宗家

鹿苑寺流
系図

鹿苑寺流
鹿苑寺流とは
時を遡れば室町時代、足利尊氏が創始した室町幕府での祖の松田家の立場は御家人であった。 年代を示せば、系図から頼貞が生きた時代の全盛期、1336年(延元元年)京都に室町幕府が開かれた。
室町幕府足利将軍家と松田家御家人との関係に於いて、 室町幕府第三代征夷大将軍足利義満は1394年(応永四年)に、 開祖となる鹿苑寺を河内国と交換に西園寺を譲り受けた別荘に由来があり、 その鹿苑寺にある龍門滝は、鯉魚石より二つの流れに分けれていることから、 松田家の頼直流と頼行流に重ねられ、 鯉魚石は法的血族の出自である藤原北家魚名流を指し、 鹿苑寺の山号の北山と応永四年と合わせ、藤原北家四条流(閑院流)を表す。
更に、桓武平氏流松田家の家紋「丸に二本松」を併用することで 松田家一門を表している。

また、藤原氏の藤原鎌足を始祖とし、公季を始祖とする徳大寺の閑院流。 藤原氏の魚名からの系統で、隆季を家祖とする四条家、 その弟の徳大寺からの養子、実教を家祖とする山科家の四条流。 藤原鎌足の原点から閑院流、四条流の二つの系統に分かれ、 その二つの流れが一つとなる山科実教で「龍門滝」を表す。
それに合わせ、松田家頼の後継である達頼は龍を示し、 その後裔にある、松平信綱の実子から松平輝綱流と松平信興流に分かれ、 信復が輝規の養子、輝高が信祝の娘の兼の婿養子になり、交換(クロス)して、 一つの流れになることから「龍門滝」を表す。(系図参照)

それに付け加え、松田勝慶の流れでの松平正綱を始祖とする大河内松平宗家、 その松平正敬からの養子である輝聴で一つとなり、「龍門滝」を表す。 計三つの龍門滝で、「三乗」の三条実行を示す。

尚、松平正敬は信綱の血筋となる。 三条実行は、松田家始祖の頼盛の縁となる、転法輪三条家の始祖である。

本流にあたる血筋の流れが、滝の名から「龍門流」から転じて、 「鹿苑寺流」と名付ける。 即ち鹿苑寺流は、松平信綱以降の松田家本流の本姓にあたる。

松田家一門
系図

松田家一門
一覧
丹後守系松田家[秀頼流 評定衆]・伊勢平氏維盛流
豊前守系松田家[頼行流 奉行衆]・藤原北家四条流山科庶流
頼邦系松田家[頼邦流 奉公衆-奉行衆]・藤原北家四条流山科庶流
若狭守系松田家[頼盛流 奉公衆]・藤原北家閑院流徳大寺庶流
対馬守系松田家[秀経流 奉行衆]・伊勢平氏維盛流
相模松田家[直頼流 北条家臣]・藤原北家四条流山科庶流松田支流
備前松田家[直頼流 備前国守護代]・藤原北家四条流山科庶流松田支流
長江家[猶子 貞頼]・桓武平氏鎌倉氏流
南部家[猶子 頼冬・頼近]・清和源氏系河内源氏義光流

松田家一門 公家の家柄である山科教頼は、曾祖父の平業房が平家の平宗盛に処刑された経緯から、 松田を号し、松田頼盛と名を改め分家する。
平家は仇であるが、平家が成し得なかったことを追い求め、松田家一門として、 松田家の繁栄に、子々孫々に広がりを見せる。

頼盛は、鎌倉幕府の御家人六波羅引付衆に任官し、嫡流の後裔が丹後守に任じられる。 頼盛の後裔は頼直と頼行に分かれ、頼直は更に秀頼、頼邦、頼貞、秀経と四つに分かれる。 後に、丹後守系(秀頼流)、豊前守系(頼行流)、若狭守系(頼貞流)、対馬守系(秀経流)となる。

簡潔に、松田家は三つの本姓から成り立ち、桓武平氏流(伊勢平氏維盛流)の自然血族を祖とする 秀頼流、秀経流の幕府官職は奉行衆。

藤原北家四条流山科庶流の法的血族を祖とする、頼行流は幕府官職は奉行衆。
頼邦流は奉公衆に始まり、系図に着目し頼久の代の左側を見てみると、 頼行流の元成が見え、ここから同じ二本線直違の家紋を使用している。 元成は奉公衆であることから、頼久からは奉行衆となり、 頼行流と幕府官職が入れ替わっている事柄が、 頼邦流の末端にある松田頼恵が奉行人である官職から窺える。 頼行流から分家した備前松田家が奉公衆となり、頼行流の本流は奉行衆の立場は変わらない。 これは家紋のクロスした形状から合わせられ考えられたものと推測する。

藤原北家閑院流徳大寺庶流の法的血族を祖とする、頼貞流の幕府官職は奉公衆。

尚、備前の松田家と相模の松田家は系図にあるように、 松田家の支流となり、家紋から公家であることがわかる。

松田家は、南北朝時代を迎えると、足利氏に仕えるようになり、 室町幕府では、奉行衆としてその名を歴史に刻み、 丹後守系秀頼流は、最高機関とされる評定衆、豊前守系頼行流は奉行衆、 若狭守頼貞流は奉公衆、対馬守系秀経流は奉行衆。
至輝の直系にあたる、奉公衆の頼貞流は、奉公衆、弾正台、若狭守を歴任する。 弾正台では、(享禄元[1528年]頃)信頼のときに長官である弾正尹の職位に就く。 頼貞流は陰的な位置にあり、室町幕府滅亡後、表舞台に立つため、 江戸幕府が開かれるとともに、後裔の頼通の二男・松田信実は、大河内松平家の養子となり、 松平信綱と名を変え、江戸幕府の御家人として、また、別名伊豆知恵として、その名を世に轟かせるのであった。

三条家 家 紋 三条蝶
替 紋 十二葉菊
本 姓 松平京家鹿苑寺流嫡流
始 祖 三条正永(松平信綱)
家 祖 三条輝綱(松平輝綱)
中 興 三条至輝(皇迦亨)
通 字 至
別 称 松田宗家
種 別 公家(清華家) 華族(公爵)
極 官 太政大臣兼左大臣
出身地 埼玉県北足立郡伊奈町小室
根拠地 東京都、京都府、大阪府
著 名 高階栄子、松平信綱、久留島義太、福澤諭吉、
    大河内輝声、上野英三郎、吉野作造
分 家 近衛、一条、醍醐、広幡、七条、伏原、鷹司、桜井、
    今川、毛利、久留島、福澤、大河内、上野、吉野など
縁 家 天皇家、転法輪三条家、徳大寺家、戸田家など
菩提寺 松平氏:平林寺 松田宗家:岡寺
寄進物 松田徳太郎:十三重石塔(岡寺)
商用紋 扇揚羽蝶、花器章、三つ引き
象徴色 純白、銀鼠、承和色
伝統色 象牙色、深紫、真紅、水色
紋 様 三条七宝

三条家

系図



松平京家鹿苑寺流

桓武天皇 ─ 葛原親王 ─ 高見王
┌─────────────────────┘
桓武平氏祖
└ 平高望 ─ 国香 ─ 貞盛 
┌─────────────────┘

└ 平維衡 ─ 正度 ─ 維盛 ─ 貞度 ─ 盛房 ─ 業房
┌─────────────────────────────────────┘
山科家祖
└ 山科教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌─────────────────────────┘
松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝耡 ─ 輝重 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
松平三条家中興の祖
└─── 至輝


輝耡 = 氏秀

輝重 = 氏重










藤原北家閑院流(旧本姓)

藤原氏始祖
藤原鎌足 ─ 不比等 ─ 房前 ─ 真楯呂 ─ 内麻呂 ─ 冬嗣
┌───────────────────────────────────────┘

└─── 良房 ─ 基経 ─ 忠平 ─ 師輔
┌─────────────────────────┘
閑院流祖
└ 藤原公季 ─ 実成 ─ 公成 ─ 実季 ─ 公実
┌───────────────────────────────┘
徳大寺家祖
└ 徳大寺実能 ─ 公親
┌────────────┘
山科家始祖
└ 山科実教 ─ 教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌───────────────────────────────┘
松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘

└─── 輝耡 ─ 輝重 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
松平三条家中興の祖
└─── 至輝



三条家
家紋



三条家
家紋
三条家の定紋は「三条蝶」。
三条家ブランドの定紋は「扇揚羽蝶」。
蝶紋は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、 伊勢平氏である清盛流平家の家紋と、 公家の平氏の家紋として主に用いられ、 蝶紋と言えば、平家の家紋と世に定着する。 祖の意向を司ると、原石は伊勢平氏であることを誇りに受け継がれ、 長期にわたり、重きを置いた高崎藩大河内松平家と 我が流派の直系である家頼流の松田家と直接つながる、 松田幸右衛門信実こと、松平伊豆守信綱を重要視し家紋を定める。
松平伊豆守信綱の定紋は、出世したことに祝して、 「丸に臥蝶に十六菊」から「三つ反り扇」へと変わる。
松平信綱の三つ反り扇紋の経緯を重んじれば、 「蝶」と「扇」を題材とした「三条蝶」は、責務と言える。
蝶は伊勢平氏を象徴し、 扇は、大河内松平家と信綱と至輝を象徴する。 揚羽蝶斑点の数が三が二つで六、つまり、鹿苑寺流を表し、 二と二は、桓武平氏流松田家の家紋丸に二本松と信綱の二男の意。 羽の数は、頼貞流の四番目松平京家を意味する。

「扇揚羽蝶」
「皇雨龍」
「三条唐花」
「三条花角」
「花器章」
「三つ引き」
「三条蝶」
「十二葉菊」

家紋は次のように定める。
商用
対象 三条ブランド 皇霞京
和  定紋「扇揚羽蝶」 副紋「皇雨龍」
   飾紋「三条唐花」「三条花角」「十二葉菊」
洋  定紋「花器章」 替紋「(竪)三つ引き」

私用
対象 三条家
和  定紋「三条蝶」 替紋「十二葉菊」
洋  定紋「花器章」


花器章
花器章は、「三条[Sanjo]」のローマ字の頭文字と「皇[Sumeragi]」のローマ字の頭文字を 鏡面反射した構図。つまり、二重にある名字の真実は一つという意味。
鏡は鏡新明智流の桃井春蔵を示すと共に、明智光秀を表す。

三条家
七宝紋様

雪明


皇雨龍


扇揚羽蝶


三条蝶

三条家
家名
初めに、祖の「大河内」と言う家名は、 松平四家にある家々の名称や馴れ初めを示すため、 関連した事柄から、不可避的に選んだ家名と読み取ることができる。 特に、松平京家流北畠家への関連された事柄から窺え、 北畠家の分家として、既に「大河内」は存在する点にそれを証明する。 戸田氏重が明治時代に名字を「松田」に復した点においても、 松田家から様々な分家による家名が誕生していることや、 祖松田家からの分家となる松平北家流の備前の松田家は、 直系の祖にあたる松平京家流宇喜多家に、滅亡へと追いやられている。 そのような経緯から、「松田」に復することは、道理に反することであり、 祖を示すことに重きを置いた、不自然な家名と言える。 では、我が松平京家苑寺流の大河内松平家、真の家名を思索するとしてみよう。

直系の祖である信頼系松田家家頼流から
松平伊豆守家(吉田藩大河内松平家)へと続く官職が、 検非違使別当であり、大理卿家とされ、松平京家流にあたる。 別当は同義で長官に当たり、カミと呼ぶ。カミを「上」の字に宛て、果ての「神」。 また、血筋は桓武平氏(伊勢平氏維盛流)の桓武天皇。 家祖の松田頼盛の娘千手姫は、三条家へ養子となり、 皇室に嫁ぎ、後深草天皇の第七皇子久明親王の実母。 このことを大切にし、後世(至輝)へと伝承されている。 家頼流は、頼直の三男から頼信の三男で、主として、三の倍数になる三と六と九を主題として家紋を作成している。
そして、鹿苑寺は室町幕府第三代征夷大将軍足利義満が開祖となる別荘。 それらを踏まえ、「三条」という名称に重きをおき、 我が国において、「三條」と言う地名を挙げれば、次にある。

