた ├ 窪田鎮勝 │
(大森)
├ 高しまひさ ├ 緒方洪庵 │
(阿部)
└ 綱女 └ 三浦乾也 │
┌─────────────────────────────────────┘
│
└ 桐野利秋 ═ 沖田総司
信定系大河内松平家
松平信綱 ─ 山田宗徧 ┬ 荻生徂徠
├ 井戸正明
├ 香川修徳 ─ 本居宣長
├ 石田梅岩
└ 賀茂真淵 ═ 楫取魚彦(堅綱系五代)
高崎藩系大河内松平家
松平信綱 ─ 貝原益軒
堅綱系大河内松平家
信綱の姉 ─ 大河内重綱 ┐
松平信綱 ─ 関孝和 ╤ 松尾芭蕉 ═ 海北若冲
└ 某 ─ 某 ─ 関盛時
┌──────────────────────────────┘
│
└ 寺田宗有 ─ 青木木米 ─ 仁阿弥道八 ┬ 沖田総司
└ 宮川香山 ┐
┌─────────────────────────────────────┘
│
└ 藪明山
松田宗家伝承者一覧
1596 - 1650 江戸時代初期
松平伊豆守家初代当主(1596-1662)
《第十五代松田宗家伝承者》
松平信綱 律令[侍従]幕府[老中首座]職業[川越藩主]
他称[別名 知恵伊豆][呼称 松平伊豆守信綱]
特記[政治の天才]
松平三条家初代当主
三条正永 律令[表 侍従][裏 太政大臣兼左大臣]
松平伊豆守家第二代当主(1617-1691)
《第十六代松田宗家伝承者》
土佐光起 幕府[小普請]業種土佐派 絵師]
他称[幼名 藤満丸]
特記[土佐派を代表する絵師]
松平三条家第二代当主
三条輝綱 律令[表 甲斐守][裏 太政大臣兼左大臣]
1651 - 1750 江戸時代中期
松平伊豆守家第三代当主(1657-1725)
《第十七代松田宗家伝承者》
新井白石 律令[筑後守]幕府[本丸寄合]職業[旗本・朱子学者]
他称[諱 君美][別号 済美][渾名 火の子・鬼]
特記[正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼]
松平三条家第三代当主
三条信輝 律令[太政大臣兼左大臣]
松平伊豆守家第四代当主(1690-1758)
《第十八代松田宗家伝承者》
久留島義太 職業[数学者・将棋指し]
他称[通称 喜内][号 沾数]
特記[江戸時代の三大曲詰作家]
松平三条家第四代当主
三条信祝 律令[太政大臣兼左大臣]
高崎藩大河内松平家第四代当主(1730-1801)
《第十九代松田宗家伝承者》
本居宣長 職業[国学者・医師]
他称[名 栄貞][通称 はじめ弥四郎][号 芝蘭・瞬庵・春庵・鈴屋]
特記[国学の四大人(しうし)]
松平三条家第五代当主
三条輝高 律令[太政大臣兼左大臣]
高崎藩大河内松平家第五代当主(1754-1830)
《第二十代松田宗家伝承者》
石川雅望 職業[狂歌師・国学者・戯作者]
他称[字 子相][号 五老山人・逆旅主人・蛾術斎][狂名 宿屋飯盛]
特記[狂歌四天王]
松平三条家第六代当主
三条輝和 律令[太政大臣兼左大臣]
1751 - 1867 江戸時代後期
高崎藩大河内松平家第六代当主(1776-1843)
《第二十一代松田宗家伝承者》
平田篤胤 職業[国学者・神道家・思想家・医者]
他称[通称 半兵衛][家號 真菅乃屋][号 気吹舎・大角・大壑]
特記[国学の四大人]
松平三条家第七代当主
三条輝延 律令[太政大臣兼左大臣]
高崎藩大河内松平家第七代当主(1801-1837)
《第二十二代松田宗家伝承者》
生田万 職業[国学者]
他称[諱 国秀][字 救卿][号 東華・大中道人]
特記[桜園塾を開塾し、国学を講じる]
松平三条家第八代当主
三条輝承 律令[左大臣]
高崎藩大河内松平家第十代当主(1835-1901)
《第二十五代松田宗家伝承者》
福澤諭吉 職業[啓蒙思想家・教育家]
他称[諱 範][字 子囲][雅号 三十一谷人]
特記[慶應義塾の創設者]
松平三条家第十一代当主
三条輝聴 律令[太政大臣兼左大臣]
(1848-1882)
《第二十六代松田宗家伝承者》
大河内輝声 幕府[高崎藩主]明治政府[知藩事]
他称[号 源桂閣]
特記[東京に英学校を設立]
松平三条家第十二代当主
三条輝照 職業[太政大臣兼左大臣・内務卿]
1868 - 1925 明治・大正時代
(1872-1837)
《第二十七代松田宗家伝承者》
上野英三郎 職業[農学者]学位[農学博士]
特記[日本の農業土木、農業工学の創始者][忠犬ハチ公の飼い主]
松平三条家第十三代当主
三条輝耡 職業[政治家・内閣総理大臣]
(1878-1933)
《第二十八代松田宗家伝承者》
吉野作造 職業[政治学者・思想家]
他称[号 古川学人]
特記[大正デモクラシーの立役者]
松平三条家第十四代当主
三条輝重 職業[政治家・内閣総理大臣]
《第三十一代松田宗家伝承者》
皇迦亨 職業[設計者]
他称[号 冥月][別表記 皇霞京]
特記[裏の立役者]
松平三条家第十七代当主
三条至輝 職業[哲学者]
大河内松平家
人物一覧
三条家始祖後裔
1617 - 1691 江戸時代前期
松平伊豆守系大河内松平家 松平伊織
山鹿素行 Yamaga Soko[儒学者・軍学者]諱「高祐」
〈十五親等自然血族〉
山鹿流兵法及び古学派の祖である。
六歳で江戸に出て、寛永七年(1630)、九歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、十五歳からは小幡景憲、
北条氏長の流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。
朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文五年(1665)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、
一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている。
その後、江戸で弘前津軽家と平戸松浦家の支援を受け、「積徳堂」と称する自宅で山鹿流古学(聖学)を教えた。天和元年(1681)、平戸城の模型を造る。
貞享二年(1685)八月九日、病に臥す。
1618 - 1694 江戸時代前期
堅綱系大河内松平家第二代当主 松平信義 実父・大河内重綱
菱川師宣 Hishikawa Moronobu[画家]浮世絵の祖
〈不明自然血族〉
それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。
初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文十一年(1671)刊行の噺本「私可多咄」(無款)また浮世絵役者であるとされ、
翌寛文十二年(1672)、墨摺絵本「武家百人一首」においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。
その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、
天和三年(1683)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において百種以上の絵本や五十種以上の好色本に筆をとっている。
1627 - 1708 江戸時代前期
信定系大河内松平家第一代当主 松平信定 実父・松平信綱
山田宗徧 Yamada Sohen[茶人]茶号「今日庵」宗徧流茶道始祖
〈十五親等自然血族〉
東本願寺末寺である京都上京二本松長徳寺の住職・明覚(長徳寺四世)の子として長徳寺に生まれた。
母は山田監物の娘。僧名は周学(しゅうがく)。
父から寺の住職職を継いだが、還俗して茶道を志すようになり、小堀遠州に入門。さらに正保元年(1644)、十八歳のときに千宗旦に弟子入りする。
承保元年(1652)、宗旦の皆伝を受け、京都郊外の鳴滝村三宝寺に茶室を建てた。
このお祝いに宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られた。また大徳寺の翠巌和尚からも「四方庵」の茶号を贈られている。
1630 - 1714 江戸時代前期
高崎藩大河内松平家第一代当主 松平信興 実父・松平信綱
貝原益軒 Kaibara Ekiken[本草学者・儒学者]諱「篤信」
〈十五親等自然血族〉
福岡藩士、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。
十八歳で福岡藩に仕えたが、黒田忠之の怒りに触れ、七年間の浪人生活を送ることとなる。
二十七歳、三代藩主光之に許され、藩医として帰藩。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。
木下順庵、山崎闇斎らと交友を深め、七年間の留学の後、1664年三十五歳の時、帰藩し、
百五十石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。
五十年間に多くの著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野で先駆者的業績を挙げた。
1622 - 1685 江戸時代前期
堅綱系大河内松平家第一代当主 松平堅綱
関孝和 Seki Takakazu[数学者]号「自由亭」関流始祖
〈十五親等自然血族〉
関孝和は師につかずに吉田光由の『塵劫記』によって和算を独学したとされる。
孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図)の作成に関わったが、渋川春海により貞享暦が作られたため
暦学において功績を挙げることはかなわなかった。関の最大の業績は、天元術を革新して傍書法・点竄術
を確立したことである。関流の始祖として、算聖とあがめられた。明治以後、和算が西洋数学にとって代
わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。
三条家
1618 - 1694 江戸時代前期
松平伊豆守系大河内松平家 松平吉綱 実父・松平信綱
初代伊藤宗看 Shodai Ito Sokan[将棋指し]称号「三世名人」
〈十五親等自然血族〉
出雲国出身。二世名人大橋宗古 (二代)の娘婿であり、宗古の計らいによって、新しい家元、伊藤家を興す(寛永12年)。このとき、宗看18歳であった。
しかし、その新家元に敵対する本因坊系の棋士は次々に対局を申し込む。
宗看はそれらを受けてたち、松本紹尊(寛永14年)などとにいずれも勝ち越し、新家元、伊藤家の権威を確実なものとした。その中でも有名なのが「是安吐血の局」である。
これを認められ1654年(承応3年)先の名人、宗古の死により、三世名人を襲位した。
1716 - 1784 江戸時代中期
高崎藩大河内松平家下野守 松平輝行 実父・松平輝高
与謝蕪村 Yosa Buson[俳人・文人画家]俳号「夜半亭」画号「謝寅」
〈十三親等自然血族〉
摂津国東成郡毛馬村に生まれた。
二十歳の頃、江戸に下り、早野巴人に師事して俳諧を学び、日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。
俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見るが、江戸の俳壇は低俗化していた。
その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲に招かれたもので、
同地の俳人の真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴らと交流。『はしだてや』という草稿を残した。
宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。
また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。
独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
絵は独学であったと推測されている。
1787 - 1856 江戸時代後期
大河内松平宗家第九代当主 松平信宝
二宮尊徳 Ninomiya Sontoku[経世家・農政家]通称「金治郎」
〈十六親等自然血族〉
少年時に父母を失い、伯父の家を手伝い、苦しい農耕をしながら論語、大学、中庸などを独自に学び、青年期に家を再興する。
その後、小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功した。この経験をもとに独特の農法、農村改良策(報徳仕法)により、小田原、烏山、下館、相馬藩などのおよそ六百村を復興する。
農村の生産力に応じて分度を定め、勤倹を説き、その結果としての富を推譲という社会的行為に導く報徳思想を広めた。代表著書に「三才報徳金毛録」その他。すぐれた門人が多く、幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を行い農村の振興に益した。
1793 - 1855 江戸時代後期
大河内松平家高崎藩美濃守 松平輝茂 実父・松平輝延
千葉周作 Chiba Shusaku[武士・剣術家]諱「成政」北辰一刀流始祖
〈十五親等自然血族〉
周作五歳のころ、故あって父は周作だけ連れて気仙沼を出奔し、縁あった宮城県栗原郡荒谷村の斗瑩稲荷神社境内に居を構える。周作は、ここで地元の剣士・千葉吉之丞から北辰夢想流を学んだ。
十五、六歳の時に、父と共に松戸に移り、小野派一刀流中西派の浅利義信に入門した。
浅利家から、一刀流中西道場に通い、中西子正(浅利義信の師匠)、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、後に浅利義信の婿となって、浅利又一良と名乗った。
周作は、一刀流組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻(浅利の養女)を連れて独立して、北辰夢想流と小野派一刀流中西派を合法して、北辰一刀流を創始した。
1797 - 1879 江戸時代後期
大河内松平家高崎藩豊前守 松平輝実 実父・松平輝延
千葉定吉 Chiba Sadakichi[剣術家]北辰一刀流
〈十五親等自然血族〉
幼少時から兄の周作と共に父から剣術の教えを受けた。青年期は兄と行動を共にし、玄武館の創設と運営にも協力した。
そして、兄の玄武館の運営が軌道に乗ったのを見計らって、自身も桶町に玄武館の分室道場を構えた。
定吉の道場は周作の道場と区別するため「桶町千葉」または「小千葉」と称されたが玄武館と千葉道場は一体のものであった。
定吉の剣の腕は高く評価され、嘉永六年(1853年)には鳥取藩の江戸詰の藩士として召し抱えられ、撃剣取立役(剣術師範)に任じられた。
桶町千葉道場の創設者。
三条信祝後裔
1723 - 1803 江戸時代中期
豊後国岡藩第八代藩主 中川久貞 実父・松平信祝
前野良沢 Ike Taiga[藩医・蘭学者]号「蘭化」
〈十二親等自然血族〉
福岡藩江戸詰藩士・源新介の子として生まれた。幼少で両親を亡くしたため、
母方の大叔父で淀藩(現在の京都府京都市伏見区)の医者宮田全沢に養われる。
全沢は吉益東洞の古医方の流れをくむ医者で、『医学知津』という医書を描くほど博学だったが、奇人だった。
そのかたわら、世に廃れそうな一節切を稽古しその秘曲を極め、猿若狂言の稽古に通う時もあった。
全沢の妻の実家で中津藩の医師前野家の養子となり、中津藩医となる。
『解体新書』の主幹翻訳者。
1747 - 1818 江戸時代中期
伊豆守系大河内松平家信祝四男 松平翁之丞 実父・松平信祝
狩野美信 Kano Yoshinobu[絵師]号「洞春」
〈十二親等自然血族〉
狩野元仙の長男として生まれる。宝暦五年(1755)九歳で父が亡くなり、駿河台狩野家を継ぐ。
絵は、父の門人で福岡藩江戸詰め絵師だった石里洞秀(父)に学ぶ。明和元年(1764)朝鮮通信使へ贈る朝鮮贈呈屏風一双の制作を手がけ、天明五年(1785)家業に励んだ功績で法眼に叙された。
これにより家格が上昇したらしく、帯刀が許され、奥絵師の鍛冶橋狩野家と同等、一時は上席になることもあったという。
江戸幕府御用絵師の中で奥絵師四家に次ぐ家格を持つ、表絵師筆頭(御坊主格)駿河台狩野家の四代目。画名があり、駿河台狩野家の中興の祖とも言われる。
1747 - 1818 江戸時代中期
旗本(寄合)伊予守 安藤直之 実父・松平信祝
司馬江漢 Shiba Kokan[絵師・蘭学者]号「西洋道人」
〈十二親等自然血族〉
青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重を名乗り、
中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、
日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。
1751 - 1827 江戸時代後期
溝口直温室 松平富 実父・松平信祝
笠森お仙 Kasamori Osen[水茶屋「鍵屋」看板娘]
〈十二親等自然血族〉
江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で鍵屋五兵衛の娘。明和年間(1764-1772)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤と人気を二分し、
また加藤曳尾庵の随筆によれば、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およしも含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
1752 - ? 江戸時代後期
松平信直室 松平喜尾 実父・松平信祝
蔦屋お芳 Tsutaya Oyoshi[水茶屋「鍵屋」看板娘]
〈十二親等自然血族〉
蔦屋およしは、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘。
二十軒茶屋とは、浅草寺境内にあった茶屋の総称。蔦屋およしは鈴木春信の美人画の雛型になり、その美貌が称賛され、江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた
1753 - ? 江戸時代後期
松平輝高正室 松平兼 実父・松平信祝