「新潟県新潟市江南区三條岡」は越後上杉家及び家臣
「山梨県中央市上三條」は家頼流の分かれた甲斐武田家及びその家臣
「山梨県中央市下三條」は頼貞から信頼までに分かれた甲斐武田家臣
「兵庫県南あわじ市市三條」は頼信流の雑賀孫市

「南」は南家である京家の意
「中央」は松田七流の四番目頼貞流の松平京家の意

これらに共通するのは、上杉家、柿崎家、直江家、武田家、馬場家、真田家、雑賀家…松平京家の家頼嫡流。
「三條」の「條」は旧字で、「旧」は「九」。 つまり、松田秀頼流から数え、嫡流である系統の九番目にあたる高崎藩大河内松平家を指す。
以上から「三條」は、高崎藩大河内松平家の真の家名であると考える。 したがって、圧倒的な勝率から、軍神とも呼ばれる 大理卿家時代に分家した「上杉謙信」に因み、 「新潟県新潟市江南区三條岡」から「三條」を賜ることが、 正しき我が家名と天は仰せつかる。 「條」を旧字から新字に変え、 我が家名を「三条(さんじょう)」である意図が読み解ける。
この真意は、至輝が祖を示す関連された一部の事柄から、推理したに過ぎない。
真実は、端然と他にある。


三条
「十」へのこだわりは「三条」は十画であることから一つの理由として挙げられ、三画と七画で さらに「条」分割すればつくりは「条の上部分」三画、「条の下部分:木」四画となる。 三画と三画で六角、これは家頼流と鹿苑寺流で、四画とは四条流と四つの流派に分かれる。 七画は羽林家の北斗七星である。
また「条」は、旧漢字で「條」であるからつくりは「攸」と「木」から成り立つ。

漢字の音符「攸ユウ」の解字、金文は、 「イ(人)+ 三つの点(水のたれるさま)+攴ボク(木の枝でたたく)」の会意。 人の背中に水をかけ、手にもった枝葉でたたいて身を洗い清めること。 篆文は、三つの点⇒タテの棒線に変化し、さらに現代字は、 攴⇒攵に変化した攸になった。身を洗い清める意で、悠の原字。 しかし、本来の意味は、悠と修が受け持つので、攸は、ここに・ ~のところ、などの助字として使われる。 意味は(1)ここに。 (2)ところ(所)。「往く攸(ところ)有り」 (3)ゆったりと。(悠)。「攸攸ユウユウ」(①はるかなさま。②のびやかなさま)

心象
「身を清める」(攸・悠・修・条・滌)
「枝・すじ(條)」(篠・脩・絛)

音の変化
ユウ:攸・悠 シュウ:修・脩 ショウ:篠 ジョウ:条・滌 トウ:絛

これらから関連された事柄が見えてくる。

山科教房(松田頼盛) ─ 教兼 ─ 教広
                └ 教音


三条の発祥の地
三条の発祥の地は、次の地名にある。
京都府京都市中京区石橋町三条通寺町東入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極東入
京都府京都市中京区石橋町三条通河原町西入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極西入

それを次の新潟の地名と結びつけている。
新潟県三条市

三条家
氏の定
氏の追加の覚え書き
「氏」に代表される源平藤橘で知られる次に加え、 陰の「氏」として光に変え追記する。

「源氏」
「平氏」
「藤原氏」
「橘氏」
「惟任氏」
「豊臣氏」
「松平氏」

日本の歴史に、
「松平氏」と言う陰の氏が既存していたことをここに記す。

読み方の例
源頼朝 (みなもと の よりとも) 源氏(げんじ)
平清盛 (たいら の きよもり)  平氏(へいし)
藤原道長 (ふじわら の みちなが)藤原氏(ふじわらし)
橘以長 (たちばな の もちなが) 橘氏(たちばなし)
惟任光秀 (これとう みつひで)  惟任氏(これとうし)
豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし)  豊臣氏(とよとみし)
松平信綱 (まつだいら のぶつな) 松平氏(しょうへいし)

したがって真実は、 松平信綱は、豊臣秀吉と同じ、 氏と諱で表記されていたとになります。
ここから考えられることは、 松平信綱の名称に「大河内」という名が入っていないことから、 「大河内」は、信綱(松田宗家)の後継家名(名字)ではない意思表示の表れと見える。 平林寺にある、信綱の墓石に「大河内」と記されていないことからそれを証明する。 墓石には、「川越侍従松平伊豆守源信綱」とある。 大河内を己の正式な名字と主張するならば、「川越侍従大河内松平伊豆守源信綱」となる。

本姓にあたる「源氏」は偽りのため、 それに代わる本姓は「松平氏」。 よって、「川越侍従伊豆守松平信綱」は表に立つ表記であり、 陰の公家形式で記述すれば、 「太政大臣兼左大臣松平三条信綱」が真の名称となる。 また、松平輝貞の墓石には、 「高崎城主従四位下侍従兼右京大夫松平源朝臣大河内輝貞」とあるので、 松平源朝臣大河内輝貞は、松田宗家の系統ではないことを示す。 輝貞は公家形式の記述で、大河内家は公家であることを表し、 それと合わせて、宗家も公家であることを示す。 豊臣には朝臣がついてくるが、松平に朝臣の有無を問うと、 姓の朝臣は、八色の姓の第二位を表すのですが、 源平藤橘、豊臣も含め、全て朝臣であるが故に、不要(略称)とする。

戸田氏重もまた、祖を示すために已むを得ず、「松田」という名字に復し、 松田徳太郎の名称に変更したことが、関連された事柄から読み解くことができる。 松平北家流の備前松田氏と相模松田氏の存在が、 宮津市所収の松田氏系図と奈良松田家が連動し、それを証明する。


松平氏
松平氏とは、桓武天皇の流れを汲む伊勢平氏維盛流の血筋を元に、 松田維盛から始まる法的血族の藤原北家閑院流及び四条流が合わさった 血筋を表す同一血族の集団を「松平氏」と呼ぶ。

三条家
松平氏の成り立ち
松田家秀経流の明智光秀は、
天正三年坂本城主となってから四年後、織田信長の命により、
惟任日向守光秀と改名したとある。
「惟任」とは、朝廷から賜り受けた賜姓であり、
光秀の出自である松田家の伊勢平氏維盛流と藤原北家四条流(頼任)の本姓示す姓である。
次にあるのは、参考として明智光秀、松平信綱、豊臣秀吉の例を挙げる。

武家形式の記述
惟任日向守源光秀 → 明智日向守惟任光秀(真実)
松平伊豆守源信綱 → 三条伊豆守松平信綱(真実)
羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉
三条和泉守松平至輝(仮)

公家形式の記述
従五位下日向守惟任明智光秀
従四位下侍従兼伊豆守松平三条信綱
従一位行関白兼太政大臣豊臣朝臣羽柴秀吉
和泉守松平三条至輝(仮)

現状の史実には明智は無くなり「惟任日向守光秀」の名称となる。
大河内松平家はそれと関連して、松平は惟任に宛てた姓、 このことから松平は家名として扱ってはいるが、大河内松平の「松平」は、 源平藤橘などにある「氏」、つまり本姓と考えられる。

松平もまた、史実に記載はないが、惟任と同じく、朝廷から賜り受けた賜姓であり、 豊臣氏と同種にあたる「氏」である。 従って、松平四家の中でも本姓に、松平氏とつく家系は、 江戸時代に将軍家から松平氏の姓を賜った家系を指すことになる。

例えば、外様大名では、
前田家、伊達家、毛利家、池田家、山内家、黒田家、蜂須賀家、島津家、浅野家、鍋島家

また次の家系も「松平氏」の本姓。

西家 久松松平家
京家 戸田松平家
京家 滝脇松平家
京家 桜井松平家
京家 藤井松平家

これらの一族は、大河内家と同じく、明治時代に松平から久松、 松平から戸田のように家名戻している。 松平が氏であることを認識している家系であることを示す。 「大河内松平」は江戸幕府期の称号であり、 「大河内」は宗家ではない分家の家名である。 信綱からの松田宗家の嫡流は松平氏で、 松田宗家の後継家名は「三条家」である。
つまり、
「旧家名 松田家」
「本姓 松平氏」
「新家名 三条家」
が本来あるべき名称の流れとなる。

三条家
名称表記について
当家名(名字)「三条」とする。
「三条」の家名は未来の本名とし、「松田」を通称とするが、 現段階での本名である「松田」を主として、使用する。 それぞれ、正式名称を「三条至輝(さんじょうゆきてる)」と称し、 通称を「松田実」とする。
「三条至輝」は本来通称であるが、 未来は正式名称として改名を目指す。 従って、改名するまでの個人事業主としての活動は、現状の本名を使用する。
「松田実」

前述であるように、最終的な名称は次の通りである。
正式名称「三条至輝」
別名「松平至輝」
別正式名称「松平三条至輝」
 本姓「松平」(藤原北家閑院流 或いは 藤原北家四条流/伊勢平氏維盛流)
 家名「三条」 諱「至輝」

 尚、「大河内」は分家の家名のため、宗家の名称には含まれない。


松田宗家名称について
松田宗家
この名称は、松田家始祖の頼盛からの嫡流を指し、 現代当主まで、全ての歴代を示す総称。

松平三条家
この名称は、十五代信綱から奈良松田家、現代当主までを示す総称。

三条家
この名称は、松平三条家の松平を単に省略した三条家の総称。

例えば、三条家を指すときに、松田宗家や、 松平三条家と呼称しても間違いではない。 三条家は、転法輪三条家と松平三条家が混同するため、 松平三条家は転法輪三条家と区別するための呼称である。


本来ならば、臥蝶に十六菊の家紋に変わる、信綱の代で松平三条家となり、 松平が先に来るのは、公家形式での呼称となる。
事情により、朝廷から賜り受けた松平氏を称している。

至輝
哲学者
諱の由来
至輝の諱の由来は、三条実行にあり。
三条実行は、三条家の始祖であり、松田頼盛の娘千手姫は三条家に養子になり、その後、天皇家に嫁ぎ、天皇との間に生まれた第七皇子の明久親王が、 鎌倉幕府八代征夷大将軍に任じられた歴史があり、 祖は、武家である表の顔を持ち、武士の威厳を保つため、 主体は公家である真相や天皇家の縁を公にできず、 政治的中心の地位を担ってきた。
転法輪三条家の縁は、頼盛の兄弟である「山科教行」と紐づけるため、 松田頼行も含め、山科家が出自である事実を表している。

したがって、三条実行から「ゆき」の言葉を賜り、 また、天より「至」の字を賜り、 祖につなぐ意味も含め、 三条家元来の通字の「輝」と合わせ「至輝(ゆきてる)」と命名。

「ゆき」は「雪」であり、 我が祖の松田宗家は、雪華模様を題材にした家紋の意図から、 転法輪三条家の家格「清華家」を表し、三条実行を指す。 至輝は冬季の生まれでもあり、我が諱に相応しいと解釈する。 「至」の字は行き着く果ての意であり、
計らずも、誕辰和色(誕生色)である深紫の別名、至極色に因縁し、 恐れ多くも、十三重石塔にある大勢至菩薩の「至」でもあることに付随する。


哲学者としての顔
哲学者としての学問は、仏教をほんの少しばかり嗜んだ程度で、 全ては経験から得られた独自の悟りの世界である。 学問とは、経験の中で起きた現象などを伝えている目的で言語化しているため、 「百聞は一見にしかず」の言葉が示すように、経験より優るものない。


ウクライナ戦争
ウクライナ戦争は、ロシアが一方的に悪いように見えるが、人により受け取り方 や、脅威に感じる度合いなど様々である。 それら両国の価値観の違いにより、すれ違いが生じ、最終手段として脅威を無く そうと戦争に発展した例であると考える。 無論、国際の秩序を乱しているロシアに全ての非はあるが、何故そのように侵 攻しなければならい状況にまで至った道理を考えるも和解への道筋と捉える。 長引けば長引くほど被害が大きくなり、双方により深く亀裂が入れば憎悪は肥大 し、和解は困難となり手立てはなくなってゆく。
それ故、私は祈る思いであの和歌を詠んだものである。

隣国である以上、未来永劫隣国同志である。
住居による隣居同士である場合においても騒音などには気配りはするの同じで、 互いに配慮し合わなければらない運命に置かれる関係であるのは確かである。

私はどちらの味方のでもなく、平和の見方である。 裏を返せば両国の味方であり、双方の国の目線で物事を考え中立な立場でなければ 和解の説得はできない。
中立な立場とは、物事の道理の本質を理解できる神や仏の立場。 互いに譲れないものがあるから、戦争に発展し、解決できないでいるのだから、 経過と共にその気持ちを抑える事ができなく、その信念を無理に変えようとは 思わない。その結果の「祈る思い」であった。 平和的に解決するに越した事はないからである。

配慮とはどのようなことか、NATOの加盟を示唆する前に予め両国間の信頼性を 改善できていれば、ロシア国は強行には及ばなかった一つの要因として考えら れるが、両国の歴史的な問題もあり、クリミア半島も含め、単純な問題ではない のは確かである。
ウクライナ国側にそのつもりはなくても、ロシア国側から見たら、 歴史的背景から何を仕出かすかわからないとなり、脅威に受け取られ、 NATOに加盟すれば、どうすることもできないと考え強行に及んだと考えられる。 脅威をなくし、安心して暮らせる世の中をロシア国民は信じていたと思われる。 その深刻さは、ロシアの国人でなければ理解できない。 それ故、配慮に欠ける行動であるが、神ではない限り避けることのできない侵攻 であったと見解に至る。 無論、そのような心境を他国に説明しようもないから経済を犠牲にしてまで侵攻 に及んだと推察する。
ここに記した内容は戦争が起こる経緯であり、現状は長期にわたる戦争により、 両国の考えも多かれ少なかれ変動していると思われる。

要約すれば、ロシア国は経済制裁を承知の上侵攻し、短期間で主要箇所を制圧し ウクライナ国側に全ての条件を呑むようにと計算していたが、米国はじめとする 支援も含め、想像以上に苦戦を強いられ、泥沼化していった。 いずれにしても国際秩序を乱すロシア国側に戦争を起こした責任は全てあるのは 事実であるが、人と人が生きていく上での配慮も怠ってはいけないという教訓で ある真実も受け止めていただきたいと切に願う。

説得が功を奏して、 一度、両国の交渉が締結されかけたことは事実にあり、それを覆したのは、 その後のロシア国側の多数の戦闘機による威嚇にて、それに不快を感じた ウクライナ国側の態度が、ロシア国側の考えを一変させたと考える。 ロシア国側はウクライナ国を信用できるかを試したのではないかと推測でき、 その結果、信用できないと判断したと考える。
とは言え、その前に私はウクライナ国がロシア国の信用を得るため、 ウクライナがロシアに対して反発するような言動や行動は慎むようにと伝えていた。 私が強く念を押すことが出来ていれば、結果も変わっていた可能性は否めない。 悔やむ唯一の点である。
ロシア国がどのようの真意もって侵攻したかは定かではないが、 ウクライナ国をある程度、ロシアの思い通りに共存する関係にしておきたい という狙いが理由として挙げられるのではないか。

思い返せば、初期にロシア国側がウクライナ国に求めた条件は次に三つある。
「非軍事化」「中立国化」「NATO非加盟」
私が大統領の立場として考えれば、この三つの内飲めない条件は非軍事化である。 その考えはウクライナ国と同じであることを前提に、その後条件が二つ増え、 少しでもウクライナ側の良い条件で交渉が締結されることを願い、 説得に当たっていた。
それから、ロシア国がウクライナ国を信用していない理由は三つの条件からも明らかであり、 指導者が歳を取り病気も患えば、両国の歴史もあり、より一層心配症に陥るのであろう。 初めの三つの条件を見れば、NATO加盟よりもまずは隣国との関係性を重視していれば、 違った結果になった可能性として、私の話を踏まえれば誰もが思えるのではないだろうか。 リーダーによって志は十人十色であるが、国民を守ることをまず何よりも考えなければ ならないと考えると共に、リーダーを選ぶのもまた国民であるのだから全てはつながって いるのである。起こるべくして起こり、避けられない戦争であったと振り返る。

仏教を少し嗜んだのは、己の思想はどのように適応しているかを確かめる上で、 知識として唯識について少し学んだ程度である。 今後機を熟せば、既存の学問と向き合う機会を得、あらゆる学問を知りたいと 魂は私に訴えかける。 されど、すべき事から順に進むべき道筋を辿るのが道理である。

吉野作造が残した言葉として、 「私たちが最も心がけるべきことは、 今現在正しいとされることを守り続けることよりも、 常により正しいことを追求する向上的な態度をもつことでなければなりません。」
これは大正という時代の言葉の表現であって、この言葉の本質は、 正しいことには理由があり正しいことであって、それをむやみ覆す意味ではなく、 向上心や常に何かを追求する姿勢を忘れてはならない。 簡単に言えば、物があって当たり前ではなく、 何故、それがそこにあるのかを問うことにこの言葉の真髄はあると私は考える。

当然、哲学的に道徳的に考えても、人が不快と感じる行為は、名誉とはほど遠く 真逆の行為である。不快な事で名誉は屈辱であると誰もが想像できる事であり、 それ受けようとする人間は、そもそもその機会すらなく名誉に値しない。 それと、人が不快に感じることは未来に悪い影響を与えかねない。


短歌
天命に
廻り四方に
刻みしと
平和の祈り
故人の思ふ
令和三年 三条至輝

この短歌は、ロシアのウクライナ侵攻における、 両国の説得時に詠んだ短歌である。 ロシアが一時侵攻を休止した時に、 経済制裁を緩和を促す合図として、 私のインスタグラムの内容と合わせるように ロシアと中国の爆撃機が日本列島の近くを旋回した時に、 その思いを汲んで、私が代弁すると同時に、 祈る想いで平和への思いを綴った短歌である。 あたかも、岡寺の十三重石塔のことを知っていたかのように、 魂の一致である。

「至」も私が己で選んだ漢字である。 それゆえ、十三重石塔に刻まれている梵字の大勢至菩薩の「至」も魂の一致であり、 天からの賜りものである。


最後に、法に触れなかれば何をしても良いではなく、
現に、環境問題など未知なる問題が山積みであるように見え、
常に、何かしらに配慮し、共存し生きていかなければならないと訴える。


ウクライナ国、ロシア国、両国の平和をお祈り申し上げます。


黒色
黒色の心象は、ネガティブな「恐怖」や「死」をもち、また、良い心象は高級感や重厚感などあるが、 これは、人の感性に依存するため、感性が未熟な人が服のコーディネートをした場合、粗悪なものになる可能性が大いにあり、恐怖などの威圧感をもたらすことにつながる。 傾向にすることは、世に出回るものが粗悪なものが多く占めることが予想され、ストレス社会が更なるストレス社会を加速する要因の一つとなる。
黒色は傾向にするのではなく、丁重に扱い、真似事ではなく、個人の感性に委ね使用するべき色である。
考え方は、カブトムシの黒はかっこいいが、害虫の黒は毒々しく感じるのと基本同じである。

例え良いものでも、黒色の服装が不自然に街中に多く占めると威圧感があり、自然なバランスであるべき色と言う点が窺える。
要約すれば、黒色は丁重に扱えば高級感を表すことにつながるが、雑に扱えば恐怖などの不快感を多く生み出す色である。

皇霞京
文学者

第三十一代松田宗家伝承者

Sumeragi Kakyo - Current
皇迦亨(別案)

名称の由来
皇霞京は、三条至輝の別名(芸名)で松田宗家を伝える通称に宛てた名称。
「皇」は松平四家の血筋の原点である桓武天皇。そして、頼盛の子千手姫と後深草天皇の間に生まれた久明親王(皇族)から「皇」の字を賜りたき候。 「霞京」の由来は、「架橋」にあり、また至輝のゆかりの場所から導き出される。 その場所が大阪府の東側にあることから祖の右京大夫の官職に由来し、 東側である場所、クロスの観点から右京大夫は左大臣で「東京」の東側。 右京大夫は「京都」になり、東京は逆流し京都となる。共通する「京」の字を賜りたき候。


 Ka
「霞」とは、意味は「空気中に浮かんでいる細かい粒子のため、遠くがはっきり見えない現象」 「物がぼんやりと見えること」「朝焼け、夕焼け」「艶かしい」「遥か、遠い」など。 はっきり見えない人生と重ね至輝そのものの現象を表す。 次に漢字の成り立ちは、上部にある部首のかんむりが「雨:天の雲から雫が滴り落ちる」形象と、 下部が「未加工の玉」形象、「削り取られた崖」形象、「両手」形象から考える。 両手は左脳、右脳。祖の左大臣、右京大夫。

「天の雲から雫が滴り落ちる」形象は、雲は雪を降らせ、雨になり、霞みゆく。
「未加工の玉」形象は、真珠で岡寺の院号真珠院、十三重石塔。
「削り取られた崖」形象は、一度崖から落ちたような経験。また背水の陣の心を意味する。
「両手」形象は、右大脳半球、左大脳半球、双方に極意を持つ。 左脳は理論的、右脳は芸術的。

霞の朝霞や夕霞は、日の出や日の入りを連想させ、新しい始まりや終わり、再生の象徴となり得る意味から三条家再興を図るに相応しい字であると言える。


 Kyo
京の部首は「亠(なべぶた/けいさんかんむり)」で鍋島や渡辺、数学者(和算家)との関連付けがされている。 岡寺の別称である龍蓋寺も鍋蓋との関連された名称である。 また京の漢字の成り立ちは、高い丘の上に建つ家の象形から「みやこ」を意味する。 従って、「高い」は、祖の平業房の妻「高階栄子」、家は松田家頼(武田信玄)と徳川家康を指している。 みやこの他に、「高い丘」「大きい丘」「高い」「大きい」などの意味があり、 京は架橋の「橋」で、橋架の「橋」でもあることから川に掛ける橋には大河があり、大河内の姓を示す。
つまりここでは、一級河川の桂川が流れる渡月橋を意図し、大河内輝声の号源桂閣、池大雅、渡辺崋山や夏目甕麿など嵐山に関連する人物の一つの集合体が完成する。
おそらく、「崋山」は「嵐山」を指す名称でもあると見え、そこから自然と渡月橋が浮かび上がる。

「霞京」で都を再興する意味となり、三条家の基盤を構築する意味を持つ。


 Sumeragi
「皇」の成り立ち、下部にある王偏は元、土(燭台(しよくだい)の象形がのちに王の形に変わる)。 その上に、火光(白は誤り変わった形)が輝くさまにかたどり、輝き渡る意を表す。
至輝の代で通字が「至」に変わり、元通字の「輝」は「皇」の漢字の成り立ちの中に生きる。
既存にある「皇」姓は花山天皇が語源と伝わっており、花山天皇の父親は冷泉天皇で、弟に三条天皇がいる。 花山天皇は第六十五代、三条天皇は第六十七代である関係性から同じ兄弟で継承する 祖の武田信玄は松田宗家第十代、上杉謙信は松田宗家第十一代、織田信長は松田宗家第十二代と重ねる。
また江戸時代に入り、華岡青洲の実子である弟の渡辺崋山と兄の大塩平八郎の兄弟から崋山が名である理由も含め関係性が逆であることを示す。
つまり、後継となる兄の大塩平八郎が三条天皇にあたる。それを補足するのは、平八郎の子の土方歳三の「土、三」と渡辺崋山の「渡」から「皇」の字と結びつけ三条天皇を示し「三条」の姓を暗示する。
渡辺崋山の作品の中で国宝に指定されている『鷹見泉石像』からも冷泉天皇と花山天皇、三条天皇を意図していることが明瞭にある。