柳屋お藤 Yanagiya Ofuji[水茶屋「鍵屋」看板娘]別名「銀杏お藤」
〈十二親等自然血族〉
浅草寺の本堂北西にあった楊枝屋「柳屋」の看板娘。
柳屋お藤は鈴木春信の美人画の雛型になり、その美貌が大いに賞賛されて、笠森お仙と並ぶ人気を博し、江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
大河内松平宗家三条家
1650 - 1724 江戸時代中期
伊豆守系大河内松平家 松平輝貞 実父・大河内重綱
都一中 Miyako Icchu[三味線方]別名「都太夫一中」
〈十四親等自然血族〉
京都の浄土真宗本願寺派明福寺の3代目住職周意の次男として生まれる。
住職を務めていたが、元来芸事を好み、1670年に還俗して須賀千朴を名乗る。延宝年間から貞享年間にかけて幇間(太鼓持ち)として活動した後、浄瑠璃太夫となる。
当初は座敷浄瑠璃を語ったが、1706年11月に大坂の片岡仁左衛門座で「京助六心中」小屋出演も果たしている。
江戸中期の一中節の創始者。
1728 - 1780 江戸時代中期
堅綱系大河内松平家第五代当主 松平信成 実父・松平信晴
平賀源内 Hiraga Gennai[本草者・蘭画家]諱「国倫」
〈十親等自然血族〉
幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で十三歳から藩医の元で本草学を学び、
儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。宝暦二年(1752)頃に一年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。
天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、
人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
1745 - 1818 江戸時代中期
大河内松平宗家第六代当主 松平正升
伊能忠敬 Ino Tadataka[天文・地理学者]号「東河」
〈九親等自然血族〉
上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門家で生まれ幼名は三治郎。
下総の佐原で事業家として成功した。その後、四十九歳で隠居し、五十歳のときまさに五十の
手習いの諺を地で行くかの如く江戸に出て、天文学、暦学を学び始めた。
暦学の取り組みは、高橋至時に弟子入りした忠敬は、十九歳年下の師・至時に師弟の礼をとり、
熱心に勉学に励んだ。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。
至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、
さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。
しかし忠敬は、既に『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。
そして、十七年をかけて日本全国を測量、七十三歳で死去。
その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を
明らかにした。
1748 - 1821 江戸時代中期・後期
美濃高富藩の第五代藩主 本庄道信 実父・松平正温
山片蟠桃 Yamagata Banto[商人・学者]別名「長谷川芳秀」
〈十一親等自然血族〉
幼時から大阪の両替商である升屋に仕え、明和八年(1771)に24歳の若さで番頭となり、傾いていた経営を軌道に乗せ、桝屋を繁盛させた。
財政破綻した仙台藩に建議し、差し米(米俵内の米の品質チェックのために米を部分的に抜き取ること)をそのまま集めて利用し、無駄を浮かせて節約し、藩札を発行するなどした。
藩札を発行した代わりに、従来の金貨の金を差し米の節約で捻出した資金で大阪に輸送し、それを利殖に回して巨額の利益を上げた。
仙台藩の財政はこれによって再建され、彼は大名貸しの金を回収することができたと言う。文政二年(1819)には二度目となる幕府からの表彰を受ける。
その一方で学問に励み、晩年には失明という障害を乗り越え、五十半ばから著作にとりかかった主著『夢の代』を死の前年に完成させた。
1751 - 1828 江戸時代中期・後期
本庄松平家第六代 松平資承 実父・松平正温
大黒屋光太夫 Daikokuya Kodayu[回船(運輸船)船頭]
〈十一親等自然血族〉
嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。
ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に面会して帰国を願い出、
漂流から約9年半後の寛政四年(1792)に根室港入りして帰国した。
幕府老中の松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。
その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。
1754 - 1829 江戸時代後期
大河内松平宗家正温五男 松平正恒 実父・松平正温
菅江真澄 Sugae Masumi[旅行家・本草学者]本名「白井秀雄」
〈十一親等自然血族〉
出身地は現在の岡崎説(柳田國男)と豊橋説(白井梅里)の両説あり。少年期に岡崎城下成就院の稚児となり、三河吉田藩の植田義方(賀茂真淵門人)に国学を学んで学問に目覚め、和文や地誌の修行を積む。
その後、尾張国に遊学して、河村秀根・丹羽嘉言を師として、国学・本草学・写生などを学んだ。天明三年(1783)郷里を旅立ち、信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅した。
信濃では『伊那の中路』を初めとする紀行や随筆、陸奥・出羽では『霞む駒形』『率土が浜つはひ』『秋田の仮寝』『小野のふるさと』といった紀行や素描本を綴り、蝦夷地ではアイヌの人々の生活を『えぞのてぶり』に写した。
1762 - 1761 江戸時代後期
大河内松平宗家正温五男 松平正恒 実父・松平正温
野村長平 Nomura Chohei[船乗り]通称「無人島長平」
〈十一親等自然血族〉
船の難破による鳥島での無人島生活を経て、故郷に帰還した。
時は天明五年(1785)一月三十日、土佐藩赤岡村から田野へ三百石船で御蔵米を運搬した帰路に、船は土佐沖で冬の大西風、シラに遭遇し、
舵・帆柱を失って漂船となった。漂船は室戸岬を越えて黒潮に乗ったと推定され、十二日後に当時無人島であった伊豆諸島の鳥島に漂着した。
漂着時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いで死亡し、以後長平は無人島での単独生活を強いられる。
鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、後述する大阪船の漂流者と合流する以前は火打石を持たなかったため、
それらを生で食した。またアホウドリの肉を乾燥して保存し、これをアホウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。
水は雨水を水源とし、これを多数のアホウドリの卵殻などに蓄えた。長平は一日に飲む水の量をアホウドリの卵殻で作った容器1個分と決めていたという。
アホウドリの羽を縫い合わせて敷物や衣服を作り、脂肪を灯油に用いた。月を観察して三日月を見た回数から年月を把握した。
長平は寛政十年(1798)一月十九日に土佐へ十三年ぶりに帰還した。
1760 - 1835 江戸時代後期
大河内松平宗家第七代当主 松平正路
華岡青洲 Hanaoka Seishu[外科医]諱「震」
〈八親等自然血族〉
紀伊国那賀郡名手荘西野山村に生まれる。
京都に出て、吉益南涯に古医方を三ヶ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科を一年学ぶ。
さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」を学んだ。医学書や医療器具を買い集め、
その中でも特に影響を受けたのが永富独嘯庵の『漫遊雑記』であった。
患者が受ける耐えがたい痛みを解決しなければ不可能であり、麻酔法の完成こそ、癌の医療を進歩さ
せる最重要の課題と考えた。手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開
発を始め、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌手術を成功させた。
1793 - 1837 江戸時代後期
大河内松平宗家第八代当主 松平正敬
大塩平八郎 Oshio Heihachiro[儒学者]号「中軒」
〈七親等自然血族〉
十四歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、二十五歳で与力となる。
奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行所与力・弓削新右衛門の汚職を内部告発したり、
破戒僧を処断したりなど、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。前述の弓削新右衛門の一件と、
切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが「三大功績」としている。
独学で陽明学を修めた大塩は自宅に洗心洞を開く。隠居後は学業に専念し、大塩の陽明学は「知行合一」
を中心思想に据えたもので、「中斎学派」と呼ばれる学派を形成するまでに成長した。
1793 - 1841 江戸時代後期
大河内松平宗家 松平正従
渡辺崋山 Watanabe Kazan[武士・画家]諱「定静」神道無念流
〈九親等自然血族〉
崋山は田原藩の家老職に就任し、紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画、助郷免除など
事件を解決。天保の大飢饉の際には、予め食料備蓄庫を築いてたことや、『凶荒心得書』という対応
手引きを著して采配し、誰も餓死者を出さず、指導の功績として唯一幕府から表彰を受けている。
画家として、崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業
を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするための足掛かりとなった。
代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂
日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるととも
に、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。
西洋画の立体、質、遠近などの面による構成を、線を主体とした東洋画に取り入れた功績は非常に大
きく、その作品には、国宝「鷹見泉石像」をはじめ、多くの重要文化財、重要美術品が残っている。
弟子に椿椿山、福田半香、平井顕斎など崋山十哲や、剣術家の金子健四郎など。
1798 - 1864 江戸時代後期
大河内松平宗家第九代当主 松平正義 実父・松平正路
男谷信友 Otani Nobutomo[幕臣・剣術家]通称「精一郎」直心影流男谷派
〈九親等自然血族〉
信友は文化二年(1805)、八歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術十二世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始めた。さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。文政六年(1824)、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。
兵学、槍術など武芸のほか、書画にも優れ、教養、人格とも抜群の風格ある剣客。
あまりの強さに異常と評されるほど腕が立つが、決して傲慢な態度をとらない温厚な人格者としても知られ、応対は親切丁寧で高ぶるところがなく、「君子の剣」や「幕末の剣聖」と呼ばれることもある。
1798 - 1871 江戸時代後期・明治
大河内松平宗家 松平正義 実父・松平正路
斎藤弥九郎 Saito Yakuro[剣術家・政治家]号「篤信斎」神道無念流
〈九親等自然血族〉
文化七年(1810)、越中の高岡へ奉公に赴き、油屋や薬屋の丁稚となったが、思うようにならなかったので帰郷した。
江戸へ出ることを望み、文化九年(1812)、親から一分銀を渡され出立する。途中、旅人の荷担ぎをして駄賃を稼ぎ、野宿をしながら江戸にたどり着いた。
旗本能勢祐之丞の小者となって住み込みで働き、夜は書物を読んだ。感心した能勢の勧めで、剣術を岡田吉利に、儒学を古賀精里に、兵学を平山行蔵に、文学を赤井厳三に、砲術を高島秋帆に、馬術を品川吾作に学び始め、学問と武芸に励んだ。
幕末江戸三大道場の一つ「練兵館」の創立者。千葉周作、桃井春蔵とともに幕末三剣客といわれ、門弟に高杉晋作や木戸孝允がいた。維新後には徴士会計官権判事、造幣局権判事を務めた。
1825 - 1885 江戸時代後期・明治
大河内松平宗家 松平正記 実父・松平正路
桃井春蔵 Momoi Shunzo[剣術家]諱「直正」鏡新明智流第四代
〈九親等自然血族〉
二十三歳で皆伝、二十五歳で奥伝を得て、嘉永五年(1852)、二十七歳で士学館四代目桃井春蔵を継いだ。
四代目で士学館道場は栄え、後に斎藤弥九郎の練兵館の神道無念流、千葉周作の玄武館の北辰一刀流と並んで幕末江戸三大道場の一つに数えられる。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」といわれた。
安政三年(1856)、土佐から武市瑞山が岡田以蔵らを伴い江戸に出て、士学館に入門する。春蔵は武市の腕前と人物を高く評価を得て、塾頭に任じられた。
文久二年(1862)、幕府から与力格二百俵に登用され幕臣となり、翌年には講武所剣術教授方出役に任じられる。
1835 - 1869 江戸時代後期
大河内松平宗家第十代当主 松平正和 実父・松平正敬
土方歳三 Hijikata Toshizo[幕臣・新選組副長]雅号「豊玉」天然理心流
〈八親等自然血族〉
新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、現代では鬼の副長の通称が有名である。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、
またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。
天然理心流試衛館に入門した翌年の万延元年(1860年)に刊行された『武術英名録』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に土方歳三の名が掲載されており、既に一定の実力に達していたことが窺える。
ただし、天然理心流道場では歳三は中極位目録までの記録のみが現存している。
中極位とは、中国地方、或いは、中国など祖を示す関係性を表すものと考え、それ以上の記録は意図的に残していないと考察する。
1838 - 1896 江戸時代末期・明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝聴長女 松平みち子 実父・松平輝聴
千葉佐那 Chiba Sana[長刀師範]北辰一刀流
〈七親等自然血族〉
天保九年(1838)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。
北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、十代の頃に皆伝の腕前に達したという。また、美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれたという。
坂本龍馬と知り合い、さな子の回想によると安政五年(1858年)頃に婚約したという。
龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(佐那は)今年二十六歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりも少しよい」と評している。
父・定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見とした。
1839 - 1927 江戸時代末期・明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝聴次女 松平光子 実父・松平輝聴
中沢琴 Nakazawa Koto[女剣士]法神流
〈七親等自然血族〉
新徴組に参加した法神流の女剣士。
上野国利根郡利根村穴原(現在の群馬県沼田市利根町穴原)生まれ。幼少から剣術、とくに長刀に優れ、文久三年(1863)、
浪士組に参加する兄に従い男装して京へ上り、のち新徴組に参加、各地を転戦した。
当時の女性としては高身長の170cmで、男装していれば娘たちに惚れられて困ったと伝えられる。
自分より強い者と結婚すると決め、結局現れなかったため生涯独身で過ごした。
1844 - 1913 江戸時代末期・明治・大正
高崎藩大河内松平宗家二男 大河内輝剛 実父・松平輝聴
根岸信五郎 Negishi Shingoro[剣術家]諱「資剛」神道無念流
〈七親等自然血族〉
藩主・牧野忠恭から、同藩士・小野田伊織と共に江戸での剣術修行を命じられ、
文久三年(1863)春、江戸へ出て神道無念流の道場・練兵館に入門。斎藤新太郎(二代目斎藤弥九郎)の指南を受けた。同門には桂小五郎や渡辺昇など明治維新の志士もいたが、
桂は安政五年(1859)に長州藩に帰藩したので根岸が入門した当時は既に練兵館にいなかった。慶応元年(1865)、免許皆伝を授けられる。同時に師範代に任ぜられたともいう。