皇霞京
皇霞京(すめらぎかきょう)は三条至輝とは異なり、文学者、ピアニストやモデルなど 芸術面で活動する時の通称とし、松田宗家を伝える役目を担う名称。 上杉謙信の「けんしん」に重ね、「霞京」の諱部分は全て音読みとしている。 「ケンシロウ」は「霞拳志郎」に、読み仮名をカタカナにより 音読みを強調していると考え、「霞」は母音が同じ理由から先代が関連付けた「巽」に宛てた字である 可能性が見える。「巽」は後ほど説明するとして、霞拳志郎の「霞」は「関孝和」や「池大雅」の「関」「池」に宛てた字であるのは、 歴代宗家で一文字の名字は他に誰もいないため、第十七代至輝が「皇」の一文字の名字を称することにより、「三条」を含め 関連性が完成する。ジグソーパズルで例えれば最後のピースとなる。
ジグソーパズルの起源は宝暦十年(1760)頃に、英国のロンドンで地図職人技師として働いていたジョン・スピルズベリによって、最初につくられたと考えられ、 最初のジグソーパズルのピースは、地図のパズルであることから、絵師や画家、伊能忠敬を示し、渡辺崋山の生まれが寛政五年(1793)であることから、その時の伝承者である平田篤胤との間でジグソーパズルとの関連性を思案されたと考えられる。 完成と寛政を掛けたのであろう。
「皇"Sumeragi"」は、ジグソーパズルの英国から"Smell"の英単語を意図し、鼻が効く犬を連想されることから、 三条信輝(新井白石)の政策の生類憐れみの令や上野英三郎の犬好きの趣旨が窺え、 新井白石の白の輝き(宝石真珠)から「皇」は祖が示す別姓の名字である確証に至る。
また、宝暦十年(1760)と寛政五年(1793)が三条家十七代当主である三条至輝の別姓であることを表しているのは言うまでもない。
祖が「皇」という姓を選んだ意向を惟れば、室町時代から戦国時代に移り、織田信長の時代とも言える安土桃山時代、江戸時代、そして、明治時代、大正時代と日本の歴史の中で律令制の頂点に君臨し、天皇を支え、永きに渡り歴史を作ってきた自負であると考える。
現当主にある至輝はその重みを汲み、未来へと精進し、「三条」は勿論、「皇」の別姓をつないでゆくため、この世に生を受けたと解釈すべきことである。


架橋
霞京に別の字を与えた別意の由来。 架橋とは、化学反応における架橋(かきょう、Cross-link)を指し、主に高分子化学においてポリマー(重合体) 同士を連結し、物理的、化学的性質を変化させる反応のことである。 簡単に言えば、既存の高分子上の部位またはグループが関与する反応によって、新しい特質した物質を生み出す ことができる。「クロス」という点において、鹿苑寺流など祖のクロスを示す。 また、新たな可能性を見出す意味も含め、裏の由来として相応しい。

架橋の例
・東京都は、東京と京都が架橋した名前が東京都。
・山羊座は、山羊と魚が架橋した架空の生き物。


橋架
架橋に逆流系別意の由来。 意味は脳にある橋(きょう)を指し、上部の中脳や大脳と下部の延髄以下の部分の連絡路で、三叉神経、 顔面神経核、蝸牛神経核が通っており、その大脳との連絡を意味する。 三条家始祖の松平信綱、絵師の土佐光起から時(祝)の人である祖の数学者の久留島義太から分岐する血筋、本流である石川雅望の流れが一つ、 自然血族である本草学者をはじめ多彩な才能を持ち合わせる天才異才と称される平賀源内の流れが一つ、伊豆守系の文人画家の池大雅が一つとして三つある。 また、数学者の関孝和から陶芸家の仁阿弥道八へつづく系統がある。
左大脳半球は論理的で数学者や国学者などを指し、 右大脳半球は芸術的で画家や陶芸家などを指す。それらの四つに分岐する祖から左脳、右脳の架け橋となる。
箕作秋坪も三叉学舎の塾の名称から脳の三叉神経と関連性を持たせ、左大臣や右京大夫、華岡青洲など医師や蘭学者との関係性を示している。それを被せるように農学者の上野英三郎の農学。
「クロス」と「十」の根源は、松田の「田」であるが、松田唐花や二重直違などのクロスした家紋から考えられ、脳のクロス働きである「左脳が右手を動かし、右脳が左手を動かす」と結びつけている。
また橋架は、同じ読み方で、祖の石川雅望の狂歌師の「狂歌」に石川雅望との関連性を示す。


迦京(別案)
霞京の「霞」を「迦」に置き換えた別意の由来。
「釈迦」はシャーキヤ(梵: शाक्य Śākya)で「霞京」は[Kakyo]。 "Sakya"が"Kakyo"と架橋[Cross-link]し、迦京とする。 同じ仏教において次に連想される迦京頻伽[Kakyobinga]。
迦陵頻伽(かりょうびんが)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物。 サンスクリットのカラヴィンカ(kalaviṅka)の音訳。 『阿弥陀経』では、共命鳥とともに極楽浄土に住むとされる。 その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられ、 「妙音鳥」「好声鳥」「妙声鳥」「逸音鳥」「妙声鳥」とも意訳される。 また、日本では美しい芸者や花魁、美声の芸妓を指してこの名で呼ぶこともあった。

創作物に登場する
雅楽 迦陵頻
   仏教行事の舞楽。迦陵頻伽の舞を表現しており、
   蝶をモチーフとした胡蝶と対で舞われる。



輝声の「声」のひとつの由来にあたると思われる。
何故なら、妹である楠本高子は、幼少時に琴や三味線、舞など芸事に熱心であると記されている。またその妹の陸奥亮子は明治初めの頃、東京新橋にある柏屋の芸者であることから、 歌も唄うことも連想され、輝声はその歌声を聴いていたに違いない。その亮子の「亮」から「京」が「陵」に変わり迦陵頻伽が導き出される。

釈迦の敬称は「十号」「仏陀」「如来」であることから、
「十」「号」「ム(無)」「蛇」「女」「来」のこだわりが祖から見てとられる。


迦亨(別案)
「亨」は三条通に由来し、「さしさわりなく行われる」「すすめる」などの意味を持つ。
亨は終了の「了」を指し、終わりを意図する。
つまり、「尾張国」で、現在の愛知県西半部にあたる。
曽祖父の吉野作造(蔵)から、服部半蔵を暗示する。愛知県の東半部は三河国にあたり、徳川家康の統一した国になる。服部半蔵は徳川家康の家臣であることや、三河国は古代、 「国造本紀」によると、成務天皇の御代に物部氏族の知波夜命が参河国造(三河、三川)に、雄略天皇の御代に菟上足尼が穂国造に定められたとされる。
このような歴史から服部半蔵を連想し、東とは反対の、愛知県の西半部を指し、尾張国を示している。
補足して、迦亨(架橋)の由来の一つである川で、淀川から名張川経由吉野川へと辿り着く名張川は、服部半蔵の生まれた故郷の伊賀国にあたる。

名張市内の城跡一覧
伊賀 北畠具親城 三重県名張市奈垣字村田
かしはらじょう 伊賀 柏原城 三重県名張市赤目町柏原字宮城
伊賀 名張陣屋 三重県名張市丸之内
伊賀 桜町中将城 三重県名張市下小波田
伊賀 滝川氏城 三重県名張市下小波田字下出
伊賀 下山甲斐守城 三重県名張市下比奈知字兼前
伊賀 有綱城 三重県名張市薦生字掛
伊賀 青蓮寺城 三重県名張市青蓮寺字斧出
伊賀 松倉豊後守城 三重県名張市八幡字刈山
伊賀 筒井順慶城 三重県名張市短野本陣山
伊賀 頓比屋宇峯砦 三重県名張市安部田字馬廻り
伊賀 頓比屋宇峯北砦 三重県名張市安部田字馬廻り
伊賀 頓比屋宇峯南砦 三重県名張市安部田字馬廻り
伊賀 愛宕山砦 三重県名張市青蓮寺字後山

吉野作造(宮城出身) 松田徳太郎(浦野) 妻 愛子
岡寺 十三重石塔(岡寺龍蓋池の上部東の山麓に位置する)
松田宗家第十三代当主 松田頼勝 伊達政宗(仙台藩藩主)
かしはらじんぐう 橿原神宮(岡寺の西側に位置する)
松田宗家第十二代当主 松田達頼 織田信長(第六天魔王)
池田恒興(幼少の頃から信長の小姓として織田氏に仕えた)
織田信長は信行が謀反を企てた時、尾張国下四群を統治していた。
要法寺 京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町
何やら関連性が見えてくる。

要法寺
至輝・皇霞京の発祥の地
本山要法寺全景図から院の並びと関係図

松田信実は松平信綱であり、図からも示されている。松平信綱は元和六年に一月二十日に五百石与えられ、その功を祝して三つ反り扇の家紋にした。
反りとは謀反の「反」で「祝」は諱で「とき」と読ませている。これは、織田信行が二重に謀反を起こしたときであると図や関連性から読み取れる。 併せて「祝」の漢字は、誕生日や生まれ婚姻などの慶事を意味する。よって祝は、信行が謀反に起こし、信長により謀殺されるまでの時期に信忠が生まれたことも表している。
また、猪◯問題の猪熊教利の後裔は生駒に姓を変えていることを踏まえ、織田信長の嫡男信忠の母は生駒吉乃(いこまきつの)とあり、吉野の姓とかけ、性的問題を合わせて記し、 出自偽装犯徳川秀忠と猪熊教利を紐づけている。
織田信長は、岩倉城を攻め落とし、尾張統一を果たした。これを岩倉具視の三女極子と戸田氏共の間に生まれた次女の米子と婚姻する上で補足している。
また、それらから桶狭間の戦いにつながり、今川氏の祖の今川国氏(松田頼盛)との関連性を示す。
至輝の誕生日でもある十二月二十三日を示す意図は、松田宗家十二代当主松田達頼(織田信長)と安芸毛利氏の第十二代当主毛利元就とつなげるものである。 毛利元就は永正八年(1523)に家督を相続しているため、その関係性と更に三条正永(松平信綱)との関係性を示している。
年号である永正と諱である正永が上下逆にあるのは、信行の謀反とは逆の結末の立場で迎えた本能寺の変。織田信長が明智光秀の謀反により終わり、それを示す。
直系の血筋である松田宗家第十一代当主松田頼信こと上杉謙信(上杉輝虎)を示すものは、淀川の橋の数と、池大雅の諱の読み方(たいが)、 そして三条家の通字である「輝」で示す。つまり、大河内の「大河」をタイガと読ませ英単語とし、輝虎を暗示している。
「祝」の関連性から毛利元就も、朝廷から官位を与えられた際には「大江元就」の名称で記されていることから、大河内輝声と第三子の江木欣々の一文字目で「大江」を表している。第三子は松田系図の頼貞流を表し、第一子は大河内輝耕、第二子は上野英三郎。
結城秀康も「結」は婚姻や同盟で同様にあり、城と徳川家康(松平元康)と合わせ示されている。
織田信長は尾張国を統治後、徳川家康と同盟を結び美濃統一に動き出した。美濃を征服し居城を金華山に移した信長が中国の縁起のよい地名にちなんで「岐阜」と命名。ここから天下統一の足がかりとなった。中国や毛利元就中国地方の関連付けと渡辺崋山。渡辺氏の始祖は渡辺綱から美濃を至輝の元名一文字の「実」にかけ、松平信綱と紐付けている。徳川家康の家臣渡辺守綱や、渡辺綱と同じくして血筋は関係ないが、平安時代の渡辺至という人物の関連性も見られる。この関連付けにより、毛利元就、織田信長、結城秀康、松平信綱、三条至輝(松田実)同じ家系である強固な証明と言えよう。
名張の「名」、人や城、地名などの名称に因んでいる。

三条の発祥の地は次の地名にあり、上杉謙信の生まれ故郷の新潟県上越市(越後国)から三条の家名により新潟県三条市、松平信綱の川越藩主で結びつけている。
京都府京都市中京区石橋町三条通寺町東入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極東入
京都府京都市中京区石橋町三条通河原町西入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極西入

芥川山城
天下人三好長慶の居城。細川晴元を天文十八年(1549)に家臣の三好長慶によって追放。長慶は将軍足利義輝も京都から追い出し、実力で天下(当時の畿内)の支配する。 長慶による天下の政治は芥川山城で行われ、文芸の場ともなった。武家に加えて長慶の裁きを求める村人や公家、また連歌師や儒学者など多くの人びとが登城し、天下の政庁として役割を果たす。
永禄十一年(1568)九月、足利義昭を擁する織田信長は三好氏の勢力を追って芥川山城へ入城し、面会を求める多くの武将や商人、さらには天皇の勅使を迎え、そして新たな天下支配の枠組みを示した後、念願の上洛を果たす。この信長らの行動には、三好氏の天下を引き継ぐ意味があったとも考えられる。
これらから芥川龍之介の名称は、松田達頼と織田信長が同一人物であることを示している。 また、織田信長の正式な名前は「平朝臣織田上総介三郎信長」であることから上野英三郎が重ね、その本名である三条輝耡(てるすき)が三好長慶と重ね、一連の繋がりを示している。
上野は上野国群馬郡の高崎藩や服部半蔵の故郷である伊賀国から伊賀上野城とも紐づけられている。
東京都文京区の東大弥生キャンパスに建つ上野英三郎の銅像は西洋帽子を被ったものである。つばの広い西洋帽子は、戦国時代南蛮人が渡来した際流行し、当初は「南蛮笠」「南蛮頭巾」などと呼ばれていた。織田信長の生涯を描いた「信長公記」には南蛮文化を気に入っていち早く自身のファッションに取り入れた織田信長が、黒い南蛮笠を被って馬揃えを率いていたことが記されている。 それに合わせ織田作之助も同様、西洋帽子を被っている姿が見受ける。
織田信長は、上洛後に経済の活性化のため、室町幕府とは別に独自の撰銭令を大坂・京都・奈良で発した。その撰銭令の内容は「良銭と悪銭の公認交換レートを定める」「撰銭したものを処罰する」「高額取引における金・銀の使用」「米での売買の禁止」。土方歳三が(鬼の)副長を務めた新撰組の「撰」は撰銭令と紐づけ、土方の「土」は安土城と重ねている。
これらから、岡寺の十三重石塔の「三」は吉野作造の「造」と関連性を持たせていることがわかる。
十三重石塔には「じゅう」が二つあり、鉄砲ともかけ、「じゅう」が二重の家族を表している。また、二重の手掛かりから木下藤吉郎を表す。それは、当家系で「木」が下側に二重にあるのは「江木」と「並木」で「木下」の姓を表し、吉野作造の「吉」。そして二重にある「こうたろう」の下側の「郎」。 これらを合わせると「木下吉郎」になるが、ここで十三重石塔の浦野徳太郎こと吉野作造の署名が中央にあることから「吉」を中央に配置する趣旨から窺え、「石塔」から「十」の読み方の二重にある「とう」を頭に置けば、「木下とう吉郎」となる。

異見十七ヶ条
織田信長は元亀三年(1572)九月に室町幕府の将軍・足利義昭に対して出した十七ヶ条の意見書がある。それに松平三条家第十七代当主三条至輝と紐づけている。それを補足するように三条輝照、芦田幸太郎と二重にある鶴見の姓がある。そして鶴見は二重にある「木(き)」から月見を意図し、夏目甕麿の終わり、織田信長の終わり、それから三条輝照の終わりを暗示する。

天正と大正
天正の元号は、足利義昭を京都から追放した織田信長が、公卿や朝廷を通じて元亀から天正へと改元させることに成功し、信長が武家政権の長として改元に容喙した事実は織田政権の開始を象徴する出来事であった。 この天正の「正」を大河内松平宗家の通字として関係性を示し、大正の元号は大河内の「大」を「正」と組み合わせることにより、天正へのつながりを色濃く残すものであると捉える。

再興
蓮如は本願寺を再興させた浄土真宗本願寺派第八世宗主で、蓮如から蓮教という名を与えられて改名。山科に坊舎の造営を開始し、興正寺(真宗興正派)を建立する。山科本願寺は落成し、蓮如は隠居後大坂石山の地に大坂御坊を建立し、居所としたのちの大坂本願寺。 蓮如は親鸞の嫡流とはいえ、生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。このような内容に柳原白蓮、吉野作造、名張川の支流にある青蓮寺川、その先に青蓮寺ダム、青蓮寺湖にある青蓮寺橋に関連性を持たせ、 織田信長や徳川家康を苦しめた、一向一揆の元凶となる大坂本願寺(石山本願寺)を暗示している。
再興という点で三条至輝と重ね、祖の山科家を示している。

伊豆守
官職名入りの松平伊豆守信綱の名称は、織田信長と関係性を示すものである。織田信長は室町十五代将軍足利義昭を追放した後、天正三年(1575)十一月に権大納言・右近衛大将に任ぜられ、左中将のままであった義昭の上位に立った。 近衛大将の武家政権時代の到来は建久元年(1190)、源頼朝は平治の乱で伊豆国に流罪となって以来初めて上洛し、権大納言と右近衛大将に任ぜられた頼朝から始まる。 伊豆守は伊豆国に流罪、信綱(正永)は信長、大河内は二重にある「大」の権大納言と大将と重ね、功を祝して家紋の変更は権大納言、右近衛大将任ぜられたを表し祖の織田信長を示している。頼朝の「頼」は松田家時代の通字。それを補足するように輝照の次男の上野英三郎で義昭の上位を表し、朝吹磯子は頼朝を指す。また、吉野作造の大正デモクラシーもこれの補足であると窺える。

源氏
徳川家康は、本姓を藤原氏を経て清和源氏新田支流に変えている。源氏にこだわりを見せたのは祖の松田家の出自を示すためである。
徳川の真の本姓は松平氏であり、源氏は源頼朝で松田を示している。
松平の頭三文字を取れば「まつだ」で、頼朝の一文字目の「頼」の通字から松田氏といえば、丹後松田氏となる。
丹後松田氏の発端は、松田頼盛(山科頼房)は山科教成の実父、平業房の次の出来事にある。
治承三年(1179)正月に正五位下・左衛門佐に叙任されるが、同年十一月の治承三年の政変により再び解官され、伊豆国への配流に処されるが、途中で逃亡する。 同年十二月に清水寺の僧房にて兵衛尉・藤原知綱に捕らえられ、権大納言・平宗盛のもとで拷問を受けた末に殺害された。
このような出来事から山科頼房は、平家を滅ぼした源頼朝に何かしらの敬意を抱き、分家し、松田を号した真相が見えてくる。
松田宗家第九代松田信頼(毛利元就)、松田宗家第十代松田家頼(武田信玄)、松田宗家第十一代松田頼信(上杉謙信)、松田宗家第十二代松田達頼(織田信長)から松平伊豆守信綱の関連性が示されており、徳川家康が江戸幕府を開いた後、松平を賜姓として振る舞うたのは同じ松田家の出自であることを示すためである。

風魔小太郎
第六天魔王、幸太郎、大の反対は小、服部半蔵から風魔小太郎が連想され、武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている「風林火山」が導き出される。 名張市の城や家系である名称を見ても武田信玄がふと浮かび上がる。松平三条家第一代松平信綱、三条家第九代矢野玄道の代の数を足すと十になり、松田宗家第十代は松田家頼。つまり、武田信玄である。

教育機関の充実
アレッサンドロ・ヴァリニャーノが天正七年(1579)日本に渡来し、滞在は本能寺の変が起こる天正十年(1582)まで続いた。 天正九年(1581)、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。 また、信長が黒人を見たいと所望したため連れて行った黒人奴隷を信長に献上した。弥助と名づけられて信長が死去するまでの十五か月間ほど信長に仕えたとされている。 ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。
これらの内容により関連性を図るため、祖が大学の創設など教育機関の充実に従事した一つの理由と考えられる。


迦亨から霞京
三条輝照が内務省を創設し、その後継にあたる総務省、警察庁、国土交通省、厚生労働省、法務省は霞ヶ関にあることから時系列に従い「迦」を「霞」に変え。 三条輝照の京都保存計画も含め、「亨」を政治の中枢や東京と京都の架け橋と言う意味で二重にある「京」に変え、「霞京」とする。
江戸城(皇居)にある二重橋は、霞ヶ関の法務省から丁度北側に位置し、近くの桜田門を通って正門石橋を渡り二重橋にたどり着く、このような筋道から霞京である諱を示す。
迦亨から霞京に変化する意図は、十三重石塔に正面(西側)に刻まれた梵字のキリークの千手観音にあり。千手観音は観音菩薩の変化身と考えられている内容から示されている。また、二重にある家族を示すものである。 時系列にて変化する意味は、関連づけられた人物を時系列に並べ、祖を妥当な年代順に当てはめていく趣旨が込められていると考える。誰もが自然に考えることでもある。


諱の由来の経緯
京都市中京区石橋町三条通 → 三条大橋 → 要法寺(三条通北側に位置)
架橋 → (増)迦(終)亨
迦亨 → 霞ヶ関・正門石橋・二重橋(東京) ⇄ 石橋町三条通(京都)
霞京 → (霞ヶ関)霞(東京・京都)京

京都の要法寺が北にあり、東京の法務省が南にあることから北と南が逆転し、「法」の位置も上下が逆になっており、反対の意図がわかる。
また、皇霞京には、東京と京都をつなぐ架け橋になるという意味が過去も未来も含め込められている。
祖の意向を感化し、自身の思いを重ね、三条ブランドを創設し、その役目を担う事業に努める所存である。


号 冥月 Meigetsu
冥月は次の事柄から由来する。
冥王は「巽」の八卦の五星から得られる名称、冥王星の「冥王」。 ギリシャ神話では冥界の王ハーデース。 ギリシア神話の農耕の神・クロノス(Kronos)の子である。
類似する事柄で、 生まれた日が十二月二十三日であることから、山羊座。 山羊座は、時間の神・クロノス(Khronos)に象徴される土星に守られているとされている。 クロノスは古代ギリシャの時間の神で、ひげと翼を持った姿で描かれる。クロノスは過去から現在、 未来への時間の進行を司ると考えられており、自然の周期や季節と結びついている。 あまり情報がない、謎の時間の神・クロノス。
冥界は冥府とも表記し、大阪府の「府」と掛けていると窺え、大阪府で生まれた場所を冥府と考え、 冥界は死後の世界で、土星の「土」を持つ至輝は、音読みで「シキ(死期)」として関連された「冥王」の「冥」。 時間の神・クロノスは自然の周期や季節と結びついていることから「シキ(四季)」の親密にある、 一年を一二分にした期間の「月」をとり、「冥月」と号する。
クロノスは祖の先手姫の養子先、三条公親と徳大寺公親の諱の縁から来ている関連された事柄と考えるが、 その縁を担いで、冥界の神・ハーデースと時間の神・クロノスの夢の架橋、その名称とは、 「冥月神ハーノス(Netherworld space-time god Hanos)」。

何ゆえ暗闇を意味する「冥」なのかは、反対を意味する「明」を指し、主に久明親王、藪明山、明治天皇の関係性を示すためにある。


三つの家紋
扇揚羽蝶(三条揚羽蝶)
種別 三条ブランドと皇の定紋
創作 揚羽蝶のオリジナル家紋
意味 伊勢平氏を象徴する蝶紋と松平信綱の功を祝しての三つ扇に由来
人物 皇霞京

皇雨龍
種別 皇の副紋
創作 雨龍のオリジナル家紋
意味 「水龍」であることから、水神として崇められ、雨龍に雨乞いをしたと伝わることから、 岡寺の農民を苦しめていた悪『龍』を善龍に改心させた伝説に由来する。
人物 皇霞京

三条蝶
種別 三条家の家紋
創作 三条家伝来の家紋
意味 久明親王を守る三人の御家人とその伊勢平氏維盛流松平氏
人物 三条至輝


霞蝶々魚
Pyramid butterflyfish
スズキ目チョウチョウウオ科に分類される魚類の一種。
和名は海中が霞むほど大きな群れを作ることに由来する。
英名は白の模様をピラミッドに喩えている。
・全長は約18cm
・頭部は褐色
・体側の大部分と尾鰭、腹鰭は白い
・背鰭や臀鰭は黄色い
生態
チョウチョウウオ科の魚の中では珍しくプランクトンを主に食べる。
水深60mまでの潮の流れが速いドロップオフで大群を作る。
皇霞京の家紋が蝶紋である一つの理由である。