明治維新後、警視庁撃剣世話掛、皇宮警察撃剣世話掛、宮内省済寧館御用掛を歴任し、明治二十七年(1894)慶應義塾剣術部の師範となる。
1856 - 1900 明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝聴三女 松平淑子 実父・松平輝聴
楠本高子 Kusumoto Takako[芸事の教授]改姓「山脇高子」
〈七親等自然血族〉
1864年、十三歳の時まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。
幼少時は琴や三味線、舞など芸事に熱心であり、医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。
三瀬はシーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥に当たった。
明治十年(1877)に夫・三瀬諸淵に先立たれた後、異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。
修行中に医師・片桐重明との間に男児を設けたため、医業の道は断念したとされるが真偽の程はわからない。
その後かねてより高子に求婚していた医師・山脇泰助と再婚し、一男二女を授かるが、結婚七年目に山脇は病死し、
叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話を受け、東京で母のイネと共に暮らした。以後は幼少時に熱心だった芸事の教授をして生計を立てていた。
1852 - 1938 明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝聴四女 松平銑子 実父・松平輝聴
陸奥亮子 Mutsu Ryoko[日本赤十字社正社員]敬称「ワシントン社交界の華」
〈七親等自然血族〉
旗本・金田蔀の妾が生んだ長女として江戸に生まれる。明治の初め、東京新橋にある柏屋の芸者となり、小鈴(小兼)の名で通る。
板垣退助に愛された小清とならんで「新橋の双美人」と呼ばれ、新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。花柳界に身を置きながら、
男嫌いという評判もあり、身持ちも堅かったといわれるが、結局は明治五年(1872)二月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、同年五月に十七歳で客である宗光の後妻となった。
明治十五年(1882)、宗光は特赦によって出獄を許され、翌明治十六年から伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
宗光が外遊の間に亮子に宛てた書簡は五十通を越える。明治十九年(1886年)、宗光は帰国して政府に出仕する。
社交界入りした亮子は、伯爵戸田氏共の夫人・極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。
1877 - 1930 明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝声長女 松平恭子 実父・大河内輝声
江木欣々 Egi Kinkin[芸者]別号「江木栄子」
〈六親等自然血族〉
栄子は十六歳で九州の細川家の元家老職で五十代の有吉立愛男爵(1840-1893)に落籍され正妻となった。
しかし夫は1年あまりで病没。栄子は有吉家を出されて再び花柳界に戻り、神田明神下の講武所で芸者となった。
栄子は講武所の美貌芸者として名をはせ、明神下の開花楼で開かれた弁護士たちの宴会で十九歳年上の江木衷と出会い、間もなく衷と結婚した。二人はもともと顔見知りで、
衷が東大法科生のころ、下宿先に洗濯屋の御用聞きに来ていた美少女が栄子だった。結婚後は自宅で関係者を集めてパーティを開き、そこが自ずから社交場となった。
栄子は詩、書、画、篆刻、謡曲と広い趣味と才人ぶりを見せて花形となった。避暑地軽井沢での乗馬姿は土地の名物として衆人の目を惹いていたほどであったという。
江木欣々は十剣大神流の粕川廩子より女式の柔術を学んでおり、1917年4月5日に免許皆伝を受けている。
1889 - 1985 明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝聴四女 松平桂子 実父・松平輝声
朝吹磯子 Asabuki Isoko[歌人・テニスプレイヤー]
〈七親等自然血族〉
一家中テニス好きで知られていた。夫の朝吹常吉は、慶応義塾在学中からテニスに関しては有名だった。
実業家夫人として、五人の子の母親として忙しい毎日を送っていた磯子であったが、寸暇を惜しんで真面目に、基本に忠実に練習を重ねた。
名プレイヤーの指導を受け、実力をつけた磯子は、大正十三年(1924)に開催された第一回全日本女子庭球選手権大会のシングルスでベスト4に入り、
日本女子テニス界の草分け的存在となった。この大会では、出場者十九人のうち、既婚者は磯子だけだったといわれている。
大正十五年(1926)年四月の第二回関東庭球選手権では女子シングルス、同ダブルスで優勝という結果を残した。
昭和四年(1929)十月の全日本選手権ダブルスで優勝を果たすなどの戦歴をのこしたが、ひじを痛めたあとはゴルフに転じた。戦後も日本女子テニス連盟の名誉会員を長く務めた。
1892 - 1927 明治・大正・昭和
高崎藩大河内松平家輝声三男 松平光孝 実父・大河内輝声
芥川龍之介 Akutagawa Ryunosuke[小説家]号「澄江堂主人」
〈六親等自然血族〉
東京市京橋区入船町八丁目に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。
明治三十一年(1898)、江東尋常小学校入学。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、明治四十三年(1910)九月、第一高等学校第一部乙類英文科に入学。
同年、中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。
大正二年(1913)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
東京帝大在学中の大正三年(1914)、クラスメイトの菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第三次)を刊行。
その後の著書として『羅生門』『鼻』『地獄変』『歯車』などで知られる。
芥川の作品は、短編小説が多く知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(『バルタザアル』など)。
英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。
1878 - 1941 明治・大正・昭和
戸田氏秀三男 戸田氏克 実父・三条輝重
前田光世 Maeda Mitsuyo[柔道家]通称「コンデ・コマ」グレイシー柔術の祖
〈五親等自然血族〉
青森県中津軽郡船沢村出身。明治二十七年(1895)、青森県第一中学校(後の青森県立弘前高校)に入学、
運動委員の一員として同校の柔術部創設に関わったことで、旧弘前藩の柔術師範である斎藤茂兵衛(本覚克己流)への師事も指摘される。
同校を中退して上京し、翌年早稲田中学(後の早稲田高校)に入学する。入学後は相撲や野球で名を馳せた、
東京専門学校(後の早稲田大学)に柔道場が新設されたことをきっかけに講道館柔道に出会い、1897年6月には講道館に入門し、柔道に打ち込む。同校は、渡米前1904年に中退した。
講道館に、入門してからは講道館四天王の一人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、
昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ十五人抜きを命ぜられ、見事これを達成した。
その後、渡米し、前田は後に首相になった衆議院議員犬養毅から日本刀「長船」を贈られた。
渡米後は滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。
試合を重ねブラジルに辿り着き、海外での前田の活躍が当時の日本国内に紹介されるに際し、
同じように海外に渡り柔道普及のために異種格闘技戦を行っていた佐竹信四郎、伊藤徳五郎、大野秋太郎と並んで、「玖瑪(キューバ)の四天王」(「海外四天王」)とも呼ばれた。
1883 - 1956 明治・大正・昭和
戸田氏秀四男 戸田氏忠 実父・三条輝重
高村光太郎 Takamura Kotaro[詩人・彫刻家]本名「たかむらみつたろう」
〈五親等自然血族〉
日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、
日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。
弟は鋳金家の高村豊周であり甥は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。
1885 - 1967 明治・大正・昭和
戸田氏秀長女 戸田愛子 実父・三条輝重
林きむ子 Yanagiwara Byakuren[舞踏家・作家]戸籍名「きん」
〈五親等自然血族〉
きむ子は七歳のときに新橋の料亭「浜の家」の女将・内田はな(花)の養女となり、跡を継ぐように望まれる、
九歳で藤間流の藤間久満、十一歳で正派西川流の初代西川喜洲、西川流九代目西川扇蔵に師事し西川扇紫を名乗り、三味線、踊り、お茶、お花など、ありとあらゆる芸事を身につけたという。
大正十三年(1924)に西川流の名を返上し児童舞踊や創作舞踊を中心とした林流を創始し「銀閃会」を主宰。舞踊譜も創作。「冥府の想思鳥」「仁和寺の法師」などを多数発表。
昭和四十一年(1966)に勲五等瑞宝章受章し、翌年八十二歳でこの世を去った。
1885 - 1967 明治・大正・昭和
戸田氏秀長女 戸田元子 実父・三条輝重
柳原白蓮 Yanagiwara Byakuren[歌人]本名「宮崎燁子」
〈五親等自然血族〉
東京に生まれ、父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「燁子」と名付けられる。
明治四十三年(1910)十一月、上野精養軒で燁子と九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われ、翌年日比谷大神宮で結婚式が行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。
『東京日日新聞』では結婚式までの三日間にわたり、二人の細かい経歴などを書いた「燁子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され、“黄金結婚”と大いに祝福された。
その後月日は経ち、白蓮は歪んだ結婚生活の懊悩・孤独を燁子はひたすら短歌に託し、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた。師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧め、信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」と名乗ることとなる。明治四十四年(1911)、『心の花』6月号で「白蓮」の号を初めて使用する。
福岡天神町の別邸を中心に、九州帝国大教授の医学博士で歌人の久保猪之吉、その妻で俳人の久保より江らと交流し、福岡社交界の華として活動した。
1912 - 1968 大正・昭和
戸田氏秀四男 戸田氏直 実父・三条輝重
双葉山定次 Futabayama Sadaji[大相撲力士]本名「龝吉定次」
〈五親等自然血族〉
現在も破られていない六十九連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。
横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。
幕内成績は、三十一場所で276勝68敗1分33休(勝率.820)。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、
横綱昇進後は十七場所・180勝24敗22休で(勝率.882)と跳ね上がる。他に優勝十二回(年二場所制での最多、そのうち全勝八回)、五場所連続全勝(年二場所制で最多)、
関脇一場所、大関二場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、
69連勝(相撲の記録が残る1757年以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。
1917 - 1944 大正・昭和
戸田氏秀五男 戸田氏泰 実父・三条輝重
沢村栄治 Sawamura Eiji[プロ野球選手]旧字体「澤村榮治」
〈五親等自然血族〉
日本プロ野球黎明期に伝説的な活躍を見せた不滅の大投手。昭和九年(1934)の日米野球では持ち前の快速球でベーブルースやルー・ゲーリックらメジャーリーグ選抜を手玉に取ったほか、
二度の渡米遠征で活躍するなど、"スクールボーイ・サワムラ"として野球の本場アメリカでもその名を馳せた。
日本で職業野球が開始されると、巨人の初代エースとなり昭和十一年(1936)の初優勝に大きく貢献。昭和十二年(1937)春季には史上初の投手五冠に輝き、初代最高殊勲選手(MVP)を受賞した。のち、史上最多タイの三回のノーヒットノーランも達成している。
しかし、兵役で肩を痛めて快速球の威力は失われ、三度の応召を経て昭和十九年(1944)戦死。戦後の1947年に功績が称えられて巨人の背番号14は初の永久欠番に指定される。また、記念として同年に設立された最も活躍した先発完投型投手に贈られるタイトル「沢村賞」にその名を残している。
1900 - 1998 明治・大正・昭和
戸田氏秀五男 吉野信子 実父・三条輝重
土浦信子 Tsuchiura Nobuko[建築家・画家]旧姓「吉野」
〈四親等自然血族〉
宮城県仙台市で吉野作造の長女として生まれた。父は著名な政治学者で、彼を介してのちに結婚した建築家の土浦亀城と出会った。
大正八年(1919)三月、 東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した。
土浦亀城建築事務所での土浦信子は、主にインテリアデザインに専念したが、昭和十二年(1937)頃、建築を断念し、「レディースカメラクラブ 」の会員になって写真作品を制作、戦後は抽象絵画を描き続けた。
1913 - 1947 大正・昭和
松田徳太郎長男 松田光夫 実父・三条輝重
織田作之助 Oda Sakunosuke[小説家]愛称「織田作」
〈四親等自然血族〉
大正六年(1917)に父が商売で失敗し、大阪市東区東平野町に移る。大正九年(1920)、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現・大阪市立生魂小学校)に入学。
大正十五年(1926)、旧制大阪府立高津中学校(現・大阪府立高津高等学校)入学、この頃は『少年倶楽部』などを愛読し、校誌『常盤木』に夏休みのみ同人として参加。
昭和六年(1931)に第三高等学校(新制京都大学教養部の前身)文科甲類に合格、田宮虎彦、白崎礼三、瀬川健一郎などと知り合う。
昭和七年には校友会誌『嶽水会雑誌』に評論や戯曲を寄稿、青山光二とともに昭和八年(1933)に編集委員となる。昭和九年に卒業試験中に喀血し、白浜温泉にて転地療養する。
その後復学はするものの、勉学に対する意欲を失い、町歩きに明け暮れるようになり、また東一条のカフェの女給宮田一枝と出会い同棲生活を始める。
劇作家志望で『嶽水会雑誌』に戯曲「饒舌」を発表し、昭和十年(1935)に青山光二、柴野片彦らと同人誌『海風』を創刊。翌年出席不足で退学。
昭和十三年(1938)にスタンダールに影響を受けて小説家へ志向を転換、『海風』に初めての小説「ひとりすまう」を発表、続いて書いた「雨」が武田麟太郎に注目される。
1918 - 2006 大正・昭和
松田徳太郎長女 松田フサ子 実父・三条輝重
鶴見和子 Tsurumi Kazuko[社会学者・上智大学名誉教授]
〈四親等自然血族〉
牛込成城小学校から昭和二年(1927)四月に砧の成城学園に移り、昭和四年四月に女子学習院五年へ転校。1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける。
昭和十一年(1936)三月、女子学習院を卒業し、同年四月、津田英学塾へ進学。昭和十二年(1937)七月、オーストラリアで国際会議に出席する父に同行し、初めて海外へ。翌年夏には両親と米国へ渡航。
昭和十四年(1939)三月、津田英学塾を卒業し、同年九月に米国・ヴァッサー大学大学院(哲学専攻)に入学。昭和十六年(1941)に同大学院の哲学修士号を取得し、コロンビア大学大学院(哲学科)へ進学。昭和十七年(1942)六月、同大学院を中退し、ハーバード大学を卒業した弟・俊輔と共に日米交換船で帰国。
帰国後は東京に住み、市政会館内にあった太平洋協会のアメリカ分室に勤務した。
昭和二十年(1945)頃、父と二人で東京に残り、ほか家族は軽井沢の別荘で雑居。戦争末期には父と熱海へ疎開した。
上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究などでも知られる。
1920 - 2013 大正・昭和
松田徳太郎三男 松田治 実父・三条輝重
川上哲治 Kawakami Tetsuharu[プロ野球選手・監督]
〈四親等自然血族〉
現役時代より、「ボールが止まって見える」と名言を残すほど、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した。戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用して川上のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。