文学者
文学者は、作家や詩人など文学作品を作る人の総称で、 文学を研究する人も文学者と呼ぶ例もある。
北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因も、私の哲学的な詩から始まり、 孤立し精神的に苦しむよりも、他国と向き合う姿勢の方がより良き未来になることを 心理上において経験させ、初首脳会談に導いた例である。 哲学的の詩も、哲学者や文学者としての証である。 文学面においては、松平家物語を著書することが今後の最大の目的となり、 更なる向上が期待される。


第三の名称
夢の中で考えた名前。

にいざき れんか 新崎蓮夏

夢の中の漢字は、「にいざき」は新潟の「新」で「新崎」。
「れんか」は「連歌」からの発想と記憶にあるが、 蓮の記憶もあり、霞ゆく夢の記憶とかけて霞を使用したいところだが既に使用しているため、関連性の強い夏目甕麿から「蓮夏」とした。
因みに新崎は、新潟県新潟市北区の町字にある。

夏目甕麿の元名の姓は杉浦であるから、上野と浦野の姓から上杉の姓を指し、上杉謙信の裏、つまり血筋の直系であることを示す。
使用する機会はないように思う。

霞京という諱は漢字も読み方も自身で考え決めたものであるが、先祖が名付けてくださった名前と一致し、感慨無量にも驚嘆恐悦至極に存じ、魂でつながっている証となるものである。


先代の脇差
先代が所有していた脇差は、土方歳三の関係性を持たすものと、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った「脇坂安治」との関連性を示すものであると見える。 土方の愛刀は和泉守兼定であり、奈良から二番目の本籍となった岸和田市は和泉国岸和田藩であるため、山羊座の守護星土星と合わせ関係性を示している。先代もやぎ座である。
また、本籍地は、明智光秀像所蔵の本徳寺付近であることから、脇坂安治と合わせ裏切る本能寺の変を表している。
更に、津山松平家との関係性を示し、津山松平家は越前松平家の宗家にあたるため、祖の結城秀康との関連性を示している。 その内容は、津山松平家代々伝わる家宝のなかに、「童子切安綱」(平安時代作)があり、天下五剣の一つに数えられ名刀中の名刀である刀を、 津山藩松平家後継の松平康春が戦後の混乱期に、財産税などの資金が必要なり、八万円で石黒久麻呂なる人物に売ってしまったことに重ね、 先代は、脇差を質に入れたと口伝にて知り、「安綱」から結城秀康と松平信綱、そして松田宗家の関係性を示している。
左親指を切るは、親を大人に変換し、音読みで「だいじん」。左なので左大臣となる。それから、親指は一番太い指だから諱の「輝政」と合わせ太政大臣を示し、 指は刀で切れるので、岸和田出身の先代は和泉守兼定と合わせ太政大臣兼左大臣を表し、和泉守は先代が関係性を持たせた三重県から三番目の「み」とれば「いずのかみ」となり、伊豆守信綱を表す。


太政大臣兼左大臣
鹿苑寺流は松平伊豆守系と松平高崎藩系がクロスして成り立つことを前記に説明したが、松平信祝(久留島義太)の第十二子の「兼」が高崎藩系松平輝高(本居宣長)と婚姻し、松平三条家は高崎藩系に移行し、伊豆守系は吉田藩系となり大河内の姓を受け継ぐ。 松平輝高の極官は右京大夫であることから、先ず「大夫」に着目し、「夫」の二重線をとれば「人」が現れ、「大人」となり音読みで「だいじん」と読む。伊能忠敬から地図上にて右京は向かって左側にあるため右京大夫は「左大臣」となる。系図の流れの位置からもクロスしている形から伊豆守系の右から高崎藩系の左に移行していることがわかる。
次に太政大臣を示すものは、松平信祝の第三子の松平正温(平賀源内)は大河内松平宗家に養子の五代目になり、後裔の大河内松平宗家八代松平正敬(大塩平八郎)の第二子の松平輝聴(福澤諭吉)が松平三条家である高崎藩系に養子となり後継者となっていることから、 「正敬」に注目し、真ん中の「へん」の「苟」をとれば「政」となり、右京大夫であった高崎藩系になることで久留島義太と合わせ太政大臣を示す。
クロスの支点となる「兼」から太政大臣兼左大臣を示し、松平三条家の松平信綱から右京大夫の官職は太政大臣兼左大臣であることを示す。また、大河内松平宗家から養子にきた松平輝聴から江戸末期の松平輝照まで太政大臣兼左大臣を表している。 また、松平信綱から始まる伊豆守系から吉田藩系となった通字は「信」であるから、松田信頼(毛利元就)も太政大臣兼左大臣である関係性を示している。
全体を通して松平正敬の官職が織部正で、本居宣長、伊能忠敬から本能寺の変が浮かび上がる。

松平三条家歴代
人物一覧と主な政策
松田宗家 Matsuda-soke
       公家(羽林家)                        武家(別名)
松田宗家第一代  松田頼盛(1243 - 1282)             [第一代松田宗家伝承者]  今川国氏
松田宗家第二代  松田頼直(1269 - 1329)             [第二代松田宗家伝承者]  京極宗氏 佐渡守
松田宗家第三代  松田頼貞(1299 - 1359)権中納言         [第三代松田宗家伝承者]  仁木頼章 左京大夫
松田宗家第四代  松田頼近(1326 - 1370)権中納言         [第四代松田宗家伝承者]  六角氏頼 近江守
松田宗家第五代  松田頼源(1356 - 1400)権中納言         [第五代松田宗家伝承者]  大内義弘 左京権大夫
松田宗家第六代  松田頼仲(1397 - 1434)権大納言         [第六代松田宗家伝承者]  斯波義淳 左兵衛督
松田宗家第七代  松田善通(1423 - 1471)権大納言 正二位     [第七代松田宗家伝承者]  北畠教具 権大納言
松田宗家第八代  松田頼済(1458 - 1520)権大納言         [第八代松田宗家伝承者]  北条早雲 左京大夫
松田宗家第九代  松田信頼(1497 - 1571)太政大臣兼左大臣 正一位 [第九代松田宗家伝承者]  毛利元就 陸奥守
松田宗家第十代  松田家頼(1521 - 1573)検非違使別当 従三位   [第十代松田宗家伝承者]  武田信玄 信濃守
松田宗家第十一代 松田頼信(1530 - 1578)左大臣 従二位      [第十一代松田宗家伝承者] 上杉謙信 弾正少弼
松田宗家第十二代 松田達頼(1534 - 1582)太政大臣 正一位     [第十二代松田宗家伝承者] 織田信長 右大臣
松田宗家第十三代 松田頼勝(1567 - 1636)検非違使別当 従二位   [第十三代松田宗家伝承者] 伊達政宗 権中納言
松田宗家第十四代 松田頼通(1574 - 1607)左大臣 正二位      [第十四代松田宗家伝承者] 結城秀康 権中納言

三条家 Sanjo-ke
       公家(清華家)                        伝承者(別名)
三条家第一代   三条正永(1596 - 1662)太政大臣兼左大臣     [第十五代松田宗家伝承者] 松平信綱 侍従
三条家第二代   三条輝綱(1620 - 1672)太政大臣兼左大臣     [第十六代松田宗家伝承者] 土佐光起 絵師
三条家第三代   三条信輝(1660 - 1725)太政大臣兼左大臣     [第十七代松田宗家伝承者] 新井白石 朱子学者
三条家第四代   三条信祝(1683 - 1744)太政大臣兼左大臣     [第十八代松田宗家伝承者] 久留島義太 数学者
三条家第五代   三条輝高(1725 - 1781)太政大臣兼左大臣     [第十九代松田宗家伝承者] 本居宣長 国学者
三条家第六代   三条輝和(1750 - 1800)太政大臣兼左大臣     [第二十代松田宗家伝承者] 石川雅望 狂歌師
三条家第七代   三条輝延(1776 - 1825)太政大臣兼左大臣     [第二十一代松田宗家伝承者]平田篤胤 国学者
三条家第八代   三条輝承(1817 - 1839)権大納言兼検非違使別当  [第二十二代松田宗家伝承者]生田万 国学者
三条家第九代   三条輝徳(1820 - 1840)権大納言兼検非違使別当  [第二十三代松田宗家伝承者]矢野玄道 国学者
三条家第十代   三条輝充(1822 - 1862)権大納言兼検非違使別当  [第二十四代松田宗家伝承者]箕作秋坪 洋学者
三条家第十一代  三条輝聴(1827 - 1860)太政大臣兼左大臣     [第二十五代松田宗家伝承者]福澤諭吉 啓蒙思想家
三条家第十二代  三条輝照(1848 - 1882)太政兼左大臣 内務卿 公爵[第二十六代松田宗家伝承者]大河内輝声 知藩事 
三条家第十三代  三条輝耡(1872 - 1924)内閣総理大臣 公爵    [第二十七代松田宗家伝承者]上野英三郎 農学者
三条家第十四代  三条輝重(1890 - 1940)内閣総理大臣       [第二十八代松田宗家伝承者]吉野作造 政治学者
三条家第十五代  三条輝治(19xx - 19xx)旧制中学校卒       [第二十九代松田宗家伝承者]芦田幸太郎 呉服店主
三条家第十六代  三条輝政(19xx - 20xx)新制中学校卒       [第三十代松田宗家伝承者] 松田守 技術者
三条家第十七代  三条至輝(19xx - )  経営者 哲学者      [第三十一代松田宗家伝承者]皇霞京 設計者

松平大河内宗家 Matsudaira Okochi-soke
       公家(羽林家)                        別名
松平大河内宗家五代大河内正温(1725 - 1782)権中納言兼検非違使別当[父三条信祝・一男松平正升]平賀源内 本草学者
松平大河内宗家六代大河内正升(1742 - 1804)権中納言兼検非違使別当[父松平正温・一男松平正路]伊能忠敬 天文学者
松平大河内宗家七代大河内正路(1765 - 1808)権中納言兼検非違使別当[父松平正升・一男松平正敬]華岡青洲 外科医
松平大河内宗家八代大河内正敬(1794 - 1832)右大臣 太政大臣   [父松平正路・二男三条輝聴]大塩平八郎 儒学者


主な政策と成果
毛利元就  政治体制 毛利両川体制 朝廷・幕府との関係 女子の資産相続
織田信長  朝廷政策 宗教政策[比叡山を焼き討ち]
      経済・都市政策[撰銭令、楽市・楽座令など] 軍事組織体制
松田頼通  朱印船制度の創設(1600-04)
松平信綱  幕藩体制の完成(1639-48) 島原の乱の鎮圧(1637-38)
      慶安の変の鎮圧(1651) 承応の変の鎮圧(1652)
      明暦の大火の対応(1657)
三条正永  禁教令(1612,1614) 武家諸法度(1615)
      禁中并公家中諸法度(1615) 鎖国令(1633)
      諸士法度(1635) 田畑永代売買禁止令(1644)
三条輝綱  寺院法度(1665)
三条信輝  生類憐みの令(1687)
三条信祝  正徳の治(1709-16) 享保の改革(1716-35)
三条輝高  諸経費削減(1750-71) 倹約令の発布(1751-83)
      公事方御定書(1754) 御手伝普請(1757)
      拝借金の停止(1771,1783) 上知令(1764,1769)
      長崎会所の健全化(1742-48) 通貨政策
三条輝和  蝦夷地開発(1785-1821) 御用金令(1783-86)
      貸金会所(1786) 寛政の改革(1787-93)
福澤諭吉  慶應義塾大学創設(1858)
三条輝聴  天保の改革(1841-43)
三条輝照  賛生館創設[九州大学病院](1867) 日本電信電話[NTT](1868)
      師範学校創設(1872) 官設鉄道創設(1872)
      内務省新設(1873) 徴兵令(1873)
      お茶の水女子大学創設(1875) 広島大学創設(1874-1948)
      札幌農学校創設[北海道大学](1876) 平民苗字必称義務令(1875)
      海軍退恩令[公的年金の元](1875) 東京大学創設(1877)
      京都保存計画(1882) 都道府県名の確立(1888)
上野英三郎 農業工学の創始者
三条輝耡  日清戦争指導者(1894-95) 日露戦争指導者(1904-05)
      法案[航海奨励法・造船奨励法・民法・日本勧業銀行法]
      京都大学創設(1897) 福岡医科大学創設[九州大学医学部](1903)
      東北大学創設(1907) 奈良女子大学創設(1908)
      九州大学創設(1911) 日本航空協会創設[帝国飛行協会](1913)
      京城大学創設(1924)[高宗 ソウル大学創設(1946)]
吉野作造  大正デモクラシー(1912-23)
三条輝重  第一次世界大戦指導者(1916-18) シベリア出兵(1917)
      対華外交(1917,18) 教育政策[新制中学校・高等学校の制定など](1919)
      交通政策 選挙制度の改正
      講和問題(1919) 名古屋大学創設(1939)
松田徳太郎 岡寺十三重石塔の寄進(1918)
三条至輝  第44代アメリカ合衆国大統領広島訪問の起因(2016)
      北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因(2019)
      新型コロナウイルス収束の手引き(2020)
      黒色流行問題定義と抑制(2020-23)
      環境問題定義と推進(2021)
      地球温暖化の警鐘(2021)
      ロシアによるウクライナ進攻戦争和睦の説得(2022)
      祖の悪霊の浄化(2025)