また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあり、NPB初のベストナイン(一塁手部門)を受賞している。監督としてもアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』の実践を目指し、王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(九年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった。
川上のリーグ優勝回数十一回は鶴岡一人と並ぶプロ野球の監督史上最多記録であり、日本一十一回もプロ野球の監督史上最多記録である。
1922 - 2015 大正・昭和
松田徳太郎四男 松田義明 実父・三条輝重
鶴見俊輔 Tsurumi Shunsuke[哲学者・評論家]
〈四親等自然血族〉
鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど講談社と関係が深く、鶴見は姉・和子と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み、「満州事変以前の講談社文化にひたりきって育った」。
昭和十四年(1939)九月、十六歳のとき、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学、哲学を専攻。記号論理学者のホワイトヘッドやラッセルの講演を聴講し、カルナップ、クワインに師事した。
昭和十六年(1941)七月、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結され、日本からの送金が止まったため、夏休みにニューヨーク日本文化会館の日本図書館で本の運搬をして働く。先行きへの不安から、生活費を切り詰め、成績優秀だったため卒業を急いで四年制の大学を三年で卒業できる飛び級コースを選択。
大学の第三学年前期が終わったとき、FBIに逮捕され、そのため第三学年後期は大学の授業に出席できず、留置場で受けた後期の試験は不合格だったが、それまで成績優秀だったため、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた。
米国ハーバード大学で哲学を学んだのち、リベラルな立場の批評で論壇を牽引。思想史から大衆文化まで幅広い分野を扱う。著書は『戦時期日本の精神史』(1982)、『アメリカ哲学』(2008)など多数。
吉田藩大河内松平家
1723 - 1776 江戸時代中期
松平伊豆守系大河内松平家第五代当主 松平信復
池大雅 Ike Taiga[文人画家]雅号「霞樵」
〈十二親等自然血族〉
京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中、
六歳で素読を始め、七歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。
日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富み、大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。
1739 - 1786 江戸時代中期
松平伊豆守系大河内松平家第六代当主 松平信礼
中川淳庵 Nakagawa Junan[文人画家]雅号「霞樵」
〈十三親等自然血族〉
京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中、
六歳で素読を始め、七歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。
日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富み、大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。
1748 - 1822 江戸時代中期
松平伊豆守系大河内松平家三河吉田藩初代藩主 松平信正 実父・松平信復
亜欧堂田善 Aoudo Denzen[洋風画家・銅版画家]本名「永田善吉」
〈十三親等自然血族〉
農具商を営む富豪、永田惣四郎の次男として生まれる。八歳の時父が亡くなり、紺屋だった兄・丈吉の仕事を長い間手伝う。兄は画号を持つ程度に絵心があり、田善は家業のかたわら兄から絵を習い、
宝暦十二年(1762)15歳の時、描いた絵馬「源頼義水請之図」を地元の古寺山白山寺に奉納している。
安永元年(1772)、伊勢参りに行った際、伊勢国宇治山田寂照寺の画僧月僊について画を学び、田善と号した。
銅版画を制作するにあたり、銅版の上に線条以外の腐蝕を防ぐため、グランドといわれる下地を作るのであるが、
このグランドに田善は漆を使用したと思われ、それによって、銅板式の木版画「比翼塚の図」を残している。
独自の銅版画を描き、その師については司馬江漢とも、定信に仕える蘭学者とも、長崎のオランダ人に学んだともいわれている。
江漢は、性格が鈍重で飲み込みが遅いとして田善を破門したが、後に田善の方が銅版画の技術は上だと評価し、退けたことを後悔したという逸話が残る。
現在、田善の作品は油彩画十五点、銅版画九十点近く確認されている。弟子に遠藤香村、遠藤田一、安田田騏、新井令恭など。
その洋風表現は、葛飾北斎や歌川国芳らの浮世絵にも影響を与えた。
1730 - 1781 江戸時代中期
美濃高富藩第六代藩主 本庄道揚 実父・松平信復
小田野直武 Odano Naotake[画家]通称「武助」
〈十三親等自然血族〉
直武は秋田藩角館裏町に生まれる。
角館は、佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町であった。直武の生まれた小田野家は、
佐竹北家の家臣であり佐竹本家から見れば陪臣であったとする説もあるが、当時の日記類に従えば、
佐竹本家の直臣で佐竹北家の「与下給人」(組下給人とも)であったと見られる。幼少より絵を好み、浮世絵風の美人画も描く。
やがて絵の才能が認められ、藩絵師武田円碩から狩野派を学び、佐竹北家の当主・佐竹義躬、秋田藩主・佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受ける。
1763 - 1841 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家 松平壬次 実父・松平信復
谷文晁 Tani Buncho[南画家]別号「写山楼」
〈十三親等自然血族〉
祖父の谷本教ははじめ下役人であったが、経済的手腕に優れていたため立身し、民政家として聞こえ、田安家に抜擢され治績を残した。
父の谷麓谷も田安家家臣となり、漢詩人として名を知られた。
このような文雅の家系に育った文晁は文才を持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などもよくした。菊池五山の『五山堂詩話』巻三に文晁の漢詩が掲載されている。
亀田鵬斎、酒井抱一とは「下谷の三幅対」と評され、享楽に耽り遊びに興じたが、最期まで矍鑠として筆をふるった。文政十二年(1829)に定信が歿し、
六十七歳になった文晁は御絵師の待遇を得て剃髪した。七十五歳の時に法眼位に叙され、文阿弥と号する。
1777 - 1835 江戸時代後期
三上藩遠藤家第九代当主 遠藤胤富 実父・松平信復
田能村竹田 Tanomura Chikuden[南画家]諱「孝憲」別号「九畳仙史」
〈十三親等自然血族〉
岡藩儒医田能村碩庵の次男として生まれる。母は水島氏。禄高十二人扶持であったがこれは武士の中ではかなり低く、更に藩の財政難で実際はこの六割程度しか俸禄を得られなかった。
この為竹田は生涯にわたり生活資金の工面に苦労させられることになる。六歳で素読を始め、十一歳で藩校由学館で入学。成績は極めて優秀だった。
眼病の治療と儒学を学ぶため、途中博多、長崎、熊本、小倉、下関に立ち寄り京都へ約二年間遊学。その間村瀬栲亭に入門。大坂では浦上玉堂や岡田米山人・上田秋成らと知遇を得る。
文政九年(1825)、五十歳で長崎に遊歴。来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学ぶ。
竹田は筆まめで多くの著作を著している。とりわけ『山中人饒舌』は日本の文人画史・画論として当時から広く読まれ、『屠赤瑣瑣録』では文事や文人趣味などを知る上での資料価値が高い。
多くの人物との交流から様々な画風を学んだことで山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、写実を通して文人画のエッセンスともいうべき写意を表現した。
晩年は繊細で味わい深い画境に到達し旺盛に創作をした。
1771 - 1829 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家第七代当主 松平信明 実父・松平信礼
近藤重蔵 Kondo Juzo[幕臣・探検家]諱「守重」号「昇天真人」
〈十四親等自然血族〉
御先手組与力・近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。博識で有名な山本北山に儒学を師事し、同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎らがいる。
幼少の頃から「神童」と呼ばれ、八歳で四書五経を諳んじ、十七歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。
間宮林蔵、平山行蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれ、「大日本恵登呂府」の標柱を立てた人物として知られる一方、書誌学や北方地図作製史の分野でも論じられている人物である。
1773 - 1822 江戸時代後期
旗本(寄合) 杉浦正直 実父・松平信礼
夏目甕麿 Natsume Mikamaro[国学者]号「萩園」
〈十四親等自然血族〉
寛政二年(1790)名主職を継ぎ、同九年(1797)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。
文化十一年(1814)隠居。地名の語学的研究を行い、文化十三年(1816)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。
翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽などを転々とする。文政五年(1822)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。
1782 - 1864 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家信礼長女 松平女 実父・松平信礼
鍵谷カナ Kagiya Kana[芸者]称「寛政三美人」
〈十四親等自然血族〉
農家に嫁ぎ、その傍ら伊予縞の布を生産した。
それに見せられ、享和年間(1801~1804)に新しい絣模様を考案し、織屋の菊屋新助が考案した高機を使って織り出して、出身地名をとって今出絣を完成した。
これが後に伊予絣となり、伊予の名物として人気を博した。
1790頃 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家信礼次女 松平静 実父・松平信礼
富本豊雛 Toyomoto Toyohina[芸者]称「寛政三美人」
〈十四親等自然血族〉
富本豊雛は江戸時代に活躍した芸者で、三味線を伴奏に詞章を語る浄瑠璃の一種・富本節の師匠。
1790頃 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家信礼三女 松平静 実父・松平信礼
難波屋きた Nanbaya Kita[難波屋の看板娘]称「寛政三美人」
〈十四親等自然血族〉
高島屋おひさは、江戸・両国で煎餅屋を営んでいた「高島屋長兵衛」の娘。水茶屋の看板娘として知られ、
喜多川歌麿による美人画「当時三美人」に描かれて人気を集めます。
1790頃 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家信礼四女 松平静 実父・松平信礼
高しまひさ Takashima Hisa[水茶屋の看板娘]称「寛政三美人」
〈十四親等自然血族〉
浅草の水茶屋「難波屋」の人気看板娘。寛政五年(1793)十六歳のときに喜多川歌麿の絵のモデルになると、またたく間に人気者になり、
店には多くの見物人が押し寄せた。彼女は強気な性格で知られ、見物が目的の客には水を撒いて退散させたと伝わる。
1755 - 1769 江戸時代後期
松平伊豆守系大河内松平家信礼六女 松平光 実父・松平信礼
綱女 Tsuna Jo[若狭国の子守]
〈十四親等自然血族〉
宝暦五年(1755)、福井県遠敷郡小松原村に生まれた。父は漁夫をしていた角左衛門。家は貧しく、十五歳で同郡西津の人松見茂太夫(郡手代)の家に子守として奉公したが、
ある日、茂太夫の幼児義方をあやして路傍にいたところに狂犬があらわれてきたので、綱は義方を身を以ておおいかぶせ、自分は狂犬の咬むにまかせ、身に十数傷を受け、しかも毅然として幼児を守りとげた。
隣人が驚いてはせあつまり、綱を介抱し、茂太夫の家につれかえったが、綱は身の重傷をわすれ、ひたすら義方の無事であったことをよろこんだが、二十四日目についに死亡した。
1793 - 1855 江戸時代後期>
松平伊豆守系大河内松平家第八代当主 松平信順
遠山景元 Toyama Kagemoto[旗本・江戸南町奉行]通称「金四郎」
〈十七親等自然血族〉
西ノ丸小納戸頭取格、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行などを経て、天保十一年(1840)江戸北町奉行に着任する。
翌年将軍徳川家慶臨席の公事上聴で、特に将軍から褒詞を受け、信任を得る。
天保改革のなかで倹約方針を採る老中水野忠邦と諸策で対立し、株仲間解散令の布達を遅延した理由で差控を命じられる。
同僚矢部定謙の不正取調を命じられ、同年十二月の矢部の罷免後、鳥居忠耀(耀蔵)が着任するが、
水野に忠実に厳酷な取り締まりを行う鳥居に対して、遠山はなお抵抗したため、
同十四年二月大目付に転任、市政から外された。この経緯から「遠山の金さん」として名奉行像が定着することとなる。
1776 - 1848 江戸時代後期
美濃国高富藩九代藩主 本庄道貫 実父・松平信明
曲亭馬琴 Kyokutei Bakin[読本作者]号「著作堂主人」
〈十五親等自然血族〉
馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだという。安永四年(1775)、馬琴九歳の時に父が亡くなり、
長兄の興旨が十七歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永五年(1776)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。
寛政二年(1790)二十四歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。
寛政三年(1791)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん』を刊行、戯作者として出発した。
代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。
<
1799 - 1867 江戸時代後期・明治
美濃国高富藩九代藩主 本庄道貫 実父・松平信明
黒川春村 Kurokawa Harumura[国学者・考証学者]諱「主水」号「薄斎」
〈十五親等自然血族〉
江戸・浅草田原町の陶器商の子として生まれるが、家業を継がず2世浅草庵に狂歌を学び、
三世浅草庵を継いだ。後に和歌に転じて国学へと発展した。狩谷棭斎に国学や考証学を学び、また本居宣長からも影響を受けた。
博識で特に音韻、考証学に優れており古美術にも通じていた。伴信友、清水浜臣、岸本由豆流、内藤広前などと交流が深かった。
また、信州高井郡の須坂藩主堀直格とも知己の間柄であり、共に学問の考究を補助した。春村は直格の著作に序文を寄せている。
夥しい量の著作を書き上げたが、その内出版されたものはごく僅かであった。主な著書に『音韻考証』等がある。墓所は浅草の永見寺。
1801 - 1873 江戸時代後期・明治
美濃国高富藩九代藩主 津軽順承 実父・松平信明
布田保之助 Futa Yasunosuke[事業家]諱「惟暉」
〈十五親等自然血族〉
享和元年十一月二十六日、肥後国矢部に誕生。家柄で二十三歳時に矢部手永の惣庄屋助役に就任。
三十歳時に開墾という功績のために金子を受領。三十二歳に惣庄屋(村長)に就任、三十四歳時には全国的な天保の大飢饉に際し、自分の領域では飢饉がなく褒美を受けた。
五十二歳の時に通潤橋の建設に着手。五十四歳時に完成。六十一歳まで、惣庄屋。明治元年(1868)に領主の細川氏から賞与をあたえられる。
令和五年(2023)には土木構造物として初の国宝に指定された。
1808 - 1878 江戸時代後期・明治
五井松平家十五代当主 松平忠質 実父・松平信明
窪田鎮勝 Kubota Shigekatsu[西国郡代・柔術師]通称「治部右衛門」号「克斎」扱心流体術
〈十五親等自然血族〉
肥後熊本藩の柔術師範家のひとつである扱心流師範の江口秀種の子。
秀種の父は幕臣の高橋誠種であり、秀種の姉の夫が内藤吉兵衛歳由で、その子の川路聖謨・井上清直兄弟とは従兄弟になる。
神奈川奉行所勤務などをへて、元治(げんじ)元年最後の西国筋郡代となり、
豊後国日田を中心に九州天領十六万石を支配する。
慶応四年討幕派が挙兵した御許(おもと)山騒動で、戦火をさけ肥後にのがれた。
扱心流体術の達人としても知られる。
1810 - 1889 江戸時代幕末・明治
旗本(寄合) 大森頼実 実父・松平信明
緒方洪庵 Ogata Koan[陶工・造船家]諱「惟章」別号「華陰」
〈十五親等自然血族〉
嘉永二年(1849)に京都に赴き、滞在七日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を得、
古手町に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同三年(1850)、
郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。
牛痘種痘法は牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの百八十六箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。
その一方で、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
1821 - 1889 江戸時代幕末・明治
陸奥国白河藩三代藩主 阿部正瞭 実父・松平信明
三浦乾也 Miura Kenya[陶工・造船家]号「天禄堂」
〈十五親等自然血族〉
芝居小屋の笛吹き住田清七の婚外子として江戸に生まれる。幼名は藤太郎(豆太郎)。六歳の時に伯母とその夫井田吉六に引き取られ、
十二歳の時に吉六から陶法を学ぶ。十七歳の時に吉六と共に五代目乾山(尾形乾山)と名乗った吉原の名手西村藐庵にしむらみょうあんの世話になった。
十九歳の時に乾也の号を許された。六代目乾山とは自称せず、六代は弟子が継いだ。
嘉永六年(1853)、黒船来航に際して海防の建白書や船の模型図を幕府に献上したところを阿部伊勢守の目にとまり、
嘉永七年(1854)八月から長崎でヘルハルドゥス・ファビウスやヤン・カレル・ファン・デン・ブルークより造船術、金属加工技術などを学ぶ。
乾也焼を創始し、また、破笠はりつ細工にもすぐれ、その手法を応用したかんざし・笄こうがいなどの珠たまは乾也玉とよばれて人気を博した。船・ガラスなども製造。
1839 - 1877 江戸時代後期
松平輝高正室 松平兼 実父・松平信祝
桐野利秋 Kirino Toshiaki[武士・陸軍軍人]雅号「鴨溟」
〈十六親等自然血族〉
天保九年十二月薩摩国に生まれる。初め中村半次郎と称す。文久二年(1862)島津久光に従って入京、尹宮(朝彦親王)付守衛となり諸藩有志と交際、やがて西郷隆盛のもとで国事に奔走した。
明治一年(1868)戊辰戦争の東海道先峰、ついで会津若松攻めの軍監となり、賞典禄に二百石を賜った。明治四年(1871)政府に入り御親兵大隊長、陸軍少将。
明治五年(1872)熊本鎮台司令長官。翌年陸軍裁判所長に就任。この年の「明治六年政変」により西郷隆盛に従って官職を辞職する。明治七年(1874)に同志と鹿児島に私学校設立。明治十年(1877)の西南戦争に西郷軍四番大隊長となり、同年九月二十四日鹿児島城山で戦死した。
桐野は、慶応三年(1867年)の在京中のことを記した『京在日記』を残している。
今これを見ると、達筆とは言えないが、雄勁な筆運びで、勇武な気性がよくあらわれている。他に複数の自筆書簡も現存している。
桐野は禄五石という貧窮の家で育ったが故に農民同様の生活を送り、系統的な学問をせず、剣術も小示現流の伊集院鴨居門下あるいは薬丸自顕流の薬丸兼義門下というが、多くは独力で修得し、達人の域に至った。
信定系大河内松平家
1666 - 1728 江戸時代中期
信定系大河内松平家 松平斐章 実父・松平信定
荻生徂徠 Ogyu Sorai[儒学者・思想家]諱「茂卿」
〈十六親等自然血族〉
朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。
古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。
1672 - 1733 江戸時代中期
信定系大河内松平家 松平信望 実父・松平信定
井戸正明 Ido Masaakira[幕臣・代官]通称「平左衛門」
〈十六親等自然血族〉
江戸で生まれ、元禄五年(1692)に幕府勘定役の井戸平左衛門正和の養子となる。
正和の死後、遺跡を継ぎ、六十歳にして第十九代大森代官に着任し、天領の銀山領六万石を支配した。直後に笠岡代官も兼務した。
享保の大飢饉による領内の窮状を目の当たりにし、領民たちを早急に救うため幕府の許可を待たず年貢の減免、商人から寄付金を募り、更に官金や私財の投入などを断行した。
栄泉寺で薩摩国の僧の泰永からサツマイモが救荒食物として適している話を聞き、医師の青木秀清が蘭方医学を学ぶため長崎に留学し、サツマイモの栽培法を習得し持ち帰ったことにより栽培が成功する。
サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により、正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられた。
1683 - 1755 江戸時代中期
高崎藩大河内松平家第三代当主 松平輝規 実父・松平信定
香川修徳 Kagawa Shutoku[医師・儒学者]画号「修庵」
〈十六親等自然血族〉
十八歳のとき京都に遊学し、古医方の大家後藤艮山(こんざん)について医学を修めるかたわら、
師の勧めに従って伊藤仁斎(じんさい)に師事して儒学を修めた。五年にして古今の医書を読破し、古医方の説を大いに広めた。
儒医一本説を唱え、聖道と医術とはその本を一にすることを力説した。五運六気説をつとめて排斥し、
実験に基づく医方を行うことを旨とした。『一本堂薬選』『一本堂行餘医言』などを著し、その門人は四百余人を数えたという。
1666 - 1728 江戸時代中期
丹波国綾部藩三代藩主 九鬼隆直 実父・松平信定
石田梅岩 Ishida Baigan[思想家・倫理学者]諱「興長」石門心学の開祖
〈十六親等自然血族〉
丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市東別院)に、
父石田権右衛門、母たねの次男として生まれる。元禄五年(1692)、八歳で京都の商家に丁稚奉公し、七ヶ月ほどで故郷に戻ったが、宝永四年(1707)には再び奉公に出て商家の黒柳家で働く。
享保九年(1724)ごろ、石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立し、享保十二年(1727)には黒柳家を辞し、
享保十四年(1729)四十五歳で自宅に講席を設け、生涯を布教に努めた。梅岩の講義は受講に際して紹介が一切不要、かつ性別も問わない無料の講座であった。
梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある。
この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする。
梅岩自身は自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。
1697 - 1769 江戸時代中期
堅綱系大河内松平家第四代当主 松平信応 実父・松平信定
賀茂真淵 Kamono Mabuchi[国学者・歌人]雅号「淵満」
〈十六親等自然血族〉
『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重(万葉主義)を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、
「日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿である」として、古道説を確立した。「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。
1723 - 1782 江戸時代中期
堅綱系大河内松平家第五代当主 松平信成
楫取魚彦 Kamono Mabuchi[国学者・歌人]雅号「淵満」
〈不明自然血族〉
享保八年(1723)、下総国香取郡佐原の名家である伊能茂左衛門家に生まれる。父は伊能景栄。
はじめは俳諧をたしなみ、建部綾足の門に入って片歌をつくり、あわせて画を学んだ。
その後、賀茂真淵に師事して古学を修め、県門の四天王と称揚される。弟子として窪俊満がいる。明和二年(1765)、家を伊能景序に譲って江戸に出て浜町に卜居し、家宅を「茅生庵」と号した。明和六年(1769)に真淵が没した後、魚彦に学ぶ者は多く、遂には二百人あまりになったという。
堅綱系大河内松平家
1644 - 1694 江戸時代中期
堅綱系大河内松平家第二代当主 松平信義 実父・大河内重綱
松尾芭蕉 Matsuo Basho[俳諧師]諱「宗房」
〈十八親等自然血族〉
芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、
後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。ただし芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。
元禄二年三月二十七日(1689.5.16)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。
1675 - 1752 江戸時代中期
堅綱系大河内松平家第三代当主 松平信連 実父・天野長顕
海北若冲 Kaiho Jakuchu[国学者]諱「千之」
〈不明自然血族〉
摂津国武庫郡今津村(現・兵庫県西宮市)出身。真言宗の僧で国学者の契沖に師事して『万葉集』の講義を受けた。その後「万葉集師説」「万葉集類林」などを整理編修した。歌集に「岑柏集」がある。
1745 - 1825 江戸時代中期・後期
堅綱系大河内松平家第六代当主 松平信行 実父・関盛時
寺田宗有 Terada Muneari[兵法家・剣客]号「天真翁」天真一刀流始祖
〈十九親等自然血族〉
剣術界に竹刀稽古が広まり、主流となっていく中で、宗有はこれに反発し、もっぱら木刀による形稽古を基盤とした組太刀の研究に打ち込んだ。
のちに中西道場の宗家四世を継いだ中西子正やその弟子筋に当たる千葉周作らも組太刀を宗有から学ぶようになった。
『日本剣豪100選』の著者、綿谷雪は寺田宗有について、のちに彼の門人となった白井亨とともに形剣術では日本最終の名手とし、
組太刀で天下無敵といわれた人物は、この両人以後には出現しなかったという。
1767 - 1833 江戸時代後期
堅綱系大河内松平家第六代当主 松平信孟
青木木米 Aoki Mokubei[絵師・陶芸家]別号「聾米」
〈二十親等自然血族〉
京都に生まれ、若くして高芙蓉に書を学び、頭角を現す。
清の朱笠亭が著した『陶説』を読んで感銘を受けて作陶を志し、奥田頴川に入門する。
陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付、交趾などその作域は幅広い。中国古陶磁への傾倒から、
中国物の写しに独自の世界を開いた。文人画(南画)系統に属する絵画にも秀作が多い。京焼の幕末三名人とされる。
1783 - 1855 江戸時代後期
堅綱系大河内松平家第七代当主 松平信敏
仁阿弥道八 Ninnami Dohachi[陶芸家]別号「法橋」
二代高橋道八
〈二十一親等自然血族〉
京焼、御庭焼を代表する陶工、陶芸家の内の一人。あまりに優れた眼と技巧から天才陶工としての名声を獲得し、文献に記されている京都周辺の藩主、大名、豪商や寺院など以外にも各地の顧客へ調進していたと考えられている。
十一代永楽善五郎(保全)、兄弟子である青木木米、弟である尾形周平と共に幕末京焼の名工として知られ、京焼の幕末三名人とされる。
1842 - 1868 江戸時代末期
堅綱系大河内松平家 松平信璋 実父・松平信敏
沖田総司 Okita Soji[新選組一番隊組長]諱「春政」天然理心流・北辰一刀流
〈二十二親等自然血族〉
九歳の頃、天然理心流の道場・試衛館に入門。若くして才能を見せ、塾頭を務めた。十五歳のとき日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、四代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている。
沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されている。 永倉新八は後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語った。
実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという。沖田の指導を受けた者によれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といい、稽古は相当厳しかったらしく、師範の近藤より恐れられていた。
「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある。
1842 - 1916 江戸時代後期
堅綱系大河内松平家第八代当主 松平舎人
宮川香山 Miyagawa Kozan[陶芸家]真葛焼創始者
〈二十親等自然血族〉
京都の真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造の四男として生まれた。幼名は虎之助。十九歳の時、
父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。
その腕は評判を呼び慶応二年(1866)、二十五歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。
1842 - 1868 江戸時代末期
堅綱系大河内松平家第九代当主 大河内尚一郎 実父・松平舎人
藪明山 Yabu Meizan[工芸家]本名「藪政七」薩摩焼
〈二十三親等自然血族〉
明山の工房では、主に輸出市場向けに高級な薩摩焼を生産していた。薩摩焼という用語は、もともと薩摩地方の芸術的な絵付けが施された磁器を指すために作られた造語であった。
やがて、輸出向けに大量生産された低品質の磁器も含むようになったが、明山は高い芸術的品質の伝統を継承しながら輸出にも成功した芸術家の一人であった。
彼はこの媒体の「王子」とみなされており、今日では彼の作品はコレクターに求められている。
著名人
松平四家主な人物一覧
一部を除き公卿・武将・大名以外の十九世紀(1900)生まれまでの松平四家出自の主な者を記す。
兵法家・剣術家・武術家
西家
小野善鬼(?-1592)剣豪
[流派 一刀流 別名 船頭 門弟 伊東一刀斎]
小野忠明(1569-1628)武将・剣豪
[開祖 小野派一刀流 前名 神子上典膳 役職 徳川将軍家指南役]
坂本龍馬(1836-1867)志士・経営者
[流派 北辰一刀流 本名 坂本直柔 役職 土佐藩士(海援隊)]
山岡鉄舟(1836-1888)剣術家・官僚
[開祖 一刀正伝無刀流 本名 山岡高歩 役職 若年寄格幹事]
北家
千葉周作(1793-1856)武士・剣術家
[開祖 北辰一刀流 本名 千葉成政 関連 剣道殿堂]
京家
中条長秀(?-1384)剣豪
[開祖 中条流平法 号 法印海尋 役職 評定衆]
愛洲久忠(1452-1538)兵法家
[開祖 陰流(剣道の祖) 号 移香斎 弟子 上泉信綱]
塚原卜伝(1489-1571)剣士・兵法家
[開祖 鹿島新當流 本名 塚原高幹 関連 天真正伝香取神道流]
竹内久盛(1503-1595)武将・兵法家
[開祖 古武道竹内流 官位名 中務太夫 本名 垪和久幸]
上泉信綱(1508-1606)兵法家
[開祖 新陰流 官位名 上泉伊勢守 関連 陰流]
柳生宗厳(1527-1606)武将
[開祖 柳生新陰流 号 石舟斎 関連 養生物語]
佐々木小次郎(?-1612)剣客
[開祖 巖流 秘剣 燕返し 関連 巖流島の決闘]
丸目長恵(1540-1629)兵法家
[開祖 タイ捨流兵法 通称 丸目蔵人 師 上泉信綱]
宮本武蔵(1584-1645)兵法家・芸術家[
開祖 二天一流兵法 本名 宮本玄信 作品 『鵜図』など]
斎藤伝鬼房(1550-1587)剣豪・武術家
[開祖 天流剣術 俗名 斎藤勝秀 継承 斎藤法玄]
伊東一刀斎(1560-1653)剣客
[開祖 一刀流剣術 本名 伊東景久 弟子小野善鬼、古藤田俊直他]
東郷重位(1561-1643)武将・剣豪
[開祖 示現流剣術 通称 藤兵衛 役職島津家臣-薩摩藩士]
古藤田俊直(1584頃)剣術家・槍術家
[開祖 唯心一刀流 号 唯心 役職 大垣藩(一刀流剣術・槍術師範)]
薬丸兼陳(1607-1689)剣客
[開祖 薬丸自顕流 号 如水 役職 薩摩藩士]
大国鬼平(1695頃)棒術家
[開祖 九鬼神流 本名 大国重信 合流 高木流]
伊庭是水軒(1649-1713)剣術家
[開祖 心形刀流 本名 深尾秀明 師 志賀如見斎]
近藤内蔵之助(?-1807)剣術家
[開祖 天然理心流 本名 近藤長裕 供養碑 八王子市桂福寺]
平山行蔵(1759-1829)兵法家
[開祖 講武実用流 号 運籌真人 著書『剣説』『剣微』]
佐久川寛賀(1786-1867)武術家
[開祖 唐手 あだ名 唐手佐久川 関連 中国拳法]
横井小楠(1809-1869)武士・儒学者
[流派 新陰流 別称 北条四郎平時存 役職 政治顧問-維新の十傑-参与]
松原忠司(1815-1865)武士
[開祖 北辰心要流柔術 号 柳趙斎 役職 新選組四番隊組長・柔術師範]
武市瑞山(1829-1865)剣術家
[流派 鏡心明智流 通称 武市半平太 役職 土佐藩郷士・土佐勤王党の盟主]
田中新兵衛(1832-1863)武士
[流派 示現流 本名 田中雄平 役職 薩摩藩士(四大人斬り)]
近藤勇(1834-1868)武士
[流派 天然理心流 本名 近藤昌宜 役職 新選組局長-甲陽鎮撫隊隊長]
河上彦斎(1834-1872)武士
[流派 雲弘流 本名 河上玄明 役職 熊本藩士(四大人斬り)]
川路利良(1834-1872)武士・軍人
[流派 直心影流 創設 日本警察 役職 薩摩藩士-内務官僚]
土方歳三(1835-1869)武士
[流派 天然理心流 本名 土方義豊 役職 新選組副長-蝦夷島政府陸軍奉行並]
伊東甲子太郎(1835-1867)武士
[流派 北辰一刀流 初名 大蔵 役職 新選組参謀-文学師範-御陵衛士盟主]
山南敬助(1836-1865)武士
[流派 北辰一刀流 本名 山南知信 役職 新選組隊士]
荒井郁之助(1836-1909)武士