内閣総理大臣
三条輝耡 第五代内閣(1892-1896)代役 伊藤博文 第十一代内閣(1901-1906)代役 桂太郎
     第十二代内閣(1906-1908)代役 西園寺公望 第十三代内閣(1908-1911)代役 桂太郎
三条輝重 第十八代内閣(1916-1918)代役 寺内正毅 第十九代内閣(1918-1921)代役 原敬
     第二十代内閣(1921-1922)代役 高橋是清 第二十一代内閣(1922-1923)代役 加藤友三郎
     第二十二代内閣(1923-1924)代役 山本權兵衞 第二十三代内閣(1924-1924)代役 清浦奎吾


備考
・先代が至輝に話した武将は明智光秀と伊達政宗であり、親族に「政」の字が見える ことから真の名前は「三条輝政」であることが窺え、 また、伝承者十三代目は伊達政宗であり、先代が第三十代なので、反対の定義から三と十入れ替わり第十三代政宗を示す。
・広島大学は1949年に新制大学として設置されたため旧広島大学とは連続性はない。
・札幌農学校は、札幌に置かれた高等教育機関で規模を拡大し、 北海道帝国大学、現在の北海道大学へと発展を遂げた。
・ソウル大学は、京城大学(京城帝国大学)と九つの専門学校を一つの国立大学 として高宗によって新設されたため、京城帝大との連続性はなく、京城帝大を 起源としない。
尚、理事会や一部の施設は京城帝大のものを流用しており、 一部の学部は日本統治時代の学校を前身としている。
・第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマが広島訪問を起因となる根源は、至輝の詩にある2015年に書いた「争」という詩の内容により気づきをもたらされたもの思われる。
・ウクライナ戦争の和睦の説得は、その影響により一旦は両国の交渉が結束される と見えたが、ロシア国側の態度が一変し、交渉は決裂し失敗に終えた。 結果的に両国の関係は改善には至らなかったが、両国及び世界の平和のために尽力した事実を明記している。
・三条輝照は未来の1888年に都道府県名の確立する内容を定め、三条輝重もそれに合わせ新制中学校・高等学校の制定は未来に行う決定事項を定めた政策である。



特記重複名称
第一代   山科頼房  松田頼盛  今川国氏
第二代   松田頼直  佐々木宗氏 京極宗氏
第八代   松田頼済  伊勢盛時  北条早雲
第十代   松田家頼  武田晴信  武田信玄
第十一代  松田頼信  上杉輝虎  上杉謙信
第十四代  松田頼通  松平秀朝  結城秀康
第十五代  松田信実  三条正永  松平信綱
第二十七代 戸田氏秀  三条輝耡  上野英三郎 松田幸四郎
第二十八代 戸田氏重  三条輝重  吉野作造  松田徳太郎(浦野) 
第三十一代 松田実   三条至輝  皇霞京


過失先
吉野作造の指示に従い第三者が幸太郎の代から関連性を生活において補助するため裏で動いていた。 その影響により自然な人間関係は構築できず、そのストレスが常に付き纏う。 更に私こと至輝(実)の代では先祖のことは何も知らされておらず、第三者が至輝の人生で出会う人に接触し、先祖の関連付けを手伝う形で接触するため、 ただそれだけの付き合いや先入観などにより深い人間関係を構築することができない。 それよりに孤立し、「何故人とうまく付き合うことができないか。」などの疑問や不自然な環境から悪循環となり、多大なストレスを抱えることになる。 常に付き纏うスレストは、能力の低下などを招き、更に二十代後半には胃腸に穿孔という形で現れ、死に直面することになった。
また、現状も第三者による影響であることは明白にある。
美しい人間関係を築くには、先入観も何ない誰からも影響を受けない自然な出会いにある。それは誰もが日本という国に生まれたごく自然に持っている権利。それを破壊した行為にあたる。
原因の根源は吉野作造の指示であったのかもしれないが、四民平等の観点から公的機関により第三者に給料を支払われ動いていると見える。 つまり、第三者を雇用している機関に全ての過失がある。
「人間」という字から証明されているように、人の間と書くのだから人生において人間関係が壊されれば生きる意味はない。 現在至るまで全ての人生を潰されたと言って過言ではないだろう。賠償金は計り知れない。
哲学の観点から考えると、秘密のまま歴史があるのだから、無理に証を作ってまでそれを世に知らせる必要もなく、 悪影響の及ばない範囲で証をつくり、それで世に真意が伝わらなければ仕方のない話である。

穿孔による死亡率は10%〜30%程度とされる。私は一度倒れ、曲がりなりに仕事場から帰宅し、穿孔にもかかわらず夕食を食べ、その後類を見ない身震いするほどの激痛に襲われ、当時東京に移住し失業したばかりで金銭的に余裕がない状態でもあり、身に覚えのない症状であるため、頭のどこかに時間の経過と共に治ると考えていた。 そのため救急車を呼ぶのを躊躇していたが、やはりこれはおかしいと思い、意を決して電話をした。
その後、救急車に乗り込み、時間が数分ほど経つと痛みも和らぎ、救急車を呼ばなくてもよかったのではないかと考えた。 時間は午後十一時代ぐらいであろうか、救急車を呼ばすにそのまま就寝していれば、おそらくこの世にはいないだろう。
通常なら、家族に電話をし、相談するのが筋であるが、生まれながらにして誰かに相談する考えはない。
病院に到着し、検査を受け、緊急手術をしなければならい、失敗する確率は10%〜30%ほどあると言われ、手術の承諾書にサインした。この時、私は最悪もう死んでも良いと思うていた。
入院中お見舞いに来たのは当時働いていた派遣会社の担当者だけである。入院中、着替え等必要なため親と電話で話したが、無論、何故このようなことになったかは何も問いただすこともなく、私がどのような生活を送っているかも全く聞こうとする気配はない。愛がないのは確かなことである。

先祖が作り出した亡霊と言うべきか、生まれながらにしてそれと戦うていた。
疫病神兼死神であろう。

三条家・大河内松平家

自然血族分家系図



三条家始祖後裔

三条正永
松平信綱 ┬ 土佐光起 絵師[三条家・吉田藩]
     │
     ├ 山鹿素行儒学者・軍学者[吉綱]
     │
     ├ 菱川師宣 画家[伊織]
     │
     ├ 山田宗徧 茶人[信定系]
     │
     ├ 貝原益軒 本草学者・儒学者[高崎藩]
     │
     └ 関孝和 数学者[堅綱系]





三条家

松平信綱 ┬ 土佐光起 ─ 新井白石 ─ 久留島義太 ┐

     └ 伊藤宗看(初代)              │

┌────────────────────────────────────┘
(松平輝高室)
└ 柳屋お藤
  ╟───┬ 石川雅望 ┬ 平田篤胤  ┬ 千葉周作
本居宣長 
     └ 与謝蕪村 └ 二宮尊徳 ├ 千葉定吉

                    └ 生田万 ╔═══════════════════════════════╝

╚ 矢野玄道 ═ 箕作秋坪




三条信祝後裔

久留島義太 ┬ 池大雅 文人画家・書家[吉田藩大河内松平家]
      │
      ├ 前野良沢 藩医・蘭学者[中川家]
      │
      ├ 平賀源内 本草学者・地質学者[大河内松平宗家]
      │
      ├ 狩野美信 絵師[江戸幕府御用絵師]
      │
      ├ 司馬江漢 絵師・蘭学者[安藤家]
      │
      ├ 笠森お仙 溝口直温室
      │
      ├ 蔦屋お芳 松平信直室
      │
      └ 柳屋お藤 松平輝高正室(本居宣長)[三条家]




大河内松平宗家三条家

松平信綱 ─ 土佐光起 ┬ 新井白石 ─ 久留島義太  ┐

              └ 都一中          │

┌───────────────────────────────────┘

└ 平賀源内 ┬ 伊能忠敬  ───────────────────┐
       (本庄)
         ├ 山片蟠桃                 │
       (本庄松平) 
         ├ 大黒屋光太夫               │

         ├ 菅江真澄 ─ 松平信弥 ─ 矢野玄道  │

         └ 野村長平                 │

┌────────────────────────────────────┘

└ 華岡青洲 ┬ 大塩平八郎 ┬ 土方歳三

      ├ 渡辺崋山  └ 福澤諭吉 ┬ 大河内輝声  ┐

      ├ 男谷信友            ├ 千葉佐那  │

      ├ 斎藤弥九郎           ├ 中沢琴   │

      └ 桃井春蔵            ├ 根岸信五郎 │

                       ├ 楠本高子  │

                       └ 陸奥亮子  │

┌───────────────────────────────────────┘

├ 上野英三郎 ┬ 吉野作造 ┬ 土浦信子(旧姓吉野)

├ 江木欣々  ├ 前田光世 ├ 織田作之助

├ 朝吹磯子  ├ 高村光太郎├ 鶴見和子

└ 芥川龍之介 ├ 林きむ子 ├ 芦田幸太郎 ─ 松田守 ┐

       ├ 柳原白蓮 ├ 川上哲治         │

       ├ 双葉山定次└ 鶴見俊輔         │

       ├ 沢村栄治               │

       ├ 並木路子               │

       └ 高峰秀子               │

┌─────────────────────────────────────┘

└ 皇霞京




吉田藩大河内松平家

松平信綱 ─ 土佐光起 ─ 新井白石 ─ 久留島義太
┌──────────────────────────────────┘

└ 池大雅 ┬ 中川淳庵  ┬ 近藤重蔵  ┬ 遠山景元   ─┐
             (杉浦)    (本庄)
     ├ 亜欧堂田善 ├ 夏目甕麿  ├ 曲亭馬琴   │
      (本庄)           (津軽)
     ├ 小田野直武 ├ 鍵谷カナ  ├ 黒川春村   │
                    (深井)
     ├ 谷文晁   ├ 富本豊雛  ├ 布田保之助  │
      (遠藤)           (五井松平)
     └ 田能村竹田 ├ 難波屋きた ├ 窪田鎮勝   │
                    (大森)
            ├ 高しまひさ ├ 緒方洪庵   │
                    (阿部)
            └ 綱女    └ 三浦乾也   │

┌─────────────────────────────────────┘

└ 桐野利秋 ═ 沖田総司




信定系大河内松平家

松平信綱 ─ 山田宗徧 ┬ 荻生徂徠

              ├ 井戸正明

              ├ 香川修徳 ─ 本居宣長

              ├ 石田梅岩

              └ 賀茂真淵 ═ 楫取魚彦(堅綱系五代)




高崎藩系大河内松平家

松平信綱 ─ 貝原益軒




堅綱系大河内松平家

信綱の姉 ─ 大河内重綱 ┐

松平信綱 ─ 関孝和 ╤ 松尾芭蕉 ═ 海北若冲

             └ 某 ─ 某 ─ 関盛時
┌──────────────────────────────┘

└ 寺田宗有 ─ 青木木米 ─ 仁阿弥道八 ┬ 沖田総司 

                      └ 宮川香山    ┐

┌─────────────────────────────────────┘

└ 藪明山

本姓
松平四家

本姓について、賜姓を賜る時期から、松田頼盛から頼済までは 「藤原北家閑院流徳大寺流庶流」になると想定されるが、 頼済流の島津家が賜姓として「松平」を将軍家から賜っていることから、 武家に関して、松田家の出自が全て松平四家の本姓となり、 公家もそれに準じて松平四家の本姓となる。