[流派 直心影流 本名 荒井顕理 役職 幕臣-官僚-中央気象台長(初代)]
中岡慎太郎(1838-1867)志士
[流派 鏡心明智流 号 遠山 役職 土佐藩郷士(陸援隊隊長) 関連 薩長同盟]
桐野利秋(1839-1877)武士・軍人
[流派 小示現流 通称 半次郎 役職 薩摩藩士(四大人斬り)-陸軍少将]
岡田以蔵(1838-1865)武士
[流派 直指流 本名 岡田宜振 役職 土佐藩郷士(四大人斬り)]
永倉新八(1839-1915)武士
[流派 心形刀流 本名 長倉載之 役職 松前藩士-新選組隊士]
沖田総司(1842-1868)武士
[流派 天然理心流 本名 沖田房良 役職 新選組一番隊組長・撃剣師範]
森山新五左衛門(1843-1862)武士
[流派 薬丸自顕流 本名 森山永治 役職 薩摩藩士]
斎藤一(1844-1915)武士
[流派 天然理心流 役職 新撰組隊士-警察官(警部) 勲等 勲七等青色桐葉章]
伊庭八郎(1844-1869)武士・剣客
[流派 心形刀流 本名 伊庭秀穎 役職 大御番士-奥詰-遊撃隊]
東恩納寛量(1853-1915)唐手(現・空手)
[中興 那覇手 童名 真牛]
武士・キリシタン
有家監物(1577-1638)キリシタン
[本名 有家時次 役職 一揆軍原城本丸大将 関連 島原の乱]
益田好次(1583-1638)キリシタン
[通称 益田甚兵衛 霊名 ペイトロ 関連 島原の乱]
蘆塚忠右衛門(1583-1638)武将
[本名 蘆塚貞家 役職 一揆軍軍師 関連 島原の乱]
駒木根友房(?-1638)武将
[改名 三会村金作(鉄砲名手) 役職 一揆軍評定衆 関連 島原の乱]
赤星道重(1602-1638)武士
[改名 赤星宗帆 役職 一揆軍指導者(天草十七人衆) 関連 島原の乱]
天草四郎(1621-1638)キリシタン
[本名 益田時貞 霊名 ジェロニモ 役職 一揆軍大将 関連 島原の乱]
森宗意軒(?-1638)キリシタン
[本名 森三左衛門 役職 神司(南木大明神) 関連 島原の乱]
大矢野松右衛門(?-1638)キリシタン
[本名 大矢野作左衛門 役職 浮武者頭(天草十七人衆) 関連 島原の乱]
山田右衛門作(?)キリシタン
[号 祐庵 役職 南蛮絵師-一揆軍副将 関連 島原の乱]
武士・その他
京家
沢村吉重(1560-1650)武士
[別名 沢村大学 愛刀 流水剣 役職 若狭高浜領主-肥後細川家臣 関連 島原の乱]
野村良昌(江戸時代中期)武士
[< 流派 示現流 家格 小番 関連 薩摩藩にモウソウチクの輸入]
栗本鋤雲(1822-1897)武士・外交官
[官位 安芸守 通称 瀬兵衛 役職 箱館奉行-ジャーナリスト 主著書 匏庵遺稿]
吉田松陰(1830-1859)武士・思想家・教育家
[本名 吉田矩方 号 二十一回猛士 役職 山鹿流兵学師範 主著書 講孟余話]
福澤諭吉(1835-1901)武士・啓蒙思想家・教育家
[本名 福澤範 雅号 三十一谷人 創設 慶應義塾大学 主著書 西洋事情]
高杉晋作(1867-1839)武士
[創設 諸隊 所属 長州藩士 活動 倒幕運動]
政治家・軍人
西家
大村益次郎(1825-1869)政治家・軍人・医師
[官位 贈従二位 別名 村田良庵 役職 長州藩士(維新の十傑)-兵部大輔]
北家
広沢真臣(1834-1871)政治家
[官位 贈従二位 別名 波多野金吾 役職 長州藩士(維新の十傑)-民部官副知事-参議]
京家
岩倉具視(1825-1883)公家・政治家
[官位 贈太政大臣 雅号 対岳 役職 外務卿兼右大臣(維新の十傑)]
西郷隆盛(1828-1877)政治家・軍人
[階級 陸軍大将 号 南洲 役職 薩摩藩下級藩士(維新の三傑)-教育者]
大久保利通(1830-1878)政治家
[官位 贈右大臣 号 甲東 役職 薩摩藩士(維新の三傑)-大蔵卿-内務卿(代理)]
木戸孝允(1833-1877)政治家
[官位 贈従一位 別名 桂小五郎 役職 長州藩士・勤王志士(維新の三傑)-内務卿(代理)-文部卿]
前原一誠(1834-1876)政治家
[官位 参議 通称 彦太郎 役職 長州藩士(維新の十傑) 関連 萩の乱]
江藤新平(1834-1874)政治家・官吏
[官位 贈正四位 号 白南 役職 佐賀藩士・権大参事(維新の十傑)-司法卿-参議 関連 萩の乱]
小松清廉(1835-1870)政治家
[官位 玄蕃頭 通称 帯刀 役職 薩摩藩家老(維新の十傑)]
板垣退助(1837-1919)政治家・軍人
[階級 土佐藩陸軍総督 敬称 国会を創った男 役職 土佐藩士-内務大臣 関連 帝国議会、理神論]
山縣有朋(1838-1922)政治家
[階級 元帥陸軍大将 通称 萩原鹿之助 役職 内閣総理大臣(3代9代) 関連 無鄰菴問題]
伊藤博文(1841-1909)政治家
[政党 立憲政友会 改名 春輔 役職 内閣総理大臣(初代5代7代10代) 関連 大日本帝国憲法]
森有礼(1847-1889)政治家・外交官・思想家・教育者
[称号 贈正二位 役職 文部大臣(初代) 創設 一橋大学(商法講習所) 提唱 国語外国語化論]
三条輝照(1848-1882)公卿・政治家
[官位 太政大臣兼左大臣 役職 内務卿 創設 内務省、東京大学 関連 大河内輝声]
大河内輝聲(1848-1882)大名・政治家
[官位 右京亮 号 源桂閣 役職 上野国高崎藩主-知藩事 関連 三条輝聲]
大山巌(1842-1916)政治家
[階級 元帥陸軍大将 雅号 瑞岩 役職 大警視-文部大臣(兼任)-陸軍大臣-内大臣]
鳥尾小弥太(1848-1905)軍人・政治家
[階級 陸軍中将 本名 鳥尾敬高 役職 貴族院議員-枢密顧問官]
松川敏胤(1859-1928)陸軍軍人
[階級 陸軍大将従二位勲一等功二級 関連 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』]
松岡駒吉(1888-1958)政治家・労働運動家
[所属 労働者団体友愛会 役職 第三十九代衆議院議長・世界連邦日本国会委員会(初代会長)・日本使節団労働者側代表委員]
信仰・教育
京家
角行(1561-1619)崇拝者
[開祖 富士講 属名 長谷川左近藤原邦武 著書『三十一日の巻』]
二宮尊徳(1561-1619)経世家・農政家・思想家
[提唱 報徳思想 諱 金治郎]
ロレンソ了斎(1526-1592)日本人イエズス会員[名説教家]
大国隆正(1793-1871)国学者・神道家
[別姓 野之口 号 葵園・佐紀乃屋]
黒住宗忠(1780-1850)神道家
[開祖 教派神道黒住教 改名 左京宗忠 参考文献『生命のおしえ―民族宗教の聖典・黒住教』]
福沢諭吉(1835-1901)啓蒙思想家・教育家
[創設 慶應義塾大学 諱 範 揮毫の落款印 明治卅弐年後之福翁 雅号 三十一谷人]
新島襄(1843-1890)教育者・宗教家
[創設 同志社大学 出身校 アマースト大学 アンドーヴァー神学校]
倉橋惣三(1882-1955)教育者
[学位 文学士 研究分野 教育学(幼児教育学、保育学)・心理学(児童心理学) 著書 『幼稚園雑草』]
軍学者・兵学者
京家
山鹿素行(1622-1685)儒学者・軍学者
[始祖 山鹿流兵法・古学派 諱 高祐 名言「常の勝敗は現在なり」]
儒学者・哲学者
京家
室鳩巣(1658-1734)儒学者
[号 鳩巣・滄浪 通称 駿台先生]
藤原惺窩(1561-1619)儒学者
[旧姓 冷泉 著作 『寸鉄録』『千代もと草』]
林鵞峰(1618-1680)儒学者
[創設元 昌平坂学問所 授与 弘文院学士号 諱 春勝・恕 代表作『日本国事跡考』]
深田精一(1802-1856)儒学者
[所属 金鉄党 号 百信庵 著書『黙黙余声』『煎茶訣(せんちゃけつ)』]
寺門静軒(1796-1868)儒学者
[諱 良 著書『江戸繁昌記』]
西田幾多郎(1870-1945)哲学者
[創始 京都学派 学位 文学博士 著書『善の研究』]
蘭学者・医者
京家
田代三喜(1465-1544)医師
[称 医聖 中興 中医学著書 『三帰廻翁医書』]
曲直瀬道三(1507-1594)医師
[称 医聖 諱 正盛 著書 『啓迪集』]
永田徳本(1513-1630)医師
[称 医聖 著書 『梅花無尽蔵』]
御薗夢分斎(1559-1616)鍼医
[開祖 夢分流鍼術 著書 『鍼道秘訣集』]
向井元升(1609-1677)本草学者・医師
[諱 元松 著書 『庖厨備用倭名本草』]
香川修徳(1683-1755)医師・儒学者
[号 修庵 提唱 儒医一本論 著書 『一本堂行余医言』]
杉田玄白(1733-1817)蘭学医
[主催 私塾天真楼 号鷧齋 職位 幕府小浜藩医 著書 『解体新書』]
桂川甫周(1751-1809)医師・蘭学者
[地位 外科法眼 諱国瑞 職位 幕府奥医師 著書 『顕微鏡用法』]
華岡青洲(1760-1835)外科医
[諱震 通称 雲平 記録 全身麻酔(世界初)]
林玄仲(1795-1878)医師
[創設 永代義倉講金]
伊藤圭介(1803-1901)本草・蘭・博物・医学者
[称号 理学博士 創設 名古屋大学 名古屋県(創基 仮病院・仮学校)
造語雄しべ・雌しべ・花粉 著書『国立情報学研究所収録著書』]
緒方洪庵(1810-1863)武士・医師・蘭学者
[創設 大阪大学(適塾) 諱 惟章 号 華陰 幕府 足守藩士 著書 『病学通論』]
野口英世(1876-1928)医師・細菌学者
[学位 医学博士・理学博士 初名 清作 論文「蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ」]
文学者
西家
大村由己(1536-1596)学者・著述家
[職位 御伽衆 著書 『天正記』]
契沖(1640-1701)僧・国学者・歌人
[宗派 真言宗 俗姓 下川氏 字 空心 著書 『厚顔抄』]
京家
下河辺長流(1627-1686)歌人・和学者
[諱 共平 注釈書 『歌仙抄』 系統 家頼流]
荷田春満(1669-1736)国学者・歌人
[称 国学の四大人 通称 羽倉斎宮 著書 『荷田全集』]
島村抱月(1871-1918)文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人
[本名 瀧太郎 著書 『新美辞学』『滞欧文談(英国現在の文芸)』『乱雲集』]
阿部眞之助(1884-1964)ジャーナリスト・政治評論家・随筆家
[筆名 野山草吉 職位 日本エッセイスト・クラブ初代理事長・第九代NHK会長]
直木三十五(1891-1934)小説家・脚本家・映画監督
[本名 植村宗一 著書 『心中きらら阪』『仇討十種』『合戦』]
宮沢賢治(1896-1933)詩人・童話作家
[正字 宮澤賢治 著書 『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』]
数学者
京家
関孝和(1640-1708)和算家(数学者)
[幕府 西の丸御納戸組頭 通称 新助 号 自由亭 功績 傍書法・点竄術]
商人・茶人
京家
村田珠光(1422-1423)茶人・僧
[創始 わび茶 所持 茶器「珠光茶碗」「投頭巾茶入」など 関連 古市播磨法師宛一紙]
志野宗信(1443-1522)商人
[創始 志野流香道 所持 名香「蘭奢待」香炉「都鳥」 名香の定 六十一種名香]
武野紹鴎(1502-1555)堺豪商・茶人
[号 一閑斎 所持 茶器「松島茶壷」絵画「玉澗筆波」 業種 鉄砲・火薬製造]
今井宗久(1520-1593)堺商人・茶人
[称 天下三宗匠 本名 今井兼員 所持 茶器「茄子茶入」水墨画「波図」 役職 大黒庵主]
千利休(1522-1591)茶人・商人
[称 天下三宗匠 茶道流派 千家(祖) 完成 わび茶(草庵の茶) 称 茶聖 所持 茶器「禿」 業種 御用商人]
津田宗及(?-1591)堺商人・茶人
[称 天下三宗匠 日記 「宗及茶湯日記他会記」 別名 天王寺屋宗及 業種 貿易商人]
島井宗室(1539-1615)博多商人・茶人
[称 博多の三傑 本名 島井茂勝 所持 茶器「楢柴肩衝」 業種 酒屋・金融業]
千道安(1546-1607)茶人
[茶道流派 千家 号 可休斎 門下 金森可重・桑山宗仙]
神屋宗湛(1551-1635)博多商人・茶人
[称 博多三傑 所持 茶器「博多文琳」 別名 本名貞清]
角倉了以(1554-1614)堺豪商
[称 水運の父 本名 角倉光好 業種 朱印船貿易]
大賀宗九(1561-1630)博多商人
[称 博多の三傑 本名 大賀信好 業種 武器商人]
鴻池直文(1571-1651)豪商
[創始 鴻池財閥 別名 山中幸元 業種 酒造業]
河村瑞賢(1618-1699)豪商
[本名 河村義通 政商 航路開拓や治水工事の指揮 業種 材木屋]
三井高利(1622-1694)商人(三井中興の祖)
[創始 三井財閥 関連 三井十一家 業種 小間物屋・呉服業]
長谷川治郎兵衛(1635頃)伊勢商人(松阪の豪商)
[創業 丹波屋 関連 御為替組]
蔦屋重三郎(1750-1797)版元
[号 耕書堂 本姓 喜多川 俗称 蔦重 業種 黄表紙・浮世絵などの出版]
小津清左衛門(1653頃)伊勢商人(松阪の豪商)
[創業 和紙問屋]
菊池海荘(1799-1881)豪商・漢詩人・海防論者
[本名 菊池保定 役職 紀州藩地士 業種 砂糖問屋 主詩集 秀餐楼初集]
白石正一郎(1812-1880)商人
[本名 白石資風 号 橘円 業種 萬問屋(荷受問屋)]
下村善太郎(1827-1893)商人・政治家
[役職 初代前橋市長 称号 前橋市名誉市民 業種 生糸貿易商]
鹿島重好(1830-1892)商人・政治家
[役職 島根県会議員 号 橘円 業種 質屋 醤油・砂糖・荒物の商い]
実業家・発明家
京家
田中久重(1799-1881)発明家
[創業 芝浦製作所(現 東芝) 称「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」]
岡橋治助(1826-1913)実業家
[創業 第三十四国立銀行 役職 第三十四国立銀行頭取 天満紡績社長 業種 木綿問屋 金融業]
木村半兵衛(1833-1886)豪商・実業家
[役職 栃木県会議員 第四十一国立銀行頭取 業種 織物の買継商 関連 日本鉄道]
岩崎弥太郎(1835-1885)実業家
[創設 三菱財閥(現 三菱グループ) 栄典 勲四等旭日小綬章]
大橋佐平(1836-1901)実業家
[創業 博文館 業種 流通・情報・出版 創刊 「北越新聞」「越佐毎日新聞」]
安田善次郎(1838-1921)実業家
[創設 安田財閥 設立 安田銀行・明治安田生命保険 出身 越中国富山藩 授与金杯一組]
大倉喜八郎(1837-1928)武器商人・実業家
[号 鶴彦 創設 大倉財閥、大倉商業学校(東京経済大学) 設立 鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場]
渋沢栄一(1840-1931)実業家
[雅号 青淵 設立貢献 第一国立銀行・東京商法会議所・東京証券取引所 称 日本資本主義の父]
伊藤忠兵衛(1842-1903)商人・実業家
[創始 伊藤忠財閥 創業 伊藤忠商事・丸紅]
山田安民(1868-1943)実業家・薬剤師
[創業 ロート製薬 創設 私立奈良盲唖学校 肩書き 山田安民薬房代表]
安部幸兵衛(1847-1919)商人・実業家
[組織 横浜舶来砂糖貿易引取組合 関連設立 磐城セメント 横浜製糖 塩水港精糖 日清紡績など]
福原有信(1848-1924)実業家
[創業 資生堂 他職 第三代日本薬剤師会会長]
村山龍平(1850-1933)実業家・政治家
[創業 朝日新聞社(社長) 他職 衆議院議員・貴族院議員]
山口仙之助(1851-1915)実業家
[創業 富士屋ホテル 結成 大日本ホテル業同盟会]
大島宇吉(1852-1940)実業家・政治家
[創業 新愛知(現 中日新聞社) 他職 愛知県会議員・衆議院]
鳥井駒吉(1853-1909)実業家・酒造家
[創業 有限責任大阪麦酒会社(現在 アサヒビール) 他職 堺県議会議員・大阪府議会議員]
右近権左衛門(1853-1916)実業家
[役職 日本海上保険・朝鮮電気・大阪火災海上運送保険各社長 幼名 吉太郎]
御木本幸吉(1858-1954)実業家
[創業 御木本真珠店(現 ミキモト) 称 真珠王]
山内房治郎(1859-1940)実業家・工芸家
[創設 山内房治郎商店(現 任天堂) 役職 元任天堂取締役社長 出身 京都府京都市 関連 花札・トランプ]
松方幸次郎(1866-1950)実業家・政治家
[創業 川崎造船所 他職 衆議院議員(日本進歩党)・美術収集家]
米井源次郎(1861-1919)実業家
[創設 麒麟麦酒(創設者の一人) 創業 米井商店(現 ヨネイ)、明治護謨製造所(現 明治ゴム化成)]
森永太一郎(1865-1937)実業家
[創業 森永製菓 信仰 キリスト教]
金森又一郎(1869-1946)実業家
[創業 大阪電気軌道・参宮急行電鉄(現 近畿日本鉄道)]
相馬半治(1873-1937)実業家
[創業 明治製糖・明治製菓(創立者の一人) 称 砂糖業界四巨頭の一人]
小林一三(1873-1957)実業家
[号 逸翁 創業 阪急東宝グループ(現 阪急阪神東宝グループ)]
大倉和親(1875-1955)実業家
[創業 東洋陶器(現 TOTO) 他職 伊奈製陶(後 INAX、現 LIXIL)社長・大倉陶園主・森村組取締役]
鳥井信治郎(1879-1962)実業家
[創業 サントリー 著作 『一億一体天祐神助を祈れ』]
鮎川義介(1880-1967)実業家・政治家
[創始 日産コンツェルン 他職 満洲重工業開発株式会社総裁・貴族院議員・帝国石油株式会社社長・石油資源開発株式会社社長・参議院議員]
五島慶太(1882-1959)実業家・政治家・官僚
[創業 東急電鉄の事実上の創業者・東映 異名 強盗慶太 名誉 長野県青木村名誉村民]
正力松太郎(1885-1969)実業家・治家
[創業 日本テレビ放送網(初代社長) 称 読売中興の祖]
黒澤酉蔵(1885-1982)実業家・酪農家・政治家・教育者・環境運動家
[創業 北海道製酪販売組合連合会(現 雪印メグミルク) 創設北海道酪農義塾(現 酪農学園大学)]
美土路昌一(1886-1973)ジャーナリスト・実業家
[号 春泥 創業 全日本空輸(初代社長) 他職 朝日新聞社社長]
早川徳次(1893-1980)実業家・発明家
[創業 シャープ 発明 バックル「徳尾錠」]
石橋正二郎(1889-1976)実業家
[創業 ブリヂストン 関連設立 朝鮮タイヤ工業(現 ハンコックタイヤ)]
前田久吉(1893-1986)実業家・政治家
[創業 日本工業新聞(現 産経新聞) 創設 東京タワー 他職 元参議院議員]
松下幸之助(1894-1989)実業家・発明家・著述家
[創設 松下電器産業・PHP研究所・松下政経塾 異名 経営の神様 出身 和歌山県海草郡]
豊田喜一郎(1894-1952)経営者・技術者
[創業 トヨタ自動車 栄典 勲四等瑞宝章]
菊池武範(1895-1975)実業家
[創業 タイガー魔法瓶 栄典 勲五等双光旭日章受章]
技術者
北家
松田重次郎(1875-1952)エンジニア・実業家
[創業 マツダ]
京家
八板金兵衛(1502-1570)刀鍛冶
[業種 刀鍛冶 鉄砲鍛冶]
高天神兼明(1531-1614)刀工
[改名 虎明]
堀川国広(1531-1614)刀工
[始祖 堀川派 代表作 太刀 銘 国広]
埋忠明寿(1558-1631)刀工
[始祖 新刀鍛冶 代表作 太刀 銘山城国西陣住人埋忠明寿]
鍵屋弥兵衛(江戸時代中期)花火師
[創始 玩具花火 屋号 鍵屋 出身 大和]
山葉寅楠(1851-1916)オルガン職人
[創設 日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社) 授与 緑綬褒章]
河合小市(1886-1955)技術者・実業家
[創設 河合楽器製作所(初代社長) 技能 ピアノ製造技師]
鈴木道雄(1887-1982)大工・技術者・実業家・政治家
[創業 鈴木自動車工業(初代社長) 他職 鈴木式織機株式会社社長・静岡県浜松市議会議員]
芸術家
北家
幸阿弥長晏(1569-1610)蒔絵師
[始祖 幸阿弥派 作品 高台寺霊屋蒔絵厨子]
高橋道八(初代)(1740-1804)陶工
[諱光重 号 松風亭空中 作品 銹絵雪笹文大鉢(仁阿弥道八)]
京家
如拙(室町時代中期)画僧
[祖 漢画[唐絵] 道号 大巧 代表作品 瓢鮎図]
土佐光信(1434-1525)大和絵絵師
[始祖 土佐派 官位 刑部大輔 作品 十王図]
長谷川等伯(1539-1610)絵師
[始祖 長谷川派 号 信春 作品 松林図屏風]
夢窓疎石(1275-1351)絵師
[始祖 夢窓派 宗教臨済宗(禅僧) 作品庭家・漢詩人・歌人 夢窓疎石]
雪村(1492-1589)画僧
[所属 夢窓派 別称雪村周継 作品 風濤図]
狩野永徳(1543-1590)絵師
[始祖 狩野派 作品 聚光院障壁画]
海北友松(1533-1615)絵師
[始祖 海北派 号 如切斎 作品 菊慈童図屏風]
雲谷等顔(1547-1618)画家
[始祖 雲谷派 元名 原直治 作品 山水図屏風(夏冬山水図)]
小堀政一(1579-1647)大名・茶人・建築家
[家祖 政一 別名 小堀遠州 作品 庭家・書家 小室藩主]
葛飾北斎(1760-1849)浮世絵師
[始祖 葛飾派 作品冨嶽三十六景]
長次郎(生没年不詳)陶工
[創始 楽焼 初代 樂吉左衛門家 姓 田中 諱 長祐]
野々村仁清(江戸時代初期)陶工
[通称 清右衛門 作品 色絵藤花茶壺]
沼波弄山(1718-1777)陶工
[始祖 萬古焼 本名 沼波五左衛門重長]
酒井田柿右衛門(1596-1666)陶工[有田焼 柿右衛門様式]
小田海僊(1785-1862)南画家
[諱 羸 通称 良平 字 巨海 作品 仙山春暁図]
山口雪渓(1648-1732)漢画系の絵師
[諱 宗雪 別号 梅庵 作品 桜楓図屏風]
宇喜多一蕙(1795-1859)大和絵の絵師
[本姓 豊臣 諱 可為 別号 一蕙斎 作品 白川尚歯会之図]
吉田公均(1804-1876)四条派絵師
[通称 平吉 別号 田均 作品 老松図]
三浦梧門(1808-1860)南画家
[長崎南画三筆 諱 惟純 字 宗亮 別号 秋声 通称 総助 作品 雪景山水図]
江馬天江(1825-1901)書家・漢詩人・医師
[本姓 下阪 諱 聖欽 字 正人 作品 賞心賛録]
石田幽汀(1721-1786)絵師
[始祖 狩野派 本名 石田守直 作品 醍醐寺三宝院襖絵]
木下逸雲(1800-1866)南画家
[長崎南画三筆 諱 相宰 別号 如螺山人 室号 養竹山房 作品 秋景山水図]
田中訥言(1767-1823)絵師
[始祖 復古大和絵 本名 田中敏 字 虎頭 別号 痴翁、得中など 作品 若竹鶺鴒図屏風]
富岡鉄斎(1837-1924)文人画家・儒学者・教員
[通称 猷輔 別号 鉄人 作品 阿倍仲麻呂明州望月図]
長谷川等伯(1539-1610)絵師
[始祖 長谷川派 作品 松林図屏風]
山中静逸(1822-1885)書家・政治家
[諱 献 別号 信天翁 作品品 水墨山水図]
藤本鉄石(1816-1863)志士・書画家
[諱 真金 通称 学治 別号 取菊老人・都門売菜翁 作品 山水図巻]
与謝蕪村(1716-1784)俳人・文人画家
[通称 寅 雅号 謝寅 作品 夜色楼台図]
沼波弄山(1718-1777)陶芸家
[始祖 萬古焼 本名 沼波五左衛門重長 作品 江戸萬古]
池大雅(1723-1776)文人画家・書家
[通称 池野秋平 雅号 霞樵 作品 楼閣山水図]
木村蒹葭堂(1736-1802)文人・文人画家・本草学者・蔵書家・収集家
[通称 政三郎 雅号 蒹葭堂 作品 「米法山水図」]
貫名菘翁(1778-1863)儒学者・書家・文人画家
[姓 吉井 通称 蒹葭堂 別号 海屋 作品 「老松図」]
日根対山(1813-1869)文人画家
[諱 盛長 字 成言・小年 別号 酔墨庵 作品 「高嶺密雪図」]
田能村直入(1814-1907)文人画家
[諱 はじめ蓼 字 はじめ虚紅 通称 小虎 作品 「花鳥図」]
鉄翁祖門(1791-1872)南画家[長崎南画三筆 諱 祖門 道号 鉄翁 別号 蓮舟人 作品 「蘭図」]
原在中(1750-1837)絵師
[始祖 原派 本名 原致遠 字 子重 別号 臥遊 作品 「百鬼夜行図屏風」]
淡海槐堂(1823-1879)勤王家・文人
[本姓 下阪 諱 緝 別号 重涂 作品 「梅椿図」]
呉春(1752-1811)絵師
[始祖 四条派 本名 松村豊昌 別号 月溪、允白、孫石など 作品「柳鷺群禽図」]
円山応挙(1733-1795)絵師
[始祖円山派 旧字体 圓山應擧 作品 「雪松図」]
歌川国貞(1786-1865)浮世絵師
[本名 角田庄五郎 所属歌川豊国門人 作品 「江戸名所百人美女」]
渡辺崋山(1793-1841)武士・画家
[諱 定静 著書『初稿西洋事情書』 作品 「亀台金母図」 関連蛮社の獄]
尾形乾山(1663-1743)陶工・絵師
[諱 惟充 号 深省 作品 「金銀藍絵松樹文蓋物」]
堂本印象(1891-1975)日本画家
[所属 帝室技芸員・日本芸術院会員 本名 堂本三之助 作品 「訶梨帝母」]
田崎草雲(1815-1898)南画画家
[諱 芸 作品 「絹本著色蓬莱山宮図」]
今尾景年(1845-1924)日本画家
[別号 三養 流派 四条派 作品 「芦岩群亀図襖」「深山渓流図」「四時花木群虫図」]
鈴木松年(1848-1918)日本画家
[諱 謙 作品 「八岐の大蛇退治図」「山水図屏風」「問安黙頷之図」]
久保田米僊(1852-1906)日本画家・画報記者
[字 簡伯 作品 「孟母断機図」「屋上月」「長刀鉾図」]
小室翠雲(1874-1945)日本画家
[所属 正派同志会 諱 貞次郎 作品 「絹本著色蓬莱山宮図」]
木島櫻谷(1877-1938)日本画家
[本名 木島文治郎 流派 四条派 作品 「野猪図」「咆哮」「猛鷲図」]
竹久夢二(1884-1934)画家・詩人
[呼称 夢二式美人 作品 「夢二画集 春の巻」「夢二画集 夏の巻」「小曲絵本『三味線草』」]
歌人
京家
宗祇(1421-1502)連歌師
[号 自然斎 本姓 飯尾 著作 筑紫道記]
宗長(1448-1532)連歌師
[号 柴屋軒 著作 那智篭]
宗牧(?-1545)連歌師
[号 孤竹斎 姓 谷 著作 矢島小林庵百韻]
荒木田守武(1473-1549)連歌師
[祖 俳諧 著作 守武千句]
宗碩(1474-1533)連歌師
[号 月村斎 著作 佐野のわたり]
宗養(1526-1563)連歌師
[号 無為・半松斎 姓 谷 著作 石山四吟千句]
里村紹巴(1525-1602)連歌師
[号 臨江斎・宝珠庵 著作 連歌至宝抄]
北村季吟(1625-1705)歌人・俳人・和学者
[諱 静厚 別号 湖月亭 著作『新続犬筑波集』]
松尾芭蕉(1644-1694)俳諧師(俳聖)
[俳号 芭蕉 確立 蕉風 著作 おくのほそ道]
香川景樹(1784-1863)歌人
[始祖 桂園派 号 桂園・一月楼 提唱 調の説]
氷室長翁(1784-1863)神主・歌人
[所属 桂園派(歌人) 役職 尾張国津島牛頭天王社神主 著書『芳野日記』]
内山真弓(1786-1852)歌人
[所属 桂園派 諱 国章 別号 聚芳園 稿本 歌学提要]
総合芸術
京家
安楽庵策伝(1554-1642)僧
[祖 安楽庵流茶道・落語 号 醒翁 俗名 平林平太夫]
檜垣本栄次(生没年不詳)能楽笛役者
[所属 桧垣本猿楽座 祖 能楽笛方全流儀の芸 通称 笛彦兵衛]
檜垣本吉久(1483-1518)能楽小鼓役者
[所属 桧垣本猿楽座 通称 与五郎]
中村勘三郎(初代)(1598-1658)歌舞伎役者
[創始 中村座 江戸三座]
守田勘彌(?-1665)歌舞伎役者
[創始 森田座 改名 新富座 江戸三座]
市川團十郎(初代)(1660-1704)歌舞伎役者
[屋号 成田屋 名跡 市川團十郎始祖 ]
美少年
京家
名古屋山三郎(1572-1603)武将
[称 天下三美少年 始祖 歌舞伎 家臣 蒲生氏郷-森忠政 関連 不破万作]
浅香庄次郎(生没年不詳)武将
[称 天下三美少年 家臣 織田信雄-前田利常 関連 名古屋山三郎隼人]
不破万作(1578-1595)小姓
[称 天下三美少年 家臣 蒲生氏郷 関連 市川團十郎]
太夫
北家
吉野太夫(1606-1643)太夫
[二代目 本名 松田徳子 称 寛永三名妓 特徴 才色兼備]
不明
高尾太夫(1641-?)太夫
[二代目 称 寛永三名妓 関連 月岡芳年『月百姿』浮世絵のモデル]
夕霧太夫(1651?-1678)太夫
[二代目 称 寛永三名妓 特徴 姿が美しく芸事に秀でた]
建築家
京家
中井正清(1565-1619)大工
[役職 棟梁 作品 知恩院御影堂・二条城所々・江戸城 備考 建築士兼る(建築設計・工事監理・建築積算)]
辰野金吾(1854-1919)建築家・工学博士
[役職 帝国大学工科大学学長-建築学会会長 作品 東京駅・日本銀行本店・奈良ホテル 呼称 辰野堅固]
伊東忠太(1867-1954)建築家・建築史家
[号 紅雲 職位東京帝国大学名誉教授 称号 正三位・勲二等瑞宝章・工学博士 作品 橿原/平安神宮]
庄屋
京家
吉松卓蔵(1838-1929)庄屋
[職位 初代福島村長 関連 戊申の役、西南戦争]
僧
西家
万里集九(1428-?)禅僧・歌人
[宗派 一山派(太清宗渭 法系) 著書 『静勝軒記』 俗姓 速水氏 寺院 東福寺-相国寺]
快川紹喜(1502-1582)僧
[宗派 臨済宗妙心寺派 国師号 大通智勝国師 俗姓 土岐氏]
北家
尭慧(1527-1609)僧
[宗派 浄土真宗高田派 法号 光徳院 実父 飛鳥井雅綱(権大納言)]
桂菴玄樹(1427-1508)僧
[開祖 臨済宗薩南学派 著書 『家法倭点』]
京家
一休宗純(1400年代頃)僧・詩人
[宗派 臨済宗大徳寺派 著書 『七仏通誡偈』 関連 説話のモデル]
太原雪斎(1496-1555)武将・政治家・僧侶
[宗派 臨済 属性 今川家臣 諱 崇孚]
北高全祝(1507-1587)禅僧
[宗派 曹洞宗 別名 法興 寺院 雲洞庵]
英俊(1518-1596)僧侶
[宗派 法相宗 院号 長実房 通称 多聞院英俊 寺院 興福寺多聞院主]
春屋宗園(1529-1611)僧
[宗派 臨済宗 別号 一黙子 寺院 大徳寺住職]
天海(1536-1643)僧
[宗派 天台宗(大僧正) 尊号 南光坊 院号 智楽院 寺院 寛永寺]
安国寺恵瓊(1537-1599)武将・外交僧
[宗派 臨済宗東福寺派 寺院 安芸安国寺]
顕如(1543-1592)僧
[宗派 浄土真宗 院号 信樂院 別名本願寺光佐 寺院 大坂本願寺住職]
以心崇伝(1569-1633)僧
[宗派 臨済宗 別名金地院崇伝 寺院 南禅寺-福厳寺-禅興寺-建長寺-金地院 著書 『本光国師日記』]
沢庵宗彭(1573-1646)僧
[宗派 臨済宗 号東海・暮翁 寺院 大徳寺-芳徳寺-萬松山東海寺 著書 『不動智神妙録』]
江月宗玩(1574-1643)僧
[宗派 臨済宗 諡号 大梁興宗禅師 寺院 大徳寺住職)
円空(1632-1695)修験僧・仏師・歌人
[宗派 天台宗 作品 「円空仏」木彫りの仏像)
良寛(1758-1831)僧
[宗派 曹洞宗 号 大愚 諱栄蔵]
格闘家
北家
ソラキチ・マツダ(1859-1891)力士・プロレスラー
[相撲 伊勢ヶ濱部屋所属 本名 松田幸次郎 称 日本人初のプロレスラー 称号ミドル級チャンピオン]
京家
渡辺勇次郎(1889-1956)プロボクサー
[創設 日本拳闘倶楽部 称 ボクシングの父 称号アメリカ太平洋岸4回戦王]
本姓
松平四家
本姓について、賜姓を賜る時期から、松田頼盛から頼済までは
「藤原北家閑院流徳大寺流庶流」になると想定されるが、
頼済流の島津家が賜姓として「松平」を将軍家から賜っていることから、
武家に関して、松田家の出自が全て松平四家の本姓となり、
公家もそれに準じて松平四家の本姓となる。
秀頼流/秀経流 桓武平氏流 → 松平西家
頼行流 藤原北家四条流 → 松平北家
頼邦流 藤原北家四条流 → 松平東家
嫡流 藤原北家閑院流 → 松平京家
例えば、西家である「秀頼流」「秀経流」は、
「松平西家」であり、秀頼、秀経は、「桓武平氏流」となり、
家の総称で「松平西家」と呼び、あくまでも家の名称である。
本姓は、次の代の貞秀は「松平西家秀頼流」、清定は「松平西家秀経流」となる。
武家の場合
現状は、西家や北家、東家の場合は、
流派が明らかでないので各家の始まりである次となる。
「松平西家秀頼流庶流」「松平西家秀経流庶流」
「松平北家頼行流庶流」「松平北家直頼流庶流」
「松平東家頼邦流庶流」
京家の場合は、全ての流派が明確に分かれていることから、
流派が明確でない場合は、「松平京家流庶流」とする。
例として、奈古野家の本姓は次になる。
「松平京家信頼流毛利氏庶流」
また、北条早雲の後裔にある北条家は北条早雲が北条氏の始祖であるため、
頼済流の本流であり、「松平京家頼済流嫡流」となる。
公家の場合
立入家は、現状系図が明確なので、「松平西家秀興流」であるが、
公家の場合、松平西家から初めの分家として「立入」を号した場合、
表記は、「松平西家立入流」となる。
無論、「松平西家秀興流」でも間違いはない。
基本、分家した家祖の趣旨や結果的な要素で定められると考える。
分家がある場合は本家と区別をつけるため、
本家が「松平西家立入流嫡流」となり、
分家が「松平西家立入流庶流」となる。
どのような括りで分家したかによりその流派の名称や、
本家の嫡流や支流、庶流の本姓が決まる。
藤原氏などに倣い、松平四家の本姓を定めるのは、
第三十一代松田宗家伝承者の至輝の仕事である。
以上を踏まえ、嫡流の頼通の本姓は「松平京家頼勝流」であり、
頼盛嫡流の総称が「松平京家」である。
「松平京家鹿苑寺流嫡流」は、信綱後裔の三条始祖の信綱からとなり、
吉田藩大河内家は信綱から直下の分家となるため、
「松平京家鹿苑寺流」の羽林家となる。
また「松平京家鹿苑寺流支流」と表記しても同じである。
このことから三条信綱は、鹿苑寺流の祖になる。
支流と庶流の違いは定かではないが、支流は本家を支える意味で共存し、
庶流は本家に囚わられない独立した家柄であると考える。
子孫
現代に関する子孫について
「至輝」の項目で取り上げた、喫茶店に関して、
喫茶店の始祖とされる可否茶館の創業者が「滝沢信夫」と言う人物で、
松田家出自であると考えられるが、情報が不十分で証がない以上「かも知れない」で止まる。
親の関連付けと、愛が有る無いは因果関係はないが、祖を示す関連付けにより、
不自然な環境がつくられ、愛が失われたのだから、全ては無鄰菴に凝縮されている。
今回は、話の流れで可否茶館の創業者を取り上げたのだが、読み方や漢字がそれらしければ、
全てが疑わしくなり、何故この名前はそうでこの名前は違うかなど、限りがないので、
現状は近代的なものは基本私からは触れない。
当然、近代的なものは個人の事情があり、それが見えない以上リスクが伴うため、
無闇に無許可には取り上げられない。
判別材料として、現代に存命の人ならば、五親等乃至は、
六親等以上の家系図と家紋、祖の職業が明確であることが望ましい。
時代を言えば、江戸時代末期から明治時代初期。
無論理想は、松平四家の出自元に辿り着くことであるが、
本質はそれを想像できることにある。
現代においては、メディアの発達と共に、それに影響され、
名前や独自が携わる内容などは、容易に重なる可能性が高くなり、
より古い情報の方が信憑性が高く、重要と捉えている。
またその情報から、ただ読み方や漢字が同じだけではなく、
系図の全体を通して、何か祖の意図した関連された内容が望ましい。
そのような家系は管理行き届き祖を大切にしている上、
証があるのだから、正式に松平四家の出自と言える。
当然、戦国時代から時が流るほど、男系や女系と多くの血筋が分岐し、
限りがなく、私がそれらを探究する義務はない。
鼠小僧を一例として、時にそのような身分に落ちることもあり、
全てにおいて、管理はできない上、敢えて鼠小僧を取り上げる必要もなく、
取り上げることにより、治安悪化の可能性もないとは言えない。
少なくとも時代的に輝聴、輝照、輝鋤までは全くそれには触れていない。
それ故、近代にて何やら関連づけられているのは、宗家の意向であるかは疑わしい。
何故なら、盗賊を美化するのと変わりないからであり、
政治的観点から考えれば、あり得ない。
出自の元から遠ざかるほど、様々な血縁関係が入り混じるのだから、
道筋が明確ではない以上、もはや、それを松平四家の出自と言うべき
道理と捉えるのは難しいと考える。
また、著名な方の中には個人的に教えてほしいであったり、
知った後で検討後公表したいと思う方、様々思惑が生じると予想される故に、
その多くは、個人の心に委ねるしか術はないと同時に、
自然な縁にて、得られるしかない。
当然ながら、私から、あなたはそうであるかもしれないとは言わないから、