秀頼流/秀経流 桓武平氏流   → 松平西家
頼行流     藤原北家四条流 → 松平北家
頼邦流     藤原北家四条流 → 松平東家
嫡流      藤原北家閑院流 → 松平京家

例えば、西家である「秀頼流」「秀経流」は、 「松平西家」であり、秀頼、秀経は、「桓武平氏流」となり、 家の総称で「松平西家」と呼び、あくまでも家の名称である。
本姓は、次の代の貞秀は「松平西家秀頼流」、清定は「松平西家秀経流」となる。

武家の場合
現状は、西家や北家、東家の場合は、 流派が明らかでないので各家の始まりである次となる。
「松平西家秀頼流庶流」「松平西家秀経流庶流」
「松平北家頼行流庶流」「松平北家直頼流庶流」
「松平東家頼邦流庶流」
京家の場合は、全ての流派が明確に分かれていることから、 流派が明確でない場合は、「松平京家流庶流」とする。

例として、奈古野家の本姓は次になる。
「松平京家信頼流毛利氏庶流」
また、北条早雲の後裔にある北条家は北条早雲が北条氏の始祖であるため、 頼済流の本流であり、「松平京家頼済流嫡流」となる。

公家の場合
立入家は、現状系図が明確なので、「松平西家秀興流」であるが、 公家の場合、松平西家から初めの分家として「立入」を号した場合、 表記は、「松平西家立入流」となる。 無論、「松平西家秀興流」でも間違いはない。 基本、分家した家祖の趣旨や結果的な要素で定められると考える。
分家がある場合は本家と区別をつけるため、 本家が「松平西家立入流嫡流」となり、 分家が「松平西家立入流庶流」となる。 どのような括りで分家したかによりその流派の名称や、 本家の嫡流や支流、庶流の本姓が決まる。

藤原氏などに倣い、松平四家の本姓を定めるのは、 第三十一代松田宗家伝承者の至輝の仕事である。

以上を踏まえ、嫡流の頼通の本姓は「松平京家頼勝流」であり、 頼盛嫡流の総称が「松平京家」である。 「松平京家鹿苑寺流嫡流」は、信綱後裔の三条始祖の信綱からとなり、 吉田藩大河内家は信綱から直下の分家となるため、 「松平京家鹿苑寺流」の羽林家となる。 また「松平京家鹿苑寺流支流」と表記しても同じである。 このことから三条信綱は、鹿苑寺流の祖になる。

支流と庶流の違いは定かではないが、支流は本家を支える意味で共存し、 庶流は本家に囚わられない独立した家柄であると考える。


出自に関して
ご自身の出自が気になる方は、専門家などに依頼し、調べることを推奨します。

ご子孫の方へ
未来において「松平家物語」を著書し、その内容を証明する必要最低限の内容を公示し、本姓の松平氏及び松平四家を世に認知させることを目的とする。それを受け、子孫の方は、今後の未来の何かの糧にしていただければ幸いです。
大正時代以降の現代においての子孫は、この事実に基づいて、個人の任意において調査するなど、その出自であるかを判断いただきたくご理解願います。
現在は、当方からその現代においての子孫を公示することは一切考えておりません。
先のことは不明瞭でありますが、ご縁がありましたらその旨をお伝えいただき、松平四家会員ではないですが、当方がその方々を名簿として管理し、何か違う形で社交の場を設けるのも乙なものかと存じます。
例えばお花見会など。
無論、お伝えいただくのは松平家物語が著書される前でも問題ございません。必要最低限の何か証となるものをご提示ください。
ご縁があり、同じ時代にこの世に生まれ、生きているのだから同じ時間を共有し、人生を謳歌できればと思う次第です。


松平四家倶楽部

主題 大きな家族

活動内容
恒例行事 年一回
内容 お花見会
対象 全員(自由参加)
※既婚者の方は家族二名以上で参加

不定期行事 年一回(行われない場合もある)
内容 登山、スキー・スノーボード、マリンスポーツなど
対象 定員制(希望者抽選)
※既婚者の方は家族二名以上で参加

とは言え、いつになるやらの話ですので心の片隅にでも。


松平氏の公示に関して
今後不快もしくは不自然な関連性を頻繁に生む場合は、松平家物語を著書した後の末裔と考える人の不自然な行動が社会に与える悪影響を想定すれば、 著書することを控え、また松平氏に関しても、個人的に公開するだけで踏みとどまり、それが社会にとって良きことと判断せざる終えません。
皆様の節度ある行動を願います。
また、松平家物語を公開後、松平氏の出自であることを個人的に自称するのは自由です。 但し、認められるような証を公示しなければ、ただの自称となるのはご理解いただけるのではないでしょうか。 家系のより古い情報や情報量が重要視されます。例えば、織田信成氏も公開しているが、大切な箇所の情報が不足しているので自称としている場合と同じです。

また、先祖の関連付けで、松平氏と特定した老舗企業が広告等にある著名人を起用し、起用する全ての人が松平氏出身と決め付けてしまっては、公平性や正確性に欠けることであり、 企業イメージとしても良いイメージは受けないと考えます。裏を取れば、「結果的に実力で松平氏の出自の人が選ばれていた。」とならなければならい。
江戸幕府は、松田氏の多くの子孫が分家し武士となり、その一つの徳川氏が天下を制し開いた訳である。その流れから優れた能力のある人材が江戸時代に活躍することは容易に想像はつき、 人口の増加や時代背景から江戸時代後期の人口は三千万人程度であったが、明治時代に入り四民平等を掲げ、その後近代化に伴い人口が増え、特に昭和の時代には驚異的に増加し、現在では一億二千万人程度と言われております。人口の増加や宗家が政治の中心から完全に離れた経緯も含め、明治以前と同じ感覚で容易に正確に特定できるものではないと考えます。
公平性や混乱を防ぐためや、先代の己の身を削ってまで証を作ることの思いや犠牲行動を含めれば、証があって初めて正式に松平氏の出自だと認めるような流れでなければなりません。
現代に生きる著名な方には様々な個性があり、事情や世の中に対するイメージが根付いている上、一概に出自を押し付けるようことはできなく、当人の承諾が不可欠と考えます。
以上の内容からご理解の上、節度ある行動をお願い致します。

尚、松平四家倶楽部は公示する訳ではないので、確証がなくても、「そうではないだろうか」レベルで入れます。もし、増え続ければ現状のところは三千人までとさせていただきます。
現代に至っては、あくまでも個人の判断や意思で情報を開示し主張くださいませ。その際は専門家の一人として私も関わらなければならないと存じます。

己の出自を語るということは、ご自身の先祖が築いてきた重みを背負うということになります。その重みを背負うてきた家系は、系図が残っているのです。
これからどのように生きたいかで個別に公示するしないかをご判断いただきたく願います。
家系の由緒を築いていきたい方は証となるものを開示し公示するべきでしょう。
されど、特に公示しなくても心さえあれば、独自に由緒は築けます。要は世間のどれだけの人に周知したいかの違いです。


読み方
げんじ 源氏
へいし 平氏
ふじわらし 藤原氏
たちばなし 橘氏
しょうへいし 松平氏

氏の松平氏は、姓「まつだいらし」と区別するため読み方は「しょうへいし」となります。関連性からも音読みであることがわかります。 また、名前の中に入る場合は公家形式で次のように読みます。

まつだいらさんじょうゆきてる 松平三条至輝

織田信長の正式名称は公家形式で記されたいるため、公家であった可能性が高いと考えます。

たいらのあそんおだかずさのすけさぶろうのぶなが 平朝臣織田上総介三郎信長

然し乍ら、武家形式と公家形式が混合した形で誤魔化しているとも見えます。 織田信長を公家形式で記すと次の通りです。真ん中をとる関連性の根源はここにあるように思えます。三郎は通称なので取らなくても良いと考えれば、官職の上総介はちょうど真ん中に当たります。また先代の関連付けにある三番目に当たります。
つまり、公家です。

かずさのすけたいらのあそんおだのぶなが 上総介平朝臣織田信長

豊臣秀吉の正式名称は武家形式で記されたいるため、通説通り武家です。

はしばとうきちろうかんぱくとよとみのあそんひでよし 羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉

徳川家康の正式名称は武家形式で記されたいるため、通説通り武家です。

とくがわじろうさぶろうみなもとのあそんいえやす 徳川次郎三郎源朝臣家康

織田信長が公家ある事実が判明し、ますます松平家物語が楽しみであり、複雑な要素を見せるのではないでしょうか。

三条ブランド
松平三条家
三条ブランドの設立を目指す。
ブランド名二つあり、仮称であるが、
かといって三条には変わりない。
将来的には和専門のブランドも見据える。

概念
受け継がれた魂は独自の魂と架橋し、時の世界観は無限の広がりを見せ、可憐で煌びやかな洗練された時の世界を投影する。その時々の洗練された愛らしい女性像を描く。また、洗練されたどこか愛らしい男性像を描く。

三条華 SANJO KA [FEMME](ブランド)
心象 「可憐」「優雅」「洗練」

三条京 SANJO KEI [HOMME](ブランド)
心象 「洗練」「優雅」「可憐」


対象 「鞄」「小物」「服」「時計・宝飾」「日用品・工芸」

三条六世界
平安 Heian 胡蝶 Kocho 時空 Jiku
幻想 Genso 天上 Tenjo 三条橋 Sanjokyo

平安世界(へいあんのせかい)
平らかな和む優雅でお淑やかな極楽の世界。

胡蝶世界(こちょうのせかい)
洗練された可憐な蝶が舞う煌びやかな世界。

時空世界(じくうのせかい)
普遍的に時の行き交う幽玄な世界。

幻想世界(げんそうのせかい)
非現実的且つ現実的な新しい夢の世界。

天上世界(てんじょうのせかい)
ゆったりと穏やかな時間が流れる心無き神々の世界。

三条橋世界(さんじょうきょうのせかい)
天上につづく三条橋が架かる橋その物の世界。


もう一つの世界
「三条京」を合わせれば、三条七世界となる。


継承の未来
第一代経営者  三条至輝(202x - )
第二代経営者  三条至永(20xx - )

第一代三条設計伝承者  皇霞京 文学者(202x - ) 冥月
第二代三条設計伝承者  皇京志郎 画家 (202x - ) 羅雪

※二代目は例にて架空の人物。


設立背景
この世の一つの選ぶ道。
「あなたは神を信じますか。」とあるが、信じる信じないは自由である。
この信じるとは、イエス・キリストを信じるか、信じないかの問いかけであるのではないだろうか。 であれば、信仰していなければ、当然答えは「信じない」となるだろう。 とは言え、「神とはなんぞや」と疑問に思うのでないか。
神はいると思えばいるのであって、いないと思えばいないのである。 私が今言えることは、神を感じることは幸せであると言うこと。
経験上、我が国では神を感じにくい世の中であると考える。
それは神道と言うものは根付いてはいるが、何故、神社にお参りに赴いているかは定かではないのは確かな事実と見受ける。
物が溢れ、その有り難みや価値が見えない故のことである。
従って、現代の世は幸せを感じ難い世の中であると言える。
三条ブランドはその価値を見出す、または見直す手伝いになれればと未来を見据えるブランドであることを念頭に置き、 少しでもより良き幸せを感じていただくことを信念に掲げ、この世の人々と共存し唯一無二のブランドであることを目指す。
つまり、何物にも変え難いブランドであり続ける。
当然ながら、他と同じものを作るのならば、特に必要なく創設する意義はない。 唯一無二であると思えるのだから創設するのである。


華橋院
華橋院とは、三条の本拠点となる場所。
昔と違い場所的なことを考慮すれば、小規模なものになる可能性を示唆する。 展示会場兼別荘が現段階での思考である。
三条の美術館みたいなもの。
三条の象徴としてあるようなもの。

三条ブランド
象徴タグ

ドアノッカーⅠ


ドアノッカーⅡ


三つ引き橋


八角


三条橋