松平家物語を著書する構想がある。
以上の内容から、
戸籍が取得できるのが江戸末期ぐらいまでであるからして、
宗家の示す責任は江戸時代生まれまでと認識し、
二度と愚かなことの繰り返さないためにも。
念の為、今後も含め、古い戸籍が取得できない場合においても宗家の責任ではない。
また、内容が不十分で松平四家の出自として判別できない場合においてもその限りではない。
厳格な判別においては、その名字を名乗る家祖や出自元が明確であることとが本来正式であると捉えるが、
内容において祖を示す確かな関連付けをされている場合は、それに準ずるものとして扱う。
松平四家本姓の考え方
本姓は、松平四家以外の出自に婚姻関係で嫁、養子に行けば、
それは松平四家の出自ではなくなる。
宗家は戸田氏秀とあるが、戸田とは名乗ってなく、夫婦別姓で三条から松田に名字を変えた。
漫画で例えれば、マスオさんの立ち位置になるのかと考える。
何故そのような偽名を表に出さなければならなかったのか、おそらく、政治的理由で、
三条と表だって名乗れなかったと推測する。
そして、戸籍も当時大河内輝声とつながっていること自体、三条を名乗れない一つの理由と考え、
また戸籍には、三条輝照とは記載できず、かといって大河内ではないため、
大河内輝声とも記載できないと想像できる。
この時点では、大河内輝声は三条輝照であることを知られてはならないからである。
松田に復し、祖を示すことに重点をおき、いずれ時が熟したときに、
三条を名乗ることを念頭に置いていたと考える。
以上から、末裔が男性もしくは女性である場合も、男系で繋がっていることに焦点を置くため、
父方の先祖を辿る系図を必要とする。
また、宗家の思想は、良い血筋を残すという点にて、祖は松平四家の中で婚姻関係を結び、
良い血筋を選び、宗家は代々その血を繋いできた。
それ故、取り上げるとならば、著名な方や職人、経営者などであるが、ある一定の審査の上行い、
それは世間体に対し、結果的に悪い印象をもたらさなければ良い。
良き血筋を後世に残す、その目印となると同時に、
ご自身の家系を大切に、子々孫々と繋いでいく願いである。
女性の方で、例え松平四家以外の家に嫁いだとしても、
松平四家の血筋をもたらした、新たな家系を育む目印になれば良いと考える。
その背景において正式に認める方には、松平四家として、浅薄なものにはしたくなく、
威厳のある出自元として、その存在を世に伝えて行く義務があると考える。
そこには並々ならぬ荘厳な歴史があり、その想いを汲み取れる関連された内容を必要とする。
よって、世間の人々に説明が付く証を有することが最低条件であり、
それが道理である上、平等であるから慎重にならざるを得ないと言える。
無論、個々にそうであるかないか思うのは自由である。
系図が出自元まではっきりしない家系の本姓に関してその多くは、
「松平京家流庶流」などの表記になるのだが、
本来松平四家と捉える範囲は、薩摩大久保家で考えてみると、
「松平京家頼済流斎藤氏庶流」の大久保家となり、分家の分家ぐらいまでが妥当である。
それが以外は、管理不能範囲であると言えるが、系図が明瞭であれば、
更に、大久保氏から戸田家が分家したと仮定すれば、本姓は次のようになる。
「松平京家頼済流斎藤大久保氏庶流」の戸田家となる。
特定にあたり、私に秘密の意向から、昭和の時代にメディアが発達すると共に、
宗家の情報がどのような流れや意図で第三者から情報伝達され、
関連付けられているか不明のため、個々の仕事上に扱う内容では特定することは難しい。
それらはあくまでも、祖があっての裏付ける材料の一つである。
例えば、薩摩大久保家の系図を見てみると、
大久保仲兵衛から始まる系図の中で五代目に利政の諱が見え、
家紋が一致する同じ頼済流の「斎藤利政(斎藤道三)」を示していることがわかる。
現代に至っては、家紋は、整合性を図ると同時に、
松平四家の内どこの出自なるか特定する上でも必要条件である。
基本必要資料として次に纏める。
・江戸末期ぐらいからの父方(名字を継承する方)の家系図
・戸籍にある最古の本籍地
・家紋
・家系図にある先祖最古の職業
※稀な名字や内容によってはこれ限りではない、必要資料の見定めは個人に任せるとする。
重ねて、藤原氏や桓武平氏、源氏などにしても、誰から特定されるものでなく、
個々の家系で管理するものである。
最低限祖を示せば、自然につながるものであり、
個々の歴代の先祖の意向で、過去は気にしない家系もあると考える。
したがって、当方から探求することはなく、
ご縁による個人の意志に委ねるとする。
現代においての判別基準
松平四家の項目で記載されている名字と同じである場合、
先ず家紋が同じであるか、類似している点が一つの判別基準となり、
それに合わせた諱などの関連されているものであるか。
その他、先祖から伝わる家伝などが判別に至る基準となる。
名字が無い場合は、基本稀少な名字が対象となり、
前記に合わせ、判別に至るには多くの祖を示す資料を必要とする。
また、名字が無い場合においても、現状記されていない事由も考えらるので、
稀少な名字と同じく多くの資料を必要とされる。
その他、名字があり家紋が全く異なる場合においては特定はより困難であるが、
例えば、現状の家紋や名字の前は何であったかなど
古い重要な情報が判別する役割を果たす。
これは何れにしても、松平四家の一覧にない名字には、
判別する一つの決め手の材料となる点に於いては相違ない。
また、松平四家一覧に名字があり、家紋が全く異なる場合の
特定が困難である背景には、先祖の意向や家系の歴史は捨てたと捉えることが
最有力視され、祖に何か問題があり、変えることが想定される。
通常の場合は、名字が変われば家紋が変わり、連動するのが自然である。
然し乍ら、資料多い少ないに関わらず、
基本、松平四家の流派を示す関連された内容が一つの判断基準とされる。
前述にある通り、古い情報の方が信憑性が高く、評価し、判別する。
第三十一代松田宗家伝承者至輝が正式に認めるからには、
祖の松田家が築き上げた歴史を友に共有できる心の「朋友」であると認識する。
然れど、祖が明確であり、自然につながれば、それに准ずることはない。
繰り返し伝えるが、特に存命の方で証のないものや了承のないものを無闇に
松田家の出自だと掲載すれば中には「根拠もなく勝手に掲載するな」などとトラブルに
発展しかねない。出自にしても、当方が取り挙げるにしても、確証及び了承を得られなければ
リスクを伴うだけで根本的に不道理なのです。
仮に、現代のおいて、一人明確な人物がいたとして取り挙げたとしたら、何故私は取り挙げて
くれないとなり、他に反感を買うことになりかねない。言わば、「触らぬ神に祟りなし」。
その上で公平を期する為にも、一つ区切りを設け、当方の分家に関しての責務は江戸時代
終わりの1868年、場合により1900年までとする。但し、明瞭であり、当方の判断基準に準ずる。
1899年までとしているのは、基本ここまで掲載すれば、自ずと名字で自然につながるのが筋で、
源氏や平氏、藤原氏にしても、名字を公表しているだけであり、同様にその責務を全うすること
になるからです。主旨的には、著作権は作者の死後七十年守られると考え方は同じである。
江戸時代以前の系図等の資料がなく、また口伝による伝承もなく、不確かな場合で出自を知りたい
方は専門家などにご相談ください。
例えば、公表している織田信成氏しても、曽祖父の諱がなく、高祖父その先代の諱が記されて
いないのですから、名前はそれらしいが証とは言い切れない。その理由は「信成」が自称しだ
した父親の諱であれば確かな証になるかもしれない。現状は、何かとってつけられたような感がある。
曽祖父の諱が分かれば、証になるのかもしれない。
ご理解の上、残りは巡り合う縁にて、その旨を言葉でお申し出ください。
どうしても当方に伝えたいことがあるのでしたら、お問合せフォームをご利用ください。
猪◯問題の当事者である、猪熊教利の出自偽造問題の影響により、
愚かな関連付けが見受けることは、残念至極にあり、
不快な思いをさせたことを心よりお詫び申し上げます。
継承
松平三条家
松田宗家並びに松平三条家を三条至輝と名を改めて継承する。
継承する内容
松平三条家第十七代当主 三条至輝
第三十一代松田宗家伝承者 皇霞京
桓武天皇から数え、実に四十七代目の桓武平氏の末裔となる。
血筋は伊勢平氏維盛流で、旧法的血族は藤原氏となり、
桓武平氏の血筋を基盤に藤原氏が合わさった本姓が松平氏。
本姓 松平京家鹿苑寺流
定紋 三条蝶
替紋 松田唐花(替紋の一つ)
菩提寺「岡寺 十三重石塔」松田宗家の墓の意
岡寺
山号 東光山(とうこうさん)
院号 真珠院(しんじゅいん)
寺名 龍蓋寺(りゅうがいじ)
所在地 奈良県高市郡明日香村岡八〇六
松平四家の伝承及び膾炙
西家 松平西家流
北家 松平北家流
東家 松平東家流
京家 松平京家流
流派
鹿苑寺流
頼盛流 頼直流 頼貞流 頼近流
頼仲流 善通流 頼済流 信頼流
家頼流 頼信流 達頼流 頼勝流
頼通流
したがって、奈良松田家は伝承のための別名。
三重県
伊勢国であった三重県の名前の由来は三重郡から来ている。
三重郡は次の三つの町を含む
菰野町(こものちょう)
朝日町(あさひちょう)
川越町(かわごえちょう)
これに松平信綱は、本当の名字である「三条」と通字の「輝」の関連付けを図り、
江戸から近い、川越藩主になりえたと考える。
次に、岩倉具視と女系のつながりにより、
岩倉家と同じ笹竜胆の家紋の伊勢国司の北畠教具と紐づけ、
歴代と同じ公家である境遇を示す。
また山科区にある毘沙門堂を訪れた際に、住職から、むかで札(牛王宝印)を、
武田信玄、上杉謙信共に、甲冑に刻んでいたと聞いた。
山科家の出自である証を常に心に刻み、
そしてそれは、伊勢平氏維盛流である事実を示しているのであり、
松田一門南部家の項目でも紹介した「対い蝶」にその答えがある。
共に兄弟でありながら、戦う宿命であり、どのような胸中であるだろうか。
強い敵と戦う喜びであろうか。それとも・・
(松田一門南部家を参照 →)
松平信綱は、功績を祝して家紋を「三つ扇紋」に変更したとあるのは、
その「対い蝶」に掛けている。
松平氏は桓武平氏流(伊勢平氏維盛流)である事実を訴えていた。
それ故に、三条家の家紋は「臥蝶に十二菊紋」であることが読み解ける。
松平家物語
松平家物語とは、鎌倉時代に始まり、
戦国時代を主として、江戸時代初期までの松平四家出自の
歴史上に活躍し主だった人物と、
松田宗家との関係性を描いた物語を想定し、
山科家から分家した頼盛に始まり、
主として、戦国時代に重点を置き、最大の謎である本能寺の変を解き明かし、
老中松平信綱までを描いた物語となる。
様々な文献を濫読し、松田宗家、三十一代当主である至輝の目により、
読み解く内容となる。
松田宗家の公家は陰であるため、そこには、
史実にはない至輝の推測の世界が含まれているのは言うまでもない。
松平家物語につづく
三条発祥の地
「三条」の姓の発祥の地「要法寺」。
要法寺の地において、三条輝綱代の時に三条正永(松平信綱)により三条の家名が立案され、
始祖として三条正永、家祖として三条輝綱。
また、別名姓の「皇」の姓の発祥の地でもある。
「皇」は三条輝照から三条至輝へもたらされた姓。
同様に併せて、別名諱の「迦亨」の発祥の地。
要法寺
所在地 京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町四四八
日蓮本宗の大本山
山号 多宝富士山
本尊 十界曼荼羅
開山 日尊上人
中興 日辰上人
通称 松の寺、教学の山
日蓮宗京都十六本山の一つ
新洞仏教会32番
要法寺は三条通北側に位置する。要法寺からは三条通は南の位置となる。
通称から、前身である松田宗家と山科家を示す。
新洞仏教会は左京区にあった新洞小学校の新洞学区にある寺院群で、檀王法林寺、要法寺、頂妙寺などを含む五十五寺院。
三条家継承
祖を考察すると、松田宗家、大河内松平家、戸田家と、基盤(軸)となる家系が存在していたが、
吉野作造(三条輝重)の学生時代を最後にいつしかその軸はなくったと推察する。
芦田幸太郎からは完全に家系の軸を失い、ゼロから出発となり、第三者が松田宗家伝承者の方に付随する形と捉える。
それ故、三条家を再興する上ので、三条家の軸となるブランドを未来に創設し、子々孫々とつないでいくための環境づくりにおいて安定化を図る。
伝承者は三条と皇の名字と三条ブランドを継承し伝承していく。
現状、三条への名字変更は、少し先である。
三条ブランド
ブランド名二つあり、仮称であるが、
かといって三条には変わりない。
将来的には和専門のブランドも見据える。
概念
受け継がれた魂は独自の魂と架橋し、時の世界観は無限の広がりを見せ、可憐で煌びやかな洗練された時の世界を投影する。その時々の愛らしい女性像を描く。また、洗練された男性像を描く。
三条華 SANJO KA [FEMME](ブランド)
心象 「可憐」「優雅」「洗練」
三条京 SANJO KEI [HOMME](ブランド)
心象 「洗練」「優雅」「可憐」
対象 「鞄」「小物」「服」「時計・宝飾」「日用品・工芸」
三条六世界
平安 Heian 胡蝶 Kocho 時空 Jiku
幻想 Genso 天上 Tenjo 三条橋 Sanjokyo
平安世界(へいあんのせかい)
平らかな和む優雅でお淑やかな極楽の世界。
胡蝶世界(こちょうのせかい)
洗練された可憐な蝶が舞う煌びやかな世界。
時空世界(じくうのせかい)
普遍的に時の行き交う幽玄な世界。
幻想世界(げんそうのせかい)
非現実的且つ現実的な新しい夢の世界。
天上世界(てんじょうのせかい)
ゆったりと穏やかな時間が流れる心無き神々の世界。
三条橋世界(さんじょうきょうのせかい)
天上につづく三条橋が架かる橋その物の世界。
第一代経営者 三条至輝(202x - )
第二代経営者 三条至永(20xx - )
第一代三条設計伝承者 皇迦亨 文学者(202x - ) 冥月
第二代三条設計伝承者 皇拳志郎 拳法家 (202x - ) 閻王
※二代目は例にて架空の人物。
神とは
「あなたは神を信じますか。」とあるが、信じる信じないは自由である。
この信じるとは、イエス・キリストを信じるか、信じないかの問いかけであるのではないだろうか。
であれば、信仰していなければ、当然答えは「信じない」となるだろう。
とは言え、「神とはなんぞや」と疑問に思うのでないか。
神はいると思えばいるのであって、いないと思えばいないのである。
私が今言えることは、神を感じることは幸せであると言うこと。
経験上、我が国では神を感じにくい世の中であると考える。
それは神道と言うものは根付いてはいるが、何故、神社にお参りに赴いているかは定かではないのは確かな事実と見受ける。
物が溢れ、その有り難みや価値が見えない故のことである。
従って、現代の世は幸せを感じ難い世の中であると言える。
三条ブランドはその価値を見出す、または見直す手伝いになれればと未来を見据えるブランドであることを念頭に置き、
少しでもより良き幸せを感じていただくことを信念に掲げ、この世の人々と共存し唯一無二のブランドであることを目指す。
つまり、何物にも変え難いブランドであり続ける。
当然ながら、他と同じものを作るのならば、特に必要なく創設する意義はない。
唯一無二であると思えるのだから創設するのである。
最高峰
私の感性は最高峰ゆえに、真似事は無理が生じ、不自然なものが多く生まれる。
幸太郎の代と、先代と、同じこと。そこに美しい未来は見えない。
華橋院
華閣
正面
背面
店舗
華橋院
構想
華橋院とは、三条の本拠点となる施設。
三条ブランドの将来的な店舗としての役割や
和の文化の活性化を担う拠点となる位置付け。
規模は慈照寺ぐらいを想定し、
和の習い事や観光、店舗、別荘を兼ね備える。
冥月院内の大凡の設計は専門家の補助の元至輝が行い、
壁画や襖絵などは、随所にその道の絵師に依頼するとして、
また部屋により至輝自身が描くことも念頭に置いている。
全体の心象としては、モダン的要素が二割から
三割程度で基盤は古来の日本家屋。
華閣以外にも建物があり、習い事ができる建物や環境、庭園、
東福寺や平安神宮で見られる長い渡り廊下を効果的に取り入れ、
庭園には池や四季に色とりどりに咲き乱れる
花々や植物が植木されており、
季節ごとにより様々な顔を覗かせてくれる。
習い事は華道、茶道、書道。
観光は曜日による開院もしくは定休日を設け、
店舗は基本それらと連動される。
三条ブランドのイベントも行われる。
冥月院の近くの通りには、清水寺や銀閣寺
宇治平等院の近くにあるような
商店通りが構築されることも見据える。
基盤は古来なものであるが、
新しい日本古来の文化として賑わう
中心の拠点になればと構想として思いを巡らす。
構想の規模が大きくなれば、
新しいファッションなどの文化の発信元、
芸術通りとしても拡充し視野に入れる。
平たく言えば、その通りまでもある程度の
趣向的なデザインを至輝は行い、
ファッションも含め芸術を発信する
一大プロジェクトになればと考える。
その通りにあるアパレルブランドが出店する例として、
鞄や小物だけであるとか、その通りの主題にあった服などをセレクトし、
小規模な出店として、店舗を構えていただくような形を想定する。
それにより、そこにしかない芸術性を生み出す狙いがある。
冥月院から一貫性をもたし、趣のある通りへ、
雑貨、土産物、茶店、カフェ、鞄、装飾品、服の二階建ての小店が立ち並ぶ。
つい出店したくなるような、
足を運びたくなるような観光地を目指す。
主題は「共存」であり、一貫性のある建物に看板を掲げるような形式で、
江戸を彷彿される心象。
場所は輝照の想いが眠る京都の地。
店舗
店舗は、前項目のイラストにあるように、
外観にある利用規定は、暖簾は色やデザインを自由にすることが可能。
暖簾は看板がわりの一つとなるため、須要に使用する前提として考える。
屋根にある看板は、カラフルなものではなく、木材や金属などを使用し、
材質を生かした重厚なものに統一する。
基本、規定内に於ける品を損なわなければ大きさ形は自由とする。
あくまでも、現時点での考えである。
このような夢を描くことも未来への楽しみではないだろうか。
この世に何を遺し、何を顧みるか、
そして、何を伝え、何を説くか。
心は、時とともに流れ、移ろうが、
折折に、美しき華に邂逅する刹那の喜びに、
我生きる。
時の宮
華美降り灌ぐ
いにしえの胤
滅せぬもの
歴る姿なり
令和六年七月六日
名称に関して
候補として、冥月院と名付けてはいるが、
現状は仮の名称とする。